小林晋哉の情報(こばやししんや) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
小林 晋哉さんについて調べます
■名前・氏名 |
小林晋哉と関係のある人
石嶺和彦: 一方で当時の阪急は中堅手・福本、右翼手・簑田のレギュラーが固定され、左翼手を山森雅文と吉沢俊幸、小林晋哉の三人が争っており、選手層が厚かった。 長村裕之: 初安打:1984年4月14日、対西武ライオンズ2回戦(西武ライオンズ球場) 9回表に小林晋哉の代打として出場、江夏豊から二塁打 有賀佳弘: 初出場:1982年7月6日、対近鉄バファローズ後期1回戦(阪急西宮球場)、9回表に小林晋哉に代わり左翼手として出場 石嶺和彦: 初安打・初打点:1981年4月23日、対近鉄バファローズ前期4回戦(西京極野球場)、6回裏に小林晋哉の代打で出場、橘健治から適時打 ロベルト=ペタジーニ: オリックス監督の仰木彬はペタジーニに興味を示し、新井宏昌・小林晋哉の両コーチも獲得に賛意を示したが、同球団フロントが獲得を見送ったため、実現しなかった。 小寺昌治: 初本塁打:1981年5月29日、対近鉄バファローズ前期8回戦(日生球場)、9回表に小林晋哉の代打で出場、鈴木啓示からソロ 長村裕之: 初打点:1984年8月30日、対日本ハムファイターズ23回戦(阪急西宮球場)、8回裏に小林晋哉の代打として出場、間柴茂有から決勝適時打 |
小林晋哉の情報まとめ
小林 晋哉(こばやし しんや)さんの誕生日は1952年10月28日です。兵庫出身の野球選手のようです。
引退、結婚に関する情報もありますね。小林晋哉の現在の年齢は72歳のようです。
小林晋哉のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 小林 晋哉(こばやし しんや、1952年10月28日 - )は、兵庫県宍粟郡山崎町出身の元プロ野球選手(外野手)。 育英高等学校から京都産業大学へ進学。1年春の京滋大学リーグでいきなり首位打者になる。京滋大学リーグで通算58試合出場、206打数79安打、打率.383、6本塁打、55打点。首位打者2回、最優秀選手2回受賞。1973年の春季リーグで優勝、代表決定戦を勝ち抜き、入れ替え戦で関学大を破りチームは旧関西六大学リーグに初昇格する。しかし1974年春季リーグ後の入れ替え戦で立命大に敗れ、チームは降格。関西六大学リーグでは2季で通算21試合出場、68打数24安打、打率.353、5本塁打、11打点、ベストナイン2回受賞。京滋、関西の2リーグで大学通算103安打を記録した。 1975年に神戸製鋼に入社。1976年には三菱重工神戸の補強選手として都市対抗に出場、チームの準決勝進出に貢献する。同年の第24回アマチュア野球世界選手権日本代表となり、社会人ベストナインにも選出された。翌1977年は神戸製鋼の四番打者として都市対抗に連続出場。決勝で熊谷組と対戦、試合を決める先制本塁打を放ちチームに初優勝をもたらす。 1978年のドラフト4位で阪急ブレーブスに入団。1980年ウエスタン・リーグで首位打者になり、ウイリアムスの退団もあって、1981年には左翼手のレギュラーとなる。同年は生涯唯一の規定打席(22位、打率.282)にも達する。1984年までは定位置を手中にしていたが、熊野輝光の台頭により出場機会が減少。その後は控え外野手、代打、守備固めとして起用された。1987年シーズン限りで現役引退。 現役引退後も、1988年から2010年まで、阪急および後継球団(オリックス・ブルーウェーブ→オリックス・バファローズ)に在籍。阪急時代には球団職員、ブルーウェーブ時代には打撃コーチ・守備走塁コーチ・スカウト・編成部副部長・スカウトグループ部長、バファローズ時代には球団本部長補佐(球団本部育成部長)や一軍チーフコーチ(2010年)を務めた。 2011年に、韓国プロ野球・SKワイバーンズの春季キャンプへ臨時インストラクターとして招聘。そのままSKの打撃コーチに抜擢されたが、シーズン中の8月18日に監督の金星根が解任されたことを機に、コーチを辞任した。 2012年には、韓国・高陽ワンダーズの春季キャンプで臨時コーチを務めた後に、3月10日から横浜DeNAベイスターズのスカウトへ就任。2015年と2016年には、韓国のハンファ・イーグルスで、春季キャンプの臨時インストラクターとして外野守備を指導している。 その後、横浜ベイスターズでスカウトをしていたが、2019年のレギュラーシーズン終了をもって、ベイスターズとのスカウト契約終了。 妻は、日本スケート連盟のフィギュアスケート強化部長で、バンクーバーオリンピックのフィギュアスケート日本代表コーチだった小林芳子。晋哉とは、知人の紹介で知り合った後に、同じ兵庫県出身という縁で1981年に結婚した。晋哉によれば、「交際当時の自分は(阪急の)二軍暮らしで、(高校時代までフィギュアスケーターだった)芳子もスケート連盟の事務職に就いていたので、(現役プロ野球選手とフィギュアスケーター経験者の)交際と言っても地味なものだった」という。 初出場:1978年4月4日、対近鉄バファローズ前期1回戦(阪急西宮球場)、9回裏に河村健一郎の代走として出場 初先発出場:1978年4月9日、対日本ハムファイターズ3回戦(後楽園球場)、6番・右翼手として先発出場 初安打:1978年5月25日、 対日本ハムファイターズ前期9回戦(阪急西宮球場)、8回裏にボビー・マルカーノの代打として出場、岡部憲章から 初盗塁:1978年6月18日、対ロッテオリオンズ前期10回戦(川崎球場)、7回表に二盗(投手:広木政人、捕手:袴田英利) 初本塁打・初打点:1980年9月3日、対西武ライオンズ21回戦(阪急西宮球場)、2回裏に東尾修からソロ 26 (1978年 - 1987年) 76 (1992年 - 1999年) 72 (2010年) 81 (2011年) ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、226ページ ^ 出場機会が多かった1981年・1982年・1984年については、相手チームの先発が右投手の場合にはほぼ不動のスタメンだった一方、左投手の場合には小林ではなく、山森雅文、吉沢俊幸、有賀佳弘等の右打者の外野手が起用される試合が多かった。偵察オーダーが組まれ、先発が右投手の場合に小林が出場する試合もたびたびあった。打順は6番が多く、そのほか2番、5番、7番など(1982年後期は2番、1984年は6番でほぼ固定)。3番打者としての出場もある。 ^ 『野球小僧 4月号 2012』白夜書房、p.168 ^ DeNA、元オリ1軍コーチ・小林氏と契約 - 2012年3月10日 ^ イチロー フィギュア五輪代表に直筆メッセージ送る(野球) スポニチ Sponichi Annex ニュース ^ DeNA・小林晋哉スカウトを直撃 妻は羽生の隣で仰天顔だった日本スケート連盟強化部長 - ZAKZAK 2014年3月15日 兵庫県出身の人物一覧 京都産業大学の人物一覧 オリックス・バファローズの選手一覧 個人年度別成績 小林晋哉 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 1位:松本正志 2位:三浦広之 3位:米村理 4位:小林晋哉 5位:工藤博義 6位:金本誠吉 日本の野球選手 育英高等学校出身の野球選手 京都産業大学硬式野球部の選手 神戸製鋼硬式野球部の選手 オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手 日本の野球指導者 SSGランダース 横浜DeNAベイスターズ関連人物 韓国の野球に関する人物 兵庫県出身のスポーツ選手 1952年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/15 03:01更新
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kobayashi shinya
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