荒畑寒村の情報 (あらはたかんそん) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、出身地]
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荒畑寒村と関係のある人
高畠素之: 一方、折からのロシア革命の影響を受け、1918年1月、『新社会』に「政治運動と経済運動」を発表し、山川均・荒畑寒村らと社会主義運動の方法論をめぐって争った。 幸徳秋水: その結果、1909年(明治42年)に「自由思想」を発刊するも即日発売禁止処分を受け、さらには赤旗事件で入獄していた荒畑寒村の妻・管野スガ(須賀子)と不倫関係を結び、同年3月に妻・千代子と離婚した。 山川均: これに対し山川は堺、荒畑寒村、猪俣津南雄らと1927年(昭和2年)に『労農』を創刊し、共同戦線党論を展開する。 古谷一行: 襤褸の旗(1974年)- 荒畑寒村 大杉栄: 1911年(明治44年)1月24日に秋水らが処刑されたことで社会主義運動が一時的に後退する中で、大杉は荒畑寒村と共に1912年(大正元年)10月に近代思想、1914年(大正3年)10月に平民新聞を発刊し、定例の社会主義研究会を開催して運動を活発化させようとするが、いずれも発禁処分を受けて経済的な収入が途絶える。 佐野学: 1922年7月、荒畑寒村の勧誘で日本共産党(第一次共産党)に入党。 大佛次郎: 『解放』誌に堺利彦、荒畑寒村、白柳秀湖による社会運動史上の事件を「社会講談」と名付けて掲載していたのに触発され、1930年に『改造』誌で『ドレフュス事件』を題材にしたノンフィクション作品を連載。 野依秀市: この時、平民病院にて大杉栄や荒畑寒村らと知り合う。 高畠素之: この高畠の提言を受け、直ちに山川均・荒畑寒村らが反論を掲げ、しばし論争となった。 堺利彦: 堺は1922年(大正11年)に、山川均・荒畑寒村らと第一次共産党の結成に参加するものの、山川らに同調して離脱し、後に労農派に与する。 野坂参三: 大会委員長山川均、司会の荒畑寒村のほか、日本社会党委員長片山哲の登壇、尾崎行雄のメッセージなど、党派を超えて集まり、民主戦線樹立を目標とすることが宣言された。 土岐善麿: 1911年(大正元年)に大杉栄、荒畑寒村らと「近代思想」の執筆者に加わり、大杉と知り合う。 堺利彦: 荒畑寒村・白柳秀湖・大森義太郎・山川均編『堺利彦全集』全6巻、中央公論社、1933年5月-10月。 竹久夢二: 友人であった荒畑寒村の紹介で平民社発行の『直言』にコマ絵が掲載される。 林えいだい: 早稲田大学文学部在学中に荒畑寒村の「谷中村滅亡史」を読み社会主義運動に傾倒する。 石立鉄男: 1968年「美しきものの伝説」宮本研=作、荒畑寒村、文学座公演 堺利彦: 翌年7月に入ると病状が悪化し、治療などの影響から時に凶暴となったため青山脳病院に入院(朝日新聞は発狂して入院と報道したが、荒畑寒村らの抗議を受けて訂正したという)し、翌月には退院した。 |
荒畑寒村
荒畑 寒村(あらはた かんそん)さんの誕生日は1887年8月14日です。神奈川出身の文芸評論家のようです。
主な著作、伝記ほかなどについてまとめました。卒業、退社、結婚、事件、映画、解散に関する情報もありますね。
荒畑 寒村(あらはた かんそん、1887年〈明治20年〉8月14日 - 1981年〈昭和56年〉3月6日)は、日本の社会主義者・労働運動家・政治家。また、作家・評論家。本名は荒畑 勝三(あらはた かつぞう)。 日本共産党および日本社会党の結党に参加するが離党し、1946年(昭和21年)から衆議院議員を務めた。主義主張の一貫した生涯は、日本社会主義運動の良心の軌跡とされている。 1887年(明治20年)8月14日に神奈川県横浜市永楽町にあった横浜遊廓の中で生まれ、幼少期を横浜市野庭(現・横浜市港南区)で過ごした。高等小学校を卒業後に外国人商館でボーイとして勤務しながらキリスト教に改宗し、ボーイを退職後は横須賀海軍工廠で勤務していた。日本初のゴシップ紙として発行されていた「萬朝報」に堺利彦・幸徳秋水が共同で執筆した反戦詩・退社の辞に感動し、労働運動に参加することを決意した。寒村自身も堺と秋水が発行する週刊「平民新聞」の非戦論に共鳴し、社会主義に接近する。その後、寒村は堺の世話で和歌山県にあった牟婁新報の記者を経て、1904年(明治37年)に平民新聞の編集に参画するようになると、同僚だった6歳年上の管野スガと内縁を結び、1907年(明治40年)に結婚した。この頃に社会主義伝道行商にも参加して田中正造と出会い、足尾鉱毒事件を素材に処女作「谷中村滅亡史」を著述している。 1908年(明治41年)に東京・神田にあった映画館「錦輝館」で発生した赤旗事件で検挙され、裁判で有罪となり重禁錮1年の刑を受けた。しかし、寒村の入獄中に妻・スガが秋水と不倫関係になり、秋水は妻・師岡千代子と離婚、スガも寒村に対して一方的に離縁状を送り付けて獄中の寒村と離婚した。寒村は激怒し、2年後に出獄するとピストルを入手してスガを射殺することを決意するが実行できず、代わりに桂太郎の暗殺を企てたと言われるが、こちらも実行には至らなかった。不倫が発覚して以降は秋水とも連絡を絶って疎遠になるが、秋水とスガは1911年(明治44年)1月に幸徳事件(大逆事件)によって検挙・処刑されたため、結果的に寒村は処刑を免れた。秋水とスガは仲間内からも白眼視されており、寒村の他にも疎遠となったことで連座を免れた者も多い。 寒村は出獄後、堺が設立した売文社に参加して山川均・高畠素之らと地道に体制の立直しをはかり、1912年(明治45年・大正元年)には大杉栄と共に「近代思想」を創刊し、さらに月刊「平民新聞」を発行した。しかしサンディカリズムを唱えた大杉とマルクス主義に立脚する寒村との対立が次第に表面化し、大杉と決別後は労働組合運動を継続させながら活動拠点を関西へ移す。1920年(大正9年)には日本社会主義同盟、1922年(大正11年)には日本共産党(第一次共産党)の創立にそれぞれ参加するが、1923年(大正12年)の第一次共産党事件で堺と共に検挙され、1924年(大正13年)には寒村による唯一の反対論を押し切って共産党解散決議が行われる。寒村は残務整理のために設置されたビューローに参加して党の再建を目指そうとするが、ビューローの中で福本和夫の理論(福本イズム)の影響力が増大になると活動から距離を置くようになった。福本イズムへの疑問を露わにする寒村は、福本の圧倒的影響下にあった若手活動家から激しく批判・誹謗された。 共産党はそのまま福本イズムによって再建されるが、寒村は第一次共産党の解散に賛同した佐野学・徳田球一らが再建の中心人物になっていることを知って激怒し、寒村の愛弟子ともいえる鍋山貞親の説得を拒否して再建活動には参加しなかった。そして山川、猪俣津南雄らと1927年(昭和2年)に「労農」を創刊し、労農派の中心メンバーとして非共産党マルクス主義の理論づけを行い、日中戦争が始まると反ファシスト運動を主導した日本無産党にも参加した。しかし、1937年(昭和12年)に人民戦線事件によって山川、加藤勘十ら400名以上と共に検挙され、寒村は終戦まで投獄された。戦後は全金同盟の委員長に就任すると共に日本社会党の結成に参加し、1946年(昭和21年)以降は衆議院議員を2期(中選挙区の東京4区選出)務めるが、3年後に日本社会党を離党した。1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙では社会主義政党結成促進協議会(いわゆる山川新党)を母体に無所属で立候補したが、落選した。その後、関東金属労働組合委員長も務めた。 以後は評論活動に専念し、1950年(昭和25年)12月ソ連の評価をめぐって小堀甚二と山川、向坂逸郎らの間で対立が起きると、寒村は小堀の主張に賛同しなかったが、小堀が山川新党の実務を担っていたこともあって寒村も小堀に同情し、1951年(昭和26年)結成の社会主義協会には参加しなかった。1960年代後半にはソ連派傾向を鮮明にした向坂・社会主義協会を強く批判した。寒村は一時期、新左翼に共鳴して学生を支援したが内ゲバに失望して手を引き、以降は孤高の文筆活動を続けた。第10回参議院議員通常選挙に三里塚芝山連合空港反対同盟の戸村一作が立候補すると、小田実らの「三里塚闘争と戸村一作氏に連帯する会」に参加した。 晩年には「死なばわがむくろを包め戦いの塵に染みたる赤旗をもて」という歌を作っている。 1981年(昭和56年)3月6日、東京都世田谷区の玉川病院において肺気腫のため93歳で死去した。 主な著作『荒畑寒村著作集』(全10巻) 平凡社、1976-77年
5巻「社会運動をめぐる人々」、6巻「ロシア革命」 7巻「文学」、8巻「随筆」、9・10巻「寒村自伝」 『久濶多罪 荒畑寒村の手紙』 平凡社、1983年 『平民社時代 日本社会主義運動の揺籃』 中央公論社、1973年、のち中公文庫 『続 平民社時代』 中央公論社、1979年 『寒村茶話』 朝日新聞社、のち朝日選書(オンデマンド版) 『荒畑寒村 ひとすじの道』、新版〈人間の記録28〉日本図書センター、1997年。初版・慶友社、1954年 『寒村自伝』(上・下)、筑摩書房〈筑摩叢書〉、のち岩波文庫。以下も新版 『平地に波乱を起こせ 公害から、いまを撃つ』 社会評論社 『反体制を生きて』 新泉社 『ロシア革命運動の曙』 岩波新書 『ロシア革命前史』 筑摩書房〈筑摩叢書〉 『谷中村滅亡史』 新泉社→岩波文庫 - 若き日(1907年)の足尾銅山ルポルタージュ 『うめ草すて石 思い出の人びと』 向坂逸郎共著、新版・至誠堂選書 ルイズ・フィッシャー『石油帝国主義』改造社、1927年。新泉社、1974年 L・H・モルガン『古代社会』改造文庫、1933年。角川文庫(上下)、改版1966年 アレキサンダー・ワイスベルク『被告 ソヴィエト大粛清の内幕』早川書房、1953年。新泉社、1972年 ベルトラム・D.ウルフ『三人の革命者』実業之日本社、1956年 ボリス・ニコライェフスキー『革命のユダ アゼーフ』現代思潮社、1970年
伝記ほか寒村会 編『荒畑寒村 人と時代』マルジュ社(販売:社会評論社)、1982年3月 堀切利高『夢を食う-素描荒畑寒村』不二出版、1993年4月 川村邦光『荒畑寒村 叛逆の文字とこしえに』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2022年 2024/05/18 15:04更新
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arahata kanson
荒畑寒村と同じ誕生日8月14日生まれ、同じ神奈川出身の人
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