志村正順アナウンサーの情報(しむらせいじゅん本名:表記同じく「しむらまさより」) アナウンサー/NHK 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
志村 正順さんについて調べます
■名前・氏名 |
志村正順と関係のある人
前田山英五郎: 養子に行こうとした先の家族は終戦後アメリカから引き揚げたが、引き揚げたその様子が惨めであったため「僕は行かないで良かったと思った」と3代朝潮の横綱昇進直後に行われた志村正順との対談で振り返っている。 松内則三: その後はスポーツ中継の第一線から退いたものの、志村正順、北出清五郎などのスポーツアナウンサーを育成した。 苅田久徳: 浜っ子で歯切れよく、座談も上手く、審判員を辞めた後は各放送局が目を付け、NHKでは志村正順とのコンビで奔放な面白い解説を見せた。 小西得郎: 志村正順アナウンサーとのコンビが当たり、「そりゃーもう、なんと申しましょうか」という小西の口癖は流行語となった。 西田善夫: 初任地に室蘭放送局を希望した際には、大先輩の志村正順から、「君、何故室蘭を希望したの?」と不思議がられて尋ねられたという。 大東駿介: 劇場版 アナウンサーたちの戦争(2024年8月公開予定) - 志村正順 役 中村基樹: NHKアナウンサーだった志村正順を憧れの存在として、アナウンサーを志望したという。 島碩弥: 幼い頃は、雑誌「野球少年」に誌上放送を連載していた志村正順のファンであった。 和田信賢: 1943年10月21日に明治神宮外苑競技場で行われた学徒動員壮行会の実況中継を担当する予定だったが、当日になって体調不良のため欠席し、後輩の志村正順に任せている。 大東駿介: アナウンサーたちの戦争(2023年8月14日、NHK総合) - 志村正順 役 胡口和雄: アナウンサーを目指すようになったきっかけは、幼稚園児の頃に観た『新諸国物語』(東映映画)で泉田行夫のナレーションに魅了されたことで、その後もNHKアナウンサーの志村正順に感動。 高嶋秀武: NHKアナウンサーの志村正順に「一声萬里」と記されたサインをもらったことがあり、これは今でも自分の宝物であるという。 |
志村正順の情報まとめ
志村 正順(しむら せいじゅん 本名:表記同じく「しむら まさより」)さんの誕生日は1913年10月2日です。東京出身のアナウンサーのようです。
人物・エピソード、演じた人物などについてまとめました。卒業、テレビ、病気、兄弟、映画に関する情報もありますね。去年の情報もありました。94歳で亡くなられているようです。
志村正順のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)志村 正順(しむら せいじゅん 本名:表記同じく「しむら まさより」、1913年10月2日 - 2007年12月1日)は、日本の昭和時代に活動したアナウンサー。NHKで主に大相撲、プロ野球等のスポーツ実況中継を担当した。 東京府北豊島郡南千住町(現・東京都荒川区南千住)の乾物・雑穀商「川萬商店」に生まれる。出生時の名は「正二」。日大付属中卒業後の1931年、一時僧侶を志し、大正大学予科に通うかたわら、滋賀県甲賀郡大原村(現・甲賀市)の親類の寺院で得度し、「正順」と改名するが、明治大学政治経済学部進学のため還俗している(のちも名を正二に戻さず、「まさより」ないし「せいじゅん」で通した)。 明大卒業後の1936年、ミシンの外交販売員を経て、NHKのアナウンサー採用試験に合格し、入局。東京中央放送局に赴任し、河西三省、松内則三、山本照、和田信賢らの指導を受ける。1938年から1939年にかけて名古屋中央放送局に転勤したのを除いては、退職まで東京勤務を通した。 志村は1936年11月29日の秋季リーグ(第2回全日本野球選手権)において、東京巨人軍の沢村栄治のプレーを、初めてラジオで伝えた。沢村の独特な投球フォームを「沢村、左足を思い切り上げて、第一球のモーション。靴底のスパイクがはっきりと見えるほど、高々と上げました」と表現した。 1940年に大相撲中継の担当を開始。これに先がけ、志村は本場所が開催されるたびに中継放送開始前の両国国技館に通い、枡席に設営された放送席の、スイッチが入っていないマイクの前に座って幕下の取組を描写し、記者や観客の好奇の目にさらされながら実況の腕を磨いていた。 戦後すぐの1947年より、創刊間もない少年誌『野球少年』上に試合の推移を実況アナウンスの速記風につづった自筆のエッセイ「誌上放送」を連載。多くの読者を獲得する人気を得る。 志村は1951年3月場所で、客席で観戦中だった神風正一を見つけ、去る1949年の『街頭録音』の出演者としての神風の弁舌に感心したことを思い出して、急遽ゲストとして放送席に招き、取組中の力士の技術を語らせた。神風は1953年5月場所から正式に専属解説者となり、実況アナウンサーとスポーツ経験のある解説者という、日本のスポーツ中継放送における番組進行のフォーマット成立の嚆矢となる(従来の日本のスポーツ中継放送では、アナウンサー1人ないし2人での番組進行が一般的だった)。 1952年のヘルシンキオリンピックの実況中継を現地で担当したあと、帰国する前にアメリカ・ニューヨークへ立ち寄ってメジャーリーグを観戦。実況中継にジョー・ディマジオが解説を加えている様子を見学した。帰国後志村は、ディマジオに匹敵する大物解説者を置くことをNHKスポーツ部長・鵜沢七郎に発案して了承を受け、やがて松竹ロビンス元監督・小西得郎のスカウトに成功(当時デイリースポーツ評論家。NHK専属野球解説者第3号)。志村は、小西とのコンビで数多くの試合に立ち会った。 1953年2月1日には、NHKテレビ開局特別番組の司会を担当し、開局第一声となるアナウンス「JOAK-TV。こちらはNHK東京テレビジョンであります」を読み上げた。同年、第1回和田賞を受賞。 1955年6月から1958年6月までと、1963年8月から1967年8月にかけてアナウンス部長。1961年に病気療養のため長期の休養を取ったことをきっかけに体力の限界を悟り、第一線から退いた。 1967年10月に退職し、放送の現場から完全に離れて、神奈川県藤沢市でマンション経営者に転身する。その後は放送関係者との交遊もほとんど断ち、公の場には、1984年の蔵前国技館閉館セレモニー、1989年の昭和天皇崩御に伴う特別番組でのインタビュー、1995年12月20日に行われたパーティ「戦後50年 NHKスポーツアナウンサー大集合」など、数えるほどしか姿を見せないようになった。晩年の一時期は名古屋市に住んだ。 2005年に野球殿堂の特別表彰者に選出された。放送関係者の野球殿堂入りは史上初だった。既に90歳を過ぎていたが、インボイスSEIBUドームでのオールスターゲーム第1戦の試合前に行われた表彰式には付き添いが付いたものの、杖も使わずに自らの足で歩いて出席し、場内の大歓声に手を振って応えていた。後輩の刈屋富士雄が2015年4月25日に日本スポーツ学会において行った講演によれば、当時の野球殿堂入りを祝うパーティに出席した志村は、挨拶の際、放送の現場を離れたのは鬱病を患ったことが起因だったと告白したという。 訃報 志村正順氏 2007年12月1日、老衰のため藤沢市で死去、94歳没。訃報は4ヶ月後の2008年4月24日に公表された。志村は生前に献体登録を行っていた。 いずれもNHK 今週の明星 アメリカ便り 出陣学徒壮行会実況放送 - ラジオ 1943年10月21日 第9回職業野球東西対抗戦第1戦 - ラジオ 1945年11月23日 1948年のワールドシリーズ - 日時不明 日米親善野球 東京読売巨人軍対サンフランシスコ・シールズ第1戦 - ラジオ 1949年10月15日 マッカーサー元帥離日中継 - ラジオ 1951年4月16日 ボクシング・エキシビジョン試合 ジョー・ルイス対米軍選抜チーム 後楽園球場 - ラジオ 1951年11月18日 プロレス・世界タッグ選手権 力道山・木村政彦組対シャープ兄弟 - テレビ 1954年2月19日 日本シリーズ第5戦 東京読売巨人軍対西鉄ライオンズ - テレビ 1958年10月17日 東京読売巨人軍対大阪タイガース11回戦 - テレビ 1959年6月25日 下記のほか、記録映画等にナレーターとして参加。 煙突の見える場所(1953年 新東宝) - ノンクレジット。背景に聞こえるラジオの音声として声の出演。 純愛物語(1957年 新東宝) - 同上。 東京の孤独(1959年 日活) - 小西得郎とともに本人役で出演。 人物・エピソード日本語学者の芳賀綏は志村の実況技術について、「抜群に軽快なアナウンス」「早いことも無頼、彼は脳から口へ直結している」と絶賛している。 越智正典はNHK時代、志村から、ラジオの実況中継の肝要として「新制中学三年生でもわかるように言葉を選んで話をしなさい」「三十秒に一回は、何対何でどちらが勝っているかを繰り返しなさい」「いうことがなければ、得点と点数、どちらが勝っているが、投手は誰で打者は誰、走者は誰かということを、間断なくアナウンスする。それが野球放送です」とのアドバイスを受けた。 「誌上放送」を少年時代に愛読していたことを公言している人物に、大江健三郎、石原慎太郎、寺山修司らが知られる。 明治神宮外苑相撲場で行われた1947年6月7日の大相撲夏場所4日目は、晴天ながら急遽入れ掛け(=中止のうえ翌日順延)となった。昼のニュースを担当していた志村が東京気象台に問い合わせ(当時の興行開催の可否は気象台に決定権があった)、「本日の大相撲は中止」との言質を得て、本番でそのまま放送したところ、それを聞いて真に受けた観客に加え、出場予定の力士までも相撲場に集まらなかったため。 志村は2003年2月1日のテレビ放送開始50年を記念する特別番組において久々に放送メディアに登場し、当時使用されていた形式の白黒テレビカメラ(4:3SD)の前に立って、1953年2月1日の開局アナウンスを再現した。 演じた人物大東駿介(『NHKスペシャル アナウンサーたちの戦争』、2023年8月14日、NHK総合) 2024/06/23 19:26更新
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shimura seijun 本名:表記同jiku「shimura masayori」
志村正順と同じ誕生日10月2日生まれ、同じ東京出身の人
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