草間彌生の情報 (くさまやよい) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、出身地]
草間 彌生さんについて調べます
■名前・氏名 |
TOPニュース
草間彌生
草間 彌生(くさま やよい)さんの誕生日は1929年3月22日です。長野出身の画家、彫刻家のようです。
来歴、年譜などについてまとめました。卒業、現在、映画に関する情報もありますね。
草間 彌生(くさま やよい、1929年〈昭和4年〉3月22日 - )は、日本の芸術家。長野県松本市出身。京都市立美術工芸学校(旧・京都市立銅駝美術工芸高等学校)絵画科卒業。 幼い頃から悩まされていた幻覚や幻聴から逃れるために、それらの幻覚・幻聴を絵にし始めた。1957年(昭和32年)に渡米すると絵画や立体作品の制作だけではなくハプニングと称される過激なパフォーマンスを実行し、1960年代には「前衛の女王」の異名をとった。 草間彌生のいくつかの作品は、水玉模様や網模様などの同一のモチーフの反復によって絵画の画面や彫刻の表面を覆うことが特徴の一つである。「無限の鏡の間」(インフィニティ・ミラー・ルーム英語: Infinity Mirrored Room)(1965年制作)など合わせ鏡を用いて光やオブジェを無限に広がるように見せるインスタレーションや、男根状のソフト・スカルプチュアによるオブジェを日用品などに張り付ける立体作品も制作している。カボチャをモチーフにした作品もしばしば見られる。 また、ファッションデザインや小説執筆などの活動も行う。 1962年に行われた、クレス・オルデンバーグやアンディ・ウォーホルらも参加したグループショーに参加し、彼女ならではの表現を見せつけ、彼らのみならず様々なアーティストに「ソフト・スカルプチュア」などの影響を与えた。 来歴松本駅近くで種苗業を営む裕福な家に生まれ、幼いころから草花やスケッチに親しむ。その一方、少女時代から統合失調症(医学博士西丸四方が診断)を病み、繰り返し襲う幻覚や幻聴から逃れるために、幻覚や幻聴を描きとめる絵を描き始める。10歳頃からすでに水玉と網目模様をモチーフとしていた。草間は現在に至るまで水玉(ドット)をモチーフに制作する事が多いが(ドット・ペインティング(英語版))、これは耳なし芳一が幽霊から身を守るために全身を経で埋め尽くした様に、彼女が恐怖する幻覚や幻聴から身を守るために、作品全体を水玉(ドット)で埋め尽くす儀式でもある、とされる。 1945年(昭和20年)、大戦下に疎開してきた画家らが立ち上げた「第一回全信州美術展覧会」で並み居る顔ぶれの中16歳で入選。 1948年(昭和23年)、松本高等女学校(現:長野県松本蟻ヶ崎高等学校)を卒業後、京都市立美術工芸学校(現:京都市立美術工芸高等学校)の4年生最終課程に編入して日本画を学ぶ。 1949年(昭和24年)、京都市立美術工芸学校絵画科を卒業。後に役立つ絵画技法を身につけるが、旧弊な日本画壇に失望。松本の実家へ戻り、寝食も忘れ毎日数十枚以上を描き、没頭する。 1952年(昭和27年)、地元の松本市公民館(旧:松本市公会堂)で初めての個展を開く。精神科医の西丸四方が立ち寄り感銘し絵を購入。関東精神神経医学学会で紹介するほか、知人でゴッホ研究で有名な精神科医・式場隆三郎が、東京日本橋の白木屋百貨店などのつてを紹介し縁を得る。2度目の個展では師と仰ぐ松澤宥に賛助出品してもらい、パンフレットに松澤宥と懇意だった当時著名な美術評論家瀧口修造らの寄稿文も掲載される。西丸博士と瀧口は、その後生涯にわたるよき理解者となった。 1954年(昭和29年)から翌年にかけ、東京で4度の個展を行う。白木屋百貨店ほか、瀧口の関わるタケミヤ画廊でも個展を行う。瀧口がニューヨークの第18回国際水彩画ビエンナーレへ彼女を紹介し、渡米の糸口を作る。この時期、素描のほかにコラージュなども量産している。 1957年(昭和32年)に渡米。シアトルでアメリカ初の個展を行った後、1958年ニューヨークに移る。1959年、ポスト抽象表現主義作家が集まったことで知られるマンハッタン10丁目のブラタ・ギャラリーで個展を行ない、「無限の網」(インフィニティ・ネット英語: Infinity Net)」等、5メートル近くになる大型絵画を5点発表する。これらは網の目に見えることから80年代末以降「ネット・ペインティング」と呼ばれるようになる。この作品はドナルド・ジャッドやドア・アシュトンらに注目され、草間はニューヨークでの活動の基盤を固めた。絵画のみならず男根状のオブジェを既製品にはりつけた立体作品「トラヴェリング・ライフ」(1964年)などのインスタレーションを始め、ハプニングと称される過激なパフォーマンスも実行した。1962年に行われたクレス・オルデンバーグやアンディ・ウォーホルなども参加したグループショーに参加し、彼らのみならず様々なアーティストに「ソフト・スカルプチュア」の影響を与えた。1966年にはヴェネツィア・ビエンナーレにもゲリラ参加し、1960年代には「前衛の女王」の異名をとった。平和・反戦運動にも携わる。1968年(昭和43年)、自作自演の映画『草間の自己消滅』が第4回ベルギー国際短編映画祭に入賞、第2回アン・アーバー映画祭(英語版)で銀賞受賞。また、第2回メリーランド映画祭でも受賞。 1973年(昭和48年)、親友でパートナーのジョゼフ・コーネルが死去すると、草間は体調を崩し日本へ帰国、入院した。これ以降、東京を活動拠点とする。1978年(昭和53年)に初の小説『マンハッタン自殺未遂常習犯』を発表し、小説家としての活動を始める。1983年(昭和58年)には小説『クリストファー男娼窟』で第10回野性時代新人文学賞を受賞した。小説もその芸術創作と主題がリンクしており、少女時代の幻視体験をモチーフにしたものもある。 草間の活動が再び活発になったのは1990年代初頭である。1993年(平成5年)、ヴェネツィア・ビエンナーレに日本代表として日本館初の個展を開く。これを機に世界的に再評価する動きが高まった。2009年には正方形の絵画群である「わが永遠の魂」シリーズの作成を始める。同年にauのiidaブランドの端末をプロデュース、2012年にはルイ・ヴィトンとの共同コレクション(マーク・ジェイコブスによるディレクション)を発表するなど、商業分野での活動も盛んに行なっている。2016年、『タイム』誌の世界で最も影響力がある100人に選ばれた。 「草間彌生美術館」(東京都新宿区弁天町)が2017年10月1日に開設された。館長には建畠哲が就任。 現在の取扱代理画廊は、1980年代からオオタファインアーツ、2007年からVictoria Miro Gallery(英語版)、2013年からDavid Zwirner(英語版)である。 年譜1957年(昭和32年)ニューヨークへ渡る。 1973年(昭和48年)体調を崩し日本へ帰国。 1996年(平成8年)国際美術評論家連盟(英語版)から2年連続でベストギャラリー賞を受賞。 2000年(平成12年)第50回芸術選奨文部大臣賞、外務大臣表彰を受ける。 2001年(平成13年)朝日賞を受賞。 2002年(平成14年)紺綬褒章を受章。 2003年(平成15年)リヨン・ビエンナーレに参加。同年、フランス芸術文化勲章オフィシエ、長野県知事表彰を受ける。 2004年(平成16年)大規模個展が日本を巡回。 2005年(平成17年)『草間彌生全版画集(1974年(昭和49年)~2004年(平成16年))』が阿部出版から刊行される。 2006年(平成18年)旭日小綬章を受章。ライフタイムアチーブメント賞、高松宮殿下記念世界文化賞を受賞。 2009年(平成21年)10月、文化功労者に選出される。 2014年(平成26年)安吾賞を受賞。 2016年(平成28年)文化勲章を受章。女性画家では4人目。 2017年(平成29年)「草間彌生美術館」が開館。 2017年(平成29年) 名誉都民。 2024/05/19 09:23更新
|
kusama yayoi
草間彌生と同じ誕生日3月22日生まれ、同じ長野出身の人
草間彌生と近い名前の人
話題のアホネイター
話題の芸能人・有名人
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「草間彌生」を素材として二次利用しています。