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ジェンソン=バトンの情報 (JensonButton)
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【6月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

ジェンソン=バトンの情報(JensonButton) レーシングドライバー 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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ジェンソン=バトンさんについて調べます

■名前・氏名
ジェンソン=バトン
(読み:Jenson Button)
■職業
レーシングドライバー
■ジェンソン=バトンの誕生日・生年月日
1980年1月19日 (年齢44歳)
申年(さる年)、山羊座(やぎ座)
■出身地・都道府県
不明

(昭和55年)1980年生まれの人の年齢早見表

ジェンソン=バトンと同じ1980年生まれの有名人・芸能人

ジェンソン=バトンと同じ1月19日生まれの有名人・芸能人

ジェンソン=バトンと同じ出身地の人


ジェンソン=バトンの情報まとめ

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ジェンソン=バトン(Jenson Button)さんの誕生日は1980年1月19日です。

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F1における経歴、SUPER GTなどについてまとめました。父親、テレビ、離婚、母親、事故、事件、引退に関する情報もありますね。ジェンソン=バトンの現在の年齢は44歳のようです。

ジェンソン=バトンのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

ジェンソン・アレクサンダー・ライオンズ・バトン(Jenson Alexander Lyons Button、1980年1月19日 - )は、イギリス出身のレーシングドライバー。MBE。

2009年フォーミュラ1および2018年SUPER GTのチャンピオンである。

イングランド・サマセット州フローム生まれ。父親のジョン・バトンはラリークロスで名を馳せた人物で、1976年にはRACイギリスラリークロス選手権でランキング2位を獲得したことがある。父親のラリークロス時代のデンマーク人の友人アーリング・ジェンセンにちなんで命名されたが、ジェンセン・モーターズと区別するために一字だけ変えられた。

幼い頃からモータースポーツに魅了されており、非常に活発な男の子だったが、テレビでレースを観戦しているときだけはじっとしていられた。8歳のクリスマスプレゼントとして父からもらった60ccのゴーカートでカートレーシングに出場し優勝。ここからキャリアを始めた。

このときまでに両親は離婚しており、以後は父親と二人で暮らしながら彼のサポートを受けてキャリアを続けるが、母親、ナターシャ、サマンサ、ターニャという3人の姉とも親しくしていた。レース資金の調達には他のドライバーの家庭同様苦労しており、父親は息子のドライビングをコーチする傍ら、カートエンジンの調整ビジネスを行った。ジョン・バトンの顧客の中には、ルイス・ハミルトンの父親アンソニーもおり、後にF1ワールドチャンピオン同士としてマクラーレンでチームメイトとなる2人がジョン・バトンの調整したエンジンを使用していた。

幸いにして苦労は実り、1991年のイギリス・カデット・カート選手権では同選手権の34戦を全勝するという圧倒的な成績でタイトルを獲得し、プロのイタリアチームと契約することができた。その後も、全英オープンカート選手権を3度に渡って制するなど活躍を続け、1997年にはカートスーパーAクラス・ヨーロッパ選手権を史上最年少(17歳)で制し、アイルトン・セナ・メモリアルカップを受賞した。

1998年に四輪にステップアップし、ヘイウッドレーシングからイギリス・フォーミュラ・フォードに参戦した。初年度ながら9勝を収め、この年のタイトルを獲得した。ブランズハッチで開催されたフォーミュラ・フォードの国際レース、フォーミュラ・フォード・フェスティバルにおいても、当時アメリカ選手権に参戦していたダン・ウェルドンを破って優勝を飾っている。

年末にはこの年のマクラーレン/オートスポーツ・ヤングドライバー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、翌年マクラーレンのF1カーをテストする特典を得た。

翌1999年はイギリスF3に参戦し、参戦初年度ながら3勝を挙げ、年間ランキングでもルーキーとしては最上位となる3位に食い込む活躍を見せた(この年のタイトルはマーク・ハインズ、2位はルチアーノ・ブルティ)。

国際レースにおいては、マールボロ・マスターズにおいて5位、マカオグランプリにおいては優勝したダレン・マニングからわずか0.035秒遅れの2位という、初年度のドライバーらしからぬ結果を残した。

この当時、日本のレース専門誌「オートスポーツ」(三栄書房)に連載の寄稿を行っていた。

この年9月、前年の特典としてマクラーレンのテストに参加し初めてF1カーを運転した。続けて、アラン・プロストから直々にオファーを受け参加したプロスト・グランプリのテストドライブでは、レギュラードライバーのジャン・アレジを上回るタイムを記録し注目された。

このF1デビューの際、彼は英国における運転免許を保持していなかったため、父親にサーキットまで運転してもらっていたという。

F1における経歴

ウィリアムズ

2000年の初め、F1の名門チームウィリアムズがアレックス・ザナルディの代役を決めるため開催したトライアウトに、チーム代表のフランク・ウィリアムズからオファーを受けて参加した。そしてブラジル人ドライバーのブルーノ・ジュンケイラとの激しい争いの末、ウィリアムズのレギュラーシートを勝ち取った。20歳という異例の若さでのシート獲得だった。

開幕戦オーストラリアGPは、予選21番手と冴えないものであったが、決勝のスタートダッシュで5人抜きをしてチームメイトのラルフ・シューマッハの後ろにつけ、46周目にリタイアするまでにポジションを6位まで上げるなど非凡な才能をみせる。デビュー2戦目のブラジルGPの予選ではシューマッハよりも速い予選9番手を獲得。決勝ではデビッド・クルサードの失格もあり繰り上がりながら、6位初入賞を果たした。この入賞は1962年のベルギーGPにおいてリカルド・ロドリゲスが記録した20歳123日という最年少入賞記録をほぼ40年振りに塗り替えるものであり、バトンが記録した20歳67日という記録は2007年アメリカGPでセバスチャン・ベッテルに抜かれるまで記録を保持し続けた。その後もオーストリアGP、ベルギーGP、日本GPでも5位入賞。ドイツGPにおいては4位入賞を果たすなど、計12ポイントを獲得しランキング8位という成績を残した。

ベネトン/ルノー

続く2001年シーズンについてもウィリアムズとの契約が残っていたが、ウィリアムズはCARTチャンピオンのファン・パブロ・モントーヤがチームに加入したことを受け、バトンをベネトンへレンタル移籍させる決断を下した。

この年のベネトン・B201は戦闘力に欠ける車で、特にエンジンのパワー不足が響いて予選スピードに大きな影響を与えてしまい、第4戦サンマリノGPから第6戦オーストリアGPまで3戦連続で予選21番手を記録してしまうとほどであった。(予選最下位22番手はいずれもミナルディのタルソ・マルケス) シーズン中唯一の入賞となったドイツGPでも予選18番手から完走10台というサバイバルレースを生き残っての5位入賞であった。終盤3戦の第15戦イタリアGP以降、予選スピードは改善されたが決勝でのパフォーマンス改善にはいたっておらず、この年の獲得ポイントは2ポイントに終わり、ランキングも17位に沈んだ。 チームメイトのジャンカルロ・フィジケラ3位表彰台を含む3回の入賞を果たした結果からいけば、惨敗であったがチームメイトとダブルリタイアをしたレースが3回で、互いに6度のリタイアをしておりフィジケラ共々に非常に苦しいシーズンをおくった。

2002年は前年にベネトンを買収したルノーが自社のフルワークスチーム、ルノーF1を復活させ、生まれ変わった同チームから引き続き参戦することとなる。チームメイトはフィジケラに代わってヤルノ・トゥルーリとなった。 予選ではトゥルーリに先行を許したもののレースペースでは終始トゥルーリを上回り、計14ポイントを獲得しランキングも7位とした。しかしながら、3位走行中だったにもかかわらずファイナルラップでトラブルによる失速を余儀なくされ表彰台を逸したマレーシアGP、続くブラジルGPと4位を2回記録したものの、F1での初表彰台には届かなかった。

このシーズンはチームメイト以上の活躍は見せたものの、チームは翌年に向け、テストドライバーのフェルナンド・アロンソを昇格させることを決め、押し出される形でチームからの離脱を余儀なくされた。これについて、同チームのチーム代表のフラビオ・ブリアトーレは『タイムズ』紙のインタビューの中で、バトンの才能は認めつつも、アロンソを筆頭に契約を結んでいるドライバーが多いルノーとしては政治的に止むをえない判断であった、と後に語っている。

B・A・R

2003年はB・A・Rに移籍となり、元チャンピオンのジャック・ヴィルヌーヴをチームメイトとすることとなった。

しかしながら、開幕戦オーストラリアGPで、バトンのピットストップのタイミングにヴィルヌーヴが割り込む形となり、これを大きな要因としてバトンが入賞を逃す結果となった。これが引き金となり、バトンとヴィルヌーヴとの関係は良好とは言いがたいものとなり、結果報道機関を通して舌戦を繰り広げる事態にまで発展してしまった。

レース結果においてはヴィルヌーヴのマシンが何度かトラブルでリタイアに見舞われる事もあってバトンがヴィルヌーヴを上回り、ヴィルヌーヴがこの年2回しか入賞できなかったのに対してバトンは同じ期間に6度の入賞を記録し、差は歴然であった。

もっとも、他チームと比較し客観的に見ればこの年も車の戦闘力は不十分なものであり、第15戦アメリカGPでは自身初となるラップリーダーを記録したもののエンジンブローによりリタイア、表彰台には恵まれず、第6戦オーストリアGPと第16戦日本GPで記録した4位が最高位であった。第7戦モナコGPでは土曜日の予選セッションにおいて大きな事故に見舞われ、同レースを棄権したばかりでなく、翌週のモンツァテストも欠席する事態となった。

前年終盤にヴィルヌーヴがチームへの不満を漏らし離脱したため、2004年シーズンをB・A・Rチームのエースとして迎えた。チームメイトは佐藤琢磨(正確には前年最終戦、日本GPから)。

この年のB・A・Rの新車006は高い戦闘力を持ち、第2戦マレーシアGPを3位でフィニッシュしF1初表彰台に立つと、ウィリアムズやマクラーレンの不振にも助けられ、年間で表彰台圏内でのフィニッシュを計10回記録した。第4戦サンマリノGPでは自身初のポールポジションも獲得。B・A・Rのコンストラクターズランキング2位躍進に大きく貢献し、自身のドライバーズランキングも3位とした。その一方で、フェラーリの壁は厚く、またチーム戦略の拙さもあり、初優勝にはあと一歩手が届かなかった。

そんな中、この年はバトンの移籍をめぐる騒動が勃発した。この当時、B・A・Rチームにエンジンを供給していたホンダは将来の参戦計画について明らかにしておらず、ワークスエンジンの供給体制が不透明なチームに留まることを嫌ったバトンはウィリアムズと翌年からの2年契約を締結した。この年の8月5日にウィリアムズからバトンを獲得した旨を記したプレスリリースが出され、大騒動を巻き起こしたのである。

9月6日にはイギリスの新聞社主催による記者会見が行われ、バトンと彼のマネージャーが出席した。その会見でバトン自身は「BAT(B・A・Rの主要株主)とホンダから良い条件を提示されていたが、来年僕は100%ウィリアムズで走ることになるだろう」と語っている。バトンとウィリアムズの間で結ばれた契約について、B・A・R側は即座に無効の申し立てを行い、結果、FIAの契約承認委員会(CRB)の裁定により、この契約は無効とされ、バトンは翌年もB・A・Rチームに残留することとなった。しかしながら、翌年度の契約についてはバトン自身に有利なパフォーマンス条項を設け、ランキング首位のドライバーから一定の得点以上離されていた場合は自由に離脱可能なものとし、この問題は翌年まで尾を引くこととなった。

そうして迎えた2005年シーズンであったが、前年の好調が嘘であったかのごとく序盤からチームは不振にあえぎ、第4戦サンマリノGPでは3位でフィニッシュしたものの、レース後に重量規定違反による失格とその後の2戦出場停止というペナルティを受けた。第8戦カナダGPではポールポジションを獲得し復調の兆しを見せたものの、シーズンのほぼ半ばとなる第9戦アメリカGP終了時点でノーポイントという事態となってしまった。

シーズン折り返しの第10戦フランスGPでようやく初入賞すると、後半戦は第19戦であり最終戦中国GPまで10戦連続で入賞するという、きわめて対照的な結果を残した。この年は得意としているドイツGPにおいてシーズン初表彰台3位を記録し、ベルギーGPにおいても3位に入り、年間で2回表彰台に立った。

前年から尾を引いていた契約問題について、前年の時点でバトンはウィリアムズと2006年についての契約を交わしていたが、2005年には急転直下ウィリアムズがこの年限りでワークスのBMWエンジンを失うことが決まったことから、バトンは翻意し、前年とは一転して(ホンダというワークスエンジンを持つ)B・A・Rチームへの残留を希望した。こうした経緯により、事態は昨年にも増して混迷の度合いを深めることとなった。ウィリアムズ側は表向きバトンは契約により移籍すべきであると主張したものの、結局、2005年9月21日、推定3000万ドル(約33億円)という違約金をバトン個人がウィリアムズ側に払う形で、この騒動は落着することとなった。

この違約金については、チームから前借りしたもので、当然ながら翌年のB・A・Rチーム残留も決まり、推定8800万ドル(約98億円)で5年契約を交わしたといわれている。年間およそ1760万ドル(約19億円)という計算となり、個人的に支払ったという扱いになるウィリアムズに対する違約金もこの中から支払うことになるとはいえ、契約時点で未勝利のドライバーとしては破格の高額契約でもあった。この前年からの一連の騒動はウォーターゲート事件になぞらえ、「バトンゲート」と呼ばれた。この年の末、ホンダはB・A・Rチームの株式100%を取得し、翌年からはフルワークスのホンダF1となることが発表された。

ホンダF1チーム

2006年は、フェラーリで9回の優勝を達成したルーベンス・バリチェロがチームメイトとなった。前年の最終戦で参戦数が100戦に達していたバトンに対しては、開幕前から母国イギリスで「100戦して未勝利のドライバーはチャンピオンにはなれないのではないか」という声が吹き荒れ、バトンにとっては正念場となるシーズンと目された。

前半は第2戦マレーシアGPで3位表彰台に立ったことを除けば低調だったため危ぶまれたが、第13戦ハンガリーGPにおいて参戦115戦目(出走113戦目)で待望のF1初優勝を飾り、表彰式で21世紀初の君が代が流れた。参戦115戦目は当時、125戦のルーベンス・バリチェロ、119戦のヤルノ・トゥルーリに次いで、史上3番目に遅い初優勝であった。

この予選では4番手のタイムを出したがエンジン交換によるペナルティを受け、14番グリッドからのスタートであった。これは1989年のハンガリーGPで12番手スタートから優勝したナイジェル・マンセルを抜き、1983年アメリカ西GPで22番手スタートから優勝したジョン・ワトソンに次ぐイギリス人ドライバー中2番目の後方グリッドからのスタートで得た優勝であった。また、ハンガロリンクは同じくイギリス人の元F1チャンピオンデイモン・ヒルが13年前に初優勝を挙げた地でもあった。さらにこの勝利は最終的に、この年のチャンピオンを争っていたルノー、フェラーリ以外のドライバーがあげた唯一の勝利となった。優勝後のインタビューでは「なんて素晴らしい日だ。ウェットからドライに変わる難しいコンディションの中で、14番手からここまで来れるなんて思いもしなかった」と語った。

この年は中盤に低迷したものの、この第13戦の優勝を含め、第12戦から最終戦である第18戦まで7戦連続入賞する破竹の勢いを見せ、特にラスト6戦における獲得ポイントは全ドライバー中最高、年間ランキング6位という活躍を収めた。シーズン後にカートでの事故が原因で肋骨2ヶ所にヒビが入ったため、その治療のため年末のテストは全てキャンセルした。

2007年もホンダF1チームに残留し、チームメイトも引き続きバリチェロとなった。しかし前年の成績から一転、バリチェロ共々予選第1セッション通過もままならないほどの苦しいシーズンとなった。前半戦は事実上のBチームであるスーパーアグリにも先行を許し、シーズン途中までワークスチーム唯一のノーポイントだったが、フランスGPでバトンが8位入賞して今季初の1ポイントを獲得した。その後は終盤数戦で好走を見せるも年間では入賞3回6ポイントに留まる(バリチェロは無得点)。

2007年7月20日にホンダF1チームは『2008年も引き続きバトンとバリチェロ両名のコンビで参戦する』旨を発表したため、当時テストドライバーであったクリスチャン・クリエンのレギュラードライバー昇格は無くなった。バトンはB・A・R時代を含めて2008年シーズンで当チームでは6年目、バリチェロは3年目のシーズンを迎える事となる。

2008年は過去2年と一転して、チームメイトであるバリチェロの後塵を拝し続けるシーズンとなった。スペインGPでの6位入賞のみで年間3ポイントに留まりランキング18位と低迷した。その後2008年12月5日にホンダはF1撤退を発表した。

ブラウンGP

2009年3月5日、ホンダF1チームを代表であったロス・ブラウンが買収したことで、新チームブラウンGPに生まれ変わったことが発表された。バトンとバリチェロはそのままレギュラードライバーとして残留した。この年のマシンBGP001は本来ホンダRA109になるはずだったもので、前年のマシン開発を事実上諦め、この年からのレギュレーションをターゲットに開発されたものであった。シーズンオフ中のテストはあまり行うことができなかったが、その数少ないテストでもかなりの好タイムを記録し、注目を浴びた。

開幕戦オーストラリアGPでは、自身3度目のポールポジションを獲得した。チームメイトのバリチェロは2位で、チーム初参戦でフロントローをいきなり独占。レースでも2台が独走して1-2フィニッシュを果たした。チームのデビューレースでの優勝は32年振り、同1-2フィニッシュは1954年以来という衝撃的な結果であった。

一週間後のマレーシアGPでは、スタートで4位に後退するものの驚異的な追い上げでピットストップ後にはトップを奪還した。最終的には豪雨による赤旗中断で規定距離の75%以下のまま終了し、ハーフポイント制が適用されて5ポイントを得た。このレースでバトンはハットトリック(ポールポジション・優勝・ファステストラップを1レースに得る)を初めて達成している。

次の中国GPは再び雨のレースとなり、予選5位。決勝はレッドブルの2台の後ろで3位表彰台に甘んじる。4戦目バーレーンGPでは4番グリッドから優勝。

本シーズン最初の大きなマシン改良が施されたスペインGPでは、バトンはマシンバランスの不調を訴えていたがポールポジションを獲得。決勝ではスタート直後チームメイトのバリチェロに先行されるも、バリチェロがオーバーステアに苦しみ3ストップ作戦に変更したこともあって、ピットストップで逆転、彼を従えて1-2フィニッシュする。

モナコGPでは週末の間バランスに苦しんでいたが、シーズン4度目、モナコでは自身初のポールポジション。Q3での燃料搭載量は上位8位のうちバリチェロに次いで重い状態であった。レースの第1スティントではグレイニングに苦しんだが、自身初の3連続優勝、そしてチームに3度目の1-2フィニッシュをもたらした。

トルコGPではフリー走行1回目で11位、2回目で12位と出遅れ、予選でもポールポジションをセバスチャン・ベッテルに奪われ2番手となり、汚れた側のグリッドからスタートすることになった。しかし決勝レースでは1周目にコースオフしたベッテルをあっさりかわすと、その後はまったくその座をおびやかされることもなく終盤は余裕のクルージング。4連勝で今季6勝目を挙げた。

ドライバーズポイントでも2位バリチェロに26ポイント,3位ベッテルに32ポイント差をつけて独走していたが、イギリス、ドイツ、ハンガリーで失速している。第12戦ベルギーGPでは1周目の多重クラッシュにより、自身今季初のリタイアを喫してしまった。

第16戦ブラジルGPでは、予選で14位と出遅れ、ポールポジションを獲得したバリチェロに大きなアドバンテージを築かれたものの、決勝ではスタート直後のクラッシュや、その後の度重なるオーバーテイクで順位を大きく上げた。終盤にはバリチェロがパンクによる予定外のピットインでバトンの後方に沈み、5位入賞で最終戦を待たずして2009年のワールドチャンピオンを獲得した。チェッカー後、無線でクイーンの楽曲、伝説のチャンピオンを歌い「ワールドチャンピオン!ワールドチャンピオンだ!」と叫び、喜びを爆発させた。

2009年はリタイアしたベルギーGP以外は全てのレースで入賞した。中盤以降は優勝こそ無く、バリチェロに予選で後塵を拝し続けたものの、入賞を続けた事で、開幕から一度もポイントリーダーの座を譲らずにチャンピオンとなった。

マクラーレン

2010年シーズンについては、バトンは当初ブラウンGPへの残留を希望する発言を行っていたが、年俸に対する希望がチーム側と折り合わず交渉が難航。そのため移籍も視野に入れ他チームとも交渉を行った結果、最終的にマクラーレンへ移籍することになった。なおマクラーレンとの契約内容は「複数年契約」ということ以外は非公開となっていた。

第2戦オーストラリアGPにおいてマクラーレンでの初勝利を得た。雨が絡む難しいコンディションの中、予選4位からタイヤ戦略を成功させた結果の勝利だった。第4戦の中国GPでも、目まぐるしく変わる天候から冷静にコース状況とタイヤ選択を読み取り、予選5位から2勝目を飾る。他ドライバーが4回以上のピットストップを強いられる中、バトンは2回のピットストップと安定したドライビングが光り、大きなアドバンテージを築いた。タイヤ選択が功を奏したこと、雨を得意とすることやタイヤに負担をかけずに速さを出すバトンの走り方も大きな勝因となった。モナコGPではメカニックのミスによるエンジンの故障という不本意な原因でリタイアした。第13戦のベルギーGPでは、スタートで1位に躍り出たチームメイトのルイス・ハミルトンと共に一気に2位まで上がったが16周目にベッテルに追突されてリタイアを喫した。第14戦イタリアGPでは予選でポールポジションを取ったフェルナンド・アロンソに次ぐ2位を獲得。このGPではマクラーレンはFダクトを使用するか否かを検討していたが、バトンはFダクトを使用して望んだ(ハミルトンはFダクト無しのローダウンフォース仕様)。決勝ではスタートでアロンソを抜き1位に出たが、1回目のピットストップでアロンソに逆転されそのまま2位でチェッカーを受け優勝したアロンソ共にタイトル防衛の望みを繋げた。しかし第17戦韓国GPでは戦略ミスによりノーポイントに終わり、第18戦ブラジルGPでもレッドブル勢とアロンソに先を越され、チャンピオン防衛の可能性は無くなった。最終戦はハミルトンと共に表彰台に昇り、ベッテルのチャンピオン獲得を祝福した。最終的にドライバーズランキング5位でシーズンを終えた。

2011年シーズンもチームメイトは前年同様ハミルトン。フライアウェイラウンドは出遅れ、マレーシアで2位表彰台を飾るもののハミルトン相手に遅れる展開が目立っていた。第5戦のスペインGPにおいては激しい3位争いを制してシーズン2度目の表彰台を飾る。第6戦のモナコGPではベッテル、アロンソと対等な争いを演じ、一時トップ走行でベッテル、アロンソを上回るペースであったものの、作戦やセーフティーカーのタイミングがあまりにもバトン不利に動いたのが響き、最終的に3位に終わった。

第7戦のカナダGPは大雨のレースであった。序盤、チームメイトのハミルトンとの接触。セーフティーカー中の速度制限違反のペナルティー、さらにレインタイヤの交換タイミングを誤って下位に沈む。赤旗再開後追い上げるもののアロンソとの接触でウイング交換を強いられまたもやピットイン。一時は最後尾まで順位を落としてしまう。しかし路面が乾きだし、ドライタイヤを装着すると猛烈にペースアップ。雨を見越して重めのウイングを装着していたのが功を奏し、尋常ではないペースでオーバーテイクを連発する。残り3周の時点でトップを走るベッテルの背後につく。そしてファイナルラップでベッテルはバックストレッチの第2シケインでバトンの圧力に屈し、ハーフスピンを喫してしまい、そのままベッテルをオーバーテイクして2010年中国GP以来の優勝を果たした。前回の中国GP同様、路面状況や展開が二転三転する中での優勝劇であり、バトンのレース状況を読み切るポテンシャルの高さや、レイン状態から乾きかけの路面における速さを改めて証明する形となった。

第9戦イギリスGPはピット作業のミスで、第10戦ドイツGPはマシントラブルで二戦連続リタイア。200戦目の節目となった第11戦のハンガリーGPはレース前に降った雨の影響でドライとレインが混合する難しい路面状況となった。ウェットトラックだった序盤はやや出遅れるも路面が乾きだした中盤以降ペースを上げ、僚友のハミルトンと激しい首位争いを演じる。終盤に差し掛かりまたも雨が落ち始めた、バトンはドライタイヤのままコースに残ることを選ぶ。結果的に雨はすぐ止んでしまったためこの選択が功を奏し、ウェットタイヤに履き替えたハミルトンは順位を落としてしまう。その後は余裕のトップ走行でチェッカーを受け、200戦目、自身初優勝を飾ったハンガロリンクで2度目の優勝を果たすというメモリアルな結果になった。F1ハンガリーGPでレインコンディションとなったのは過去2回だけであり、2006年に加え2度目のレインレースも勝利した。

その後も好調は続きベルギーGPは予選でのミスで13番手スタートながらも果敢にオーバーテイクを決め3位、続くイタリアGPとシンガポールGPで2位と表彰台に登り続けた。しかしその間もベッテルが連勝しチャンピオンシップのリードを広げたために、この時点でベッテルのチャンピオン獲得を阻止できる可能性が残るのはバトンのみとなった。

ベッテルの2度目のワールドチャンピオン戴冠が確実視された第15戦日本GPでは、フリー走行全セッションでトップに立ち、予選ではポールポジションのベッテルに0.009秒差で二位につける。最低でも自身が優勝しなければベッテルのワールドチャンピオンが決まる中、持ち前のタイヤマネージメントとピット戦略で中盤トップを逆転し、そのまま逃げきり優勝。自身が愛してやまない鈴鹿初制覇となった。因みにバトンのドライレースでの勝利は2009年トルコGP以来のことで、マクラーレン移籍後初である(これまでの4勝は全てウェットレース)。しかしベッテルが3位に入りチャンピオン獲得条件の1ポイント以上を手にしたため、戴冠阻止はならなかった。

その後は第16戦韓国GPで4位、続くインドGP、アブダビGP、ブラジルGPで表彰台をキープしてアロンソやマーク・ウェバー、同じく3勝したものの安定感に欠けたハミルトンを上回りドライバーズランキング2位の座を守った。特に後半戦はハンガリーGP以降は韓国GPを除いて表彰台に登り続け、ベッテルの圧倒的な速さには敵わなかったものの安定感が光ったシーズンであった。シンガポールGP後には、マクラーレンと新たに2014年までの複数年契約を結んで残留を決めている。。またこの年より導入されたピレリタイヤは摩耗性が高く管理が難しいものであったが、そのピレリタイヤを最も有効に使えたという評価を受けた。

2012年も昨年同様チームメイトはハミルトン。テストから好調で、開幕戦オーストラリアGPでは予選2位につけ、決勝ではスタートでトップに立つと、ファステストラップを出しながらトップを快走。終盤のセーフティカー導入にも冷静に対処し、勝利を飾った。その後はマシンへの適応に苦しんでハミルトンと比べるとやや劣る展開が続き、チームの失速も重なりなかなか勝利を挙げることができなかった。

迎えた夏休み明けの第12戦ベルギーGPでは、2009年モナコGP以来3年ぶり、マクラーレン移籍後初のポールポジションを獲得した。決勝でもスタート直後のアクシデントに巻き込まれることなく、安定したレースコントロールでシーズン2勝目を挙げた。

その後はマシンのセッティングに苦労したり、マシントラブルなどもあったためタイトルは得られなかったが、最終戦ブラジルGPではトップを争っていたハミルトン、ヒュルケンベルグの接触もあり勝利を収めた。

シーズン最速のマシンという見方もあるマシンに乗りながら、ピット作業のミスや、信頼性不足、セッティングに苦しみランキング5位に終わった。

昨年まで3年間チームメイトだったハミルトンがメルセデスに移籍し、前年にザウバーで3度の表彰台を獲得したセルジオ・ペレスが移籍してきた。この年はマシン開発が失敗し、パフォーマンスの低さに苦しんだ。また、バーレーンGPではチームメイトのペレスと接触して不満を漏らすバトンの無線が国際映像に流れ、物議を醸した。ベテランらしい安定した走りをみせてほとんどのレースで入賞したものの、表彰台には一度も乗れず、最高位はブラジルGPの4位に留まり、ランキングは9位に終わった。

2014年のチームメイトはルーキーのケビン・マグヌッセン。開幕戦オーストラリアGPではいきなりQ2敗退を喫したが、セーフティカーのタイミングでいち早くピットに入ったこと、また2回目の早めのピットインでアンダーカットに成功して順位を上げ、ダニエル・リチャルドの失格で繰り上がり、2年ぶりの表彰台を獲得した。その後は入賞にも苦しむような状態が続いたが、それでも荒れたレース展開となったモナコGPや、カナダGPではベテランらしい安定した走りを見せ上位に食い込んだ。イギリスGPでは終始上位を走っていたものの、早めのピットストップで3位に上がっていたリチャルドを抜ききれず、母国初の表彰台獲得はならなかった。速さはあるもののペナルティなどでなかなか結果を出せないマグヌッセンとは対照的に安定して入賞を続け、特にシーズン後半はマシンのアップデートも奏功し、レッドブルやウィリアムズといった上位陣に割って入るような活躍を見せた。ドライバーズランキングは8位。チームメイトのマグヌッセンに対して予選10勝9敗、決勝では15勝4敗と大きく上回り、2015年からフェルナンド・アロンソがマクラーレンから参戦することにより残り1つとなっていたマクラーレンのシートを守ることに成功した。

2015年シーズンは上述のようにチームメイトは2回のワールドチャンピオンであるフェルナンド・アロンソ。新たに減俸の代わりに2年契約を受け、マクラーレンで再びホンダとタッグを組むこととなった。しかしホンダエンジンは前年まで搭載していたメルセデスエンジンと比べると、はるかに信頼性の低いものでテストでもほとんど周回をこなせず、開幕戦オーストラリアGPでは何とか完走したが、完走した中では最下位の11位と苦難の幕開けとなった。その後も信頼性のトラブルは続き、バーレーンGPでは決勝に出走することすら叶わなかった。このような中モナコGPでは他のマシンのグリッド降格などもあり10番手スタート、さらに前を行くマシンのトラブルなどにも助けられて8位入賞を果たし、チームにとっても自身にとってもシーズン初入賞となった。その後はQ2進出すらできないレースが続き、最高位は荒れたレース展開となったアメリカGPの6位、入賞は4度にとどまった。しかしドライバーズランキングでは3倍以上の報酬を得るフェルナンド・アロンソを上回った。2016年の契約がオプションだったこともあり、日本GP前には引退をほのめかすような発言もあったが10月1日に2016年も引き続きマクラーレンより参戦することが発表された。

引き続きマクラーレンから参戦。第4戦ロシアGPでシーズン初入賞を飾る。その後の2戦でも入賞を飾り、オーストリアGPではハーフウェットの予選で5番手タイムを記録し、上位陣のグリッド降格も重なって、2014年イギリスGP以来およそ2年ぶりの3番グリッドを獲得。決勝でも上位3チームに次ぐ6位入賞を果たした。

来期に向けてマクラーレンはフェルナンド・アロンソの残留が既に発表され、バトンとは契約が今期で切れるため、もう一つのシートにはリザーブドライバーのストフェル・バンドーンが収まることが濃厚とされ、バトンは2000年にも在籍したウィリアムズへの移籍話や引退してWECへの転身が噂された。イタリアGP前にマクラーレンは来期のストフェル・バンドーンの起用を発表。バトンは契約を二年延長してアンバサダー兼リザーブドライバーとして残留することも発表された。

その後も、マレーシアGPでQ3に進出し、9位入賞。アメリカGPでは19番スタートから入賞を飾った。最終戦アブダビGPで「今回がラストレース」と引退を表明した。レースはマシントラブルにより、今まで全て完走していた同GPをリタイアで終えている。ドライバーズランキングは前年より一つ上の15位となった。

前述した通り、この年はアンバサダー兼リザーブドライバーとしてマクラーレンに残留。フェルナンド・アロンソのインディ500参戦表明に伴い、日程が重複するモナコGPでアロンソの代走として出場した。予選ではQ3進出する速さを示すもPUエレメント交換(最下位まで降格)とフロア交換によりピットスタートを選択、決勝1周目でタイヤ交換し、他車を抜く戦略を採ったが前にいたザウバーのパスカル・ウェーレインも同時にピットインしてしまい、ペースが上がらないウェーレインが前に居座り続ける状態となった。58周目、意を決しポルティエでインを刺すも接触・ウェーレインは横転しバトンも左フロント部が変形しリタイヤ。この接触で次戦3グリッド降格ペナルティとなった、しかし後は出走せずシーズン終了した。

2021年、ウィリアムズにシニア・アドバイザーとして復帰。

SUPER GT

F1の代わりに参戦するレースを求めていたバトンは、2017年8月26日・27日に鈴鹿サーキットで開催されたSUPER GT 第6戦(鈴鹿1000km)にスポット参戦した。元F1王者がSUPER GTに参戦するのは初めてである。チームはTEAM MUGENで、武藤英紀、中嶋大祐とのトリオを組み、マシンはNSXでタイヤはヨコハマ。屋根のあるマシンでの経験はほぼ皆無だったがきちんと順応し、予選ではQ1のアタックを担当しデッドラインに0.089秒差というタイムを出した。決勝では第2スティントを担当するが、ピットアウト時にスタッフのミスで荒聖治のM6と接触しかけ、これにドライビングスルーペナルティを課され下位に沈んだ。その後 走行ペースは良く一時3番手まで浮上したが、今度はセーフティカー中に追い越しをしたとして再びペナルティを受ける。後半第5スティントも担当するが、右フロントタイヤがパンクするトラブルに見舞われ、12位で終わった。

そして同年12月3日にツインリンクもてぎで開催された『Honda Racing THANKS DAY 2017』において、2018年のSUPER GTフル参戦が発表された。どのチームに加入するのか注目されたが、2018年1月12日、幕張メッセで開催の東京オートサロンにおいて、高橋国光総監督率いるチーム国光への加入が発表された。

開幕戦岡山では予選Q2と決勝のスタートドライバーを担当。決勝は慣れないトラフィック処理に手こずったが、タイヤ無交換を成功させて、最終的には2位表彰台を獲得した。

そして、第6戦(菅生)でチームメイトの山本尚貴のアタックでポールポジションを獲得、決勝ではバトンがコースアウトしたが逃げ切ってSUPER GT初優勝を果たした。バトンのキャリアでも6年ぶりの優勝となった。その後 最終戦(もてぎ)にKeePer TOM'S LC500と同点で臨み、直接対決を制しチャンピオンを獲得した。

YouTubeの自身のチャンネルでは、日本でのレース内外での様子を収めた動画を積極的に投稿していた。

2019年からはSky Sports F1の解説者に加わるため一年で日本を去るのではという噂が広まったが、実際には体制はそのままSUPER GTの二年目を迎えることとなった。

2019年10月29日 自身のSNSにて2019年限りでSUPER GTを離れる事を発表した。

SUPER GTラストレース、最終戦(もてぎ)では予選Q1担当だったが Q1落ち。決勝ではファーストスティントを担当し山本尚貴にバトンを渡し6位入賞となり、2019年シーズンはランキング8位でシーズンを終えた。

2024/06/24 14:25更新

Jenson Button


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