末弘厳太郎の情報 (すえひろいずたろう) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、出身地]
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末弘厳太郎
末弘 厳太郎(すえひろ いずたろう)さんの誕生日は1888年11月30日です。山口出身の法学者のようです。
社会的活動、人物などについてまとめました。卒業に関する情報もありますね。62歳で亡くなられているようです。
末弘 厳太郎(すえひろ いずたろう、1888年(明治21年)11月30日 - 1951年(昭和26年)9月11日)は、大正・昭和期の日本の法学者。専門は民法・労働法・法社会学。学位は法学博士(1920年)。東京大学名誉教授。正三位勲一等瑞宝章。川名兼四郎門下。弟子に吾妻光俊、石川吉右衛門、戒能通孝、小林巳智次、安田幹太など。 1888年(明治21年)、大審院判事であった末弘厳石(すえひろ いずし(げんせき))の長男として山口県に生まれる。東京開成中学、正則英語学校、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)7月に東京帝国大学法科大学独法科を優等で卒業し銀時計を授与される。同大大学院に進み、1914年(大正3年)7月、東京帝国大学法科大学助教授となる。 1917年(大正6年)11月、民法研究のためシカゴなどへ留学。1920年(大正9年)4月、法学博士の学位を取得し、同年9月に帰国。1921年(大正10年)4月に東京帝国大学法学部教授に就任。1942年(昭和17年)3月から1945年(昭和20年)3月まで東京帝大法学部長を務めた。 1946年(昭和21年)3月31日、東京帝国大学を辞職。その後、GHQの政策の影響を受けて教職追放を受けた。 1950年(昭和25年)9月に直腸癌の手術を受け、1951年(昭和26年)9月11日、東京都世田谷区宇奈根町の自邸にて死去。62歳没。 墓所は豊島区駒込の染井霊園。 社会的活動石黒忠篤農相のもとで小作立法のための調査を行い、戦時下には中国農村慣行調査の中心となった。第二次世界大戦後、東大を退職してGHQのもとで労働三法の制定に関与した。 1946年(昭和21年)に東京都地方労働委員会会長、船員中央労働委員会会長に就任し、1947年(昭和22年)には三宅正太郎のあとを継ぎ中央労働委員会二代目会長となった。 1951年(昭和26年)、『日本労働組合運動史』で毎日出版文化賞受賞。 また、末弘は日本水泳連盟(当時は大日本水上競技連盟)の発足に尽力し、1927年(昭和2年)には水連会長にも就任している。ベルリンオリンピックには水泳競技の役員として参加した。水泳選手のために「練習10則」を1939年(昭和14年)に制定したことでも知られる。また国民への水泳啓蒙を図るべく、大日本水泳連盟が『國民皆泳の歌』を製作・発表した際には自ら作詞の筆を執っている。 第二次世界大戦後に日本水泳連盟が再建されると、1949年(昭和24年)には連盟名誉会長に推挙された。 また大日本体育協会には1914年(大正3年)に水上競技大会役員として入って以降、1922年(大正11年)に常務理事、1929年(昭和4年)に専務理事に就任。一旦は役職を離れて普通の理事や参与などを務めた期間もあったが、1936年(昭和11年)に評議員となり、1938年(昭和13年)に体協理事長に就任。体育団体の戦時統合により結成された大日本体育会では1944年(昭和19年)に理事長に就任している。 人物民法研究に多くの業績を残しただけでなく、労働法学の創始者にして法社会学の先駆とされる。軽妙な語り口で書かれた『民法雑記帳』、『嘘の効用』等は法律専門家ではない一般人にもよく読まれた。 愛称はガンちゃん。 2024/05/13 21:48更新
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suehiro izutarou
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