小松俊広の情報(こまつとしひろ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
小松 俊広さんについて調べます
■名前・氏名 |
小松俊広と関係のある人
小松俊広の情報まとめ
小松 俊広(こまつ としひろ)さんの誕生日は1月13日です。高知出身の野球選手のようです。
引退に関する情報もありますね。去年の情報もありました。2023年に亡くなられているようです。
小松俊広のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 小松 俊広(こまつ としひろ、1940年〈昭和15年〉1月13日 - 2023年〈令和5年〉10月8日)は、高知県高知市出身のプロ野球選手(投手)。プロ入りまでの名は小松 敏宏(読み同じ)。 高知商業高等学校では、エースとして1957年の春の選抜に出場。小倉高、八幡商を破り準決勝に進出する。準決勝でも倉敷工の渡辺博文らに3-1で投げ勝つ。しかし決勝では王貞治投手を擁する早稲田実業と対戦し3-5で敗退、準優勝にとどまった。同年夏の南四国大会でも決勝に進出するが高知高に0-1で9回サヨナラ負け、甲子園出場を逸する。この時のチームメイトでは捕手の坂本宏一(大洋)、遊撃手の尾崎靖夫、外野手の倉内顕(西鉄)がプロ入りしている。王、清沢忠彦とともに左腕投手の三羽烏として注目される。 1958年に巨人入団。1年目から一軍で起用され、4月16日に広島カープを相手に初先発。同年は14試合に登板し、リリーフ、抑え投手として実績をあげる。同年の最終戦で2度目の先発、広島の橋本敬包と投げ合い5回を無失点に抑えるが、打線の援護がなく勝ち星はつかなかった。しかし翌1959年7月2日には大洋ホエールズを相手に先発、鈴木隆との左腕対決となるが、5回2/3を2失点に抑え初勝利を挙げる。将来を期待されたが、その後は故障もあって伸び悩み、1962年限りで引退した。 引退後は巨人のチーム付スコアラー(1963年 - 1964年, 1984年 - 1985年)、先乗りスコアラー(1965年 - 1983年)に回り、公式戦での対戦相手のデータを調査し、巨人首脳陣、王貞治や長嶋茂雄ら主力選手に提供する役目を担うなどし、巨人軍V9を支えた、いわば先乗りスコアラーの元祖とも言える人物でもあった。 2023年10月8日に川崎市内の病院で死去した。83歳没。 初登板:1958年4月6日、対国鉄スワローズ3回戦(後楽園球場)、7回表に3番手で救援登板・完了、3回無失点 初先発登板:1958年4月16日、対広島カープ2回戦(広島市民球場)、2回2/3を1失点(自責点0)で勝敗つかず 初勝利・初先発勝利:1959年7月2日、対大洋ホエールズ11回戦(後楽園球場)、5回2/3を2失点 45(1958年 - 1961年途中) 47(1961年途中 - 1962年) ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、230ページ ^ 偵察メンバーとしての出場 ^ “【巨人】元投手、スコアラーの小松敏宏さんが死去 王貞治と甲子園決勝で対戦”. スポーツ報知 (2023年10月11日). 2023年10月11日閲覧。 ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年 ^ 「プロ野球選手を丸裸に…仕事人「スコアラー」の知られざる伝説」『週刊現代』、講談社、2020年3月18日、1-5頁。 ^ "巨人・王の"眼"だったスコアラー・小松敏宏さん死去…王選手の868本塁打を影で支える". スポーツ報知. 報知新聞社. 11 October 2023. 2023年10月16日閲覧。 高知県出身の人物一覧 読売ジャイアンツの選手一覧 個人年度別成績 小松俊広 - NPB.jp 日本野球機構 日本の野球選手 高知市立高知商業高等学校出身の野球選手 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 高知県出身のスポーツ選手 1940年生 2023年没 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/11 18:45更新
|
komatsu toshihiro
TOPニュース
小松俊広と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「小松俊広」を素材として二次利用しています。