木原敏雄の情報 (きはらとしお) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、出身地]
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木原敏雄
木原 敏雄(きはら としお)さんの誕生日は1949年11月25日です。神奈川出身のミュージシャンのようです。
経歴などについてまとめました。卒業、解散、映画、テレビに関する情報もありますね。現在の年齢は74歳のようです。
NOBODY(ノーバディ)は、日本のロックバンド。矢沢永吉のバックメンバーを担当していた相沢 行夫(あいざわ ゆきお)と木原 敏雄(きはら としお)の2名で構成されている。 相沢 行夫(あいざわ ゆきお、1949年10月19日 - ) 北海道芦別市出身、神奈川大学卒業。血液型AB型。妻は作詞家の竜真知子。 神奈川大学在学中にアマチュアバンド「イーグルス」で活動し、いくつかのバンドを経て、1973年にフォーク・ロック・バンド「ノラ」を結成。 1975年の矢沢のソロシングル「アイ・ラヴ・ユー、OK」で作詞を担当し、作詞家デビューとなる。 木原 敏雄(きはら としお、1949年11月25日 - ) 神奈川県川崎市出身、明治大学卒業。血液型O型。 1969年、神奈川大学の学園祭に「イーグルス」として出演していた相沢と出会う。明治大学在学中、矢沢らとアマチュアバンド「YAMATO」を結成し活動。 1977年、矢沢のアルバム収録曲「世話がやけるぜ」「通りすがりの恋」で作詞を担当し、作詞家デビューとなる。 経歴元々二人とも別々のバンドを組んで活動していたが、解散。1975年、先に相沢が加入し、遅れて木原が加入し、ともに矢沢永吉のバックメンバーとなる。 1976年より、矢沢のコンサートツアーおよびレコーディングにバンドとして参加し、「矢沢ファミリー」と呼ばれる固定メンバーとして活動。 1977年頃から2人とも、元々バンドで歌っていたこともあり「オレもうたいたい」気持ちが芽生え、バックミュージシャンではなくアーティストとして活動したくなっていた。しかし矢沢の年間100本のコンサートをこなしている彼らに時間的余裕はなかった。 1981年、矢沢が渡米し拠点をアメリカに移したことにより矢沢ファミリーは解散。時間的余裕はできたとき、「このままでは食えなくなる」と、二人は真剣に先のことを考え、同年10月にNOBODYを結成する。「バックミュージシャンをやめるために、木原と二人で『NOBODY』を作ったんですからね。バックミュージシャンだけは死んでもやりたくなかった」と相沢は語っている。 デモテープを小脇に抱え、レコード会社を歩き回る。その中の1曲が1981年12月にリリースした、HOUND DOGの「浮気な、パレット・キャット」(ユニットとして初の楽曲提供、後にセルフカバー)で、この曲がヒットしたことにより、曲の依頼が増え注目される。 1982年6月、TDKコアのTDK RECORDSレーベルからアルバム『NOBODY』とシングル『MY ROAD SHOW』を同時リリース。1983年公開の映画『里見八犬伝』では音楽を担当し、その後アン・ルイスや吉川晃司、浅香唯など様々なアーティストへの楽曲提供、サウンドプロデュースを行いヒットメーカーとしても活躍する。 1985年、アニメ雑誌『月刊ニュータイプ』のメディアミックスの一環として結成された覆面バンド「ピンク・クロウズ」のサウンドプロデュースを担当した。相沢は「アニメソングとして制作したのでとてもやりやすかったし、とても楽しかった」とした一方で、印税は担当プロデューサーにすべて振り込まれていたため、ほぼただ働き同然の状態だったという。 1986年、レコード会社を東芝EMIのEASTWORLDレーベルに移籍。シングル1枚とアルバム3枚を発表後、1988年にハミングバードへ再度移籍した。 1992年にWEA MUSICに移籍し、アルバム『BAD RHYME』を発表。当初は、1993年春に海外デビューの計画があったものの、フェードアウトした形で立ち消えになったという。このことについて相沢は、レコード会社に不信感を持っていると語っている。 1994年、NO NO BOYS名義で、ファンハウスに移籍。相沢は別名義になった経緯に関して、当時の記憶が薄いとしたうえで「レコード会社がなかなか売れないNOBODYを、苦肉の策で『とりあえず別名義でやってみるか』という感じだったかな」と語っている。 1996年にポリスターに移籍。日本テレビ系『WIN』のテーマソングである「DREAM 〜夢の中で」と「YOU GOT TO WIN」を発表。起用された経緯として、メンバーの知り合いで、番組のMCとして出演していた小倉淳(当時・日本テレビのアナウンサー)の依頼で制作したという。7月25日にこの2曲が収録されたシングル「DREAM 〜夢の中で」が、ポリスターから唯一発表した作品としてリリースされた。 矢沢との盟友関係はその後も続き、1996年12月13日の日本武道館公演(WILD HEART TOUR)のほか、1999年9月15日の横浜国際総合競技場(TONIGHT THE NIGHT!)でサディスティックスのメンバーらとコンサートにゲスト出演。2002年8月に東京国際フォーラムで行われたアコースティック・ライブには、相沢がギターで参加。2006年8月には矢沢・相沢・木原の3人によるアコースティック・スペシャル・ライブを、矢沢のファンクラブから抽選で招待した会員約70名の前で行い、インターネットで生配信された。2007年12月19日には、矢沢の日本武道館公演(102回目)のアンコールにゲスト出演し、二人も参加した矢沢初の日本武道館公演(1977年8月26日)の1曲目「カモン・ベイビー」を演奏した。 2024/05/13 22:25更新
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kihara toshio
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