光格天皇のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)
光格天皇(こうかくてんのう、1771年9月23日〈明和8年8月15日〉 - 1840年12月11日〈天保11年11月18日〉)は、日本の第119代天皇(在位: 1780年1月1日〈安永8年11月25日〉 - 1817年5月7日〈文化14年3月22日〉)。御称号は祐宮(さちのみや)。諱は師仁(もろひと)、のち兼仁(ともひと)。
父は閑院宮典仁親王(東山天皇の皇孫)。母は大江磐代(鳥取藩倉吉出身の医師岩室宗賢の娘)。東山天皇は曽祖父、桃園天皇(先代、後桃園天皇の父)と後桜町天皇(先代、後桃園天皇の伯母)は再従姉弟にあたる。践祚前の安永8年11月8日(1779年12月15日)に危篤の後桃園天皇の養子となり、儲君に治定される(実際には天皇は前月中既に崩御しており、空位を避けるために公表されていなかった)。光格天皇の兄弟には閑院宮美仁親王や真仁法親王がいる。
一世一元の詔発布(一世一元の制導入)以前に譲位した最後の天皇であり、以降、平成31年(2019年)4月30日に第125代天皇明仁が譲位するまでの202年間、天皇が譲位する例はなかった。
明和8年8月15日(1771年9月23日)、閑院宮典仁親王(東山天皇の皇孫)の第六王子として生まれる。誕生の翌年、聖護院宮忠誉入道親王の附弟となり、聖護院に入寺。将来出家して聖護院門跡を継ぐ予定であった。
安永8年10月29日(1779年12月6日)、後桃園天皇が崩御したときに皇女しかおらず、皇子がいなかったため、世襲親王家から新帝を迎えることになった。後継候補者としての伏見宮邦頼親王の第一王子・嘉禰宮(5歳、のちの伏見宮貞敬親王)、閑院宮典仁親王の第一王子・美仁親王(23歳、のち閑院宮当主)、第六王子・祐宮(9歳、光格天皇)の3人があげられた。先帝の唯一の遺児女一宮(欣子内親王、1歳)を新帝の妃にするという構想から既婚の美仁親王が候補から消え、残り2人のうち近衛内前と後桜町上皇は嘉禰宮を、九条尚実は祐宮を推薦した。会議の結果、嘉禰宮が門跡の附弟になっておらず、年下で女一宮とも年が近いものの、世襲親王家の中で創設が最近で、後桃園天皇の再従叔父にあたる祐宮が選ばれ、急遽養子として迎え入れられた。
安永8年11月25日(1780年1月1日)、践祚。直前に儲君に治定されていたものの、立太子はなされなかった。
天明2年(1782年)、天明の大火により京都御所が焼失したのち、御所が再建されるまでの3年間、聖護院を仮御所とした。
天明7年(1787年)6月、天明の大飢饉の際に御所千度参りが行われると、後桜町上皇はりんご3万個を民衆に配布。光格天皇は事態を憂慮し、朝廷が幕府の方針に口出しをしないという禁中並公家諸法度の定めを破り、幕府に民衆救済を申し入れた。そのため、天皇の叔父でもある関白・鷹司輔平も厳罰を覚悟して、同様の申し入れを行った。これに対して、幕府は米1,500俵を京都市民へ放出する施策を決定、法度違反に関しては事態の深刻さから、天皇や関白が行動を起こしたのももっともな事であるとして不問とした。
ゴローニン事件の際には交渉の経過を報告させるなど、朝廷権威の復権に努める。また、朝幕間の特筆すべき事件として、尊号一件が挙げられる。天皇になったことのない父・典仁親王に、一般的には天皇になったことのある場合におくられる太上天皇号をおくろうとした天皇の意向は、幕府の反対によって断念せざるを得なかったが、事件の影響は尾を引き、やがて尊王思想を助長する結果となった。ただし、尊号の件以外は江戸幕府は天皇の意向を前向きに受け入れる姿勢を取っており、天皇自身も譲位の直前に将軍・徳川家斉に対して御衣とともに感謝の書状を送る など、在位中は大きな対立は発生せず、朝幕関係はむしろ安定していたとする指摘もある。
寛政6年3月7日(1794年4月6日)、欣子内親王を中宮に冊立した。
寛政11年(1799年)、聖護院宮盈仁法親王が役行者御遠忌(没後)1100年である旨の上表を行った。同年、正月25日に権大納言烏丸光祖を勅使として聖護院に遣わし、神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡号を贈った。
寛政12年1月22日(1800年2月15日)、欣子内親王との間に生まれたばかりの温仁親王を、早くも同年3月7日(3月31日)に儲君に治定するも、翌月4月4日(4月27日)に薨去。これを受け、恵仁親王(のちの仁孝天皇)を文化4年7月18日(1807年8月21日)に儲君に治定し、文化6年3月24日(1809年5月8日)に皇太子とした。
文化14年3月22日(1817年5月7日)、恵仁親王に譲位。翌々日の3月24日(5月9日)に太上天皇となる。なお、202年後の平成31年(2019年)4月30日に退位した第125代天皇明仁は太上天皇ではなく天皇の退位等に関する皇室典範特例法に基づく「上皇」の地位でこれが正式な称号であるため、現在でも光格天皇が最後の太上天皇である。
天保11年11月18日(1840年12月11日)、崩御。宝算70。
人物
光格天皇は博学多才で、学問に熱心であり、作詩や音楽をも嗜み、父・典仁親王と同じく歌道の達人でもあった。
寛政9年11月7日(1797年12月24日)には善光寺の等順より、三帰戒及び十念を授け奉られている。
系譜
令和元年(2019年)5月1日現在、先帝とは2親等以上離れた続柄かつ傍系の宮家より践祚した最後の天皇でもある。次代・仁孝天皇以後は皇太子(天皇の直系子孫)によって皇位が継承され、この皇統が現在の皇室に至っている。光格天皇から見て徳仁は仍孫にあたる。