設楽洋のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)
設楽 洋(したら よう、1951年4月13日 - )は、日本の実業家。株式会社ビームス、株式会社ビームス クリエイティブの代表取締役。『第50回ベストドレッサー賞』受賞。タレントでファッションモデルである三浦りさ子(旧姓:設楽りさ子)の叔父。東京都新宿区生まれ。 慶應義塾大学経済学部卒業。愛称はタラちゃん。
1951年(昭和26年)東京都新宿区にてダンボール工場を営んでいた父・設楽悦三と母・設楽恭子の間に生まれる。太平洋のようにおおらかで、元気な子に育ってほしいという想いから「洋」と名付けられた。ビームスの副社長である遠藤恵司は小学校から大学生までの同級生。遠藤は「中学1年のときにコーラスグループを結成、以来バンドを組み、設楽は目立ちたがり屋で人を楽しませるのが好きな青年だった」と回顧する。設楽はボーカルとギター、遠藤はバンジョー担当だった。
新宿生まれだったことから何でも興味津々な少年時代だった。小・中学校の頃は、夜に家を抜け出して歌舞伎町の街を見に行くような子どもで、混沌とした文化の現場を見たいという興味が強かった。何が時代を動かしているのかを観察し、時代が変わる現場に立ち会うことが好きで、行きたい場所に行く、会いたい人に会うことに関しては貪欲だった。思春期を過ごした60年代後半から70年代前半は若者がアメリカのモダンなライフスタイルに憧れた時代で、ドルが360円の時代にアメリカに憧れて、どうにかアメリカの雰囲気を味わうために、米軍キャンプに忍び込む方法を考えたり、どんなに有名人でも、高校時代の友人とはご飯を食べに行くだろうと考えて、その友人と友達になれば会えるかもしれないとか考えたりした。大学時代は湘南や横須賀のベースキャンプで遊んでいてアメリカの生活を目の当たりにしていた。そんな学生時代からの憧れを形がビームスの原型ととなる。
もともとアーティストやミュージシャンといった一芸に秀でたクリエーションに関わる人々に強い憧れがあった。設楽もそうなりたいと思っていて実際に絵や音楽、スポーツなど器用に何でもできるタイプだった。しかしトップの人にはかなわないと考えて、プロの人を集めて何かを生み出すプロデューサーも一種のクリエイターだと考えて広告の世界に入ろうと思った。
電通に入社。販促の企画・運営を手掛けるなか、設楽の父が経営する家業(段ボールなど輸送用パッケージの製造会社)がオイルショックの影響を受けて悪化。父親と話し合った結果、多角化の一つとして小売りビジネスに目をつけた。まずはメンズの服のみで始めた。自分が欲しいものと思うものを売ってみた。商品のコンセプトは「UCLAの学生の部屋」。当時のショップ名「アメリカンライフショップビームス」という意味のまま服だけでなくアメリカのライフスタイルを伝えたかった。黎明期の原宿で6.5坪という小さな店ではじめ「ライフショップ」という切り口が珍しがられ多くの人が集まった。さらに広告代理店時代から付き合いのあったマガジンハウス(当時は平凡出版)のメンズ雑誌『ポパイ』の編集者と頻繁に流行の情報を交換。ボームスと『ポパイ』はほぼ同時に世の中に登場したこともあって、第一号の「カルフォルニア特集」にビームスの紹介記事が掲載されている。その結果ビームスに行けば尖った商品がいつもある、旬の情報を発信しているとイメージ訴求する形となった。
ちなみに1号店の名前は、父親が営む段ボール会社「新光株式会社」の一文字「光」をとって「ビームス」と名付けた。
略歴
1951年(昭和26年) - 東京都新宿区生まれ
1964年(昭和39年) - 東京教育大学附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業
1967年(昭和42年) - 東京教育大学附属中学校(現・筑波大学附属中学校)卒業
1970年(昭和45年) - 東京教育大学附属高等学校(現・筑波大学附属高等学校)卒業
1975年(昭和50年) - 慶應義塾大学経済学部卒業
1975年(昭和50年) - 電通入社。SP(セールスプロモーション)局にてプロモーションディレクター、イベントプロデューサーとして活躍。広告電通SP賞、イベントプロデュース賞受賞
1976年(昭和51年) - 父・設楽悦三の立ち上げた「BEAMS」設立に参加、原宿で「AMERICAN LIFE SHOP BEAMS」を6.5坪のショップとしてオープン
1982年(昭和57年)2月 - 株式会社ビームス設立
1983年(昭和58年) - 電通退社、ビームス、新光株式会社専務取締役就任
1987年(昭和62年)5月 - ビームスクリエイティブ設立
1988年(昭和63年) - ビームス、新光、ビームスクリエイティブ代表取締役社長就任
1993年(平成5年) - 初の大型店BEAMS TOKYO(ビームス東京・120坪)を渋谷に開店
1997年(平成9年) - ニューヨークADC賞金賞
1998年(平成10年)3月 - BEAMS JAPAN(新宿)を新宿3丁目に開店
2002年(平成14年)9月 - 丸ビルにビームスハウス出店
2004年(平成16年) - デザイン・エクセレント・カンパニー賞受賞
2005年(平成17年)5月 - 海外初出店となるブランド「ビームスボーイ」の路面店を香港にオープン
2021年(令和3年) - 『第50回ベストドレッサー賞』政治経済部門を受賞
人物
あだ名はタラちゃんで、誰に対しても同じ態度で接することを心がけている。決して威張らないが、かと言ってヘコヘコもしない。社長でありながらも周囲に「ボス」か「タラちゃん」と呼ばせる。社長室もあえてフロアの一番手前に作って来客の顔がすぐに見え、社員が入りやすいようにドアはいつも開けている。年上の人には生意気だなと怒られた経験もあるが、長く付き合うには自分らしい態度を続けることで分かってもらえる。そっちの方がかわいがられるし得だと思っている。
姪はファッションモデルの三浦りさ子。姪の夫はプロサッカー選手の三浦知良、その兄はサッカー指導者の三浦泰年、姪の長男は俳優の三浦獠太、姪の次男はプロ格闘家でRIZINファイターの三浦孝太。
俳優で『DISH//』の北村匠海は27親等離れた遠い親戚にあたる。
高校時代はバンド全盛で仲間とフォークバンドを組んでいた。本当はエレキのバンドをやりたかったが金がなかった。髪をアイビーカットにして、ロンドンストライプのボタンダウンに裾幅17.5㎝に絞ったコットンパンツとコインローファーを合わせるのが定番だった。
浪人時代はウッドストックがあり、影響され髪を伸ばした。ベルボトムにロンドンブーツ、親指以外に指輪を全指にはめた。
大学に入ったらヒゲを生やし初めてサーファーになった。
生来のミーハー体質。大学を卒業してCMプランナーを夢みて広告代理店を志望したものの一つに仕事を絞り込むことができなかった。
電通に働きながら副業をした設楽は当時、局長に呼ばれ「お前、ビームスとかいう店をやってるだろう? ウチは副業禁止だぞ」って問い詰められた。そこで設楽は「副業とはそっちからも収入を得ることです。僕はお金を注ぎ込んでるだけなんだから、これは趣味でしょ」と言い逃れたという。それから7〜8年、サラリーマンと「ビームス」の二足のわらじを履いた。
電通を辞めてビームスに参画しようと決意した理由は2つ。父が結核で2度倒れたことと、代理店では味わえない「モノを売る手応えのある仕事」に関わりたいと思ったこと。
既婚者であり、2020年には娘の結婚式に参加した。
「第50回ベストドレッサー賞」の受賞式でベストドレッサー賞を受賞した設楽は「僕らの時代のファッションはVANとコカ・コーラが教えてくれた。ビームスは今年45年を迎えたが、40年目までは世界のいいものを紹介してきたが、これからは日本のいいものを世界に伝えたい」と思いをはせた。