小山邦太郎の情報 (こやまくにたろう) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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小山邦太郎と関係のある人
松村謙三: 改進党・日本民主党時代は粟山博・小山邦太郎・鶴見祐輔・中村三之丞・川崎末五郎・松浦周太郎ら旧民政党左派の政治家を結集し松村派を結成、保守合同後は三木武夫が率いる旧国民協同党系の三木派と合同し三木・松村派を結成した。 小山松寿: 顕彰碑文は小山邦太郎による。 鶴見祐輔: 与党政友会と野党民政党の議席数が拮抗する中で、同年4月に新自由主義を標榜して小山邦太郎らと6人で新政党明政会を結成し、キャスティング・ボートを握った。 中村三之丞: 民政党の親軍派政治家として知られた戦前とは対照的に戦後はリベラルな立場をとり、公職追放解除後は旧民政党系左派の松村謙三・粟山博・小山邦太郎・鶴見祐輔・川崎末五郎・松浦周太郎らと行動をともにした。 粟山博: 追放の解除後は、旧民政党左派の松村謙三・鶴見祐輔・小山邦太郎・中村三之丞・松浦周太郎・川崎末五郎らと行動を共にした。 小山敬三: 自由民主党・三木派の大番頭といわれた三木武夫内閣の官房長官・井出一太郎の妻は、小山邦太郎の女子である。 小山邦武: 父は衆議院議員、初代小諸市長、参議院議員の小山邦太郎。 井出一太郎: 戦前の立憲民政党所属代議士で、戦後は自由民主党所属参議院議員となった小山邦太郎は義父。 松浦周太郎: 保守合同後は松村・三木派に所属し、鶴見祐輔・松村謙三・粟山博・小山邦太郎・中村三之丞・川崎末五郎らとともに旧民政党系左派の長老として重きをなす。 小山敬三: 衆議院議員・初代小諸市長・参議院議員等を務めた小山邦太郎は兄。 |
小山邦太郎
小山 邦太郎(こやま くにたろう)さんの誕生日は1889年11月16日です。長野出身の政治家のようです。
生涯、政策・主張などについてまとめました。卒業、現在、結婚、事件、引退に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
小山 邦太郎(こやま くにたろう、1889年〈明治22年〉 11月16日 - 1981年〈昭和56年〉 3月24日)は、日本の政治家、実業家。戦前の長野県会議員から衆議院議員(6期)。戦後、参議院議員(3期)。参議院永年在職議員。初代小諸市長。位階は正三位。勲等は勲一等。 長野県北佐久郡小諸町生まれ。小諸高等小学校を経て、長野市立甲種商業学校卒業。小諸高等小学校在学時には、自由主義教育者の伊藤長七の影響を受けた。 戦前は明正会・立憲民政党に所属したが戦後公職追放され、追放解除後は旧民政党左派の松村謙三・粟山博・鶴見祐輔・中村三之丞・松浦周太郎・川崎末五郎らと行動をともにした。政界復帰後は自由民主党松村・三木派に所属した。 生涯1889年(明治22年) - 11月16日、長野県北佐久郡小諸町(現在の小諸市)に実業家の小山久左衛門と梅路(うめじ)夫妻の長男として生まれる。父・久左衛門の幼名であった邦太郎と命名される。実家は江戸時代から醸造業や鰹節、畳表を取り扱い様々な事業を行う豪商であるとともに御牧ヶ原に広大な土地を所有し開墾事業を行う豪農でもあった。また、父・久左衛門は商売のみならず、日本赤十字社への献金や小諸義塾への支援、小諸町長を務めるなど公共事業に注力した篤志家でもあった。 1896年(明治29年) - 小諸町立小諸尋常小学校に入学。 1900年(明治33年) - 同校を卒業。小諸町立小諸高等小学校に入学。 1903年(明治36年) - 同校を卒業。長野市立甲種商業学校(現長野県長野商業高等学校)に入学。 1906年(明治39年) - 同校を卒業。 1908年(明治41年) - 官立神戸高等商業学校(現在の神戸大学)に入学。 その後、当時流行していた結核に感染。同校を退学し東京帝国大学医科大学付属医院(現在の東京大学医学部附属病院)に入院。院長の佐藤三吉による当時最先端の手術が行われ、肋骨を失いながらも奇跡的に回復する。 1909年(明治42年) - 東京帝国大学医科大学付属医院を退院。12月に一年志願兵として軍務に服する事を決め、新潟の歩兵第58連隊に歩兵二等兵で入営。 1910年(明治43年) - 歩兵曹長に昇任し、予備見習士官に昇進した直後に結核を再発。10月に高田病院に入院し12月30日に除隊。 1911年(明治44年) - 神奈川県高座郡茅ヶ崎町(現在の茅ヶ崎市)の南湖院に転院。 1912年(大正元年) - 結核から回復。南湖院から退院し小諸に帰郷する。 1914年(大正03年) - 家業の醸造業に従事していたが、父・久左衛門より小諸町六供に建設した50人繰りの製糸工場純水館製糸養成所の経営を任される。この工場が後に純水館の主力工場である丸純工場となる。また、3月に父・久左衛門の命で原料繭の輸入のため中華民国へ渡航。 1915年(大正04年) - 中華民国から帰国。 1917年(大正06年) - 佐久蚕種株式会社取締役に就任。 1918年(大正07年) - 7月11日、第一純水館社長並びに小諸繭糸株式会社取締役に就任。さらに11月26日、上高井郡小布施村(現在の同郡小布施町)の市村善助七女「玉枝」と結婚。市村家は高井鴻山を輩出した小布施町の豪商であった。 1923年(大正12年) - 9月27日、長野県会議員に初当選。政界に進出する。 1924年(大正13年) - 4月に株式会社東信社社長に就任。8月、北佐久郡軽井沢町で加藤高明首相(当時)と面会。[[衆議院議員の出馬を勧められる。 1926年(大正15年) - 7月18日、警廃事件対処のため長野市に向かうも暴動が激化していたため新潟県高田市(現在の上越市)に避難。 1927年(昭和02年) - 4月に長野県繭取引市場組合長に就任。9月27日、長野県会議員に再選。 1928年(昭和03年) - 第16回衆議院議員総選挙長野2区当選。鶴見祐輔らとともに明正会結成に参画した。 1938年(昭和13年) - 小諸町長就任 1940年(昭和15年) - 米内内閣の海軍参与官に就任。叙高等官二等。敘正五位。 1941年(昭和16年) - 日本蚕糸統制株式会社設立委員。勲三等瑞宝章受章 1945年(昭和20年) - 鈴木貫太郎内閣の陸軍政務次官に就任。叙高等官一等。 1953年(昭和28年) - 第3回参議院議員通常選挙長野県選挙区に改進党から出馬するが、木内四郎に2488票差で敗れ次点。 1954年(昭和29年) - 初代小諸市長就任 1956年(昭和31年) - 第4回参議院議員通常選挙に自由民主党から出馬し初当選。連続3期当選。 1961年(昭和36年) - 参議院予算委員長就任 1973年(昭和48年) - 11月3日、勲一等旭日大綬章を受章。 1974年(昭和49年) - 7月7日、政界を引退。 1976年(昭和51年) - 1月6日、小諸市名誉市民に選定。小諸市名誉市民章を授与される。 1981年(昭和56年) - 3月24日午前6時25分、悪性リンパ腫のため 東京都板橋区の日本大学医学部附属板橋病院にて死去。享年91。同日付で正五位から正三位に追叙(進階)。戒名は勲徳院禅機邦道大樹大居士。葬儀は同年4月4日に執り行われた。自民党葬や小諸市公葬等の申し出があったが遺族の希望により家葬となった。葬儀には鈴木善幸首相(当時)や三木武夫元首相、関係自治体の首長をはじめ政財界人が参列したほか、同日に勅使より正三位の伝達式と祭粢料の下賜も合わせて行われた。その後、長野県小諸市に所在する小山家の菩提寺、海応院に埋葬される。 1983年(昭和58年) - 4月24日、長野県小諸市の小諸城懐古園で小山邦太郎の顕彰像の除幕式が行われた。 政策・主張海軍軍縮問題対策 対支問題の根本的解決 経済的並に科学的国防計画の樹立 財政難局の打開策 産業政策の確立 教育の実際化と手工芸の発展策樹立 2024/05/22 20:35更新
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koyama kunitarou
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