もしもし情報局 > 1967年 > 2月26日 > サッカー選手

三浦知良の情報 (みうらかずよし)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

三浦知良の情報(みうらかずよし) サッカー選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

三浦 知良さんについて調べます

■名前・氏名
三浦 知良
(読み:みうら かずよし)
■職業
サッカー選手
■三浦知良の誕生日・生年月日
1967年2月26日 (年齢57歳)
未年(ひつじ年)、魚座(うお座)
■出身地・都道府県
静岡出身

(昭和42年)1967年生まれの人の年齢早見表

三浦知良と同じ1967年生まれの有名人・芸能人

三浦知良と同じ2月26日生まれの有名人・芸能人

三浦知良と同じ出身地静岡県生まれの有名人・芸能人


三浦知良と関係のある人

原辰徳: また、サンデースポーツでは1996年オフに巨人ファンでもある三浦知良と共演したこともある。


城彰二: 2006年には主将として高木琢也監督の下、三浦知良とツートップを組み、クラブ初のJ1昇格を決めたが、前述の靭帯の故障が限界に達し、2006年シーズンを最後に現役引退を発表。この時、当時39歳の三浦知良は「俺よりも若い」と引退を惜しんでいる。


財前宣之: しかし当時監督を務めていたミゲル・アンヘル・ロティーナがリクエストしたのはフォワードであり、同じ日本人の三浦知良だった。


永井秀樹: 三浦知良に抜かれるまでのJFL最年長得点記録を持っていた。


中山雅史: 中山の引退に対して、自身のブログにて妻である生田智子、代表など多くの場面で共にした三浦知良を始めとする、日本代表やジュビロ磐田、コンサドーレ札幌で共にプレーした経験のある選手や元選手、また個人的に中山を尊敬している選手、現日本サッカー協会会長の大仁邦弥など数多くの選手やサッカー関係者がコメントを寄せている。


松田浩: バクスター譲りの「ディシプリン(規律)」を重んじる指導が特徴で、元日本代表主力の三浦知良や城彰二も、規律に反すればスタメンから外した。


岡崎慎司: 2013年2月6日のキリンチャレンジカップ・ラトビア戦で、三浦知良の記録を抜く日本代表最速となる代表通算30得点を突破した。


ルイス=カルロス=ペレイラ: 1990年5月7日には当時サントスに所属していた三浦知良とも対戦、この時、三浦は1ゴールを挙げた。


畑知子: 三浦知良の元恋人といわれ、葉多朋子に改名後はその話題が写真集やVシネマのコピーに記されていた。


小野友樹: プロサッカー選手の三浦知良とは遠戚関係。


足達勇輔: そこで、足達は昇格へのカンフル剤として三浦知良を獲得して巻き返しを図った。


三浦りさ子: 夫である三浦知良は、彼女の水着写真のグラビアが掲載された週刊現代を見て一目惚れし、ブラジル時代の自室にポスターを貼っていた。


中山雅史: なおJ1リーグ戦史上最年長ゴール記録はジーコの41歳3か月、2位はその後40歳6か月まで記録を伸ばしている三浦知良である。


松井秀喜: 2006年の年末には、テレビ東京系列『日経スペシャル カンブリア宮殿』内の企画でサッカー元日本代表の三浦知良と対談した際、WBC辞退について、「サッカーに比べると野球はまだナショナリズムが弱いスポーツ。


リベリーノ: ディエゴ・マラドーナ、三浦知良が幼少の頃憧れを抱いていた選手として著名。


砂川誠: 好きなサッカー選手は三浦知良、ロベルト・バッジョ などがいる。


桑田佳祐: プロサッカー選手の三浦知良とは、三浦が11歳年下で親交があり、2008年に日産スタジアムで開催されたサザンのライブ『真夏の大感謝祭』の最終日に開会宣言を行った経験もある。


武田修宏: 現役時代には三浦知良に顔が似ていることを度々指摘されており、現役引退後の2005年2月には実際に中国人記者が三浦と勘違いして武田に取材をして記事にしたという珍事もある。


田中英雄: サッカー選手で憧れの人物は三浦知良であり、中学時代は彼に感化され、入学式から卒業式の日まで1日も休まず新聞配達のアルバイトをしたという。


鶴見智美: 筑波大学の時には日本代表との練習試合で三浦知良を抑え注目を集める。


海野そら太: 「まんが NHKアスリートの魂 スキージャンプ高梨沙羅 競泳瀬戸大也 サッカー三浦知良 自分らしく前へ」(まんが NHKアスリートの魂、学研プラス、2017年)※共著であり、三浦知良を担当。


森山泰行: ペニャロールからオファーが届いたが、三浦知良に相談したところ「いい加減なエージェントにかかるととんでもないことになるから止めた方がいい」と助言を受ける。


田坂和昭: 日本代表のチームの雰囲気を伝える話として、加茂周監督時代は自由なところがあり、合宿で京都に滞在した際、三浦知良の「金閣寺、行くぞ」という号令の下、田坂、北澤豪、中山雅史、藤田俊哉の5人で日本代表のジャージを着たまま電車に乗って行ったことがあったという。


中山雅史: このゴール時の年齢は39歳7か月10日で、同年5月12日に当時40歳2か月16日の三浦知良がゴールを決めるまでJリーグの日本国籍選手最年長ゴール記録だった。


鈴井貴之: 好きな選手は三浦知良


本田圭佑: 本田のハットトリックは高校時代以来でプロ入り以降は初めてであり、W杯アジア最終予選の日本人選手のハットトリックは三浦知良(1997年ウズベキスタン戦)以来となる、史上2人目の快挙となった。最終予選で5得点を決めた本田は、1大会のW杯アジア最終予選における通算得点で三浦知良の4得点を抜き、歴代最多得点を更新した。


ヤス: 横浜FC所属の三浦知良(カズ)の兄。


播戸竜二: 2002年からは地元ヴィッセル神戸に期限付き移籍で加入し、三浦知良と共に中心選手として活躍。


前田遼一: 当初は2年ぶりのJ1と初めての移籍に戸惑い、適応するまでにやや時間を要したが、6月の1st第17節清水戦では2得点を挙げて三浦知良を上回るJ1通算140得点を記録。


釜本邦茂: 最高位は1993年ニコスステージ(2ndステージ)の6位(10チーム中)となっている(同ステージ7月31日博多の森陸上競技場での初代チャンピオンヴェルディ川崎との公式戦で0-2、相手GK菊池新吉に完封負、追加点となる2失点目は翌日結婚式を控えた三浦知良が記録)。


三浦知良の情報まとめ

もしもしロボ

三浦 知良(みうら かずよし)さんの誕生日は1967年2月26日です。静岡出身のサッカー選手のようです。

もしもしロボ

経歴、日本代表などについてまとめました。離婚、テレビ、結婚、引退、現在に関する情報もありますね。今年の情報もありました。三浦知良の現在の年齢は57歳のようです。

三浦知良のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

三浦 知良(みうら かずよし、1967年2月26日 - )は、静岡県静岡市葵区出身のプロサッカー選手。リーガ・ポルトガル2・UDオリヴェイレンセ所属。ポジションはフォワード(FW)。元日本代表。元フットサル日本代表。

Jリーグ開幕以来現役を続けている唯一の選手。ポルトガルリーグ最年長出場記録保持者(56歳)。

Jリーグ史上最高齢の54歳でJ1リーグでプレーした経験を持つ。

日本代表としてもFIFAワールドカップ初出場に貢献。ワールドカップ地区予選では総得点を27点記録するも、ワールドカップ本大会へは未出場。Jリーグ年間最優秀選手賞1回、得点王1回、ベストイレブンを2回受賞、1993年にアジア年間最優秀選手賞を受賞。釜本邦茂と共に、国際Aマッチ1試合で6得点の日本代表1試合最多得点記録、通算得点記録(55得点)を持つ(2011年時点)。

2012年にはフットサル日本代表としてフットサルワールドカップに出場した。

妻はタレント・ファッションモデルの三浦りさ子、長男は俳優の三浦獠太、次男は格闘家の三浦孝太、いとこにサッカー選手の納谷伊織、親戚にビームス社長の設楽洋がいる他、俳優でDISH//のメンバーの北村匠海は24親等にあたる。

経歴

幼年期

1967年(昭和42年)2月26日、父・納谷宣雄、母・由子の次男(長男は三浦泰年)として静岡県静岡市に生まれた。母方の叔父はサッカー指導者の三浦哲治。知良(かずよし)という変わった読み方の名前は、父方の祖父に付けられたものだという。1973年4月、静岡市立城内小学校に入学。小学時代には、父方の伯父・納谷義郎が監督を務める城内FCに入っていた。小学校4年生の時に両親が離婚。三浦姓を名乗るようになった。

ブラジル時代

1982年12月、私立静岡学園高校を1学年修了を待たずに8カ月で中退。ブラジルに単身で渡航し、CAジュベントスに所属。当時の三浦は身長が低く、テクニックは持っていたものの他に一流と呼べるような強みはなく、指導者達はブラジルでプロのサッカー選手になりたいという三浦の夢は実現不可能だと考えていた。1984年の秋頃、ジュベントスからECキンゼ・デ・ノヴェンブロ(通称:キンゼ・デ・ジャウー)へ移籍した。

1985年頃には夢を諦めた上で日本に帰国することも一時検討したが最終的に翻意し、ブラジルでの下積みを継続した。後に本人が語ったところによれば、ふと寄ったリオの公園で現地の貧しい少年達がサッカーをしている様子を見かけたことが、帰国を思い止まる切っ掛けを作ったという。三浦曰く、その少年達の中には裸足の子や片足がない子もおり、ボールも古く汚いものだったが、皆楽しそうにボールを追っており、その様子を見て、「自分には両足も、スパイクも、いいボールもある。何を俺は贅沢なことを言っているんだ」と思い、帰国を思いとどまったとのことである。同年8月、SBSユースに出場したキンゼ・デ・ジャウーの一員として静岡に凱旋し、当時静岡高校選抜に選出されていた中山雅史、武田修宏らと試合を行った。1986年1月 には、サンパウロ州選手権タッサ・サンパウロ (U-21) に日本人として初出場した。同大会やキンゼ・デ・ジャウーの育成組織で活躍したことが、後のプロ契約に繋がっていった。

1986年2月、サンパウロ州のクラブであるサントスFCと自身初のプロ契約 を結んだ。チームメイトであったドゥンガからは4月9日ジュベントスデビュー戦でのプレーを叱責された。5月にはSEパルメイラスと特別契約を結び日本でのキリンカップでプロサッカー選手として帰国を果たし、ヴェルダー・ブレーメン戦では、後に選手と会長という間柄になる奥寺康彦と数度に渡り激しくマッチアップ、またミランジーニャのゴールをアシストした。

サントスFCでは、同じポジションにゼ・セルジオが居たこともあり、ポジションを奪い取れず、1986年10月にはパラナ州のSEマツバラへレンタル移籍した。翌1987年の2月にはマツバラと正式契約を結ぶと、レギュラーとして南部三州リーグ優勝に貢献し、同年10月にアラゴアス州のクルーベ・ジ・レガタス・ブラジル(通称:CRB)に移籍した。このクラブでも三浦はレギュラーとして活躍し、日本人で初めてブラジル全国選手権への出場を果たした。またこの時「日本のガリンシャ」とも呼ばれ注目された。

1988年、かつてユース時代に所属したサンパウロ州のキンゼ・デ・ジャウーへ移籍。同年3月19日、SCコリンチャンス・パウリスタ戦で日本人としてリーグ戦で初得点を記録し、格上の人気チーム相手に3-2で勝利するという番狂わせ(いわゆるジャイアント・キリング)の立役者の一人。このときの試合はブラジル全土にテレビ中継されていたため、「三浦知良」という日本人の名前がブラジル全土に知られるきっかけとなった。同年にブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の年間ポジション別ランキングで左ウイングの第3位に選ばれた。クラブでの活躍により、三浦はジャウー市から名誉市民賞を贈られている。

1989年2月、エドゥーが監督を務めていた、パラナ州のコリチーバFCへ移籍、チームの中心選手として、パラナ州選手権優勝に貢献した。好調を維持していたこの頃、チーム名は明かされなかったが、40万ドルでイタリアリーグのチームへの移籍の話が出た(三浦は後に記者から、ブラジルの選手を多くイタリアリーグに送り込んでいたスカウトマンが、当時セリエAのコモへの移籍を進めていたという話を聞かされた。)。7月にはブラジルにやってきた日本代表と対戦した。

1990年2月、4年ぶりに古巣・サントスFCへ復帰。サントス在籍時代にマツバラにレンタルされたとき以来、もう一度サントスでプレーして自分の力を証明したいと思っていたこともあり、三浦はサントスへの移籍に際し、他のチームからの移籍の誘いを断り、サントスと交渉した。移籍後にレギュラーの地位を確保すると同年4月29日のパルメイラス戦では1得点1アシストと活躍し、チームも2-1で勝利。翌日のブラジルの新聞はスポーツ紙・一般紙を問わず同試合での三浦の活躍を伝え、この試合の三浦のゴールシーンはブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の表紙を飾った。

ヴェルディ川崎とJリーグでの活躍。ジェノア移籍へ

1990年7月、Jリーグ発足が現実味を増す中、日本代表のW杯出場権獲得に貢献するためにブラジルに残ることよりも代表選考の対象となりやすい日本でプレーすることを決断し、日本サッカーリーグの読売サッカークラブ(ヴェルディ川崎 = 現:東京ヴェルディの前身)へ移籍。当初、周囲の期待とは裏腹に日本のサッカーになじめずなかなか日本サッカーリーグのリーグ戦では活躍できなかった が、時間の経過とともに徐々に順応を見せた。1990年10月28日のNKK戦でリーグ戦デビューを果たすと、PKで初ゴールを決めただけでなく、3つのアシストを決め、全得点に絡む活躍で4-0で勝利、このシーズンはリーグ優勝に貢献して、リーグのベストイレブンにも選出された。1991年3月10日、ヤマハ発動機戦では、三浦泰年のゴールをアシスト、弟から兄へのアシストは高校時代以来であった。1992年4月12日のゼロックスチャンピオンズカップ決勝のトヨタ自動車戦では1ゴールを決めて優勝に貢献した。1992年のJリーグカップでは9月19日のガンバ大阪戦でリーグカップ史上初めてとなるハットトリックを決めると、準決勝の鹿島アントラーズ戦で決勝ゴールを決め、決勝の清水エスパルス戦でも決勝ゴールを決めるなど、ヴェルディを優勝に導き、大会MVPにも選出された。この活躍が評価され、三浦は1992年の日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞した。この年、地元であるエスパルスからのオファーを受け、移籍に前向きな姿勢を示していたが、ヴェルディに残留した。

Jリーグの開幕年となった1993年シーズン、開幕戦ではキャプテンとして出場したが、横浜マリノスに敗れた。第1ステージ、5月26日5節の鹿島アントラーズ戦でJリーグ初ゴールを決めたが、クラブ内の内紛(欧州路線)や、ヘニー・マイヤーがトップで起用されたことにより、序盤は中盤で起用されたことも影響し、18試合5ゴールという成績に終わった。第2ステージからビスマルクが加入。7月17日神戸ユニバー記念競技場で行われたJリーグオールスターサッカーでは2得点を決める活躍を見せ、大会MVPに選出された。その後は調子を取り戻し、自身の結婚式の前日の試合となった7月31日博多の森陸上競技場での第2ステージ第2節ガンバ大阪戦からは6試合連続で得点を記録した。12月8日17節浦和レッズ戦ではJリーグでの初ハットトリックを決め、ニコスシリーズ18試合で15ゴールを挙げ、チャンピオンシップの鹿島アントラーズ戦では第1戦、2戦共にゴールを決め、年間優勝に貢献するなど、シーズンを通して日本人選手ではリーグ内でトップとなる20得点を決める活躍を見せた。この活躍が評価され、第1回のMVPを受賞した他、前年に続き、1993年の日本年間最優秀選手賞に輝き、1993年のアジア年間最優秀選手賞をも受賞した。また1993年12月にはACミラン主催のチャリティーマッチに招待され、世界選抜のメンバーとして先発出場(この様なチャリティーマッチへの日本人選手の出場は、これまで釜本邦茂、奥寺康彦のみであった。)50分間プレー、サイドからのクロスでウーゴ・サンチェスの得点をアシストした。前日には世界選抜に選ばれたメンバーの中で唯一、ACミランの練習に参加した。またこの時、セリエA関係者からの興味が伝えられ、イタリアのマスコミから取材を受けるなど注目を集めた。

1994年には移籍を認めたくなかった渡辺恒雄から、1年間のレンタルということでようやく了承を得て、1994-95シーズン、イタリア・セリエAのジェノアCFCへ期限付移籍し、アジア人初のセリエAプレーヤーとなった。この移籍にはジェノアの会長アルド・スピネッリがプレーぶりを見て魅力を感じたこと、そして商業的な価値を期待してのもので、ジェノアのユニフォームの広告権をケンウッドが獲得したこともあって、加入会見では「スポンサーを得るために獲得したと言われているが、どう思うか?」などと辛辣な質問も浴びせられた。

プレシーズンマッチの地中海カップでは、パナシナイコスFCとACミラン相手に好プレーを見せ、コパ・イタリア2回戦のチェゼーナ戦で先発出場して公式戦デビュー、サンシーロで行われた、ACミランとのセリエA開幕戦において先発出場し、セリエAデビュー、前半途中にバレージとプレー中に激突し、鼻骨骨折と眼窩系神経を損傷してしまい、一ヶ月の戦線離脱を余儀なくされた。

復帰後、第12節のサンプドリアとのジェノヴァダービーで先発出場、マニコーネの浮き球からスクラビーがヘディングで落としたボールを右足アウトサイドでゴール隅に決め、セリエA4試合目の出場で初ゴールとなる、先制ゴールを奪ったが、これがジェノアでの唯一の得点となった。16節のパドヴァとの対戦では、サイド突破からマニコーネの決勝点のアシストをした。第31節のユベントス戦では65分から途中出場したが、退場者が出て10人での戦いを強いられたこともあり、シュートすら打てずに試合終了、代表戦の為、残りの試合とセリエB降格プレーオフには出場せず帰国、また1994年10月にはアジア大会への出場のために帰国したことや(セリエA3試合、コパ・イタリアを欠場。)、度重なる監督交代も影響して、21試合出場(先発10試合)、第19節のフィオレンティーナ戦でのループシュートはクロスバーに当たり得点ならず、また自身の誕生日に出場したナポリ戦など 数回のゴールがオフサイドで取り消されたことなどもあり、シーズン1ゴールのみに終わった。その後、トリノFC、スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガルといったチームからオファーが来ていたが、シーズン終了後にはヴェルディ川崎へ復帰することとなった。ジェノア在籍時にはジェノヴァの名前を日本に広めたことで、市から特別表彰を受けた。3度の監督交代など 様々な事情もあり、成功は収められなかったが、これまでイタリア人がもっていた日本のサッカーとサッカー選手に対しての概念を変えさせ、その後の日本人選手たちのセリエA入りの扉を開いた。シーズン終了後、ジェノアCFCの一員として、横浜スタジアムで行われた、ヴェルディ川崎との親善試合に出場、この試合を最後にジェノアを離れ、ヴェルディへ復帰した。また在籍時の1994年12月にはASローマ対世界選抜の試合に先発出場、裏に抜け出し洪明甫のスルーパスからシュートを放つが、シュートはGK正面に飛び得点は奪えなかった。

その後、三浦はJリーグの1995年シーズン第2ステージから古巣・ヴェルディ川崎に復帰。復帰初戦、8月12日ベルマーレ平塚戦で2ゴールを決めると、9月2日、6節鹿島アントラーズ戦、9月13日、9節横浜フリューゲルス戦でハットトリックを決めるなど、26試合で23ゴールを挙げ、第2ステージのみの出場にもかかわらず得点ランキングの上位に名を連ねた。

1996年のJリーグは初の一シーズン制となったシーズンとなったが、ヴェルディ川崎は7位に沈んだものの、11月6日のジェフユナイテッド市原戦でハットトリックを決めるなど、三浦自身はリーグ得点王になる活躍を続け、第76回天皇杯全日本サッカー選手権大会制覇にも貢献した。また1996年にはFIFAの世界選抜に選出され、ブラジル戦に先発出場した。この年、当時ラ・リーガ1部のCDログロニェスからオファーを受け、ミゲル・アンヘル・ロティーナ監督とも移籍に向けた話し合いをしていたが、年俸などの条件が合わず、移籍は実現しなかった。

ケガによる衰えとクロアチア移籍。京都と神戸での再起

30歳となった1997年シーズン頃から衰えを見せ始めた。この年あたりから以前のようなキレが徐々になくなり、怪我も多くなっていたが、追い討ちをかけてW杯最終予選の韓国戦での崔英一からのラフプレーで尾てい骨を痛めてコンディションを大きく落とす。その怪我の影響から、同年の試合出場数は全試合数の半数に満たない14試合にとどまり、得点数は4点。ヴェルディ川崎も初の二桁順位と、三浦個人・チームともに振るわぬ成績に終わった。

1998年シーズン、新加入のエウレルと高木琢也のツートップを採用したことからMFとしてプレーした。ファーストステージこそ終盤まで優勝争ったが、セカンドステージではベンチスタートになることも増え、1ゴールを挙げたのみに終わった。チームも18チーム中17位と低迷した。年末にV川崎は親会社である読売新聞の事業撤退で大幅な経営縮小のため、高年俸のベテラン選手達のリストラを敢行し、三浦に対しても年俸ゼロ円提示がなされた。

三浦は、2年契約でクロアチアのクラブチーム、クロアチア・ザグレブ(現GNKディナモ・ザグレブ)へ移籍。これはクロアチア・ザグレブに大きな影響力を持った当時のクロアチア大統領フラニョ・トゥジマンの意向が働いたものとされており、戦力としての評価よりも背後のジャパン・マネーを狙った経済的な期待が大きかった。この時チームメートになったゴラン・ユーリッチのサッカーへの取り組み方や考えに影響を受けた。カズはデビュー戦となったムラードスト127戦ではアシストを決めるも、PKを失敗した。5月23日のオシエク戦では退場処分を受けた。ザグレブはクロアチア・リーグで優勝を果たした。シーズン終了後、新たに就任した日本でも監督経験のあるオズワルド・アルディレス監督に戦力外とされ、本人が熱望していたUEFAチャンピオンズリーグへの日本人初出場はかなわず、1999年6月、契約よりも1年早く日本に帰国。1999年5月にはマルセイユで行われた、ジャン・ピエール・パパンの引退試合に招待され、フランス代表と対戦、得点はなかったが、クロスバー直撃のシュートを放った。

1999年7月、イングランド、スコットランドなどのクラブとの交渉がまとまらず、当時元日本代表監督の加茂周監督からの熱心な誘いを受け、京都パープルサンガへ移籍。中村忠と再び同僚となった。加茂監督は「カズはある時期を境に全く得点を挙げられなくなった。何度も話し合いをして原因を究明しようとしたが、解らず仕舞いであった。サンガではストライカーへの原点回帰をさせ、全盛期のカズ程まではいかなくても、ストライカーとして復活出来る様に何とか手助けしたい。」と話していた。復帰初戦のヴィッセル神戸戦で2ゴールを決めた。その後8試合無得点が続いたが、最終節を前にした磐田戦と最終節のC大阪戦でゴールを決めてシーズンを終えた。

2000年は、5月13日の対神戸戦でJリーグ通算100得点を達成、この試合で101点目となる決勝ゴールも決めた。11月23日の古巣ヴェルディ川崎戦でハットトリックを決めるなど、33歳ながら17得点を記録し得点ランキング3位に入るなど活躍する。しかしこのシーズン、京都はJ2へ降格し、自身2回目であるゼロ円提示を受ける。

2001年からは永島昭浩が現役を引退した直後のヴィッセル神戸に所属し、4年間キャプテンとしてチームの最前線に立った。2節のFC東京戦で移籍後初得点を挙げる。11月24日神戸ウイングスタジアムのこけら落としとなった横浜F・マリノス戦では、巧みなトラップで相手DFをかわし、自身を代表するゴールの一つとなるゴールを決めるなど、セカンドステージのラスト4試合でいずれもゴールを挙げ、シーズン11ゴールと健在ぶりを示した。

2002年は代表でもプレーした城彰二や兵庫県出身でもある播戸竜二が加入。2002年1stステージ第3節ガンバ大阪戦では久々にカズダンスを披露した。しかしこのころからフル出場する試合が徐々に減り始める。2ndステージでは臀部の怪我のため長期離脱し、ほとんど出場機会を得られなかった。

2003年はオゼアス・播戸竜二の2トップのバックアッパー的な役割を担うことが多くなり、ベンチスタートとなる試合が増えた。1stステージ8節でシーズン初得点を挙げ、新本拠地での初勝利に貢献した。2ndステージ終盤の残留争いの最中、オゼアスを出場停止で欠き久々にスタメンがめぐってきた鹿島戦では相手ゴール前で素早いターンからこの試合の先制点を決め、ホームでの3か月ぶりの勝利に大きく貢献した。

2004年、1stステージの第11節のガンバ大阪戦でのゴールで、11年連続ゴールを記録。2ndステージに入りエムボマ、平瀬智行らが加入し、ポジション争いは激化。チームは残留争いに巻き込まれたが、シーズン終盤にスタメンを奪取し12節から14節まで3試合連続ゴールを記録するなど、残留争いを続けるチームにあって重要な役割を果たし播戸竜二に惜しみなくアドバイスを送った。また地域貢献の一環として、小学校での訪問授業をこの時期開始した。その後横浜FCに移籍してからも、同様の活動を続けている。

2005年は、開幕からリーグカップも含めて3試合連続ゴールを決めるなどカズとチーム自体も好調なスタートを切ったが、その後チームは低迷し、監督交代が続いた。エメルソン・レオンが辞任し、パベル・ジェハークが就任すると完全に構想から外れ、主将も三浦淳宏に譲った。7月26日に行なわれたボルトンとの親善試合を最後に神戸を退団。

J2横浜FCへの移籍とJ1昇格

38歳となった2005年7月、横浜FCへ電撃移籍。7月30日の水戸ホーリホック戦の後半残り僅かの時間から初出場。8月27日のヴァンフォーレ甲府でのゴールは、移籍後初ゴールとなった。

横浜FCに移籍後間もない11月、2005年に設立したばかりのオーストラリアAリーグ初のゲストプレイヤー(Aリーグの公式戦4試合のみ出場が認められる特別枠選手)としてシドニーFCへ期限付き移籍。シドニーFCは元Jリーガーで、カズの全盛期を対戦相手としてよく知るピエール・リトバルスキーが監督を務めており、2005年12月に日本で開かれるFIFAクラブ世界選手権のオセアニア地区からの出場権を既に得ていた。カズはリーグ戦4試合に出場し当時首位を走っていたアデレードとの直接対決において2得点と結果を残した。チームでのポジションを確保し、FIFAクラブ世界選手権では準々決勝たる1回戦と5位決定戦の2試合フルタイム出場、得点には絡まなかったもののシドニーFCは5位決定戦勝利に貢献、全6クラブ中最下位を免れた。シドニーでの背番号は21番、FIFAクラブ世界選手権では11番を着けてピッチに立ち、前身のインターコンチネンタルカップを含め、日本人として初めて同大会に出場した選手となった。

三浦は、2006年2月からは横浜FCの選手兼任の監督補佐に就任するが登録上は選手扱いである(Jリーグの規定では選手が監督・コーチを兼任することが出来ない)。このシーズン、39試合に出場し6得点、横浜FCのJ1初昇格に貢献した。

40歳となった2007年は、2年ぶりのJ1での戦いとなる。シーズン全34試合中24試合に出場。9月15日のサンフレッチェ広島戦で日本人選手史上最年長ゴールを記録するなどシーズンで3得点を挙げた。12月1日の最終戦浦和レッズとの試合では、引き分けか、負ければ浦和の優勝が決まるという大一番で、阿部勇樹を左サイドで抜き去り、その後のセンタリングから根占真伍の決勝点をアシストして浦和の優勝を阻んだ。なお、横浜FCはこの試合の前にJ1最下位でJ2降格が決まっていた。

2008年はJ2での戦いとなる。シーズン全42試合中30試合に出場し、主に攻撃的MFとして活躍。チーム事情から自身初となるボランチを務めた試合もあった。10月25日にホームで行われた第41節愛媛FCとの試合にて、自身のJリーグ通算150ゴールとなる、シーズン初得点を挙げ、Jリーグ開幕後16年連続得点を記録した。尚、2008年シーズンはこの1得点しか結果を残せなかった。

2009年も横浜FCと契約、第2節ロアッソ熊本戦にてPKで得点を挙げたことにより、Jリーグ開幕後17年連続得点と自身の持つJリーグ最年長得点記録を更新したが、この年の得点はこの1得点のみに終わった。

横浜FCでの出場機会の減少と最年長記録

43歳となった2010年にはかつて所属していたキンゼ・デ・ジャウーから移籍のオファーがあったが、横浜FCに残留した。さらに、神戸時代の2005年シーズン以来となるチーム主将を務めることになった。シーズンでは右脚の負傷 に苦しんで出場機会を大きく減らし、プロ入り以来最少となる10試合、わずか188分(換算して2試合分)の出場にとどまった。出場した際には好調なプレーを見せ、8月7日のJ2第21節ファジアーノ岡山戦で得点を挙げ、Jリーグ開幕からの18年連続得点を記録した。9月26日のJ2第28節カターレ富山戦では、久々の直接フリーキックを決めた。更に12月4日のJ2最終節大分トリニータ戦でこのシーズンで初めて先発し、フル出場して得点を挙げ、自らの最年長得点記録を43歳9カ月8日に更新した。これらの印象深い活躍から、少ない出場時間ながら横浜FCの「サポーターが選ぶ年間MVP」に選出された。

三浦は、2011年はシーズンでは得点を挙げることができず、「J連続得点記録」は18年でストップする。3月29日に行われた東日本大震災の日本代表のチャリティマッチ「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」においてJリーグ選抜に選出され、後半17分から途中出場。後半37分に田中マルクス闘莉王の落としたボールに反応して得点を挙げ、試合前の宣言通りカズダンスを披露した。このゴールは世界に中継され、英語実況では「national treasure Miura」と評された。

2011年12月、カズは横浜FCに所属しながらFリーグ・エスポラーダ北海道にJリーグ選手枠として登録。2012年1月15日の北海道対府中戦の1試合限定で公式戦に出場した。2012年2月、Fリーグ2011poweredyウイダーinゼリーの表彰式で特別表彰を受賞。2012年10月、2012 FIFAフットサルワールドカップ日本代表に選出され、フットサルでも軽快な動きを見せたり、ゴールを決めたりするなど、年齢を感じさせない活躍をしている。

2012年は、J2出場14試合、うち先発5試合に留まった。第16節ガイナーレ鳥取戦でゴールを決め、Jリーグ最年長得点記録を45歳3カ月に更新した。12月22日、JFLのチームでJリーグ準加盟の承認も受けているSC相模原から2年契約で完全移籍のオファーを受けたことを報道された。

2013年1月15日、横浜FCと2年契約を結んだ。シーズン途中の6月にはかつてプレーした古巣東京ヴェルディが獲得を打診していると報道された。同年7月3日、J2第22節栃木SC戦で開始16秒に今季初得点を記録し、最年長得点記録を46歳4ヶ月7日に更新した。また、11月3日にはJ2第39節松本山雅FC戦でゴールを決め、46歳8ヶ月8日に更新した。

2014年シーズンは、6月5日、JFA国際委員を務める梅田邦夫・駐ブラジル日本大使からの要請を受け、日本サッカー協会が三浦をワールドカップブラジル大会のJFAアンバサダーに任命、同月12日に日本を出発、現地時間同月14日の日本対コートジボワール戦を観戦し、同17日に高円宮妃久子JFA名誉総裁と共にイベントに参加するものの、日本代表への同行や合宿地訪問は行わずに同月20日に帰国する予定となった。ただ、シーズン開幕前に左足の付け根を痛めて出場機会を失い、J2はわずか2試合、計4分のみの出場となった。

2015年シーズンは、3月9日に行われたJ2開幕戦ザスパクサツ群馬戦で、9年ぶりの開幕スタメンとして出場。4月5日に行われたジュビロ磐田戦では、ヘディングで先制ゴールを挙げ、自身の持つ最年長ゴール記録を48歳1か月10日に更新した。現役世界年長となったこのゴールは、海外のメディアも取り上げている。かつて所属したイタリアでも「ミウラが日本で奇跡を起こした」「元ジェノアのカズ・ミウラは48歳にもかかわらず日本の2部リーグであるJ2リーグの横浜FCでプレーしている」と報じられた。6月29日、水戸ホーリーホック戦で最年長ゴール記録をまた更新。同年11月11日、横浜FCとの来季の契約延長を発表。カズの背番号に因んで11月11日の11時11分に契約延長が発表された。この契約延長はイタリアやイギリス、スペインなど海外でも話題になり、イタリアのガゼッタ・デロ・スポルト紙は「時代を超越した存在」と称賛した。前園真聖は「還暦(60歳)までやるって言っていましたけど、本当にやるんじゃないか(笑)」とコメントしている。この年はJ2で3ゴールして健在ぶりをアピールしたが、4月に右足、10月に右太ももを負傷して長期離脱。出場は15試合だった

2016年、6月19日に行われた岐阜戦で得点を挙げ自身の持つJリーグ最年長得点記録を更新。さらに同年8月7日に行われたアウェイでのC大阪戦では、69分にチームが2-0で負けている状態で途中出場し、75分に自身の持つJリーグ最年長ゴール記録を49歳5カ月12日に更新するゴールを決めた。また、カズの得点の後、チームは勢いを取り戻し、逆転勝利を挙げた。

2017年は、自身の50歳の誕生日である2月26日に、開幕戦の松本戦で先発し、Jリーグ史上最年長記録をまたもや更新した。3月12日の群馬戦でもゴールを決め、自身の持つJリーグ最年長得点記録を50歳と14日に塗り替えた。この記録はイングランドのスタンリー・マシューズの50歳5日という記録を上回る世界最年長ゴールであり、イギリス紙『ガーディアン』など世界でも報じられ、後に「リーグ戦でゴールを決めた最年長のプロサッカー選手」としてギネス世界記録に認定された。このゴールは、JFLに移籍した2022年1月現在、三浦のJリーグでの最後の得点である。4月15日の第8節までは7試合に先発したが、左膝痛 や左太もも負傷もあって以降は出場機会を失い、5試合に途中出場するにとどまった。

2018年は、42試合のうち39試合にベンチ入りしたが、出場は9試合で出場時間は計59分。シュートは1本で、ゴールはなかった。

2019年3月23日に行われた第5節のFC岐阜戦にスタメンとしてシーズン初出場を果たし、自身の持つJ最年長出場記録を更新した。第8節も先発出場したが、練習中の左太ももの負傷で、以降は出場機会を失った。11月24日、J2最終節の愛媛FC戦で残り3分で途中出場し、J2最年長出場記録を52歳8カ月29日に更新した。チームは、この試合に勝利してJ1昇格を決めた。J2での出場は、3試合計109分で、シュートもゴールも0本だった。

2020年1月14日にチームと契約を更新した。9月23日の川崎フロンターレ戦で2007年以来のJ1でのリーグ戦に出場、 中山雅史のJ1最年長出場記録を53歳6ヶ月28日に塗り替えた。左臀部の痛みで出遅れたこともあり、13年ぶりのJ1での出場は4試合計68分に留まり、ゴールもシュートもかなわなかった。

2021年3月10日、J1浦和戦(埼玉)でロスタイムに1分間出場。自身が持つJ1最年長出場記録を54歳12日へ伸ばした。以降は出場機会を失い、ベンチ入りすらもできない中、11月20日の第36節神戸戦で、横浜FCのJ2降格が確定する。最終的に、J1での出場は1試合1分のみに留まり、三浦の移籍話がメディアで取りざたされるようになった。

JFL鈴鹿移籍とポルトガル2部への挑戦

2022年1月11日、兄・三浦泰年が監督兼ゼネラルマネージャーを務めるJFL所属の鈴鹿ポイントゲッターズへの期限付き移籍が発表された。JFL開幕戦から先発出場が続くが、5月15日のホンダFC戦で右太ももを負傷して、ハーフタイムで途中交代する。復帰は9月4日のヴィアティン三重戦で、4ヶ月ぶりに公式戦のピッチに立った。10月9日の国立競技場でのクリアソン新宿戦では、後半31分から途中出場する。国立での公式戦出場は11年ぶりで、JFL歴代最多となる16218人の観衆が集まった。10月23日の奈良クラブ戦もロートフィールド奈良にJFL歴代2位の14202人が集まり、同チームのJ3昇格の集客案件クリアをアシストした。10月30日、枚方との対戦でPKを沈め、2017年3月12日以来となるゴールを決めた。11月12日、リーグ第29節のFC大阪戦ではダイビングヘッドでシーズン2点目となるゴールを挙げた。最終的にJFLには18試合出場した。

2023年1月16日、鈴鹿への期限付き移籍満了が発表され、横浜FCに戻った後、2月1日、プロ38年目(55歳)にしてポルトガル2部のUDオリヴェイレンセへの夏までの期限付き移籍を発表した。オリヴェイレンセは、三浦の保有権を持つ横浜FCの親会社が経営権を取得したチームである。移籍後は、筋肉系の疲労や炎症が起こり、コンディションを上げるのに苦労したが、4月14日のホームのファレンセ戦で、ポルトガルに旅行へ来た妻の三浦りさ子が見守る中、初のベンチ入りを果たしたが、出場機会はなかった 。4月22日のアカデミコ・デ・ヴィセウ戦では、4-1で大差のついた後半45分から出場、56歳1カ月24日での出場はポルトガル国内のサッカー史において最年長出場となった。 5月16日のトレエンセ戦には3-1の場面で、後半45分の終了間際に出場した。5月28日のリーグ最終戦のレイションイスSC戦に4-2の場面で、後半18分から出場。キャプテンマークを巻いてプレーし、マン・オブ・ザ・マッチを受賞した。だが、レイションイスSCのヴィトール・マルティンス監督はカズのMOM選出を「合計で7ゴールが生まれた試合で、なぜ(得点に絡まなかった)ミウラにマン・オブ・ザ・マッチが与えられたのか理解できない。ここはサーカスになってしまう」と批判した。

2023年7月22日、横浜FCは、三浦のUDオリヴェイレンセへの期限付き移籍期間の延長を発表する。三浦は8月20日のビラベルデンセ戦で、後半のアディショナルタイムに途中出場。2024年2月4日までに4試合計6分出場した。チームは下位で低迷して降格圏に入り、三浦は筋肉系の違和感、ケガがあり別メニュー調整となり、ベンチ外となる。オリベイレンセが15位以上での残留を決めた後、5月19日のレイションイスとの最終戦で0-2の後半14分から今季5度目の出場で、最長となる31分間プレーをした。ゴール正面の三浦の前にボールが転がり込んできたが、ヘディングでパスして逸機。「どうして打たなかったんだ」と声も掛けられた。チームは1-3で敗北。21日には日本に到着し、来季のオリベイレンセ残留の可能性は低いとコメントした。オリベイレンセでの1年4カ月について「プロとして是とすることはできない。僕は『大失敗』もいいところだ。でも、幸福という基準でみれば存外に大成功なのかもしれないね」と述懐している。

2024年7月にアトレチコ鈴鹿クラブ(旧鈴鹿ポイントゲッターズ)へ期限付き移籍。

日本代表

日本代表デビューからドーハの悲劇まで

フル代表デビューは1990年9月26日、第11回アジア競技大会、バングラデシュ戦、先発出場すると、前半4分にPKを奪取、前半26分には長谷川健太のゴールをアシスト、後半15分には倒されて獲得したFKからゴールが生まれるなど、全得点に絡む活躍を見せた。1992年、ダイナスティカップの北朝鮮戦で代表初ゴールを決めた。ハンス・オフト監督の体制下、エースFWとしてダイナスティカップや、AFCアジアカップ1992での優勝に貢献、自身も両大会でMVPを獲得した。

AFCアジアカップ1992のグループリーグ最終戦イラン戦では、後半終了間際に決勝ゴールを決め「魂込めました、足に」とコメントした。決勝のサウジアラビア戦では左サイドからのクロスで高木琢也の決勝ゴールをアシスト、優勝に重要な役割を果たした。

1993年のFIFAワールドカップ・アメリカ大会予選では、1次予選でのバングラデシュ戦で代表初のハットトリックとなる4ゴールを決めるなど、予選合計9ゴール、最終予選では合計4ゴールを挙げ、エースとして活躍した。北朝鮮戦で2ゴールを決めて 最終予選の初勝利に貢献、続く大韓民国戦での決勝ゴールは、日本サッカーが40年もの間超えられなかった壁であった韓国をワールドカップ地区予選で初めて破ったという意味でも値千金であった。最終予選最終戦のイラク戦でも1ゴールを決めたが、ロスタイムに同点にされ(いわゆる「ドーハの悲劇」)、ほぼ手中にしていた本大会出場をあと一歩のところで逃した。このことについて、カズは「(センタリングを上げられた)瞬間、やばいと思った。スローモーションのように球の軌道が見えた」と著書『おはぎ』で語っている。

フランスW杯に向けて

その後、ファルカン、加茂周と監督が代わっても、カズはコンスタントにゴールを決め続けた。1997年6月22日、仏W杯アジア1次予選グループ4第4戦マカオ戦で6得点をあげ、釜本邦茂に並ぶ日本代表1試合最多得点記録を樹立した(2011年時点。FIFA認定記録ではカズ単独)。だが、1997年9月7日の仏W杯アジア最終予選B組初戦のウズベキスタン戦でこそ4得点を挙げたものの、その後ゴールを挙げられず、チームも勝ち切れず、自力での予選突破が消滅した国立競技場でのUAE戦の後には、暴徒化した一部サポーターに罵声を浴びせられ、それに向かっていこうとする姿がマスコミに大々的に報じられた。その理由を「6日後に韓国との試合を控える中で、選手の移動バスを止めたことに腹が立った。」からだと後に語った。韓国戦において、崔英一から受けたラフプレーからの骨折が原因により、以降大きく調子を落としていった。

その後、ワールドカップ本大会初出場を決めたアジア第3代表決定戦のイラン戦(「ジョホールバルの歓喜」と称される)では、2トップを組む中山雅史と共に交代を命じられ、この時カズが「オレ?」と自分を指差したことが話題となった。交代板には11番が先に出たので、「ゴン(中山雅史)なのか? 俺なのか? どっちだ?」と岡田武史監督に確認を取るためのジェスチャーだったが(番組インタビューなどで本人及び城、岡田監督の両者が語っている)、一般的には「まさか俺を交代させるのか?」と言うアピールだとマスコミに解釈をされてしまい、誤解を受けることとなった。またイランも交代の準備をしていたため、11番が日本の事なのかイランの交代に対してなのか判りづらかったと後日出演したTBS『見ればなっとく!』内で北澤豪は述べている(イランの11番であるアジジは交代することなくフル出場する)。 1998年、ワールドカップ本大会に臨む代表候補25人に選ばれ、スイスでの直前合宿に参加、ニヨンとの練習試合ではハットトリックを決めたが、監督の岡田は最後の最後まで悩んだ末に本大会出場メンバーから外す決断をした。そしてミラノでの滞在後、帰国となった(ニヨンの屈辱)。この舞台を切望していたカズが落選した発表はマスコミで大きく報じられた。カズは髪を金髪に染め上げて帰国し、帰国直後に成田国際空港で行われた会見では「日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こうに置いてきた」とコメントした。その後、日本代表はアルゼンチン・クロアチア・ジャマイカと同組になったW杯本戦を1次リーグ3戦全敗、僅か1得点という結果で終えたこともあって、岡田の采配や判断は議論を呼んだ。

岡田が日本代表のコーチ時代に、合宿所の風呂で岡田の後頭部をふざけて軽く蹴り、岡田がメガネを落として怒る。。

また、ジョホールバルでのイランとのフランスワールドカップ・アジア第3代表決定戦での予定外の交代は、試合前のミーティングでの「FKは中田もしくは名波が蹴ること」との岡田監督の指示を無視してカズ自らが蹴ったことで「少し感情的になってしまった」と後に岡田監督は述懐している。

フランスW杯後

フランスW杯終了後、フィリップ・トルシエに監督が交代してからしばらく代表に招集されることはなかったが、京都サンガ時代の2000年から再び代表に招集され5試合でプレーした。2000年2月5日、カールスバーグカップのメキシコ戦で 約2年振りにAマッチに出場、2月16日、アジアカップ予選のブルネイ戦でのゴールは、1997年9月7日のワールドカップ予選、ウズベキスタン戦以来と約2年5ヶ月振りのゴールとなった。2000年6月のハッサン2世国王杯でのジャマイカ戦でのゴールは 代表で最後のゴールとなった。それ以降韓国戦に招集されたが、出場機会がなく本戦のメンバーからも落選。トルシエは2002 FIFAワールドカップにおいて代表スタッフとしてカズの帯同を望んだが、カズは選手としての参加を望んでいた為に実現しなかった。

2004年、当時代表監督を務めていたジーコは、既にアジア1次予選の突破を決めていたことから、興行的意味合いのみならず、若手選手を刺激するために、最終戦のシンガポール戦へ召集したい意向を示していたが、日本サッカー協会が難色を示したことから召集が見送られ、代わりに新潟県中越地震復興支援チャリティーマッチ、ジーコ・ジャパン・ドリームチームのメンバーとしてプレーした。

フットサル日本代表

2012年にフットサル日本代表に招集され、同年11月にタイで開催されるFIFAフットサルワールドカップ日本代表に選出された。10月24日に国立代々木競技場第一体育館でのフットサルブラジル代表戦に出場。日本代表として国際試合に出場するのは2000年以来となった。

10月27日に北海道旭川市の旭川大雪アリーナでのフットサルウクライナ代表戦に出場、前半14分にフットサル選手として初ゴールを挙げた。

2024/06/09 09:33更新

miura kazuyoshi


三浦知良と同じ誕生日2月26日生まれ、同じ静岡出身の人

しろがね しょぉむ(2月26日 ‐ )
2月26日生まれの有名人 静岡出身

しろがね しょぉむ(2月26日 ‐ )は、日本の声優、俳優。うぃなぁエンタテイメント設立者でCEO最高経営責任者。静岡県三島市出身。 演劇集団「勇★遊/シアターどりっずらばーす!」主宰。 静岡県…

KAZUMA(かずま)
1972年2月26日生まれの有名人 静岡出身

2月26日生まれwiki情報なし(2024/06/12 19:48時点)


TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


三浦知良と近い名前の人

三浦 香(みうら かおり)
1979年3月20日生まれの有名人 出身

三浦 香(みうら かおり、1979年3月20日 - )は、日本の舞台俳優、声優、脚本家、演出家。 北海道札幌市出身。玉川大学文学部芸術学科舞踊・演劇コース卒業。劇団「FuncAScamperS 00…

三浦 和人(みうら かずと)
1958年6月10日生まれの有名人 兵庫出身

三浦 和人(みうら かずと、1958年〈昭和33年〉6月10日 - )は、兵庫県宍粟郡波賀町(現:宍粟市)出身のシンガーソングライター。 1958年、兵庫県宍粟郡波賀町に生まれる。兵庫県立伊和高等…

三浦 勝之(みうら かつゆき)
8月26日生まれの有名人 石川出身

三浦 勝之(みうら かつゆき、8月26日 - )は、日本の男性声優。石川県出身。アトミックモンキー所属。 元々はアニメが好きだったことから、中学・高校時代に声優業を知ったが、クラスで「いい声だね」…

三浦 綾子_(アナウンサー)(みうら あやこ)
1977年8月31日生まれの有名人 東京出身

三浦 綾子(みうら あやこ、本名:河野 綾子、旧姓:三浦、1977年8月31日 - )は、株式会社PICANTE所属のフリーアナウンサー。新潟テレビ21(UX)を経てテレビ神奈川 (tvk)に在籍した…

三浦 太郎_(政治家)(みうら たろう)
1928年10月28日生まれの有名人 奈良出身

三浦 太郎(みうら たろう、1928年〈昭和3年〉10月28日 - 2003年〈平成15年〉1月22日)は、日本の政治家。元奈良県橿原市長(5期)。 奈良県出身。1949年〈昭和24年〉摂南工業専…

三浦 太郎_(文化人類学者)(みうら たろう)
1955年1月23日生まれの有名人 東京出身

三浦 太郎(みうら たろう、1955年1月 - )は、日本の文化人類学者、中部大学教授。 三浦朱門・曽野綾子(本名・三浦知寿子)夫妻の長男として東京に生まれる。東京都立三田高等学校、南山大学文学部…

三浦 泰年(みうら やすとし)
1965年7月15日生まれの有名人 静岡出身

三浦 泰年(みうら やすとし、1965年〈昭和40年〉7月15日 - )は、静岡県静岡市出身の元サッカー選手、元サッカー解説者、愛称はヤスで実弟は"カズ"こと三浦知良。弟嫁(知良の妻)は女優の三浦りさ…

三浦 淳寛(みうら あつひろ)
1974年7月24日生まれの有名人 大分出身

三浦 淳寛(みうら あつひろ、本名および選手時代の登録名:三浦 淳宏〈読み同じ〉、1974年7月24日 - )は、埼玉県所沢市生まれ、大分県大分市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポ…

三浦 弦太(みうら げんた)
1995年3月1日生まれの有名人 愛知出身

三浦 弦太(みうら げんた、1995年3月1日 - )は、愛知県豊橋市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・ガンバ大阪所属。ポジションはディフェンダー(DF)。元日本代表。 小学校1年でサッカーを始め…

三浦 優奈(みうら ゆうな)
1993年12月28日生まれの有名人 愛知出身

三浦 優奈(みうら ゆうな、1993年12月28日 - )は、日本のタレント、キャスター、レポーター、ラジオパーソナリティ。愛知県出身。アミューズ所属を経て2021年4月からポッシブルに所属。 大…

三浦 奈保子(みうら なおこ)
1987年5月13日生まれの有名人 東京出身

三浦 奈保子(みうら なおこ、1987年5月13日 - )は日本のタレント。所属事務所はインセント。千葉県出身。桜蔭中学校・高等学校卒業。早稲田大学法学部入学後、仮面浪人を経て東京大学文学部ドイツ文学…

三浦 早苗(みうら さなえ)
1973年8月22日生まれの有名人 神奈川出身

三浦 早苗(みうら さなえ、1973年8月22日 - )は、日本の元女優、元タレント。本名同じ。神奈川県出身。アーティストハウス・ピラミッドに所属していた。 1991年 - アーティストハウス・ピ…

三浦 葵(みうら あおい)
1990年1月15日生まれの有名人 東京出身

三浦 葵(みうら あおい、1990年1月15日 - )は、日本のファッションモデル、女優。福島県出身。 1990年、福島県で生まれる。実妹はタレントの三浦萌。お笑いコンビドランクドラゴンの鈴木拓は…

三浦 綺音(みうら あやね)
1973年5月8日生まれの有名人 静岡出身

三浦 綺音(みうら あやね、1973年5月8日 - )は、日本の女優、元グラビアアイドル、元ヌードモデル、元歌手である。 静岡県出身で、所属する芸能事務所はケイダッシュを経て現在はエムティ企画である…

三浦 リカ(みうら りか)
1958年11月15日生まれの有名人 岩手出身

三浦 リカ(みうら りか、1958年11月15日 - )は、日本の女優。本名は、早島 康代。旧姓は、三浦 康代。夫は俳優の堤大二郎。姉は女優の三浦真弓 。 出生地は岩手県下閉伊郡岩泉町。東京都立代々…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
三浦知良
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

りんごちゃん_(ものまねタレント) 藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手)

グループ

GALETTe E-girls palet GEM 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「三浦知良」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました