ダグラス=マッカーサーの情報(DouglasMacArthur) 軍人 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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ダグラス=マッカーサーさんについて調べます
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ダグラス=マッカーサーの情報まとめ
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ダグラス=マッカーサー(Douglas MacArthur)さんの誕生日は1880年1月26日です。
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経歴(青年期まで)、経歴(第一次世界大戦〜戦間期)などについてまとめました。卒業、家族、結婚、母親、父親、事件、離婚、解散、事故に関する情報もありますね。
ダグラス=マッカーサーのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)ダグラス・マッカーサー(英語: Douglas MacArthur、1880年1月26日 - 1964年4月5日)は、アメリカ合衆国の陸軍軍人。アメリカ陸軍元帥、連合国軍最高司令官、国連軍司令官を歴任した。 1880年にアメリカ合衆国アーカンソー州で生まれ、1903年にウェストポイント陸軍士官学校を首席で卒業した。 1918年に第一次世界大戦に参戦し、師団参謀長として13の勲章を受勲した。1919年には史上最年少で同士官学校の校長に就任、1925年には最年少でアメリカ軍の少将に就任、1930年には最年少でアメリカ軍参謀総長に就任した。 1935年にフィリピン軍の創設に携わり、翌1936年にはフィリピン軍の元帥となった。第二次世界大戦では大日本帝国からフィリピンを奪還し、1944年にアメリカ陸軍元帥に就任した。 第二次世界大戦後、1945年から1950年まで連合国軍最高司令官(GHQ)として各種の占領政策を行って民主化を進めたほか、国民主権・平和主義などを柱とする日本国憲法の制定に影響を与えた。 1950年には朝鮮戦争における国際連合軍総司令官として仁川上陸作戦を成功させたが、中華人民共和国の人民解放軍との戦いに劣勢がみられ、北部のピョンヤン制圧から38度線まで撤退した。その後核を使うなどと全面戦争を主張したことなどからアメリカ大統領のトルーマンと戦略が対立し、1951年に解任された。 退任後は1952年の大統領選挙に出馬することを試みたが、支持が集まらずに断念した。製造企業レミントンランド社の会長に就任し、1964年に84歳で死去した。 経歴(青年期まで)生い立ち1880年1月26日、アーカンソー州リトルロックに誕生する。マッカーサー家は元々はスコットランド貴族の血筋で、キャンベル氏族の流れを汲み、スコットランド独立戦争でロバート1世に与して広大な領土を得たが、その後は領主同士の勢力争いに敗れ、没落したと伝えられている。1828年、当時少年だった祖父のアーサー・マッカーサー・シニア(英語版)は家族に連れられてスコットランドからアメリカに移民し、マッカーサー家はアメリカ国民となった。 父のアーサー・マッカーサー・ジュニアは16歳の頃に南北戦争に従軍した根っからの軍人であり、南北戦争が終わって一旦は除隊し、祖父と同様に法律の勉強をしたが長続きせず、1866年には軍に再入隊している。1875年にニューオーリンズのジャクソン兵舎に勤務時に、ヴァージニア州ノーフォーク生まれでボルチモアの富裕な綿花業者の娘であったメアリー・ピンクニー・ハーディと結婚し、1880年に軍人である父の任地であったアーカンソー州リトルロックの兵器庫の兵営でマッカーサー家の三男としてダグラス・マッカーサーが誕生した。この頃は西部開拓時代の末期で、インディアンとの戦いのため、西部地区のあちらこちらに軍の砦が築かれており、マッカーサーが生まれて5か月の時、一家はニューメキシコ州のウィンゲート砦に向かうこととなったが、その地で1883年に次男のマルコムが病死している。マルコムの病死は母のメアリーに大きな衝撃を与え、残る2人の息子で特に三男ダグラスを溺愛するようになった。次いでフォート・セルデンの砦に父のアーサーが転属となり、家族も付いていった。そのためダグラスは、幼少期のほとんどを軍の砦の中で生活することとなった。 その後も一家は全国の任地を転々とするが、1898年4月に米西戦争が始まると父のアーサーは准将となり、スペインの植民地であったフィリピンに出征し、マッカーサー家とフィリピンの深い縁の始まりとなった。戦争が終わり、フィリピンがスペインよりアメリカに割譲されると、少将に昇進して師団長になっていた父のアーサーはその後に始まった米比戦争でも活躍し、在フィリピンのアメリカ軍司令官に昇進した。しかし、1892年に兄のアーサーはアナポリス海軍兵学校に入学し、1896年には海軍少尉として任官し、弟ダグラスもウェストポイント陸軍士官学校を目指し勉強中だったことから、家族はフィリピンに付いていかなかった。 なお、ダグラスは幼少期に母のメアリーによってフランスの風習に倣い、女子の格好をさせられていた。このことの人格形成への悪影響を危惧した父によって、陸軍士官学校に入学させられることになったとも言われている。 陸軍入隊1896年、マッカーサーは西テキサス士官学校卒業後、ウェストポイントのアメリカ陸軍士官学校受験に必要な大統領や有力議員の推薦状が得られなかったため、母メアリーと共に有力政治家のコネが得られるマッカーサー家の地元ミルウォーキーに帰り、母メアリーが伝手を通じて手紙を書いたところ、下院議員シオボルド・オーチェンの推薦を得ることに成功した。その後、ウェストサイド高等学校に入学、1年半もの期間受験勉強したが、その受験勉強の方法は、後のマッカーサーを彷彿させるものであった。マッカーサーは試験という難関から失敗の可能性を抽出すると、それを1つ1つ取り除いていくという勉強方法をとり、目標を楽々と達成した。この受験勉強でマッカーサーは「周到な準備こそは成功と勝利のカギ」という教訓を学び、それは今後の軍人人生に大いに役立つものとなった。戦略的な受験勉強は奏功し、マッカーサーは1899年6月に750点満点中700点の高得点でトップ入学した。 しかし、マッカーサーは受験勉強期間中もガリ勉に終始していたわけでなく、年相応のロマンスも経験していた。マッカーサーはジョン・レンドラム・ミッチェル上院議員の娘に片思いし、彼女を口説くために、「うるわしき西部の娘よ、何より愛する君、君はなにゆえに我を愛さざるや?」という自作した詩を懐に忍ばせて、ミッチェル上院議員の家の周りをうろつくようになった。しかし、当時のマッカーサーはまったくモテず、ミッチェル上院議員の娘から相手にされることはなかった。これはマッカーサー個人の問題より、当時のアメリカでは軍服を颯爽とまとった軍人が若い女性の羨望の的であり、若い将校が休暇でミルウォーキーに帰ってくると、若い女性は軍人の周りに集まり、その中にはミッチェル上院議員の娘もいた。まだウェストポイントに入学していなかったマッカーサーは、他の平服を着た民間人と一緒にそれを横目で見ながらこそこそと隠れていなければならず、マッカーサーは「今度戦争があったら、絶対に前線で戦ってやるぞ」と心の中で誓っていた。 そんな息子を溺愛して心配する母のメアリーは、マッカーサーがウェストポイントに入学すると、わざわざ学校の近くのクラニーズ・ホテルに移り住み、息子の学園生活に目を光らせることとした。その監視は学業だけではなく私生活にまで及び、マッカーサーを女性から遠ざけるのに抜け目がなかった。その過保護ぶりは教官も周知の事実となり、ある日マッカーサーがメアリーの目を盗んでダンスホールで女性とキスをしているところを教官に見つかったことがあったが、ばつの悪い思いをしていたマッカーサーに対して教官は笑顔で「マッカーサー君おめでとう」とだけ言って去っていった。結局メアリーはマッカーサーが卒業するまで離れなかったため、「士官学校の歴史で初めて母親と一緒に卒業した」とからかわれることとなった。 当時のウェストポイントは旧態依然とした組織であり、上級生による下級生へのしごきという名のいじめが横行していた。父親が有名で、母親が近くのホテルに常駐し付き添っているという目立つ存在であったマッカーサーは、特に念入りにいじめられた。そのいじめは、長いウェストポイントの歴史の中で100以上も考案され、主なものでは「ボクシング選手による鉄拳制裁」「割れたガラスの上に膝をついて前屈させる」「火傷する熱さの蒸し風呂責め」「ささくれだった板の上を全裸でスライディングさせる」など凄まじいものであった。そのいじめが行われる兵舎は生徒たちから「野獣兵舎」と呼ばれていた。マッカーサーはいじめを受け続け、最後は痙攣を起こして失神した。マッカーサーは失神で済んだが、新入生の中でいじめによる死亡者が出て問題化することになった。報道によって社会問題化したことを重く見たウィリアム・マッキンリー大統領がウエストポイントに徹底した調査を命じ、数か月後に軍法会議が開廷された。激しいいじめを受けたマッカーサーも証人として呼ばれたが、マッカーサーは命令どおり証言すれば全校生徒から軽蔑される一方で、命令を拒否すればウエストポイントから追放されるという窮地に追い込まれることとなった。マッカーサーは熟考したあげく、既に罪を認めた上級生の名前のみ証言し、他の証言は拒否した。結局この事件は、罪を認めた生徒は一旦退学処分となったが、親族に有力者のコネがある生徒はまもなく復学し、またマッカーサーも父親アーサーが現役の将軍であったため証言拒否が問題視されることはなかった。しかし、窮地を機転と不屈の精神で乗り切ったマッカーサーは、多くの生徒から信頼を得ることができた。 在学中は成績抜群で、4年の在学期間中、3年は成績トップであったが、勉強だけではなくスポーツにも熱心であった。マッカーサーは最も好きなスポーツはフットボールであったが、当時の体格は身長が180cmに対し体重が63.5㎏しかなく、この痩せ型の体型ではフットボール部に入部すらできない懸念があったので、マッカーサーは痩せ型の自分でも活躍できるスポーツとして野球を選び、自らで野球部を立ち上げた。しかし、決して野球が巧いわけではなく、打撃が苦手で、守備でも右翼手としては役には立たなかった。しかし、頭脳プレーに秀でており、選球眼もよく、セーフティーバントで相手投手を揺さぶるなどして高い出塁率を誇って、試合では活躍し、チームメイトからは「不退転のダグ」と呼ばれるようになった。1901年5月18日には、ウェストポイント対アナポリスのアメリカ陸海軍対抗戦にマッカーサーはスターティングメンバーとして出場し、2打席凡退後の3打席目で得意の選球眼で四球を選んで出塁すると、後の選手のタイムリーヒットで決勝のホームベースを踏んだ。マッカーサーはこれらの活躍で、レター表彰(ウェストポイントの略称であるArmyの頭文字Aをジャケットやジャージなどに刺繍できる権利)を受けたが、この表彰により、マッカーサーは死の直前までAの文字が刺繍されたウェストポイントの長い灰色のバスローブを愛用し続けた。しかし野球に熱中するあまり成績が落ちたため、4年生には野球をきっぱりと止め、1903年6月に在学期間中の2,470点満点のうち2,424.2点の得点率98.14%という成績を収め、94名の生徒の首席で卒業した。このマッカーサー以上の成績で卒業した者はこれまで2名しかいない(ロバート・リーがそのうちの一人である)。卒業後は陸軍少尉に任官した。 当時のアメリカ陸軍では工兵隊がエリート・グループとみなされていたので、マッカーサーは工兵隊を志願して第3工兵大隊所属となり、アメリカの植民地であったフィリピンに配属された。長いフィリピン生活の始まりであった。1905年に父が日露戦争の観戦任務のための駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となった。マッカーサーも副官として日本の東京で勤務した。マッカーサーは日露戦争を観戦したと自らの回想記に書いているが、彼が日本に到着したのは1905年10月で、ポーツマス条約調印後であり、これは、マッカーサーの回想によくある過大な記述であったものと思われ、回想記の版が重なるといつの間にかその記述は削除されている。その後マッカーサーと家族は日本を出発し、中国や東南アジアを経由してインドまで8か月かけて、各国の軍事基地を視察旅行しており、この時の経験がマッカーサーの後の軍歴に大きな影響を与えることになった。また、この旅行の際に日本で東郷平八郎・大山巌・乃木希典・黒木為楨ら日露戦争で活躍した司令官たちと面談し、永久に消えることがない感銘を受けたとしている。 その後アメリカに帰国したマッカーサーは1906年9月にセオドア・ルーズベルトの要請で、大統領軍事顧問の補佐官に任じられた。マッカーサーの手際のよい仕事ぶりを高く評価したルーズベルトはマッカーサーに「中尉、君は素晴らしい外交官だ。君は大使になるべきだ」と称賛の言葉をかけている。順調な軍歴を歩んでいたマッカーサーであったが、1907年8月にミルウォーキーの地区工兵隊に配属されると、ミルウォーキーに在住していた裕福な家庭の娘ファニーベル・ヴァン・ダイク・スチュワートに心を奪われ、軍務に身が入っていないことを上官のウィリアム・V・ジャドソン少佐に見抜かれてしまい、ジャドソンは工兵隊司令官に対して「学習意欲に欠け」「勤務時間を無視して私が許容範囲と考える時間を超過して持ち場に戻らず」「マッカーサー中尉の勤務態度は満足いくものではなかった」と報告している。この報告に対してマッカーサーは激しく抗議したが、マッカーサーがミルウォーキーにいた期間は軍務に全く関心を持たず、スチュワートを口説くことだけに関心が集中していたことは事実であり、この人事評価は工兵隊司令部に是認された。これまで順調であったマッカーサーの軍歴の初めての躓きであり、結局は、ここまで入れ込んだ恋愛も実らず、今までの人生で遭遇したことのない大失敗に直面したこととなった。自分の経歴への悪影響を懸念したマッカーサーは一念発起し、自分の評価を挽回するため工兵隊のマニュアル「軍事的破壊」を作成し工兵部隊の指揮官に提出したところ、このマニュアルは陸軍訓練学校の教材に採用されることとなった。このマニュアルによって挫折からわずか半年後にマッカーサーは挫折を克服し、第3工兵隊の副官及び工兵訓練学校の教官に任命されるなど再び高い評価を受けることとなったという。 その後、マッカーサーは1911年2月に大尉に昇進したが、1912年9月に父のアーサーが重い脳卒中でこの世を去った。尊敬していた父の死はマッカーサーに大きな衝撃を与え、マッカーサーはこの後生涯に渡って父の写真を持ち歩いていた。夫の死に大きなショックを受けたマッカーサーの母のメアリーは体調を崩して故郷ボルチモア病院に通院していたが、マッカーサーは少しでも側にいてやりたいと考えて、陸軍に異動願いを出していた。当時のアメリカ陸軍参謀総長は レオナルド・ウッド(英語版) であったが、ウッドはかつて父アーサーの部下として勤務した経験があり、アーサーに大きな恩義を感じていたため、わざわざ陸軍省に省庁間の調整という新しい部署を作ってマッカーサーを異動させた。ワシントンに着任したマッカーサーは定期的に母を見舞うことができた。また、ウッドはマッカーサーの勤務報告書に自ら「とりわけ知的で有能な士官」と記すなど、高く評価したため、この後、急速に出世街道を進んでいくこととなった。 経歴(第一次世界大戦〜戦間期)第一次世界大戦1910年11月に始まったメキシコ革命でビクトリアーノ・ウエルタ将軍が権力を掌握したが、ウエルタ政権を承認しないアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領と対立することとなったため、ウエルタに忠誠を誓うメキシコ兵がアメリカ軍の海兵隊兵士を拘束し、タンピコ事件が発生した。アメリカはメキシコに兵士の解放・事件への謝罪・星条旗に対する21発の礼砲を要求したが、メキシコは兵士の解放と現地司令官の謝罪には応じたが礼砲は拒否した。憤慨したウィルソンは大西洋艦隊第1艦隊司令フランク・F・フレッチャーにベラクルスの占領を命じた(アメリカ合衆国によるベラクルス占領(英語版))。 激しい市街戦により占領したベラクルスに レオナルド・ウッド(英語版) 参謀総長は増援を送り込んだが、歩兵第2師団の第5旅団に偵察要員として、当時大尉であったマッカーサーを帯同させた。マッカーサーの任務は「作戦行動に有益なあらゆる情報を入手する」といった情報収集が主な任務であったが、マッカーサーはベラクルスに到着した第5旅団が輸送力不足により動きが取れないことを知り、メキシコ軍の蒸気機関車を奪取することを思い立った。マッカーサーはメキシコ人の鉄道労働者数人を買収すると、単身でベラクルスより65キロメートル離れたアルバラードまで潜入、内通者の支援により3両の蒸気機関車の奪取に成功した。その後、マッカーサー自身の証言では追撃してきた騎馬隊と激しい銃撃戦の上、マッカーサーは3発も銃弾が軍服を貫通するも無傷で騎馬隊を撃退し、見事にベラクルスまで機関車を持ち帰ってきた。マッカーサーはこの活躍により当然名誉勲章がもらえるものと期待していたが、第5旅団の旅団長がそのような命令を下していないと証言したこと、また銃撃戦の件も内通者のメキシコ人以外に証人はおらず信頼性に乏しいことより、名誉勲章の授与は見送られる事になり、マッカーサーは失望することとなった。 その後にマッカーサーは陸軍省に戻り、陸軍長官副官・広報班長に就いた。1917年4月にアメリカがイギリス・フランス・日本などとともに連合国の一国として第一次世界大戦に参戦することが決まった。アメリカは戦争準備のため、急きょ1917年5月に選抜徴兵法を制定したが、徴兵部隊が訓練を終えて戦場に派遣されるには1年は必要と思われた。 マッカーサーはニュートン・ディール・ベイカー陸軍長官と共にホワイトハウスへ行って、ウィルソンに「全米26州の州兵を強化して市民軍としてヨーロッパに派遣すべき」と提案した。ウィルソンはベイカーとマッカーサーの提案を採用しその実行を指示したが、どの州の部隊を最初にフランスに派遣すべきかが悩ましい問題として浮上した。ベイカーは州兵局長ウィリアム・A・マン(英語版)准将とマッカーサーに意見を求めたが、マッカーサーは単独の州ではなくいくつかの州の部隊で師団を編成することを提案し、その提案に賛成したマンが「全26州の部隊で編成してはどうか」と補足すると、マッカーサーは「それはいいですね、そうすれば師団は全国に虹のようにかかることになります」と言った。ベイカーはその案を採用し第42師団(英語版)を編成した。師団長にはマン、そして少佐だったマッカーサーを二階級特進させ大佐とし参謀長に任命した。戦争に参加したくてたまらず、知り合いの記者に「真の昇進はフランスに行った者に与えられるであろう」と思いのたけを打ち明けていたマッカーサーには希望どおりの人事であった。第42師団は「レインボー師団」と呼ばれることになった。 第42師団は1918年2月に西部戦線に参戦した。マッカーサーが手塩にかけて育成した兵士は勇猛に戦い、多くの死傷者を出しながらも活躍した。アメリカが第一次世界大戦でフランスに派遣した部隊の中では、正規軍と海兵隊で編成された精鋭部隊歩兵第2師団に次ぐ貢献度とされた。マッカーサーも参謀長であるにもかかわらず、前線に出たがった。正規の軍装は身に着けず、ヘルメットを被らず常に軍帽を着用し、分厚いタートルネックのセーターに母メアリーが編んだ2mもある長いマフラーを首に巻き、光沢のあるカーフブーツを履いて、武器の代わりに乗馬鞭か杖を握りしめているという目立つ格好であった。 マッカーサーは前線の偵察を自ら直接行うこともあり、度々危険な目にあっている。車両に乗って偵察した際にはドイツ軍の機関銃に射撃され、車両は破壊されたがマッカーサーは奇跡的に無事であった。また少数のパトロール部隊を率いて夜間偵察した際には、ドイツ軍の毒ガス攻撃を受け、マッカーサー以外の兵士は全員戦死したということもあった。マッカーサーはその後、第42師団の第84旅団の旅団長(准将)に就任し、休戦前には一時的に師団長が不在となったため、准将ながら第42師団を率いたこともあった。マッカーサーは第一次世界大戦中に戦場において2回負傷し、外国の勲章も含めて15個の勲章を受章した。 このヨーロッパ派遣軍(AEF)の総司令官はジョン・パーシングであったが、パーシングは前線から遥か後方で指揮をとり、前線の野戦指揮官の具申をしばしば退けたことから、部下との間に軋轢が生じることもあったといわれ、特にマッカーサーはこれが原因でパーシングに批判的態度をとるようになる。 しかし、マッカーサーの母メアリーは、夫アーサーが在フィリピンのアメリカ軍司令官だったころに、当時大尉であったパーシングの面倒をみていたという伝手を頼って、マッカーサーを早く昇進させるようにと嘆願する手紙をたびたび送っていた。またベイカーにも同じような手紙を何通も送っている。そのおかげか、大戦中にマッカーサーは前述のように准将に昇進しており、メアリーはパーシングに「息子は貴方の期待を裏切らないはずです」というお礼の手紙を送っている。また、大戦後にパーシングが参謀総長に就任すると、「息子を早く少将に昇進させて欲しい」との手紙も送っている。メアリーはマッカーサーを溺愛するあまり過保護であり、大戦前の1909年に夫アーサーが軍を退役した際には、マッカーサーの将来を憂いて、鉄道王エドワード・ヘンリー・ハリマンに「陸軍よりもっと出世が約束される仕事に就かせたい、貴方の壮大な企業のどこかで雇ってはもらえないだろうか」という手紙も送っていた。 戦間期大戦後にマッカーサーは、母校である陸軍士官学校の校長に就任した(1919年 - 1922年)。当時39歳と若かったマッカーサーは辣腕を振るい、士官学校の古い体質を改革して現代的な軍人を育成する場へと変貌させた。マッカーサーが在学中に痛めつけられたしごきの悪習も完全に廃止され、しごきの舞台となっていた野獣兵舎も閉鎖した。代わりに競技スポーツに力をいれ、競技種目を3種目(野球・フットボール・バスケットボール)から17種目に増やし、全員参加の校内競技大会を開催することで団結心が養われた。その指導方針は厳格であり、当時の生徒は「泥酔した生徒が沢山いる部屋にマッカーサーが入ってくると、5分もしないうちに全員の心が石のように正気にかえった。こんなことができたのは世界中でマッカーサーただ一人であっただろう」と回想している。マッカーサーはその指導方針で士官候補生の間では不人気であり、ある日、士官候補生数人がマッカーサーに抗議にきたことがあったが、マッカーサーは候補生らの言い分を聞いた後に「日本との戦争は不可避である。その時になればアメリカは専門的な訓練を積んだ士官が必要となる。ウェストポイントが有能な士官の輩出という使命をどれだけ果たしたかが戦争の帰趨を決することになる」と言って聞かせると、候補生らは納得して、それ以降は不満を言わずに指導に従った。 その後、1922年に縁の深いフィリピンのマニラ軍管区司令官に任命され着任する。その際、同年結婚した最初の妻ルイーズ・クロムウェル・ブルックス(英語版)を伴ってのフィリピン行きとなった。ルイーズは大富豪の娘で社交界の花と呼ばれていたため、2人の結婚は「軍神と百万長者の結婚」と騒がれた。この人事については、ルイーズがパーシング参謀総長の元愛人であり、それを奪ったマッカーサーに対する私怨の人事と新聞に書きたてられ、パーシングはわざわざ新聞紙面上で否定せざるを得なくなった。しかし、当時パーシングはルイーズと別れ20歳のルーマニア女性と交際しており、ルイーズはパーシングと別れた後、パーシングの副官ジョン・キュークマイヤーを含む数人の軍人と関係するなど恋多き女性であった。 このフィリピン勤務でマッカーサーは、後のフィリピン・コモンウェルス(独立準備政府)初代大統領マニュエル・ケソンなどフィリピンに人脈を作ることができた。翌1923年には関東大震災が発生、マッカーサーはフィリピンより日本への救援物資輸送の指揮をとっている。これらの功績が認められ、1925年にアメリカ陸軍史上最年少となる44歳での少将への昇進を果たし、米国本土へ転属となった。 少将になったマッカーサーに最初に命じられた任務は、友人であるウィリアム・ミッチェルの軍法会議であった。ミッチェルは航空主兵論の熱心な論者で、自分の理論の正しさを示すため、旧式戦艦や標的艦を航空機の爆撃により撃沈するデモンストレーションを行ない、第一次世界大戦中にアメリカに空軍の基盤となるべきものが作られたにもかかわらず、政府がその後の空軍力の発展を怠ったとして、厳しく批判していた。軍に対してもハワイ、オアフ島の防空体制を嘲笑う意見を公表したり、軍が航空隊の要求する予算を承認しないのは犯罪行為に等しい、などと過激な発言を繰り返し、この歯に衣を着せぬ発言が『軍への信頼を失墜させ』『軍の秩序と規律に有害な行為』とみなされ、軍法会議にかけられることとなったのである。マッカーサーは、父アーサーとミッチェルの父親が同僚であった関係で、ミッチェルと少年時代から友達付き合いをしており、この軍法会議の判事となる任務が「私が受けた命令の中で一番やりきれない命令」と言っている。マッカーサーは判事の中で唯一「無罪」の票を投じたがミッチェルは有罪となり1926年に除隊した。その後、ミッチェルの予言どおり航空機の時代が到来したが、その時には死後10年後であり、ようやくミッチェルはその先見の明が認められ、1946年に名誉回復され、少将の階級と議会名誉黄金勲章が遺贈された。 1928年のアムステルダムオリンピックではアメリカ選手団団長となったが、アムステルダムで新聞記者に囲まれた際「我々がここへ来たのはお上品に敗けるためではない。我々は勝つために来たのだ。それも決定的に勝つために」と答えた。しかし、マッカーサーの意気込みどおりとはならず、アメリカは前回のパリオリンピックの金メダル45個から22個に半減し、前評判の割には成績は振るわなかった。アメリカ国民の失望は大きく、選手団に連日非難の声が寄せられた。この大会では日本が躍進し、史上初の金メダルを2個獲得している。金メダルを三段跳で獲得した織田幹雄は終戦時に、その折のアメリカ選手団団長のマッカーサーが占領軍の最高司令官であったことに驚いたという。 マッカーサーがオリンピックでアムステルダムにいた頃、妻ルイーズがアメリカにて複数の男性と浮気をしていたと新聞のゴシップ欄で報じられた。ルイーズは新婚当初は知人を通じ、当時の陸軍長官ジョン・ウィンゲイト・ウィークスに、「ダグラスが昇進できるように一肌脱いでほしい、工作費はいくら請求してくれてもよい」と働きかけるほど、夫マッカーサーに尽くそうとしていたが、華美な生活を求めたルイーズとマッカーサーは性格が合わず、1929年には離婚が成立している。ルイーズとの夫婦生活での話は後にゴシップ化し、面白おかしくマスコミに取り上げられてマッカーサーを悩ませることになる。 離婚のごたごたで傷心のマッカーサーに、在フィリピン・アメリカ陸軍司令官として再度フィリピン勤務が命じられたが、マッカーサーはこの異動を「私にとってこれほどよろこばしい任務はなかった」と歓迎している。マッカーサーは当時のアメリカ人としては先進的で、アジア人に対する差別意識が少なく、ケソンらフィリピン人エリートと対等に付き合い友情を深めた。また、アメリカ陸軍フィリピン人部隊(フィリピン・スカウト)の待遇を改善し、強化を図っている。この当時は日本が急速に勢力を伸ばし、フィリピンにも日本人の農業労働者や商売人が多数移民してきており、マッカーサーは脅威に感じて防衛力の強化が必要と考えていたが、アメリカ本国はフィリピン防衛に消極的で、フィリピンには17,000名の兵力と19機の航空機しかなく、マッカーサーはワシントンに「嘆かわしいほどに弱体」と強く抗議している。ケソンはこのようにフィリピンに対して親身なマッカーサーに共感し、ヘンリー・スティムソンの後任のフィリピン総督に就任することを願った。マッカーサーも、かつて父アーサーも就任した総督の座を希望しており、ケソンらに依頼しフィリピンよりマッカーサーの推薦状を送らせている。しかし工作は実らず、総督には前陸軍長官のドワイト・フィリー・デイヴィスが就任した。 私生活では、1929年にマニラで混血の女優エリザベス・イザベル・クーパー(英語版)との交際が始まったが、マッカーサー49歳に対し、イザベルは当時16歳であった。 陸軍参謀総長1930年、大統領ハーバート・フーヴァーにより、アメリカ陸軍最年少の50歳で参謀総長に任命された。このポストは大将職であるため、一時的に大将に昇進した。1933年から副官には、後の大統領ドワイト・D・アイゼンハワーが付き、マッカーサーとアイゼンハワーの長くて有名な関係が始まった。アイゼンハワーはウェストポイントを平均的な成績で卒業していたが、英語力に極めて優れており、分かりやすく、構成のしっかりした、印象的な報告書を作成することに長けていた。アイゼンハワーはパーシングの回顧録記述の手伝いをし、第一次世界大戦におけるアメリカ陸軍の主要な公式報告書の多くを執筆した。マッカーサーはこうしたアイゼンハワーの才能を報告書を通じて知ると、参謀本部の年次報告書などの重要な報告書作成任務のために抜擢したのであった。マッカーサーはアイゼンハワーが提出してきた報告書に、自らが直筆した称賛の手紙を入れて返した。アイゼンハワーはその手紙に感動して母親に見せたが、母親はさらに感激してマッカーサーの手紙を額に入れて飾っていた。 前年の「暗黒の木曜日」に端を発した世界恐慌により、陸軍にも軍縮の圧力が押し寄せていたが、マッカーサーは議会など軍縮を求める勢力を「平和主義者とその同衾者」と呼び、それらは共産主義に毒されていると断じ、激しい敵意をむき出しにしていた。当時、アメリカ陸軍は世界で17番目の規模しかなく、ポルトガル陸軍やギリシャ陸軍と変わらなくなっていた。また兵器も旧式であり、火砲は第一次世界大戦時に使用したものが中心で、戦車は12両しかなかった。しかし議会はさらなる軍事費削減をせまり、マッカーサーの参謀総長在任時の主な仕事は、この小さい軍隊の規模を守ることになった。 1932年に、退役軍人の団体が恩給前払いを求めてワシントンD.C.に居座る事件(ボーナスアーミー)が発生した。全国から集まった退役軍人とその家族は一時、22,000名にも上った。特に思想性もない草の根運動であったが、マッカーサーは、ボーナスアーミーは共産主義者に扇動され、連邦政府に対する革命行動を煽っている、と根拠のない非難をおこなった。退役軍人らはテント村を作ってワシントンD.Cに居座ったが、帰りの交通費の支給などの懐柔策で、少しずつであるが解散して行った。しかし、フーヴァーやマッカーサーが我慢強く待ったのにもかかわらず10,000名が残ったため、業を煮やしたフーヴァー大統領が警察と軍に、デモ隊の排除を命令した。マッカーサーはジョージ・パットン少佐が指揮する歩兵、騎兵、機械化部隊合計1,000名の部隊を投入し、非武装で無抵抗の退役軍人らを追い散らしたが、副官のアイゼンハワーらの忠告も聞かず、フーヴァーからの命令に反し、アナコスティア川を渡河して退役軍人らのテント村を焼き払い、退役軍人らに数名の死者と多数の負傷者を生じさせた。マッカーサーは夜の記者会見で、「革命のエーテルで鼓舞された暴徒を鎮圧した」と鎮圧行動は正当であると主張したが、やりすぎという非難の声は日増に高まることとなった。 マッカーサーは自分への非難の沈静化を図るため、ボーナスアーミーでの対応で非難する記事を書いたジャーナリストのドルビー・ピアソンとロバート・S・アレンに対し、名誉棄損の訴訟を起こすが、かえってジャーナリストらを敵に回すことになり、ピアソンらは当時関係が破局していたマッカーサーの恋人イザベルの存在を調べ上げると、マッカーサーが大統領や陸軍長官など目上に対して侮辱的な言動をしていたことや、私生活についての情報をイザベルより入手している。その後、マッカーサーとピアソンらは名誉棄損の訴訟を取り下げる代わりに、スキャンダルとして記事にしないことやイザベルに慰謝料を払うことで和解している。 フーヴァーはボーナスアーミーでの対応の不手際や、恐慌に対する有効な政策をとれなかったため、フランクリン・ルーズベルトに大統領選で歴史的大敗を喫して政界を去ったが、ルーズベルトもフーヴァーと同様に、不況対策と称して軍事予算削減の方針であった。マッカーサーはルーズベルトに「大統領は国の安全を脅かしている、アメリカが次の戦争に負けて兵隊たちが死ぬ前に言う呪いの言葉は大統領の名前だ」と辞任覚悟で詰め寄るが、結局陸軍予算は削減された。マッカーサーはルーズベルトが進めるニューディール政策には終始反対の姿勢であったが、ルーズベルトがニューディール政策の一つとして行った CCC(市民保全部隊)による失業者救済に対し、陸軍の組織力や指導力を活用して協力し、初期の成功に大きく貢献している。 この頃のマッカーサーは公私ともに行き詰まりを感じて、自信喪失に苦しんでおり、時々自殺をほのめかすときがあった。その度に副官のトーマス・ジェファーソン・デービス(英語版)大尉などがマッカーサーに拳銃を置くように説得したが、ある日、マッカーサーとデービスが公務で一緒に汽車に乗り、その汽車が、マッカーサーの父アーサーが南北戦争時に活躍した戦場の付近を通ったとき、マッカーサーがデービスに「私は陸軍と人生において、出来得る限りのことをやり終え、今や参謀総長としての任期も終わろうとしている。テネシー川の鉄橋を通過するとき、私は列車から飛び降りるつもりだ。ここで私の人生は終わるのだ」と語りかけてきた。このようなやりとりにうんざりしていたデービスは「うまく着水できることを祈ります」と答えると、マッカーサーはばつが悪い思いをしたのか、荒々しくその客車を出て行ったが、後ほどデービスに感情的になっていたと謝罪している。 マッカーサーは史上初の参謀総長再任を希望し、ルーズベルトもまた意見は合わないながらもその能力を高く評価しており、暫定的に1年間、参謀総長の任期を延長している。 フィリピン生活1935年に参謀総長を退任して少将の階級に戻り、フィリピン軍の軍事顧問に就任した。アメリカは自国の植民地であるフィリピンを1946年に独立させることを決定したため、フィリピン国民による軍が必要であった。初代大統領にはケソンが予定されていたが、ケソンはマッカーサーの友人であり、軍事顧問の依頼はケソンによるものだった。マッカーサーはケソンから提示された、18,000ドルの給与、15,000ドルの交際費、現地の最高級ホテルでケソンがオーナーとなっていたマニラ・ホテルのスイート・ルームの滞在費に加えて秘密の報酬 という破格の条件から、主に経済的な理由により軍事顧問団への就任を快諾している。 フィリピンには参謀総長時代から引き続いて、アイゼンハワーとジェームズ・D・オード両少佐を副官として指名し帯同させた。アイゼンハワーは行きたくないと考えており「参謀総長時代に逆らった私を懲らしめようとして指名した」と感じたと後に語っている。 フィリピン行きの貨客船「プレジデント・フーバー (S.S. President Hoover) 」には2番目の妻となるジーン・マリー・フェアクロスも乗っており、船上で2人は意気投合して、2年後の1937年に結婚している。また、母メアリーも同乗していたが、既に体調を崩しており長旅の疲れもあってか、マッカーサーらがマニラに到着した1か月後に亡くなっている。 1936年2月にマッカーサーは、彼のためにわざわざ設けられたフィリピン陸軍元帥に任命された。副官のアイゼンハワーは、存在もしない軍隊の元帥になるなど馬鹿げていると考え、マッカーサーに任命を断るよう説得したが、聞き入れられなかった。後年ケソンに尋ねたところ、これはマッカーサー自身がケソンに発案したものだった。しかし肝心の軍事力整備は、主に資金難の問題で一向に進まなかった。マッカーサーは50隻の魚雷艇、250機の航空機、40,000名の正規兵と419,300名のゲリラで、攻めてくる日本軍に十分対抗できると夢想していたが、実際にアイゼンハワーら副官が軍事力整備のために2,500万ドルの防衛予算が必要と提言すると、ケソンとマッカーサーは800万ドルに削れと命じ、1941年には100万ドルになっていた。 軍には金はなかったが、マッカーサー個人はアメリカ資本の在フィリピン企業に投資を行い、多額の利益を得ていた。1936年1月17日にはマニラでアメリカ系フリーメイソンに加盟、600名のマスターが参加したという。3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した。 1937年12月にマッカーサーは陸軍を退官する歳となり、アメリカ本土への帰還を望んだが、新しい受け入れ先が見つからなかった。そこでケソンがコモンウェルスで軍事顧問として直接雇用すると申し出て、そのままフィリピンに残ることとなった。アイゼンハワーら副官もそのまま留任となった。1938年1月にマッカーサーが軍事力整備の成果を見せるために、マニラで大規模な軍事パレードを計画した。アイゼンハワーら副官は、その費用負担で軍事予算が破産する、とマッカーサーを諫めるも聞き入れず、副官らにパレードの準備を命令した。それを聞きつけたケソンが、自分の許可なしに計画を進めていたことに激怒してマッカーサーに文句を言うと、マッカーサーは自分はそんな命令をした覚えがない、とアイゼンハワーらに責任を転嫁した。このことで、マッカーサーとアメリカ軍の軍事顧問幕僚たちとの決裂は決定的となり、アイゼンハワーは友人オードの航空事故死もあり、フィリピンを去る決意をした。1939年に第二次世界大戦が開戦すると、アメリカ本国に異動を申し出て、後に連合国遠征軍最高司令部 (Supreme Headquarters Allied Expeditionary Force) 最高司令官となった。アイゼンハワーの後任にはリチャード・サザランド大佐が就いた。 2024/06/23 05:24更新
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Douglas MacArthur
ダグラス=マッカーサーと同じ誕生日1月26日生まれの人
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