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井上靖
井上 靖(いのうえ やすし)さんの誕生日は1907年5月6日です。北海道出身の作家のようです。
作風、エピソードなどについてまとめました。現在、家族、卒業、結婚、退社、ドラマ、映画に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
井上 靖(いのうえ やすし、1907年(明治40年)5月6日 - 1991年(平成3年)1月29日)は、日本の小説家・詩人。主な代表作は「闘牛」「氷壁」(現代小説)、「風林火山」(時代小説)、「天平の甍」「おろしや国酔夢譚」(歴史小説)、「敦煌」「楼蘭」(西域小説)、「あすなろ物語」「しろばんば」(自伝的小説)、「わが母の記」(私小説)など。 1950年(昭和25年)「闘牛」で芥川賞を受賞、私小説・心境小説が主流だった敗戦後の日本文学に物語性を回復させ、昭和文学の方向性を大きく変えた戦後期を代表する作家のひとり。劣等感から来る孤独と人間の無常を、時間と空間を通した舞台と詩情あふれる文体・表現によって多彩な物語のなかに描き、高い評価を得た。10代から83歳の絶筆まで生涯にわたって詩を書きつづけた生粋の詩人でもある。 1950年代は、いわゆる中間小説とよばれた恋愛・社会小説を中心に書いたが、徐々にその作風を広げ、1960年代以降は、中央アジアを舞台とした西域ものと呼ばれる歴史小説、幼少期以降の自己の境遇を基にした自伝的小説、敗戦後の日本高度成長と科学偏重の現代を憂う風刺小説、老いと死生観を主題とした心理小説・私小説など、幅広い作品を手掛けた。 まだ海外旅行が一般的でない昭和期に、欧米の大都市からソ連、中央アジア・中東の秘境まで数々の地を何度も旅しており、それを基にした紀行文や各地の美術評論なども多い。 1980年(昭和55年)には日中文化交流会会長、1981年(昭和56年)には日本ペンクラブ会長に就任し、以後、文壇・文化人の代表としても国内外で積極的な文化活動を行った。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は正三位・勲一等。 1907年(明治40年)5月6日 - 北海道上川郡旭川町(現:旭川市)に軍医・井上隼雄と八重の長男として生まれる。井上家は静岡県伊豆湯ヶ島(現在の伊豆市)で代々続く医家である。父・隼雄は現在の伊豆市門野原の旧家出身であり井上家の婿である。父は転勤が多かったため、幼少期は家族と離れ、戸籍上の祖母と伊豆湯ケ島で暮らした。 1908年(明治41年) - 父が韓国に従軍したので母の郷里・静岡県伊豆湯ヶ島(現在の伊豆市湯ケ島)へ戻る。 1912年(大正元年) - 両親と離れ湯ヶ島で戸籍上の祖母かのに育てられる。 1914年(大正3年) - 湯ヶ島尋常小学校(後の伊豆市立湯ヶ島小学校。現在は閉校)に入学。 1920年(大正9年)2月 - 浜松尋常高等小学校(現:浜松市立元城小学校)に編入学。同年4月、静岡県浜松師範学校附属小学校高等科(現:静岡大学教育学部附属浜松中学校)に入学。なお入学前に浜松中学を受験するも落第。 1921年(大正10年) - 静岡県立浜松中学校(現:静岡県立浜松北高等学校)に首席で入学。 1922年(大正11年) - 静岡県立沼津中学校(現:静岡県立沼津東高等学校)に転入。 1927年(昭和2年) - 石川県金沢市の第四高等学校理科(現:金沢大学理学部)に入学。柔道部に入る。 1929年(昭和4年) - 柔道部を退部、文学活動を本格化。 1930年(昭和5年) - 第四高等学校理科を卒業。井上泰のペンネームで北陸四県の詩人が拠った誌雑誌『日本海詩人』に投稿、詩作活動に入る。九州帝国大学法文学部(現:九州大学文学部)英文科へ入学する(福岡市中央区唐人町の素人下宿に棲む)。 1932年(昭和7年) - 九州帝大中退。京都帝国大学文学部哲学科へ入学。 1935年(昭和10年) - 京都帝大教授・足立文太郎の娘ふみと結婚。 1936年(昭和11年) - 京都帝大卒業。『サンデー毎日』の懸賞小説で入選(千葉亀雄賞)し、それが縁で毎日新聞大阪本社へ入社。学芸部に配属される。日中戦争のため召集を受け出征するが、翌年には病気のため除隊され、学芸部へ復帰する。なお部下に山崎豊子がいた。 戦後は学芸部副部長を務め、囲碁の本因坊戦や将棋の名人戦の運営にもかかわる。 1950年(昭和25年) - 『闘牛』で第22回芥川賞を受賞。 1951年(昭和26年) - 毎日新聞社を退社。以後創作の執筆と取材講演のための旅行が続く。 1955年(昭和30年) - 講演のため旭川を訪れる。短編「姨捨」発表。 1960年(昭和35年) - ローマ五輪の取材をする。 1964年(昭和39年) - 日本芸術院会員となる。 1976年(昭和51年) - 文化勲章受章。 1982年(昭和57年) - 以降、世界平和アピール七人委員会の委員を務める。 1988年(昭和63年) - 正月、宮中歌会始の召人となる。ならシルクロード博覧会総合プロデューサーを務める。 1991年(平成3年)1月29日 - 急性肺炎のため東京都中央区の国立がんセンターで死去。享年83。戒名は峯雲院文華法徳日靖居士。墓所は静岡県伊豆市、葬儀委員長は司馬遼太郎。 2007年(平成19年) - 生誕100周年を記念して『風林火山』が大河ドラマとして放送された。 作風小説は知識人の孤独な魂を叙情豊かに描いた現代を舞台とするもの(『猟銃』、『闘牛』、『氷壁』他)、自伝的色彩の強いもの(後述。『あすなろ物語』、『しろばんば』他)に加え、歴史に取材したものに大別される。歴史小説は、日本で特に戦国時代(『風林火山』、『真田軍記』、『淀どの日記』他)、中国ではとりわけ西域を題材にした(『敦煌』、『楼蘭』、『天平の甍』他)ものを多く描いた。巧みな構成と詩情豊かな作風は今日でも広く愛され、映画・ドラマ・舞台化の動きも絶えない。 『しろばんば』、『夏草冬濤』、『北の海』は、自身がモデルの主人公・伊上洪作が幼少期から青年に至るまで自伝的な作品である(井上靖自伝的小説三部作)。『しろばんば』は静岡県伊豆湯ヶ島(現:伊豆市湯ヶ島)で過ごした幼少時代の、『夏草冬涛』は旧制沼津中学校の生徒だった頃の、『北の海』は沼津中学卒業後の沼津での浪人生活の1年近くの日々を描いたもので、その日常、あるいは旧制第四高等学校の練習に誘われ、寝技主体の柔道、いわゆる高専柔道に明け暮れる洪作が生き生きと描かれている。井上靖の周囲に実在した人物がモデルとして多く登場し、特に『しろばんば』中に登場する、曽祖父の妾で洪作とは血の繋がらない「おぬいばあさん」(実在の名は「おかの」)との生活は、井上靖の人格形成を語る上で欠かせないものである。 その他、老いの境地に入った実母・八重について書いた作者晩年の短編三部作として『花の下』、『月光』、『雪の面』がある(講談社文庫より『わが母の記 -花の下・月の光・雪の面-』の題名で発行され、モントリオール世界映画祭審査員特別グランプリ受賞の映画『わが母の記』にもなった)。 エピソード
『私の自己形成史』の中の<自然との奔放な生活>には「この少年時代を過ごした原籍地の伊豆が私の本当の意味での郷里であり、ここで私という人間の根底になるものはすべて作られたと考えていいようである」と記している。 天寿を全うし、最晩年のがんを除けば病気らしい病気もしなかったといわれるが、文壇の酒豪番付の横綱常連で、60・70代になっても酒量が増え続けるほどだったという。ノーベル賞を逃した夜は、無礼講で「ノーメル賞だ」と知人らにふるまった。 晩年には親鸞を、また、大阪毎日新聞の記者であった自分をモデルにした小説に書こうと考えていたが、実現することなく亡くなった。なおアメリカの日系移民をテーマにした大作『わだつみ』の完結にも意欲を見せていたが(1976年段階で半分まで書いたとしている)未完作である。 日本画家平山郁夫とは日中文化交流で終生親しく、平山が関連役職を継いでいる。 神社仏閣、日本史にも造詣が深く、複数の出版社で監修・編集委員を引き受けている。 著作の一つ『蒼き狼』の執筆の動機として、著者が旧制中学生の頃に「成吉思汗は源義経也、非ず」という論争が『中央史壇』で行われており、著者が第四高等学校へ進学した時にその友人がこの論争について言及していた事をきっかけとして、帝国大学へ進学してから『中央史壇』におけるくだんの記事を読み関心を持った(新潮文庫版『蒼き狼』の著者あとがきより)。 壺井栄、中野重治、源氏鶏太らとともに長野県軽井沢町の上ノ原地区に別荘を構え、「上ノ原文士村」と呼ばれた。 2024/05/18 23:02更新
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inoue yasushi
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