もしもし情報局 > 2月8日 > 経済学者

ヨーゼフ=シュンペーターの情報 (JosephAloisSchumpeter)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【4月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

ヨーゼフ=シュンペーターの情報(JosephAloisSchumpeter) 経済学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

ヨーゼフ=シュンペーターさんについて調べます

■名前・氏名
ヨーゼフ=シュンペーター
(読み:Joseph Alois Schumpeter)
■職業
経済学者
■ヨーゼフ=シュンペーターの誕生日・生年月日
1883年2月8日 (年齢1950年没)
未年(ひつじ年)、水瓶座(みずがめ座)
■出身地・都道府県
不明

ヨーゼフ=シュンペーターと同じ1883年生まれの有名人・芸能人

ヨーゼフ=シュンペーターと同じ2月8日生まれの有名人・芸能人

ヨーゼフ=シュンペーターと同じ出身地の人


ヨーゼフ=シュンペーターの情報まとめ

もしもしロボ

ヨーゼフ=シュンペーター(Joseph Alois Schumpeter)さんの誕生日は1883年2月8日です。

もしもしロボ

家族、事件に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1950年に亡くなられているようです。

ヨーゼフ=シュンペーターのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

ヨーゼフ・アロイス・シュンペーター(Joseph Alois Schumpeter、1883年2月8日 - 1950年1月8日)は、オーストリア・ハンガリー帝国(後のチェコ)モラヴィア生まれの経済学者である。企業者の行う不断のイノベーション(革新)が経済を変動させるという理論を構築した。また、経済成長の創案者でもある。

オーストリア・ハンガリー帝国の、モラヴィアのトリーシュ(現・チェコ東部トジェシュチ(ドイツ語版))にドイツ系の家庭に生まれた。

1901年にウィーン大学法学部に進学し、フリードリヒ・フォン・ヴィーザー、オイゲン・フォン・ベーム=バヴェルクに直接指導を受けた。カール・メンガーやレオン・ワルラスの影響も受けた。1905年のベーム=バヴェルクのマルクスについてのゼミには、マルクス主義者のオットー・バウアー、ルドルフ・ヒルファディング、エミール・レーデラーや、のちに自由市場原理主義者になるルートヴィヒ・フォン・ミーゼスらがいた。シュンペーターは、自分の属している社会構造から他の社会構造への移行を人間的価値の損失を最低限にとどめながら引き起こすという意味での保守主義を自称した。1906年ウィーン大学にて博士号(法学)を取得。

1908年『理論経済学の本質と主要内容』発表。

1909年にツェルノヴィッツ大学准教授、次いで1911年にグラーツ大学教授に就任。1912年『経済発展の理論』発表。1913年、アメリカ合衆国のコロンビア大学から客員教授として招聘され名誉博士号を受けた。

第一次世界大戦末期になるとオーストリア=ハンガリー帝国内部で諸民族が自治を求めるようになった。連合国がチェコスロバキアの独立を承認すると、1918年11月にハンガリー人民共和国が樹立して独立を宣言すると、ハプスブルク家によるハンガリー統治が終焉を迎えた。オーストリアではオーストリア社会民主党が主導したオーストリア革命が進行し、社会民主党カール・レンナーを首相とするキリスト教社会党との臨時連立政府が発足した。連合国は、1919年9月の講和条約サン=ジェルマン条約をオーストリア共和国と締結し、オーストリアはチェコスロバキア、セルビア・クロアチア・スロベニア、ポーランド、ハンガリー独立を承認し、これによりオーストリア=ハンガリー帝国(ハプスブルク帝国)が崩壊した。シュンペーターは、サン=ジェルマン条約は冷酷な内容であり、祖国にとって死刑宣告に等しいと非難した。この条約によって、オーストリアの企業家精神が回復する可能性が消滅し、また次の大戦の種となった。

社会民主党左派のオットー・バウアーや、ヒルファーディング、エミール・レーデラーらから誘われたシュンペーターは1919年2月、社会民主党政権の財務大臣になった。シュンペーターは、社会主義者ではなかったが、短期的な解決策として社会主義的な原則を承認した。シュンペーターは、資本(流動資産)への課税、国内企業の株式を外国に売却する案、国の債務の償還などを提案したが、その財政プランは人々に理解されず失敗した。同年、財務大臣を辞職。

1921年にはビーダーマン銀行の頭取に就任したが、1924年に同銀行が経営危機に陥ったため、頭取を解任され、巨額の借金を負った。

1925年 ボン大学の教授に就任したのち、1927年にはハーバード大学の客員教授を引き受け、1932年には正教授に就任。この間の1931年には初めて来日し各地で講演を行っている。

1939年『景気循環の理論』発表。1940年、計量経済学会会長に就任し、その後も1947年にアメリカ経済学会会長に、1949年に国際経済学会会長に選出された。

シュンペーターは第二次世界大戦を第一次世界大戦の再現とみ、とくにヨシフ・スターリン率いるソ連の勝利を恐れ、冷戦を予測していた。

1942年 『資本主義・社会主義・民主主義』発表。

1950年1月8日、コネチカット州にて動脈硬化症で急死。遺稿を元に『経済分析の歴史』が1954年になって出版された。

シュンペーターは、レオン・ワルラス流の一般均衡理論を重視した。初の著書『理論経済学の本質と主要内容』は、ワルラスの一般均衡理論をドイツ語圏に紹介するものであった。しかし、古典派が均衡を最適配分として捉えているのに対して、シュンペーターは均衡を沈滞として捉えている。

シュンペーターによれば、市場経済は、イノベーションによって不断に変化している。そして、イノベーションがなければ、市場経済は均衡状態に陥っていき、企業者利潤は消滅し、利子はゼロになる。したがって、企業者は、創造的破壊を起こし続けなければ、生き残ることができない。

イノベーションは、シュンペーターの理論の中心概念である。ちなみに、シュンペーターは、初期の著書『経済発展の理論』ではイノベーションではなく「新結合(neue Kombination)」という言葉を使っている。これは、クレイトン・クリステンセンによる「一見、関係なさそうな事柄を結びつける思考」というイノベーションの定義と符合している。なお、日本語では「技術革新」と訳されることが多いが、イノベーションは技術の分野に留まらない。

シュンペーターは、イノベーションとして以下の5つの類型を提示した。

新しい財貨の生産

新しい生産方法の導入

新しい販売先の開拓

原料あるいは半製品の新しい供給源の獲得

新しい組織の実現(独占の形成やその打破)

また、シュンペーターは、イノベーションの実行者を「企業者・企業家(entrepreneur)」と呼ぶ。この意味における企業者とは、一定のルーチンをこなすだけの経営管理者(土地や労働を結合する)ではなく、まったく新しい組み合わせで生産要素を結合し、新たなビジネスを創造する者である。この点を明確にするために「起業者」と訳されることがある。

シュンペーターは『経済発展の理論』(1911)で、生産と消費の循環における流れは不規則で洪水や旱魃がおきるが、企業家精神をもつ冒険家が新しい水路を開いていくと論じた。シュンペーターは、企業家を、たんなる企業の役員、所有者、経営者ではなく、革新的な優位性を追求する近代的な産業の将師として位置づける。企業家は、生産や消費の流れを監督しているのではなく、古い伝統を打破して新しい伝統と将来を創造する。企業家は、金持ちになりたい欲求とか、快楽主義的な動機だけに索引されているわけではなく、成功そのもののために成功しようという衝動をもつとシュンペーターは言う。

社会の上層はひっきりなしに入れ替わっている資本主義世界は、古い企業を競争によって破壊することで進展している。連続的な破壊が経済発展の基礎であり、資本主義の本質を体現しているのであり、その一部が新しい市場の創出である。シュンペーターは、経済変化を起こすのは生産者であり、消費者は生産者によって教育されると論じたが、この発言は21世紀なら当然ときこえるが、1911年当時においては強烈な主張だった。

『経済発展の理論』は出版の時期が悪く、第一次世界大戦のために読者の関心が平時の経済発展から離れていたし、英語版が刊行された1934年も世界恐慌のさなかにあり、企業家精神はほとんどなくなっていた。さらに世界大戦では、国境を越える財の取引、人々の移動、資金調達が妨害され、企業家精神にあふれた未来志向型の資本主義にとって破滅的だった。

シュンペーターは資本主義とは次の三つの特徴を有する産業社会のことであると定義した。

①物理的生産手段の私有 ②私的利益と私的損失責任 ③民間銀行による決済手段(銀行手形あるいは預金)の創造 この三つのうち、③の「民間銀行による決済手段の創造」(信用創造)ことが、資本主義の定義の中でも特に重要であり、私有財産制度と契約の自由だけでは資本主義とは言えず、無から貨幣を創造する民間銀行という機関が存在することが資本主義の必須の要件だという。

資本主義経済ではイノベーションの実行は事前に通貨を必要とするが、起業者は既存のマネーを持たないから、これに対応する通貨は新たに創造されるのが本質であるとシュンペーターは考えた。すなわちイノベーションを行う起業者が銀行から信用貸出を受け、それに伴い銀行システムで通貨が創造されるという信用創造の過程を重視した。貨幣や信用を実体経済を包むだけの名目上の存在とみなす古典派の貨幣ヴェール観と対照的である。

「銀行家は単に購買力という商品の仲介商人なのではなく、またこれを第一義とするのではなく、なによりもこの商品の生産者である。……彼は新結合の遂行を可能にし、いわば国民経済の名において新結合を遂行する全権能を与える」とシュンペーターは語っている。

シュンペーターは、資本主義システムの本拠は、信用の割り当てが行われる金融市場であるとし。企業の発展は倹約ではなく、資金調達であり、投資銀行家が重要なプレーヤーだとする。投資銀行家は単なる仲介者でなく、貨幣や信用の生産者、卓越した資本家である。

シュンペーターによれば、起業者が銀行からの借入を受けてイノベーションを実行すると、経済は撹乱される。そして、その不均衡の拡大こそが、好況の過程である。そして、イノベーションがもたらした新しい状況では、独占利潤を手にした先行企業に対して、後続企業がそれに追従することで、信用収縮(銀行への返済)が起こり、それによって徐々に経済が均衡化していくことで、不況になるとした。なお、これは、初期の『経済発展の理論』における基本的な見方であり、後の大著『景気循環の理論』では、景気循環の過程がより緻密に考察されている。

シュンペーターは第一次世界大戦末期の『租税国家の危機』(1918)で、税金があまりに高くなり、インセンティブを阻害するようになれば、企業家精神は低迷し、租税国家は崩壊する懸念があるとシュンペーターは述べた。シュンペーターは、イギリズの首相ウィリアム・グラッドストンやウィリアム・ピット (小ピット)らは賢明な租税政策を行なったが、オーストリアは過重な税金のせいで企業家が課税の低い外国に移住したため革新が削減されているとみて、オーストリアの回復のためには、企業家精神、信用、革新はあらゆる手段を用いて強化しなければならないと考え、インフレを抑制する資本(流動資産)への課税、戦争債の漸進的な償還、海外資本の誘致、ベンチャー企業の奨励を提言した。

シュンペーターは、マルクスが生きていれば私と同意見だろう、国家主導の非民主的な行政的な経済を提唱するマルクス主義者の意見をマルクスは笑い飛ばすだろうとも述べた。

その後、シュンペーターは社会民主党政権の財務大臣となり、実際の政策を立案したものの、国民から不評を買い、失敗した。

シュンペーターは、カール・マルクスおよび社会主義を重視しており、初期から晩年にいたるまで好意的評価も交えながら批判的評価を加えた。一方で、ロシア革命のあとソビエト連邦が建国されると、各国で共産党が活発に動いたことに対してシュンペーターはこれをおぞましい状況とみて、ロシアは世界の安定にとって不幸な脅威とみた。シュンペーターはボリシェヴィキは完全な詐欺だとして憎悪した。一方、民主主義下でさえ、政治家は有権者に迎合し、その利益を約束することで公職を買収し、長期的には国家に損害をあたえるともみた。シュンペーターは政治システムとしては、イギリスのシステム(二院制や官僚制)を称賛した。その後、スターリンが権力を掌握すると、シュンペーターは、ソ連の原動力は世界を階級のないマルクス主義の楽園に変えたいという欲望でなく、単純な帝国主義の欲望であり、スターリンは基本的に軍事独裁国家であると批判した。

シュンペーターによる社会学的アプローチによる主著『資本主義・社会主義・民主主義』では、経済が静止状態にある社会においては、独創性あるエリートは、官庁化した企業より、未開拓の社会福祉や公共経済の分野に革新の機会を求めるべきであるとした。そして、イノベーションの理論を軸にして、経済活動における新陳代謝を創造的破壊という言葉で表現した。また、資本主義は、成功ゆえに巨大企業を生み出し、それが官僚的になって活力を失い、社会主義へ移行していく、という理論を提示した。マーガレット・サッチャーは、イギリスがこのシュンペーターの理論の通りにならないよう常に警戒しながら政権を運営をしていたといわれている。

シュンペーターは中期の論文「企業家の機能と労働者の利益」(1927)で、19世紀イギリスの工業化において富が増加しても所得分配はほとんど一定だったがゆえに、工業化が大衆に貧困をもたらすという主張は誤りだと論じた。

シュンペーターによれば、企業家と労働者の長期的な利益はほぼ一致する。イギリスの富裕層が工業化でうけとった報酬は大きすぎたのかという問題については、高所得が動機となって、企業家が革新を行い、全体的な生活水準を引き上げたかと問うのが適切だとシュンペーターはいう。富裕層の保有するお金を人口で割ると、人々の生活水準を引き上げるには足りず、企業家が新しい不確実な企画に時間と努力とお金を注ぐのは成功の追求とそれがもたらすプレミアムのためであり、新しい仕事の創出を通じて社会全体にも利益を生み出すためには、企業家が収益を得ることが必要不可欠だとシュンペーターは主張する。

また、新しい会社がほとんど常に、ビジョンとそれを現実化する不屈の精神をもつ、「普通の」労働者によって始められていることはデータで証明されている。成功をおさめた企業家の子孫も家族企業が革新を持続しなければその地位を維持できないし、資本主義国家において富裕層の大部分は世襲貴族とはことなり、世代ごとに浮き沈みを繰り返す。労働者と企業家は出自が同じであるが、企業家による労働計画案や管理などの業務について意見の不一致が生じると、企業家は労働者の利益のために行動していないという見方をうみだす。この見方では、社会全体にとってあたらしい雇用をもたらす長期的利益でなく、個々人にとっての短期的なマイナス面に関心が集中しており、日和見主義的な政治家や急進的知識人は短期的コストを強調するとシュンペーターは論じた。

同時期の論文「我が国の社会構造における傾向」(1928年)でもシュンペーターはマルクス理論を批判している。まず、階級構造はマルクス理論ほど単純ではなく、労働と資本の間に明確な分裂はなく、本当の分裂は大企業と中規模工場の所有者との格差であり、その差は二つの階級のように大きく、また両者ともにその社会的地位は他の階級よりも不安定であるとシュンペーターはいう。経済は能力主義の領域に入っており、世襲階級にとっては敵対的なものとなっている。

労働者の概念においてもマルクス主義の見方は不適切であり、労働者対資本家の対立というよりも、さまざまなカテゴリーの労働者相互間での闘争になっているとシュンペーターは指摘する。今日の労働者は資本主義経済にとって最大のステークホルダーであり、新しい高賃金システムでは、非熟練労働者でもブルジョワ生活を送ることができるのであり、労働者が資本家の単なる道具であり搾取されたプロレタリアであるというのはまったく不正確だとシュンペーターは批判する。社会主義者と知的な空想家はこのような見方を軽蔑するだろうが、労働者には社会的進歩が禁止されているという主張はナンセンスであり、企業家がかつては労働者やその息子であったことを忘れてはならないとシュンペーターはいう。たとえば、熟練工と不熟練工は非常に異なる考え方をもっているし、特に熟練労働者は新しい社会経済秩序に真の利害関係をもっており、階級として統一的なプロレタリア意識があるというのは現実離れしたユートピア的な考えにすぎず、労働力とは同質的な大衆ではないとシュンペーターは社会主義的な見方を批判する。

同時期の論文「民族的に同質な環境下における社会階級」でシュンペーターはマルクス主義の階級論を批判する。マルクス主義者がいう階級闘争が根拠としている前提は壊れているとシュンペーターはいう。特定の階級に属する者は、お互いに緊密に連帯しており、外部に対しては障壁を築く。より高い階級への道は婚姻政策であり、これは何世紀にわたって行われてきた。マルクス主義は富裕層はますます富み、貧困層はますます貧すると主張するが、19世紀半ばにリードしていた富裕層は三世代後にはもはやトップではなかった。マルクス主義の見方は、理論だけを重視すると単純な事実が目に入らず、主張がグロテスクに歪んでしまうという典型例であるとシュンペーターは批判する。資本主義の絶え間ない発展と競争的革新がそのような状況を形成しているのであり、マルクスはその発展をわかっていたが、その意味を把握していなかったとシュンペーターは指摘する。単に利潤を企業に再投資するだけでは十分ではなく、進路を示し、ビジネスに精魂傾けることをせずに産業界における地位を維持し続けた企業はない。新しい生産手段の導入、新しい市場の出現、新しいビジネスは、すべてリスク、試行錯誤、抵抗の克服を伴うし、新規参入者は新鮮なアイデアを持ち込み、高い利益をあげて、既存の会社を廃業に追い込む。しかし成功者は一度成功すると継続的な革新を嫌うようになる。既存資源の単なる管理は、常に地位低下の特徴である。企業家には並外れたエネルギーが必要で、その中で最良の者だけが高い活動を維持できるのであり、高貴な出自というだけでは企業家の能力は賦与されない。したがって、現代の階級の地位が固定しているというのは幻想であり、階級の障壁はトップだけでなくボトムでも克服可能である。ほとんどの大企業家は労働者や職人から台頭してきた。それは新奇なことをしたおかげである。ウィーンの静態的社会は動きが遅く堕落しているが、イギリス貴族社会には多様性と参入可能性があり、イギリスではオーストリアよりも速く上の階級へ上がっていくことができる。社会的に必要となった機能に関する理解力が優れていれば、階級の壁は常に例外なく乗り越えることができるとシュンペーターは論じる。

一方、『経済発展の理論』日本語訳(1937年)に寄せられた「日本語版への序文」では、「自分の考えや目的がマルクスの経済学を基礎にしてあるものだとは、はじめ気づかなかった」「マルクスが資本主義発展は資本主義社会の基礎を破壊するということを主張するにとどまるかぎり、なおその結論は真理たるを失わないであろう。私はそう確信する」と述べている。

しかし、その後出版された「景気循環論」(1939)においてもマルクスを批判した。シュンペーターはあらゆる経済体制のなかで、設立に必要な資金を所有する前に、人々が企業家になれるのは資本主義だけであるとし、古典派とマルクスの重大な欠陥は企業家の活動をそれ自体で判然とした機能として明確に思い描くことができなかったことだったとシュンペーターは批判した。歴史的記録によれば、企業家はあらゆる所得層と社会階層の出身者だし、企業家の利益とは、成功した革新にともなうプレミアムであり、これが主要な動機づけとなって、同一産業の他の参加者の収益が新たな高水準にあることに気付けば速やかに革新を模倣する。企業家は、特許、さらなる革新、秘密のプロセス、宣伝などを通じて高収入を維持しようとするが、これは現実および潜在的な競合者に対する攻撃であり、これが創造的破壊である。

講演「我々の時代の経済的解釈」(1941)で、第一次世界大戦の和平条約は敗戦国に不可能な経済的負担をおしつけ、民主的政府を設立する試みは多くの国で挫折したが、とくに深刻だったのは、ソ連の国家社会主義が、市民の自由を抹殺しながら、その成功を宣伝することで、資本主義と民主主義にとって脅威となり始めたことだったとシュンペーターは論じた。他方で、西側の知識人の多くはソ連に夢中になり、その実態を空想的に解釈し、スターリン政権の残虐さを見て見ぬふりをした。農業集団化と徴発によって500万-800万が死んだというホロコーストと同様の殺戮の全容は戦後になるまで不明だったが、戦前でもソ連での強制移住での死亡や行方不明などは明白だった。シュンペーターはロシア共産主義はマルクスよりもイワン雷帝に近いと指摘している。

主著『資本主義、社会主義、民主主義』(1942)では、マルクスについて様々な論点から批判を加えた。マルクスは資本主義を動態的にみて、産業変化の過程を明確に理解し認識できたが、社会学者としてのマルクスは、社会階級を資本家とプロレタリアートの二つしかしないと主張した。しかし、シュンペーターは、これはあまりに単純で間違っており、労働者は全員が同じではなく、近代社会にあっては知性とエネルギーがあれば、企業家になることも、資本家になることも可能だと批判した。

経済学者としてのマルクスは、さらに間違っているとシュンペーターは言う。資本主義が成熟すると労働者の市場占有率が低下し、労働者の窮状が高まり、反乱を起こして、収奪者を収奪し、万人の利益になる体制をもたらすとマルクスは主張した。しかし、歴史的事実としては、総所得に占める労働者の市場占有率は、工業化のなかで低下せず、横ばい、あるいは上昇したのであり、絶対水準としての労働者所得は激増し、生活水準も向上した。これは資本主義が所得を引き上げ、財のコストを引き下げたのだとシュンペーターは反論する。

また、マルクスは、生産の機械化は、失業者という「予備軍」を生み出し、これは搾取への準備が整っている労働者が増加すると主張したが、これも起こらなかった。1930年代にマルクスが流行した理由について、マルクス主義は、挫折し、ひどい処遇を受けている人々の感情に訴えかけたからであり、これは不運な人たちが自然に導かれる態度である。マルクス主義は、そうした悪からの解放を合理的に証明し、確実なものとすることを約束し、経済だけでなく歴史的な事件も説明できる体系を創造することで、人々が人生の大事件から疎外されていると感じなくてすむようにするとともに、人々は突如として政治やビジネスという操り人形を透視できるようになった。当時大恐慌時の大量の失業者がマルクスのいう「産業予備軍」に似ていたのは否定しようがないが、同様の深刻な恐慌はそれまでも繰り返しおきてきたと指摘する。1930年代の回復力の弱さについてケインズは消費者の購買力不足とし、シュンペーターは新しい財政政策への順応にともなう困難、新しい労働法規、私企業への政府の態度の変化などがありアメリカではとくに、銀行倒産というまったく不必要な流行病が発生したのも恐慌を悪化させたと論じた。

また、「大企業は独占している」という意見についてシュンペーターは、「独占」という言葉は世論の敵意を掻き立てるもので、近代資本主義下では長期にわたる独占の事例はほとんどなく、高水準の企業収益は常に一時的なものだと批判した。

シュンペーターによれば、マルクスは企業に関する十分な理論を作ることができず、企業家と資本家を区別できなかった。また、マルクスは景気循環を有効に取り扱えなかったし、古典派のように完全競争を前提としていた。マルクスおよびマルクス主義の資本主義論に対してシュンペーターは、資本主義によって人々の生活水準は段階的に引き上げられたとし、生活水準の改善は大企業の活動が比較的自由であった時期に生じたと強調した。大企業は消費者の利益を増加させた。小規模の店や工場から大企業への発展は、生物学でいう突然変異であり、それは経済を内部から革新し、古いものを破壊し、新しいものを創造している。この創造的破壊こそ資本主義にとっての本質的事実であるとシュンペーターは論じた。

『資本主義、社会主義、民主主義』第三部の社会主義論でシュンペーターは、『ガリヴァー旅行記』の著者スウィフトの風刺のような皮肉な調子で挑発的に社会主義を擁護した。

シュンペーターは社会主義の長所には次の5つがあるという。

経営者は、競争相手との不確実性に取り組まなくてよくなる。中央権力は資本主義下のカルテルのように調整機能として働き、競争に費やされるエネルギーの多くを生産的な目的に転換することが可能となる。

技術や改善を中央権力が強制的に普及させることで、頑固な抵抗を克服できる。

中央権力は景気循環をなくすことができる。

中央権力は失業者を他の仕事に再雇用させることができ、失業率は深刻な問題でなくなる。

経済から民間部門がなくなるため、企業と政府の摩擦や対立が排除される。税金も消滅する。なぜなら当局は賃金を低水準に設定すれば、賃金を回収できるからである。

このような青写真について、ブルジョワジーがこうした社会主義体制に協力できるかどうかが重大な試練となるとシュンペーターは指摘したうえで、ブルジョワジーは一掃されるべきなのではなく、経営機能を継続するようこの集団を仕向けるべきであり、そうしないと経済は繁栄できないとシュンペーターはいう。しかし、社会主義はどうやって経営者に動機づけをするのだろうかとシュンペーターは問う。ソ連は公邸、接待用手当、ヨット、特別手当によって補償されるマネージャー階級を創出し、また、人々の可処分所得を最低限にすることで投資用資金を確保したが、これは資本主義がかつて実施できなかったような困窮と節制の強制であり、貯蓄の機能を定めることでもあり、資本主義下では忌避される規律や道徳的な忠誠心を獲得できるということになる。また、社会主義では自分を養うことができない人口の25%は国家が面倒を見ることになる。ソ連では工場長は残業、解雇、お気に入りの労働者への割増などを自由に制定し、労働者からの反対もほとんどなく、国家の目的と思想への順応を強制でき、知識人も自由に妨害できず、違反を奨励する世論もない。この意味で、欠陥や悲惨な暗示がなんであれ、ソ連のボリシェヴィキシステムは成功だった。ソ連のような社会主義が、我々が通常「民主主義」というものと両立するかは別問題であるとシュンペーターはいう。シュンペーターは、労働組合の伝統があり、政府介入に慣れていて、工業も成熟しているイギリスにおいてのみ「牧歌的な型」の社会主義が成立する可能性があるとし、それ以外の場所では、流血を伴う革命なしに権力を掌握することはできないだろうと述べる。

シュンペーターは皮肉を止め、こういう。「法的な継続性の切断という意味だけなく、その後の恐怖による支配という意味でも、革命を必要とするほど未成熟な状況下における社会主義化は、短期的にも長期的にも、それを引き起こした人々を除けば、だれの利益にもならないことは明白であろう。」。

シュンペーターは、真の民主主義をもたらすとされた社会主義の実験はどの国においても悲惨だったとする。ドイツの社会主義は民主主義を達成できず、実効的な統治もできなかったし、ヒトラーの登場に対しても無頓着だった。ロシアやハンガリーも、権力征服を民主的手段によって実現することの不可能性を示した。シュンペーターは、民主主義とは、立法と行政で意思決定を行うための政治的方法であり、したがって、それ自体が目的になることは不可能であるともいう。

資本主義ではブルジョアジーの生活は公的な権限を制限することで政治領域を制限している。また、法的枠組みが整備されると、企業は自主規制するので、恒常的な政治介入を必要としない。これは法が個人の自由や自律性を保護しているからだ。したがって、「ブルジョア民主主義は欺瞞だ」という社会主義の主張は馬鹿げているとシュンペーターは批判する。社会主義者が批判する「ブルジョア民主主義」は、幅広い平等の機会を提供し、個人の自由を付与し、ブルジョアジーの利益とは無関係だったり、敵対するような要求に対してもうまく対処してきた。国家に依存して生きようとする階級よりも、放任が最も自己の利益にかなうと考える階級の方が、民主的な自制を実行するのは容易になる。

シュンペーターは、民主的社会主義は可能だが困難であり、その歴史的事例は皆無であり、社会主義的民主主義は、あらゆる階級の大多数が民主的なゲームのルールを遵守することを決意しない限り機能しないという。社会主義が成功するためには成熟した資本主義が前提となり、社会主義システムは暴力革命でなく、慣例化した政府措置を通じて構築されねばならず、ロシアの経験を完全な社会主義の実現という社会主義者は一人もいないとシュンペーターはいう。

シュンペーターは社会主義の持続力と資本主義にとってかわる可能性を立証しようと論じているように一見みえるが、条件や前提を注意深く読めば、シュンペーターの目的が資本主義の称賛で、社会主義への非難にあることは明白であるとマクロウはいう。しかし、シュンペーターの皮肉を理解できない書評もあった。

晩年の1945年11月の講演「現代の社会主義的傾向に直面した私企業の将来」でもシュンペーターはマルクス主義を批判した。大恐慌のときに社会主義が流行したのは自然だが、産業発展が展望できる時にはもはや道理に合わず、マルクス主義の階級闘争論は特に不適切だとシュンペーターはいう。資本主義国での労働者の実質賃金は、不況で一時中断したものの数十年間にわたって上昇しており、とくに累進課税を採用している西側諸国では国民所得に占める労働者の実質賃金の割合は上昇した。また、現代の企業人は基本的に他の労働者に対する労働者であって、企業人が自分で資本を所有していると信じたアダム・スミスとマルクスは甚大な過ちを犯したとシュンペーターはいう。

最晩年の1948年12月30日に行われたアメリカ経済学会会長講演においてシュンペーターは、マルクスをブルジョア過激主義から離脱したブルジョア過激派としながら、自分自身の危険性にまったく気づいていなかった思想家だったとした。マルクスのビジョンは、専門的な経済研究をはじめた1840年代以前に形成されており、彼の社会科学的研究はそのビジョンの実践であった。マルクスのビジョンは、当時フランスの過激派で浸透していたもので、持てるものによる持たざるものへの搾取に対する階級闘争の果てに容赦なき貧困とともに壮烈な暴発に向かうというものだったが、このビジョンはマルクスの心の奥の真意に固くむすびついており、それが信奉者に訴え、その熱心な忠誠を得ることになった。マルクスの著作が示すことは、分析におけるイデオロギーの勝利であり、そのビジョンの結末は社会的な信条となって、分析を不毛なものにしたとシュンペーターは総括した。

死後出版された「経済分析の歴史」(1954)では、ナチス・ドイツ、ムッソリーニのイタリア、スターリン下のソ連を「全体主義国家」とシュンペーターはみた。ただし各国は互いに異なっており、 ナチスの人種的優位性に基づく教義は、経済学とほとんど関係がないがゆえに、技術的な経済学や相矛盾する政策の主張とも両立した。これに対してムッソリーニは経済政策を自ら策定するほど経済学について明確な考えをもっており、私的な利益集団が公的機関のもとで組織化し、競争的個人主義を超越して国家のために結束することが目指された。ソ連ではイデオロギーの根本教義が経済思想であり、神聖な教義からの逸脱は、どんなに些細で、仮説であっても許されることはなく、ニコライ・コンドラチエフは粛清で殺された。他方でソ連の主張する新しい社会では、経済法則など存在せず、したがって経済分析も不要ともされた。

トーマス K.マクロウは、シュンペーターはマルクスを博識で大胆で視野が広いと絶賛した一方で、シュンペーター自身は政治的な左翼ではなく、経済学者としてはマルクスから基本的に最も遠いところにいたと指摘している。

ほか、経済学史家としても仕事をしており、初期に『経済学史』を著し、晩年に大著『経済分析の歴史』を執筆、没後に遺稿を元に出版されている。

1945年の日本への原子爆弾投下についてシュンペーターは日記で「愚かな獣性。あるいは獣性の愚かさ!」「暴力の是認ー犠牲者に対する殺人者の憎悪ほど憎悪すべきものはない」と書いた。

ジョーン・ロビンソンは、シュンペーターは社会主義への愛情をほとんど持っておらず、資本主義の英雄的な時代に同情しているが、彼の議論の新鮮さ、勢いに読者は圧倒されるだろうと評した。

日本でのシュンペーター評価の高さは、その門人の高名さ、翻訳の多さ、そして著作での言及・引用の多さにも負う。シュンペーター門下の日本人経済学者としては、ボン大学時代の留学生である中山伊知郎、東畑精一、同じくハーバード大学時代の柴田敬、都留重人などがいる。なお、伊東光晴によると、「日本の経済学者でシュンペーターのもとを訪れた者のうち、シュンペーター自身が、来る前から異常に高く評価したのは柴田敬であり、来た後に高く評価したのが都留重人であって、これ以外の人についてはほとんど評価していない」とされている。

小室直樹は、シュンペーターの業績は経済学界ではさほど継承されておらず、むしろ経営学によって、その発想や視点が旺盛に摂取されていると述べている。また小室は、シュンペーター自身は数学は得意ではなく、弟子のポール・サミュエルソンの数学の講義を聴いて勉強したと書いている。

Wesen und Hauptinhalt der theoretischen Nationalökonomie, 1908

Theorie der wirtschaftlichen Entwicklung, 1912

"Epochen der Dogmen-und Methodengeschichte",Wirtschaft und Wirtschaftwissenschaft, p19-124, 1914

Die Krise des Steuerstaats, 1918

Business Cycles, 1939

Capitalism, Socialism, and Democracy, 1942

Schumpeter, Joseph A. (1951). Ten great economists: from Marx to Keynes. New York Oxford: Oxford University Press. OCLC 166951 

    『十大経済学者:マルクスからケインズまで』中山伊知郎訳 東畑精一 監修.日本評論社、1952年

    History of Economic Analysis, 1954

    論文選集

    伊東光晴・根井雅弘『シュンペーター』(岩波新書、1993年)

    根井雅弘『シュンペーター』(講談社学術文庫、2006年。シュンペーターの評伝)

    金指基『J・A・シュムペーターの経済学』新評論(1979年)

    中野剛志『入門 シュンペーター 資本主義の未来を予見した天才』(PHP新書、2024年

    ^ フランス語で「請負人」「請負業者」

    ^ 新しく事業を起こそうとする者、起業をする者のこと。明治20年(1887)の「官吏服務紀律」9条に「官庁の補助金を受くる起業者」との表現がある。精選版日本語大辞典「起業者」[1]。また土地収用法によれば起業者とは「不動産や権利を収容もしくは使用することを必要とする公共の利益となる事業を行う者。法律に定める公益事業を行う者は、私人も起業者となりうる」。ブリタニカ国際大百科事典小項目辞典「起業者」[2]

    ^ 従業員1000人以上を大企業と定義すれば、ドイツでは892社、総雇用も210万人にすぎず、これは労働力全体のなかでは小さな割合だった(同書、184頁)。

    ^ Joseph Alois Schumpeter (FORVO)

    ^ 馬場宏二 (2003). “"経済成長" の初出”. 大東文化大学経済学会経済論集 81: 79-87. 

    ^ マクロウ 2010, p. 51-53.

    ^ 『サンジェルマン条約』 - コトバンク

    ^ マクロウ 2010, p. 120-121.

    ^ マクロウ 2010, p. 113-115.

    ^ マクロウ 2010, p. 116-118.

    ^ マクロウ 2010, p. 291.

    ^ マクロウ 2010, p. 81-82.

    ^ マクロウ 2010, p. 83.

    ^ マクロウ 2010, p. 85.

    ^ マクロウ 2010, p. 87-88.

    ^ マクロウ 2010, p. 99.

    ^ マクロウ 2010, p. 87.

    ^ マクロウ 2010, p. 112-113.

    ^ マクロウ 2010, p. 328.

    ^ マクロウ 2010, p. 39.

    ^ マクロウ 2010, p. 468.

    ^ マクロウ 2010, p. 205.

    ^ マクロウ 2010, p. 205-6.

    ^ マクロウ 2010, p. 206.

    ^ マクロウ 2010, p. 184.

    ^ マクロウ 2010, p. 184-5.

    ^ マクロウ 2010, p. 185-6.

    ^ マクロウ 2010, p. 186.

    ^ マクロウ 2010, p. 186-7.

    ^ マクロウ 2010, p. 187.

    ^ マクロウ 2010, p. 188.

    ^ 「シュムペーター経済発展の理論」1937年、中山伊知郎、東畑精一共訳、岩波書店

    ^ マクロウ 2010, p. 298.

    ^ マクロウ 2010, p. 378-9.

    ^ マクロウ 2010, p. 379.

    ^ マクロウ 2010, p. 413.

    ^ マクロウ 2010, p. 414.

    ^ マクロウ 2010, p. 414-5.

    ^ マクロウ 2010, p. 415.

    ^ マクロウ 2010, p. 420.

    ^ マクロウ 2010, p. 416.

    ^ マクロウ 2010, p. 425.

    ^ マクロウ 2010, p. 428-9.

    ^ マクロウ 2010, p. 429-430.

    ^ マクロウ 2010, p. 430.

    ^ マクロウ 2010, p. 431.

    ^ マクロウ 2010, p. 432.

    ^ マクロウ 2010, p. 434.

    ^ マクロウ 2010, p. 435.

    ^ マクロウ 2010, p. 437.

    ^ マクロウ 2010, p. 437-8.

    ^ マクロウ 2010, p. 438.

    ^ マクロウ 2010, p. 426.

    ^ マクロウ 2010, p. 506.

    ^ マクロウ 2010, p. 570.

    ^ マクロウ 2010, p. 571.

    ^ マクロウ 2010, p. 468-9.

    ^ マクロウ 2010, p. 469.

    ^ マクロウ 2010, p. 470.

    ^ マクロウ 2010, p. 53-4.

    ^ マクロウ 2010, p. 454.

    ^ マクロウ 2010, p. 440.

    ^ 宮崎義一、伊東光晴「忘れられた経済学者・柴田敬」経済評論53/8月号

    ^ 小室直樹 『経済学をめぐる巨匠たち』 ダイヤモンド社、2004年、170頁

    ^ 小室直樹 『経済学をめぐる巨匠たち』 ダイヤモンド社、2004年、217頁

    馬場宏二 (2003). “"経済成長" の初出”. 大東文化大学経済学会経済論集 81: 79-87.

    宮崎義一、伊東光晴「忘れられた経済学者・柴田敬」経済評論53/8月号

    小室直樹 『経済学をめぐる巨匠たち』 ダイヤモンド社、2004年

    マクロウ, トーマス  八木紀一郎、田村勝省訳 (2010), シュンペーター伝, 一灯舎 

    山下舜平大 - 彼に因んで命名された。

    マルクス経済学への批判

    マルクス主義批判

    めちゃくちゃわかるよ経済学 シュンペーターの冒険編 - ダイヤモンド・オンライン

    第1代 アーヴィング・フィッシャー 1931-34年

    第2代 François Divisia 1935年

    第3代 ハロルド・ホテリング 1936-37年

    第4代 Arthur Lyon Bowley 1938-39年

    第5代 ヨーゼフ・シュンペーター 1940-41年

    第6代 Wesley Clair Mitchell 1942-43年

    第7代 ジョン・メイナード・ケインズ 1944-45年

    第8代 ヤコブ・マルシャック 1946年

    第9代 ヤン・ティンバーゲン 1947年

    第10代 Charles Roos 1948年

    第11代 ラグナル・フリッシュ 1949年

    第12代 チャリング・クープマンス 1950年

    第13代 R. G. D. アレン 1951年

    第14代 ポール・サミュエルソン 1952年

    第15代 René Roy 1953年

    第16代 ワシリー・レオンチェフ 1954年

    第17代 リチャード・ストーン 1955年

    第18代 ケネス・アロー 1956年

    第19代 トリグヴェ・ホーヴェルモ 1957年

    第20代 ジェームズ・トービン 1958年

    第21代 Marcel Boiteux 1959年

    第22代 ローレンス・クライン 1960年

    第23代 Henri Theil 1961年

    第24代 フランコ・モディリアーニ 1962年

    第25代 Edmond Malinvaud 1963年

    第26代 ロバート・ソロー 1964年

    第27代 森嶋通夫 1965年

    第28代 Herman Wold 1966年

    第29代 ヘンドリック・ハウタッカー 1967年

    第30代 フランク・ハーン 1968年

    第31代 レオニード・ハーヴィッツ 1969年

    第32代 Jacques Drèze 1970年

    第33代 ジェラール・ドブルー 1971年

    第34代 W. M. Gorman 1972年

    第35代 Roy Radner 1973年

    第36代 ドン・パティンキン 1974年

    第37代 ツヴィ・グリリカス 1975年

    第38代 宇沢弘文 1976年

    第39代 Lionel W. McKenzie 1977年

    第40代 コルナイ・ヤーノシュ 1978年

    第41代 フランクリン・M. フィッシャー 1979年

    第42代 Denis Sargan 1980年

    第43代 Marc Nerlove 1981年

    第44代 ジェームズ・マーリーズ 1982年

    第45代 Herbert Scarf 1983年

    第46代 アマルティア・セン 1984年

    第47代 ダニエル・マクファデン 1985年

    第48代 Michael Bruno 1986年

    第49代 デール・ジョルゲンソン 1987年

    第50代 アンソニー・アトキンソン 1988年

    第51代 Hugo F. Sonnenschein 1989年

    第52代 Jean-Michel Grandmont 1990年

    第53代 ピーター・ダイアモンド 1991年

    第54代 ジャン=ジャック・ラフォン 1992年

    第55代 Andreu Mas-Colell 1993年

    第56代 根岸隆 1994年

    第57代 クリストファー・シムズ 1995年

    第58代 Roger Guesnerie 1996年

    第59代 ロバート・ルーカス 1997年

    第60代 ジャン・ティロール 1998年

    第61代 ロバート・バトラー・ウィルソン 1999年

    第62代 エルハナン・ヘルプマン 2000年

    第63代 アビナッシュ・ディキシット 2001年

    第64代 Guy Laroque 2002年

    第65代 エリック・マスキン 2003年

    第66代 アリエル・ルービンシュタイン 2004年

    第67代 トーマス・サージェント 2005年

    第68代 Richard Blundell 2006年

    第69代 ラース・ハンセン 2007年

    第70代 Torsten Persson 2008年

    第71代 ロジャー・マイヤーソン 2009年

    第72代 John Hardman Moore 2010年

    第73代 ベント・ホルムストローム 2011年

    第74代 Jean Charles Rochet 2012年

    第75代 ジェームズ・ヘックマン 2013年

    第76代 Manuel Arellano 2014年

    第77代 Robert Porter 2015年

    第78代 Eddie Dekel 2016年

    ミクロ経済学

    マクロ経済学

    数理経済学

    厚生経済学

    計量経済学

    実験経済学

    経済史

    公共経済学

    環境経済学

    農業経済学

    国際経済学

    都市経済学

    交通経済学

    産業組織論

    法と経済学

    労働経済学

    人口経済学

    教育経済学

    医療経済学

    開発経済学

    金融経済学

    行動経済学

    神経経済学

    経済物理学

    計算機経済学(英語版)

    経済思想史

    主流派経済学

    異端派経済学

    古典派経済学

    マルクス経済学

    新古典派経済学(ケンブリッジ学派 - ローザンヌ学派 - オーストリア学派)

    ケインズ経済学(ポストケインズ派)

    新しい古典派

    ニュー・ケインジアン

    経済思想の学派(英語版)

    アダム・スミス

    デヴィッド・リカード

    カール・マルクス

    レオン・ワルラス

    アルフレッド・マーシャル

    フランシス・イシドロ・エッジワース

    ヴィルフレド・パレート

    ヨーゼフ・シュンペーター

    ジョン・メイナード・ケインズ

    ラグナル・フリッシュ

    ポール・サミュエルソン

    ジョン・ヒックス

    ハロルド・ホテリング

    ケネス・アロー

    ジェラール・ドブルー

    ジョン・フォン・ノイマン

    ジョン・ナッシュ

    フリードリヒ・ハイエク

    ミルトン・フリードマン

    ロバート・ルーカス

    ロバート・ソロー

    ゲーリー・ベッカー

    アマルティア・セン

    ハーバート・サイモン

    ダニエル・カーネマン

    経済学者の一覧

    日本の経済学者の一覧

    カテゴリカテゴリ

    索引(英語版)

    一覧カテゴリ(英語版)

    概要(英語版)

    重要書籍(英語版)

    ポータルポータル

    FAST

    ISNI

    VIAF

    WorldCat

    ノルウェー

    チリ

    スペイン

    フランス

    BnF data

    カタルーニャ

    ドイツ

    イタリア

    イスラエル

    ベルギー

    アメリカ

    スウェーデン

    ラトビア

    日本

    チェコ

    オーストラリア

    ギリシャ

      2

      韓国

      クロアチア

      オランダ

      ポーランド

      ポルトガル

      バチカン

      CiNii Books

      CiNii Research

      Google Scholar

      Mathematics Genealogy Project

      zbMATH

      ドイッチェ・ビオグラフィー

      Trove(オーストラリア)

        1

        SNAC

        IdRef

        オーストリアの経済学者

        イノベーション経済学者

        開発経済学者

        マクロ経済学者

        経済学史家

        経済思想史家

        アメリカ経済学会会長

        Econometric Societyのフェロー

        Econometric Societyの会長

        アメリカ芸術科学アカデミー会員

        ハーバード大学の教員

        ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボンの教員

        グラーツ大学の教員

        コロンビア大学の教員

        モラヴィア・ドイツ系オーストリア人

        ウィーン大学出身の人物

        20世紀の経済学者

        1883年生

        1950年没

2025/04/11 11:43更新

Joseph Alois Schumpeter


ヨーゼフ=シュンペーターと同じ誕生日2月8日生まれの人

林 香織_(タレント)(はやし かおり)
1969年2月8日生まれの有名人 兵庫出身

2月8日生まれwiki情報なし(2025/04/12 14:52時点)

ジョン=ウィリアムズ_(作曲家)(John Towner Williams)
1932年2月8日生まれの有名人 出身

ジョン・タウナー・ウィリアムズ(John Towner Williams、1932年2月8日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク出身の作曲家、編曲家、指揮者、ピアニスト。これまでにグラミー賞25回…

藤原 丈一郎(ふじわら じょういちろう)
【なにわ男子】
1996年2月8日生まれの有名人 大阪出身

藤原 丈一郎(ふじわら じょういちろう、1996年〈平成8年〉2月8日 - )は、日本のアイドル、俳優。男性アイドルグループ・なにわ男子のメンバー。愛称は、丈、じょう。 大阪府池田市 出身。STAR…

加茂 健(かも たけし)
1915年2月8日生まれの有名人 静岡出身

加茂 健(かも たけし、1915年2月8日 - 2004年3月26日)は、静岡県出身のサッカー選手。ポジションはインナーレフト。加茂正五は弟。 静岡県浜松師範学校付属小学校4年時にサッカーを始める。…

西田 善夫(にしだ よしお)
1936年2月8日生まれの有名人 東京出身

西田 善夫(にしだ よしお、1936年2月8日 - 2016年2月27日)は、日本のスポーツ評論家。NHKアナウンサー。 聖学院中学校・高等学校を経て1958年に早稲田大学法学部卒業後、NHKにアナ…


米倉 れいあ(よねくら れいあ)
2005年2月8日生まれの有名人 和歌山出身

米倉 れいあ(よねくら れいあ、2005年2月8日 - )は、日本の女優、アイドルで女性アイドルグループ・HUNNY BEEのメンバーとして活躍している。 和歌山県出身。ホリプロ所属。 2018年…

山本 サユリ(やまもと さゆり)
1986年2月8日生まれの有名人 三重出身

山本 サユリ(やまもと さゆり、1986年2月8日 - )は日本のグラビアアイドル。 所属事務所はアヴィラ。三重県松阪市出身。 趣味は詩を書くこと、帽子集め。 資格は幼稚園教諭2種免許、保育士免許を…

望月 理恵(もちづき りえ)
1972年2月8日生まれの有名人 兵庫出身

望月 理恵(もちづき りえ、1972年2月8日 - )は、日本のフリーアナウンサー、タレント、実業家、YouTuber。通称はモッチー。所属事務所はセント・フォース。2021年から事務所の取締役を務め…

高山 一実(たかやま かずみ)
【乃木坂46】
1994年2月8日生まれの有名人 千葉出身

高山 一実(たかやま かずみ、1994年〈平成6年〉2月8日 - )は、日本のタレント、司会者、小説家であり、女性アイドルグループ乃木坂46の元メンバーである。 千葉県南房総市出身。乃木坂46合同会…

佐々木 希(ささき のぞみ)
1988年2月8日生まれの有名人 秋田出身

佐々木 希(ささき のぞみ、1988年〈昭和63年〉2月8日 - )は、日本の女優、ファッションモデル。旧姓同じ。本名は渡部 希(わたべ のぞみ)。 秋田県秋田市出身。トップコート所属。夫はアンジャ…


笹木 かおり(ささき かおり)
1991年2月8日生まれの有名人 東京出身

笹木 かおり(ささき かおり、1991年2月8日 - )は、日本のタレント、女優。 太田プロダクションを経て、2020年7月11日よりホリプロに所属。これに合わせ、芸名を「笹木香利」から改めた。 …


TOPニュース

動画を見るだけで10万円稼げる!?

闇バイトに引っかからない方法

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去


ヨーゼフ=シュンペーターと近い名前の人

ジョセフィン=ハル(Josephine Hull)
1886年1月3日生まれの有名人 出身

ジョセフィン・ハル(Josephine Hull, 1877年1月3日 - 1957年3月12日)は、アメリカ合衆国の舞台女優、舞台演出家。 1905年に舞台で女優デビューし、以後50年にわたって舞…

ジョセフ=ギタウ(Joseph Gitau)
1988年1月3日生まれの有名人 出身

ジョセフ・ギタウ(Joseph Gitau、1988年1月3日 - )は、日本国内で活躍しているケニア出身の男子陸上競技選手(長距離種目)。身長167cm、体重49kg。血液型AB型。 ケニア中央州…

ブライアン=ジョセフソン(Brian David Josephson)
1940年1月4日生まれの有名人 出身

ブライアン・D・ジョセフソン(Brian David Josephson, 1940年1月4日 - )は、イギリスの物理学者。1973年のノーベル物理学賞を受賞。 2007年末現在、ケンブリッジ大学…

ジョセフ=アーランガー(Joseph Erlanger)
1874年1月5日生まれの有名人 出身

ジョセフ・アーランガー(Joseph Erlanger、1874年1月5日 - 1965年12月5日)は、アメリカ人の生理学者、医師。神経線維の様々なタイプを発見して、ハーバート・ガッサーとともに19…


渡辺 奨子(わたなべ しょうこ)
1989年4月26日生まれの有名人 千葉出身

渡辺 奨子(わたなべ しょうこ、1989年4月26日 - )は千葉県出身のグラビアアイドル、レースクイーン。 アヴィラに所属していた。 2009年エンドレススポーツ エンドレスレディ。 ミスマガジ…

城 恵理子(じょう えりこ)
【NMB48】
1998年11月27日生まれの有名人 兵庫出身

城 恵理子(じょう えりこ、1998年〈平成10年〉11月27日 - )は、日本の女優、タレント、元アイドルであり、女性アイドルグループ・NMB48、籠鳥恋雲(ろうちょうれんうん)の元メンバー。愛称は…

大島 涼花(おおしま りょうか)
【AKB48】
1998年10月21日生まれの有名人 神奈川出身

大島 涼花(おおしま りょうか、1998年〈平成10年〉10月21日 - )は、日本の女優であり、女性アイドルグループ・AKB48の元メンバー。神奈川県出身。所属事務所はMETEORA。 2011年…

廣川 陽子(ひろかわ ようこ)
1986年8月8日生まれの有名人 兵庫出身

廣川 陽子(ひろかわ ようこ、1986年8月8日 - )は、関西で活躍しているフリーアナウンサー。オフィスキイワード所属。兵庫県在住。 アナウンサーになる前は証券会社で営業職をしていた。 3つ下に弟…

里咲 りさ(さとさき りさ)
1992年9月25日生まれの有名人 群馬出身

里咲 りさ(さとさき りさ、1992年9月25日 - )は、日本のアイドル、シンガーソングライター、起業家。群馬県出身。株式会社フローエンタテイメント代表取締役。 幼少期より作詞をはじめ、小学6年生…


恒松 あゆみ(つねまつ あゆみ)
1981年9月26日生まれの有名人 兵庫出身

恒松 あゆみ(つねまつ あゆみ、1981年9月26日 - )は、日本の女性声優、ナレーター。兵庫県加古川市出身、81プロデュース所属。 学生時代は風紀委員長、生徒会副会長を務めていた。 当初は高校…

大地 葉(たいち よう)
8月6日生まれの有名人 埼玉出身

大地 葉(たいち よう、8月6日 - )は、日本の女性声優。ヴィムス所属。埼玉県出身。 小学5年生の頃にアニメが好きになり、中学1、2年生の時に声優がキャラクターソングを歌っていることを知ってから職…

石田涼(いしだ りょう)
【CoverGirls】
1992年1月14日生まれの有名人 東京出身

1月14日生まれwiki情報なし(2025/04/13 04:50時点)

石條遥梨(しじょう はるな)
【AeLL.】
1993年6月11日生まれの有名人 東京出身

AeLL.(エール)は、芸能プロダクション・シャイニングウィル所属の日本の女性アイドルグループ。 メンバーは篠崎 愛(しのざき あい)、リーダー西 恵利香(にし えりか)、石條 遥梨(しじょう はる…

ホセ=イグレシアス(Jose Antonio Iglesias Aleman)
1990年1月5日生まれの有名人 出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート ホセ・アントニオ・イグレシアス・アレマン(José Antonio Iglesias Alemán, 1990年1月5日 - )は、キ…


ルイス=フリー(Louis Joseph Freeh)
1950年1月6日生まれの有名人 出身

1月6日生まれwiki情報なし(2025/04/17 10:56時点)

ステファニー・ヨーステン(Stefanie Joosten, )
1988年8月5日生まれの有名人 出身

ステファニー・ヨーステン(Stefanie Joosten, 1988年8月5日 - )は、日本で活動するオランダ人モデル、女優。オランダリンブルフ州ヘールレン出身。フリー・ウエイブ所属。 オランダ…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
ヨーゼフ=シュンペーター
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

こっちのけんと 斎藤元彦 松島かのん 澤繁実 小野寺紘毅 桜井誠_(活動家) 安野貴博 ジャンボ松田 後藤輝樹 石丸幸人

グループ

HEADS WEST. Da-iCE Travis Japan さんみゅ~ まなみのりさ FLAME A.B.C-Z BABYMETAL 放課後プリンセス 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「ヨーゼフ=シュンペーター」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました