中村美律子の情報 (なかむらみつこ) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、出身地]
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中村美律子
中村 美律子(なかむら みつこ)さんの誕生日は1950年7月31日です。大阪出身の歌手のようです。
人物・エピソード、ディスコグラフィなどについてまとめました。父親、母親、家族、卒業、テレビ、ドラマ、現在に関する情報もありますね。去年の情報もありました。現在の年齢は73歳のようです。
中村 美律子(なかむらみつこ、本名:中村 美津子 (旧姓:小松)、1950年7月31日 - )は、大阪府東大阪市出身の演歌歌手・女優である。大阪では絶大な人気を誇る。河内音頭や浪曲などをベースに情感を込めて歌う。ヒット曲に「河内おとこ節」「島田のブンブン」「瞼の母」「人生桜」「だんじり」などがある。 両親は東大阪市の銭湯に住み込みで働き、父親はボイラー技士、母親は脱衣場で子供の世話や掃除をしていた。3つ上の姉、2つ下の妹、4つ下の弟、9つ下の妹を合わせた7人家族で、銭湯裏の6畳一間に暮していた。幼少期はラジオから流れる歌謡曲や浪曲を聞いては、風呂場で歌ったりして育つ。その歌声は夏祭りののど自慢大会で一等賞になるほどで、父親の自慢でもあった。一家はかなり貧しく、家計を支えるために小学2年生のときから姉と近鉄瓢箪山駅の前に机を置いて新聞販売、4年生からは新聞配達を200軒近く配っていた。このころ働きづめで、母親は栄養失調で何度か倒れ、中学2年生の時には半身不随になり話せなくなっていた。結局、母親は1カ月程寝込んだ末、43歳の若さで他界した。母親の死後、家族は離散することになる。姉は中学卒業後に住み込みで働きに出た。弟妹たちは京都に住む父方の叔母の家に預けられた。美律子は近所の河内音頭と歌好きな人物に預けられ、歌謡教室や高校に通わせてもらう。 興國商業高校在学中に初音家賢次の門に入り、研鑚する。河内音頭の音頭取り(歌い手)、初音家みつ子の名前で河内音頭の櫓に立ち、一晩で数か所のかけ持ちをする人気者、「天才音頭少女」として評判になる。プロダクションに所属するが、デビューまでの下積みとして台湾で1カ月の契約で興行にいき、帰国後メジャーデビューのはずが、3か月間帰国できずプロダクションに騙される。その後、自主製作盤を小松みつ子の芸名で1975年にテイチクより発売し、1979年に日本コロムビアより発売する。三十路を過ぎた頃、一念発起して浪曲師春野百合子に師事する。自主活動の歌謡ショーで作曲家富田梓仁と出会い、1986年に「恋の肥後つばき/夜の千日前」でワーナーパイオニアよりメジャーデビューする。1988年に東芝EMIに移籍、2枚目のシングル「女のみれん/待つだけの季節」を発売する。ヘルスセンター(JR西日本尼崎駅前「あま湯ハウス」)やスナックで地道なキャンペーン、宣伝活動を続けたが、なかなか世に出られなかった。 1988年に3枚目となる「河内おとこ節」を発売する。1991年頃から東大阪市や八尾市に始まって口コミでじわじわと拡がり、2社ある有線放送のリクエスト上位にランクインして世間の注目を集める。その後は破竹の勢いの如く活躍を見せる。 『演歌一夜』(テレビ大阪)や『乾杯!トークそんぐ』(MBSテレビ、2代目メイン司会)では長年司会を務め、軽快なトークと親しみやすいキャラクターでお茶の間の人気者となる。年末の大晦日恒例の『NHK紅白歌合戦』には、1992年の第43回に自身の代表曲である「河内おとこ節」で初出場。その後も紅白や各種演歌番組の常連歌手として活躍を続け、特に紅白は2010年の第61回まで合計15回出演を果たしている。1993年の第44回では同年シングルを発売した「島田のブンブン」を歌った。 2007年にゴールデンミュージックプロモーションへ移籍した。移籍第1作の「だんじり」を機に岸和田市観光大使となり、またマルホン工業から『CR中村美律子の人生祭りだ!だんじりだ!』が発売された。 人物・エピソード特にセリフ入りの演歌や歌謡浪曲における表現力は秀逸であり、女流浪曲師春野百合子(2代目)の元で修行した歌謡浪曲「瞼の母」では19分にわたって、語り、忠太郎、母、娘、そして歌の一人5役をこなしている。 1995年には初の座長公演『美律子がつづる昭和の名曲華麗!歌の華絵巻』で大阪新歌舞伎座にて9万人を動員し、1998年の座長公演『雲の上の青い空』では新宿コマ劇場にて10万人を動員、それぞれの劇場の動員記録を作る。『雲の上の青い空』はジェームス三木脚本による中村の半生を描いた物語で、NHK『ドラマ新銀河』でも放送される。 1993年に発表した『壺坂情話』がきっかけとなり、慈善活動として視覚障害者の方々の役に立てればと、翌年より盲導犬育成支援活動の手伝いを始める。「みつまめ会」は中村が福祉活動をする上での名称で、チャリティーコンサートの売上金や募金などを盲導犬育成金として寄付し、その寄付金で育てられた盲導犬をミツコ号と呼ぶ。現在、計36頭誕生。2005年には活動が認められ、「第8回まちかどのフィランソロピスト賞」を受賞している。 TBS系列局で放送された毎日放送製作の『乾杯!トークそんぐ』1989年7月6日から2000年12月21日まで全554回、12年5か月間にわたって放送された歌謡番組で、司会進行を当時同局アナウンサーの野村啓司と、2代目ママとして長年中村が務めた。中村はこの番組について「NHK紅白歌合戦に初めて出た直後に声をかけてもらい嬉しかった。最初は番組で何を話したか覚えていないほど緊張した」と語っている。 2001年8月13日にデビュー15周年コンサートを、演歌では初めて大阪ドームで行い、約4万人を動員した。それまで演歌歌手の東京ドーム公演は美空ひばり(1988年)、五木ひろし(1989年)、北島三郎(1991年)らが行っていたが、演歌不振の中で絶望視されていたドーム公演の夢を実現した。 「島田のブンブン」はコウメ太夫が日本テレビの『エンタの神様』などで自虐ネタに使用した。 興國商業高校の先輩である吉本新喜劇の島木譲二に「こんなことはなかなか言えない(できない)中村美律子(え?あんた中村美律子?)」と聞かれるセリフネタがある。 MOTER MANの大阪環状線(外回り全線(天王寺-西九条-大阪-天王寺)および大阪-京橋-天王寺)にゲストとして、中村美律子が乗客役として登場する。 2005年発売のシングル「風まかせ」は、瀬戸内寂聴による初の作詞で話題となる。 2021年に3月25日が「みつこの日」として日本記念日協会から認定され記念日登録された。 ディスコグラフィレーベル
2〜43:東芝EMI(1988年〜2006年) 44以降:キングレコード(2007年〜) 全曲集…1990年〜1992年、1995年〜2022年発売。 ベストセレクション…2010年〜2023年発売。 2024/05/18 06:10更新
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nakamura mitsuko
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