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桑田佳祐の情報 (くわたけいすけ)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月18日】今日誕生日の芸能人・有名人

桑田佳祐の情報(くわたけいすけ) ミュージシャン 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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桑田 佳祐さんについて調べます

■名前・氏名
桑田 佳祐
(読み:くわた けいすけ)
■職業
ミュージシャン
■桑田佳祐の誕生日・生年月日
1956年2月26日
申年(さる年)、魚座(うお座)
■出身地・都道府県
神奈川出身

(昭和31年)1956年生まれの人の年齢早見表

桑田佳祐と同じ1956年生まれの有名人・芸能人

桑田佳祐と同じ2月26日生まれの有名人・芸能人

桑田佳祐と同じ出身地神奈川県生まれの有名人・芸能人


桑田佳祐と関係のある人

河内淳一: 2月26日、ニッポン放送のラジオ番組「桑田佳祐のオールナイトニッポン」で企画されたバンド「関口和之とセンズリッターズ」に参加。


渡部健人: 『炎の聖歌隊 [Choir]』桑田佳祐(2023年 - )※奇数打席


マキタスポーツ: 桑田佳祐


矢野武: 桑田佳祐のレッツゴーボウリング 日米オールスター頂上決戦!(テレビ東京)


佐々木恭子: FNS歌謡祭(2007年12月5日)横浜大さん橋より中継、番組内における桑田佳祐専属レポーターだった事が明らかとなる。


辻義就: プロレス好きの桑田佳祐とは親交が深い。


コシバKEN: その後、桑田佳祐、極楽トンボ、田中要次、マイケル・フェルプス、ペリー、黙れ小鳥!など、次々と新ネタを開発。


綾野剛: 桑田佳祐 「Yin Yang」(2013年3月13日)


萩原健太: 1985年、学生時代から面識があった桑田佳祐のインタビュー集『ロックの子』を講談社から刊行。


原由子: このこともあり桑田は原のことを「サザンオールスターズの羅針盤であり、桑田佳祐にとっての灯台」と語っている。


よのひかり: 桑田佳祐のレッツゴーボウリング 日米オールスター頂上決戦!(2019年)(BSテレ東)


吉田拓郎: 桑田佳祐は拓郎に歌での出演を希望していた。


大塚範一: 2012年7月7日、フジテレビが開催する『お台場合衆国』内サンサンアイランド会場内特設ステージで『桑田佳祐の音楽寅さん』(7月11日放送)の公開収録ライブを行った桑田佳祐(『めざましテレビ』の2010年度のテーマソング『EARLY IN THE MORNING』を担当。


石川ひとみ: 桑田佳祐と石川ひとみのなんでもスルー・ザ・ナイト(1981年12月、ニッポン放送)


大里洋吉: 桑田佳祐によると、大里は殆ど雑談をせず、いきなりビジネスの話をブチ込んで来るという。


オーノキヨフミ: 北海道端野町(2006年に合併して北見市)で生まれ育ち、高校2年生の頃に桑田佳祐に憧れてギターを弾き始める。


大西浩仁: その他のものまねレパートリーに桑田佳祐、郷ひろみ、玉置浩二、森進一、新沼謙治などがある。


原田末秋: その後、桑田佳祐、沢田研二、松田優作等、数多くのアーティストとのセッションに参加。


信藤三雄: 2003年、桑田佳祐の「東京」のPVが「SPACE SHOWER MUSIC VIDEO AWARDS “BEST VIDEO OF THE YEAR”」を受賞した。


清水くるみ: 桑田佳祐「涙をぶっとばせ!!」(2013年3月13日)


吉田拓郎: 吉田拓郎によるこれら"本質的な自作自演コトバ"の延長線上に、桑田佳祐や奥田民生がいると、私は考える」などと論じている。


加山雄三: 上記のさだや桑田佳祐をはじめ、山下達郎なども加山の影響を受け、敬愛するミュージシャンも多い。


小島聖: 桑田佳祐『東京』(2002年)共演:中尾彬


豊登道春: 桑田佳祐は1983年、小林克也率いるナンバーワンバンドに「プロレスを10倍楽しく見る方法〜今でも豊登を愛しています」という曲を提供したが、歌詞中にもやはり、「パコン、パコン」と小林克也が絶叫する部分がある。


トミー=スナイダー: その後も2002年頃までサザンオールスターズ、及び桑田佳祐のソロ作品で英語補作詞を担当していた。


世良公則: 1980年には桑田佳祐、山下達郎、竹内まりや、ダディ竹千代と期間限定ユニット「竹の屋セントラル・ヒーティング☆」を結成、ベースを担当している。


グローバー義和: 2002年8月、横浜アリーナで行われた「そんなのありーな!?エピソード3」では、桑田佳祐の似てない物真似を披露。


ダンジー: 桑田佳祐(サザンオールスターズ)


信藤三雄: 桑田佳祐「東京」


小倉博和: 桑田佳祐を中心にして結成された覆面バンド


桑田佳祐の情報まとめ

もしもしロボ

桑田 佳祐(くわた けいすけ)さんの誕生日は1956年2月26日です。神奈川出身のミュージシャンのようです。

もしもしロボ

人物、来歴などについてまとめました。卒業、家族、テレビ、現在、事件、映画、ドラマ、解散、父親、病気、趣味、兄弟、結婚、子役、引退、離婚に関する情報もありますね。去年の情報もありました。亡くなられているようです。

桑田佳祐のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

桑田 佳祐(くわた けいすけ、1956年〈昭和31年〉2月26日 - )は、日本の男性ミュージシャン、シンガーソングライター。ロックバンド・サザンオールスターズのバンドマスターを務め、ボーカル・ギターを担当。神奈川県茅ヶ崎市出身。所属事務所はアミューズ。所属レコード会社はJVCケンウッド・ビクターエンタテインメント、所属レーベルはタイシタレーベル。

鎌倉学園高等学校卒業、青山学院大学経営学部除籍。愛称は、佳ちゃん、スケちゃん、桑っちゃん、桑っちょ、桑田くんなど。身長170 cm。

妻はサザンオールスターズのキーボード・ボーカル担当の原由子、姉は作詞家の岩本えり子。

1978年にサザンオールスターズのボーカルとしてメジャーデビューを果たし、1987年に「悲しい気持ち (JUST A MAN IN LOVE)」でソロ活動を開始した。サザンとソロ活動を交互に行い、ソロとして「波乗りジョニー」「白い恋人達」「明日晴れるかな」などがヒットしている。オリジナル・アルバムは1988年に『Keisuke Kuwata』、1994年に『孤独の太陽』、2017年に『がらくた』など計5枚、ベスト・アルバムは2002年に『TOP OF THE POPS』、2012年に『I LOVE YOU -now & forever-』、2022年に『いつも何処かで』など計4枚、ミニ・アルバムは2021年に『ごはん味噌汁海苔お漬物卵焼き feat. 梅干し』が発売されており、3時代および5年代でアルバム首位の記録を持つ。

楽曲のテーマは幅広く、ラブソング、エロティックな楽曲、生まれ育った茅ヶ崎および日本への強い愛情が表れた楽曲、世界平和などのメッセージが込められた楽曲、反戦歌、プロテストソング、応援歌、コミックソングやナンセンスな楽曲などが存在しており、茅ヶ崎および日本への愛情や誇りを持つ姿勢に関しては後述の通り生まれ育ったことへの感謝の念や日本人としてのアイデンティティを語ったり、古より伝わる日本語や日本の文化の大切さを説く言動をしたり、国旗日の丸の掲揚および国歌「君が代」の歌唱といったパフォーマンスをライブで行ったことでも表れている。楽曲・音楽性・功績はジャンルを問わず広範なミュージシャンから高く評価されている。当初は歌詞の意味に特段のこだわりはなかったが、活動が続くにつれてファンや周囲の反応から心境が変化していき、洗練されたものになっていった。また、後述にもあるように当初は海外のロックやソウルミュージックの影響が強いソングライティングや歌唱法で知られていたが、次第に日本の伝統芸能や歌謡曲に対する研究の成果が現れ、そういった日本的な要素を積極的に取り入れるようになった。Apple Musicからは「『がらくた』の時期には極めて洗練された日本語ポップスの境地へと到達している」と評されている。

世界平和を希求したり、戦時中の兵隊の苦悩や戦死者や遺族などへの思いを馳せた楽曲を発表したり、北朝鮮による日本人拉致問題や新疆ウイグル自治区騒乱の被害者の心情に寄り添う言動を行うなど政治的な側面が存在するほか、エイズ啓発運動であるアクト・アゲインスト・エイズへの参加や、東日本大震災を含む様々な災害の被災地復興支援活動を行っており、2022年には同級生のアーティストらと制作した楽曲「時代遅れのRock'n'Roll Band」で収益の一部をセーブ・ザ・チルドレンに寄付するなど、音楽活動を通して社会的貢献を行っている。

人物

音楽性

自身について桑田は「僕は、男っぷりや人間性、社会性は他のミュージシャンに負けているかもしれない」と謙遜したうえで、これだけは譲れないアイデンティティとして音楽活動を行っている旨を述べている。自身の音楽観について「言い訳が許されない音楽っていうのが一番正しい」と述べており、それは自身にとってはポップスであるとしている。また、桑田は「楽曲というのはその時々の気分を反映したもの」といった持論を述べている。

音楽活動においてソロ・サザンを問わず、メンバーやスタッフとの連携を大切にしており、ライブのリハーサルの際には誰よりも早くスタジオに入り、一人一人に挨拶をして回ることが語られている。レコーディングの際には作ってきた歌詞がついていないメロディのみの曲をギターで弾きながらメンバーやスタッフに聴かせ、各自がコード、リズムパターン、フレーズ、各楽器の音色などを確認し、練習中に投げかけられるメンバーからの質問に丁寧に答え、桑田からもアレンジについての気づいた点を伝えていくなど、綿密な打ち合わせを行っている。この作業で桑田の頭の中にあるメロディをメンバー各自が共有し、演奏に向けたイメージを膨らませていき、アレンジにアクセントを付けながら曲の特徴を出していく。桑田は「曲作りは総力戦です。サザンのメンバーはもちろん、スタッフも、曲作りのきっかけになり得る。誰かの鼻歌や雑談から曲が膨らむのも、よくあること。サザンというのは五人のことじゃなく、数十人のスタッフをひっくるめた総称ですよ」と発言している。制作のモチベーションが上がるきっかけはクライアントやスタッフからの依頼があり、締め切りが明確に存在してからであるといい、自身の立ち位置を「職業作家」と語っており、タイアップ先のコンセプトや内容に合わせて制作することもある。近年はコンプライアンスにも配慮しており、レコード会社やマネジメントの若いスタッフに相談を持ちかけることがある。

ソロとサザンの違いについて桑田は「やってる途中でよくわからなくなってきた」と述べており、ソロのほうが「逆に匿名性が高い」「フェイクしやすい」と述べている。またインタビューで「サザンはサザンの楽しさがあるんですが、ソロは課外授業的な楽しさがあるんですよ」「サザンがあるからこそ、ソロが美味しいのかな」と語ったり、「自分にとってサザンは家庭・家族みたいなものであり、言わばサザンの楽曲はその子供たち。一方、ソロの曲は愛人の子供みたいなもの」と例えたり、武藤敬司とグレート・ムタとの違いを引き合いに出したりしたこともある。また、ソロ活動については「でも僕はずっと仲間とやってきてますから、ソロだけどソロじゃないな、って思うんですけどね」とも発言している。桑田は音楽において名義は重要かつ雄弁に方向性を指し示すものであり、音楽のモチベーションを高める最大の要素であるという持論を語っている。妻の原は桑田のソロとサザンの違いについて聞かれ「ソロ作品は、サザンという名前に縛られず、より自由に私的に音楽表現を楽しんでいるように思います」「その時々の桑田の精神状態でしたり、時代背景が思い出されますね」「素晴らしいミュージシャンの方々との出会いもあって、刺激され新しい扉を次々に開けて、切なくも自由奔放に歌うソロ作品が大好きです」と語っている。

歌唱法はジョー・コッカーや前川清から影響されており、シンコペーションを多用している。学生時代にダミ声が流行しており桑田も声を潰そうと思って声質をより近付けるため、ウイスキーを飲み自宅の部屋にこもって枕に顔を押し付けて大声を出し続けるといったことを行っていた。アマチュア時代および活動初期は日本語と英語のダブルミーニングの歌詞や早口な歌い方を取り入れていた。この歌いまわしは「桑田節」「桑田語」と形容されることがある。桑田の早口の歌い方に視聴者が「歌詞が判らない」と苦情を寄せたことが、テレビの音楽番組において歌詞の字幕スーパー(テロップ)が流される端緒であるといわれており、テレビ局が桑田の歌い方に対応するために音楽番組での字幕スーパー表示を行ったとされる。桑田はかつての自身の表現方法への反省の弁を語ることがあり、近年は楽曲によって自覚的に前述の手法を取り入れたり、明解な日本語で歌詞を書いて丁寧に歌ったりするなど、表現を使い分けている。この変化に関しては「日本人歌手としての自覚が強くなった」と語っている。また、英語や早口な歌い方を用いない美しく明解な日本語の歌詞の楽曲を制作した例では原由子に提供した「花咲く旅路」「京都物語」「旅情」などがあり、桑田は原の歌声の魅力を「日本の原風景を感じさせる要素がある」と考えている。歌の上手さを数値化したり説明したりすることはナンセンスという持論があり、桑田が思う最強の男性歌手は尾崎紀世彦、最強の女性歌手はちあきなおみである。

楽曲の制作はほとんどが作曲した曲に詞を当てはめる「曲先」で行うが、楽曲によっては作詞から先に行う「詞先」の場合もある。作曲はギターを弾きながらメロディを口ずさむアナログな方法で行われており、パソコンを使う作業の大半はスタッフに任せている。このギターを弾きながら行われる作曲作業の際にサビの歌詞の断片が口をついて出てくることがある。その代表的な例として「エロティカ・セブン」「マンピーのG★SPOT」が挙げられている。また、「イヤな事だらけの世の中で」はサビの歌詞とメロディの断片が同時に浮かび、そこから逆引きして楽曲を書いていった。アイディアが浮かぶタイミングは一人で車を運転しているときや仕事先に向かう移動中など、何かを考えながら動いているときが多い。常にICレコーダーを携帯しており、思いつくと録音を行っている。レコーディングは作曲作業と事実上並行する形で楽曲の断片をスタジオに持ち込むところから始まっており、テンポを決めて「クリック」と呼ばれるガイド音を作成したのち、ギターやシンセサイザーを弾きながらイメージを模索し、1つの楽曲としての骨格が見えてきたら仮歌を吹き込み、気になった箇所を歌い直す作業を繰り返していき、桑田の頭の中にある理想のメロディに近づけるために慎重かつ丁寧に突き詰めていく。この制作方法は通称「桑田スタイル」と言われている。以後も各楽器を録音し、作詞をした後にボーカルやコーラスを録音していき、楽曲の完成形を模索する。原由子や坂本冬美などの女性歌手に楽曲を提供する場合は最初に桑田自身のキーで楽曲を作り、レコーディング時にその歌手と共にキーを調整していく。桑田は楽譜を読めず、サザンのメンバーで楽譜を読めるのは原のみである。ICレコーダーが普及する前は楽譜やコード譜などは原が書いていた。ICレコーダーの普及後は編曲や全ての楽器を桑田が担当した「MUSIC TIGER」「素敵な未来を見て欲しい」のように原を頼らない形での楽曲制作やレコーディングが不定期ながら行われることもあった。現在はコード譜に関しては桑田も書けるようになっており、レコーディングに向けたリハーサル合宿では桑田がコード譜をホワイトボードに書き、歌詞がついていない状態のメロディを歌い、それに合わせてメンバーが演奏していき、アレンジを模索していく。また、原由子に提供した「夢をアリガトウ」のレコーディング時には作者である桑田がサポートメンバーの片山敦夫に原のキーに合わせた際のコード進行のイメージを予め伝える場面が記録されている。コード進行が分かるようになってからも、テンションについては原に考えてもらっている。

作詞はソロ・サザンを問わず、エロティックな内容や放送禁止にならないギリギリの線を狙う場合も多く、意味不明なものや辻褄が合わないものもある。本来とは異なる語法を使うことがあり、例えば「Ya Ya (あの時代を忘れない)」「希望の轍」などにおける作詞では「忘れられぬ」を「忘られぬ」と表現している。また、下記の真面目な楽曲や反戦や社会風刺がテーマの楽曲によりアルバムがシリアスになりがちなため、エロティックな作風の楽曲はそのようになり過ぎないようにするためのバランスとしての役割も果たしている。生まれ故郷の茅ヶ崎市や高校時代を過ごした鎌倉市への郷土愛や、気に入っている御霊神社を始めとした鎌倉市周辺の散策コース、自身が好きな街と公言している京都や日本に生まれ育ったことへの誇りを持っている旨などを歌詞のモチーフにすることもある。かつては「自分もアメリカ人やイギリス人みたいになりたい」「いつかなれるんじゃないかって本気で思ってた」と考えるほど海外のロックに憧れていた。1980年代にはバブル景気などの影響も相まって「日本人のポップスやロックが、海外でも通用するんじゃないか」という期待が湧いたこともあり、全編英語詞の楽曲を制作したり、外国人のレコーディング・エンジニアを起用したり、海外のアーティストとコラボレーションするなどの活動を行っている。しかし、海外に出向いての活動を経験すると自信を失ってしまったといい、「向こうの流儀を真似しているようでは、太刀打ちできないのは当然」と思うようになったと明かしている。次第に欧米人になれるわけないと気づき「やっぱり、自分では日本語しか操れないってことが、逆にそれは強い武器になると思うんだ」「だからこそ自分がロックっていう枠組みに向かっていくときには、逆に日本人の良さを出したいというか、和の感じで勝負したいなと思うんです」「日本人として、日本の皆さんに楽しんでもらえる、日本語としてのポップスを作ろうと思った」と方針転換をし、日本語の歌詞を重視した和洋折衷な作品を目指すようになった。日本語で歌詞を書くことについては「日本語ならではのエモーション、情念みたいなものが出やすいと思います」と語っており、例えば奥村チヨの「恋の奴隷」に関しては「今だとありえないような曲ですからね。だけど、道徳と不道徳が歌のなかで相まみえるのは、すごくいい世界だなと思うんです」と述べている。また、2013年のインタビューでは「古来、百人一首や万葉集の頃から、日本語には言い回しや隠れた言葉の裏読みといった、通信機能や暗号のような楽しさがある。たとえば"き"という言葉があるとしたら、それは気や木や記と、イントネーションひとつでいろんな意味へと変換できる。いい歳をして、そんな日本語の凄みにようやく開眼したところなんですよ」と語っている。1998年と2018年にそれぞれ発売されたサザンのベスト・アルバム『海のYeah!!』と『海のOh, Yeah!!』を聴き比べた際に、前者を「英語と日本語を融合させようとあれこれ格闘している跡が見てとれます」、後者を「やっぱり日本語を大切にして歌いたいという気持ちが、全面に出ていますね」と自己分析した。高瀬康一はアルバム『ROCK AND ROLL HERO』への批評文において「西洋の音楽への憧れと、自分の中に流れる日本人の血との折り合い。そんな全ての日本人アーティストが思い悩む課題を、桑田佳祐は完璧にクリアしたと言っていいかも知れない」と評し、小林克也も2017年のインタビューで桑田のことを「日本人の洋楽コンプレックスを解放してくれた男」「明治や大正の文豪に連なる人」と評価している。桑田はインタビューで最近の音楽にハナ肇とクレージーキャッツやザ・ドリフターズが持っていた演芸の要素が乏しいことを嘆いており、日本人のお祭り騒ぎの血や海外の表現を模倣する楽しさをメインストリームで表現することの大切さを語っている。また、スペイン語やハングルを「ミスマッチの仕方が、多少定番とズレている方が面白い」という興味本位な理由で歌詞や映像に取り入れたことがある。しかしハングルを取り入れた「LOVE KOREA」は出自や思想に関するデマがネット上に流れる遠因になった。「愛の言霊 〜Spiritual Message〜」ではインドネシア語のラップの歌詞を書いた。インチキ外国語が主体の楽曲も存在しており、藤村有弘やタモリに少なからず影響を受けた。タイトルについては「名曲に名タイトルあり」「ポップスはタイトルがすべてである」といった言葉を名言と述べており、あまり悩むことなく付けられたタイトルほど楽曲の出来栄えと共にはまり方がよかったとしている。日本人の造語感覚が大いに発揮されているのが邦題であるといい、ピンク・フロイドの「原子心母」(Atom Heart Mother) やニール・ヤングの「孤独の旅路」 (Heart Of Gold) といった邦題を称賛している。以前は作曲家としての自分と作詞家としての自分の棲み分けが微妙であったが、現在は作曲作業とは別に作詞するという作業があることに神聖さと喜びを感じていると述べている。

幅広いジャンルの音楽やミュージシャンの影響を洋邦や年代を問わず受けている。10代のころから広範な洋楽を聴き、桑田自身が言うには「咀嚼じゃなく丸呑み」するように吸収してきた。学生時代に影響を受けたアーティストは、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、エリック・クラプトン、デヴィッド・ボウイ、リトル・フィート、ボブ・ディラン、ニール・ヤングなどがいる。特にビートルズから受けた影響は大きく、姉やピアノを弾いてハモり方を桑田に教えた友人の影響もあり、高校一年の頃には全ての楽曲を覚えていたという。また、奇しくもジョージ・ハリスンが死去した日に開催された『Act Against AIDS 2001 桑田佳祐 plays "The Beatles" クワガタムシ対カブトムシ』の中で「音楽を教えてもらったのはビートルズでした。僕が今日ここ(パシフィコ横浜 国立大ホール)にいられるのも、ビートルズのおかげなんです」といった発言をしている。自著では、種々の音楽をビートルズを基準に聴いていると述べており、ビートルズは「人生の道標」としている。メディアなどではジョン・レノンからの影響を受けた側面が語られる頻度が多いが、実際はポール・マッカートニーから受けた影響も大きく、桑田は「ビートルズは本当はポールが一番好き」「ポール・マッカートニー派」といった旨を度々語っている。亀田誠治は桑田の音楽性について「桑田さんの中にはジョン・レノンとポール・マッカートニーの両方が存在してる気がするんですよ」「いわゆるジョンのディープな精神性と、ポールのポップな音楽性。その両方が絶妙にブレンドされてる」と指摘している。また、このころの桑田は『TBS歌のグランプリ』などの1960年代当時の流行の歌謡番組も欠かさず観ており、美空ひばり、石原裕次郎、欧陽菲菲、辺見マリの楽曲を全部知っていたというほど歌謡曲にも熱中していたが、それを本人が言うには「馬鹿だったから」という理由により当時は周囲に言えなかったことを明かしており、自身が年齢や音楽的なキャリアを重ねたことで「だから今はもう自信を持ってね、歌手として日本人として声を大にして歌謡曲のファン、申し子であることをカミングアウトできるんです(笑)」という心境に至ったことを2007年のインタビューで語っている。2019年にリリースされたBlu-rayボックス『平成三十年度! 第三回ひとり紅白歌合戦 三部作コンプリートBOX大衆音楽クロニクル』の特典のブックレットのインタビューでは「日本の歌謡曲は実に偉大じゃないかと。誇るべきものであって、決して侮れないし、これからもう一度学ぶべきじゃないかって。かつての昭和40年代、50年代、遡って昭和30年代もそうですけど、その時代の歌謡曲や演歌を集めて聴き始めた時に、全部が自分の身体に沁み込んでいる、血肉になっているじゃないかと。まあ、歳をとればとるほど(笑)気付かされるんです」と語っている。また、吉田拓郎、加山雄三、筒美京平、すぎやまこういち、宮川泰の作品やフィラデルフィアポップスにも影響を受け、それらは後の演奏や作曲などの音楽活動の下地になっている。特に吉田拓郎から受けた影響は大きく、桑田が作曲を始めた動機は1972年に富士フイルムのCMソングとして使用されていた「HAVE A NICE DAY」を聴いたことによるものだった。また、桑田は「拓郎さん目標に、憧れて音楽やってきた人、私もそうですけど、いっぱいいます」「おとこ気とかカリスマ性という感じの人じゃなくて、もっと細い、甘酸っぱい、手の届きそうな、頼りになる兄貴のような人物でして。拓郎さん、私もファンでございます。(中略)私は高校1年の時ですよ、『元気です。』『人間なんて』…その風を真正面に受けて、夢を見せてもらいました」などとも述べている。加山雄三は桑田の楽曲に自身からの影響を感じ「似てるな?」と指摘したことがあり、これに対して桑田は素直に「マネしてます」と答えたため、「それで良いんだよ」と進言している。また、桑田はすぎやまこういちの才能や人柄への敬意や思い入れの深さを度々語っており、すぎやまがパーソナリティを務めたラジオ番組を愛聴していたほか、すぎやまが作曲した「君だけに愛を」「学生街の喫茶店」「恋のフーガ」「銀河のロマンス」を『ひとり紅白歌合戦』でカバーしている。特に「学生街の喫茶店」に関しては「ものの見事に完成されたプログレッシブ・ロックなんだよね」と高く評価する発言をしている。また、文部省唱歌、沖縄音楽などの影響も受けており、度々そのイメージを楽曲に取り入れている。1990年代後半にはレディオヘッドに傾倒し「01MESSENGER 〜電子狂の詩〜」「世界の屋根を撃つ雨のリズム」などの当時のサザンの楽曲に影響を与えている。ほかにも尾崎紀世彦、内山田洋とクール・ファイブ、ザ・ピーナッツ、ハナ肇とクレージーキャッツ、宇崎竜童、藤圭子、浅川マキ、弘田三枝子、中島みゆき、坂本九、森繁久彌、加藤登紀子、小林万里子、岡林信康、野坂昭如、早川義夫などのミュージシャンにも影響を受けた。このように様々なミュージシャンからの影響や要素を音楽性に取り入れていくことについて桑田はインタビューの中で「模倣とか妄想とか。この喋り方だって、誰かを真似しているわけだしね。それは最近、しょうがないと思って。オリジナリティってないんですよね、自分のなかに」「自分らしさを訴えていくのは苦しい。好きな人がいっぱいいるというのが幸せ」といった旨を語っている。また、松任谷由実、郷ひろみ、西城秀樹、HOUND DOG、鈴木雅之、松山千春、Chageや「時代遅れのRock'n'Roll Band」で共演した佐野元春、世良公則、Char、野口五郎などの同世代のミュージシャンやaiko、宇多田ヒカル、ゆず、スピッツ、Mr.Children、奥田民生、槇原敬之、福山雅治、長瀬智也、ONE OK ROCK、米津玄師、GLIM SPANKY、YOASOBI、緑黄色社会、Official髭男dism、菅田将暉などの自身より年下のミュージシャンに対しても敬意を表している。THE YELLOW MONKEYに対しては「直球勝負ならイエローモンキーには勝てない」と語り、その音楽性を高く評価している。

国民の生活に寄り添う内容となっている「現代人諸君!!」のような楽曲が存在するほか、いじめや差別などを「飛べないモスキート (MOSQUITO)」「どん底のブルース」の歌詞のテーマにしたり、北朝鮮による日本人拉致問題の解決を求めてソロ名義の「漫画ドリーム07」やサザン名義の「Missing Persons」などを制作したり、新疆ウイグル自治区騒乱といった事件を「漫画ドリーム09」の歌詞のテーマにするなど重大な人権問題の被害者の心情に寄り添う楽曲も発表している。また、拉致問題、ミサイル発射実験、核問題や主体思想といった北朝鮮の諸問題への批判をビートルズの「サン・キング」に乗せて歌う、ボブ・ディランの「風に吹かれて」を意訳して歌う、自身がレコーディングに使用している青山ビクタースタジオに近い明治神宮外苑の再開発計画に対する問題提起を歌った「Relay〜杜の詩」をサザンの楽曲として発表するなど時事問題を歌にすることがある。このように社会を風刺したり世相を憂う趣旨の楽曲も多数存在するが、特別な意図を持って制作していたわけではなかった旨がインタビューで語られており、桑田は「正直、そこまで社会に対して問題意識を抱いていたわけじゃなかった」「ジャーナリスティックな視点でロックやポップスを描くようなトレンドがあって、自分もそこに乗っかっていた」、ビクターのスタッフは「桑田さんは、ミュージシャンである前に一人の日本人だということを昔からよく言っていたので、今の日本の置かれている状況を感じ取って、特別に意図的ではなく、自然な感じで作っていると思うんですよね。桑田さんはあくまで音楽の表現者であり、世の中に対して直接政治的な動きは全くしないでしょうから」という見解を示している。実際に桑田が公の場所で政治的な言動を行うことは非常に稀であり、先述のビクターのスタッフは「一人の日本人としての責任や自覚をしっかり持っているということだと思います」と評している。これについて桑田は2015年にSWITCHのインタビューで「そもそも風刺というのは人を過剰に傷つけるものではあってはならないと思うんです」「僕は何かのデモや運動の先頭に立って旗を振りたいわけじゃない。ただ、それでもおかしいことはおかしいと思うものだし、たまたまそれがきっかけで音楽が生まれたのなら、それを歌えない空気も、そこで歌えない自分も僕は嫌なんです」と語っている。また、明治時代に流行した「オッペケペー節」については強烈に世相を皮肉ったものであり、このような反骨精神や滑稽と風刺の精神が肝心であるといい、闇雲に正義を振りかざせばいいわけではない趣旨を述べている。2021年にYahoo! JAPANのインタビューを受けた際には風刺をする上での『似合う』/『似合わない』や、ビートたけしと明石家さんまを比較した上での芸風やキャラクターによる政治的な発言の『向き』/『不向き』、直接的な政治批判を否定的に捉え、ボブ・ディランの「風に吹かれて」の示唆的な表現を評価した上での『上手い』/『下手』といった分析を行っている。反戦や平和への願いを込め、戦時中の兵隊の苦悩や戦死者や遺族などへの思いを馳せた楽曲も存在している。桑田は「歌を歌うこともある意味語り部のようだと思う」と語ったことがある。

ベース、ドラム、ピアノ、キーボードなどバンドで必要な楽器は、一般に披露することは滅多にないが、一通り演奏できる。ごく一部のソロ作品のレコーディングでは桑田が全ての楽器のパートを担当した楽曲もある。特にベースを弾くことについてはかなり細部までこだわりがあることが語られており、原由子に提供した「夢をアリガトウ」のレコーディング風景にスポットを当てた『桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜』2009年7月19日放送分第12回 「夢のような企画」では、自分が納得するまで余念なくベースのフレーズを追求し弾き続ける桑田の姿が放送された。スライドギターのボトルネック奏法によるソロプレイをレコーディングやライブで度々行っている。

視聴者や観客を冗談や物真似および扮装で笑わせることを重要視している。また、自身のことやこれまでの音楽活動を自虐的に語り、制作した楽曲やアルバムの反省点を述べたり、過去の言動やパフォーマンスに行き過ぎた部分があった場合には自らの非を認めることもある。音楽活動の中で一番好きなのはライブのメンバー紹介で、あの時間だけは永遠に失いたくないと語っているが、一方、音楽活動の中で一番苦手なのはライブであり、ライブという団体競技が性分に合わないことや段取りの大変さ、体調に対する心配などを述べている。

カバーしたい楽曲はあると桑田は公言しており、自身の冠番組『桑田佳祐のやさしい夜遊び』『桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜』やライブ『ひとり紅白歌合戦』にてジャンルやキャリアを問わず洋邦幅広い楽曲のカバーを行っているが、カバーアルバムは制作しないとコメントしている。一方で『ひとり紅白歌合戦』『THE ROOTS 〜偉大なる歌謡曲に感謝〜』のようにカバー曲をメインとした映像作品は存在している。また、藤代冥砂から「消えゆく日本の古い歌、民謡などを桑田さんの声でカバーアルバムとして後世に残してほしいのですが、実現の可能性は?」と質問された際には、「いいですねェ」と前向きな反応を示し、企画が実現する可能性を「期待を込めて70パーセントぐらいでしょうか?」と肯定的に述べていた。

自身が制作した楽曲の中で好きな楽曲は「あなただけを 〜Summer Heartbreak〜」「SEA SIDE WOMAN BLUES」「イエローマン 〜星の王子様〜」「100万年の幸せ!!」と語っている。また、桑田が考える日本の三大名曲として植木等の「ハイそれまでョ」、笠置シヅ子の「買物ブギー」、藤本二三吉の「祇園小唄」を、世界で一番好きな楽曲としてヒデとロザンナの「愛の奇跡」を挙げている。愛唱歌としてビートルズの「イン・マイ・ライフ」を挙げており、無人島に1枚だけアルバムを持っていくとしたらポール・マッカートニーの『マッカートニー』であるといい、中でも「ジャンク」と「恋することのもどかしさ」が好きである。

思想・哲学

桑田は自身の思想について「僕には何か特定の主義もなければ思想もありませんし、右でも左でもリベラリストでもなけりゃ、聖人君子でも何でもない」と述べている。また、桑田は社会風刺をテーマとした楽曲を発表する際には直接的な一つの主張に偏り過ぎず、バランスをとることが大切である旨を度々語っている。ただし、一方でそのすべてが上手くいった訳ではない旨も明かしており、「自分でも『ROCK AND ROLL HERO』などは結構気に入っているけれど、付け焼き刃っぽくて底が浅いと言うか、後悔が残った曲もたくさんあるんです」と語っている。桑田は生まれ育った日本への強い愛情や世界平和を希求する思いを持ち、その旨を楽曲の歌詞に込め続けており、『桑田佳祐のやさしい夜遊び』では「たかが歌なので大した力はないかも知れませんが、私は日本を愛する者ですし、平和を願う者として、“希望の苗を植えていこうよ、地上に愛を植えていこうよ”というメッセージをお伝えしたい」と「ピースとハイライト」の歌詞に込めた思いをコメントしたことがある。桑田を長年取材している音楽ライターの内田正樹は同楽曲を「日本への愛と世界平和への願いを、世代を超えて共有したいという理想が歌われていた」と高く評価している。また、勝谷誠彦は桑田の思想・哲学について「桑田佳祐は右でも左でもない。アナキストなのだ。ただし、愛国者であるなとは、私はときどき感じるのである」と評価している。音楽ライターの兵庫慎司も桑田のことを「基本的に、民主主義と平和と自由を愛し、権力やファシズムを嫌う、すこぶる“ロックなミュージシャン“である」と評している。スージー鈴木は桑田についてロック音楽は何を歌ってもいいと解釈し、日本国憲法が保障する表現の自由および戦後の民主主義を謳歌していると評している。

イデオロギーを問うことはなく、先述した通りすぎやまこういちから加藤登紀子まで幅広いミュージシャンの音楽性に影響を受け、分け隔て無く楽曲や功績を高く評価している。彼らの幅広い楽曲をカバーした『ひとり紅白歌合戦』を映像化するにあたっては、桑田の人望と人脈によりすべての関係者の承諾を得ることに成功している。各界に幅広くファンや友人がおり、桑田は彼らにもイデオロギーを問わず分け隔て無く接している。日本だけに留まらずアジア圏(台湾、香港、韓国など)を始めとした海外のファンも存在しており、彼らにも分け隔て無く接している。また、桑田はレディー・ガガなどの親日家を公言する外国人に対して敬意を払っている。2014年秋に紫綬褒章を受章した際に皇居で拝謁した経験がある上皇・明仁や皇室に対する尊敬の念があることを述べている。なお、皇室関係者では天皇・徳仁がサザンの楽曲を好んでいることが理髪を担当していた人物の証言によって明かされている。

生まれ育った茅ヶ崎市に対する誇りを持っており、2000年にサザンとして行った『茅ヶ崎ライブ』では「茅ヶ崎に生まれて良かったです!!」と感謝の言葉を述べた。高須光聖に「今後、歌を歌ってはならない!という『歌禁止令』が世界で決まりました。最後に1曲だけ歌ってもいいと言われたら、どんな曲をどんなシチュエーションで歌いますか?」と質問された際に、文部省唱歌の「故郷」を挙げ「できたら、母校である茅ヶ崎小学校の、昔の音楽教室で、私の同級生たちと歌いたいなあ」と回答した。後に桑田は『宮城ライブ 〜明日へのマーチ!!〜』で同曲をハーモニカで演奏し、自身のラジオ番組『桑田佳祐のやさしい夜遊び』の生歌のコーナーでも歌唱している。2006年に『ap bank fes '06』に出演した際には「自分の中だけの原風景があるんです。それが『ふるさと』でね。僕のふるさとは茅ヶ崎なんですよ。そこの沼や池の匂い、そして街の肌触りとか、母のぬくもりがずっと心の中に残り続けていて。そういう母性や匂いを作品にしていくこととか、そういう気持ちがエコロジーなんだと思うんです」という思いを語り、実際に2007年には茅ヶ崎での少年時代の思い出を歌った「MY LITTLE HOME TOWN」が発表された。また、サザンの楽曲として2023年に発表された「盆ギリ恋歌」「歌えニッポンの空」「Relay〜杜の詩」は共通したテーマを持つ三部作であるとメディアでは語られている。これらの楽曲はいずれも茅ヶ崎やレコーディングで通う東京・青山をテーマとしたものであり、鍵となる言葉として"ふるさと"がモチーフに取り入れられている。特に「歌えニッポンの空」は『茅ヶ崎ライブ2023』のテーマソングになり、実際のライブでも「ここ(茅ヶ崎市)で生まれて良かったという実に他愛もない新曲を歌わせてください」とMCで語った上で歌唱している。同曲を作詞する上での思いは強く、桑田は「歌詞を作ってる中で、日本人だったら自分の故郷とかね、離れた場所を思うとか、こう気にかけるってことがあると思うんですよね。特に今こう色々、日本中が過疎化してる。で、過疎化して地方から若者が外に出ていく。地方に仕事がないということがずいぶん多いと思うんですけど。そういうことをまあ、多少こう気に留めつつの『故郷』(というフレーズ)なんですけど」「正直やっぱり茅ヶ崎ライブでこの曲を歌っているってことを想定してましたけど、もっと茅ヶ崎だけじゃなくてなんか国民それぞれの『我が家』とか『故郷』という意味でね、そっち(のニュアンス)にちょっと振ったんですけどね」とレコーディング時に語っている。

日本に生まれ育ったことや日本人であることに対しても誇りを持っており、東日本大震災発生から一週間後に放送された自身のラジオ番組『桑田佳祐のやさしい夜遊び』では「日本の国民のみなさんは素敵で優しい人たちだと思う。この国に生まれて良かったなと思います」と発言した。古より伝わる日本語や日本の文化の大切さを説く発言も行っているほか、国旗日の丸の掲揚や国歌「君が代」の歌唱に対しても肯定的であり、ライブ・映像作品・ラジオなどでその姿勢を示している。日の丸に関しては、1984年に日の丸を持ったサザンのメンバーのイラストが及川正通によって制作され、情報雑誌「ぴあ」の表紙になったことがあり、また、サザン名義の「東京VICTORY」の歌詞にも「rising sun」という言葉でモチーフに取り入れられた。その理由について桑田は「戦場にもっていくとか、Show the flagじゃなくて(中略)スポーツとか音楽とか映画とか文化的なもので日本の国旗がたなびく感じ」「”金メダルを獲りました! “とか”頑張れ~!“的な、そんなイメージもあるんですよね」と語っている。同楽曲のタイトルに「東京」を冠したことについては日本の象徴や「母国」「祖国」といった意味合いがあることを語っている。こういったことから同楽曲のタイトルと歌詞に対して日経エンタテインメント!(2018年9月号)では「桑田の日本に対する強い愛情がにじみ出た」と高く評価された。また、発売時のインタビューで「タイトルは東京ですけど、それぞれ自分の故郷を大切にしようと思っていただけたら」「これからは皆が元気で笑顔で日本中が住みやすい街になっていかないといけない」と全国のファンに向けて語ったり、先述した日本中の過疎化や商店街の活気がない街が存在することなどを憂い、「これからはちゃんと地方のことも考えていかないとダメな時代なんだろうな」といった旨を語ったり、自然災害の被災者へのお見舞いの言葉をライブのMCや替え歌で発信し「元気にいこうぜ!!アナタもアタシもこの国も」というメッセージを送ったり、『宮城ライブ 〜明日へのマーチ!!〜』で「ハダカ DE 音頭 〜祭りだ!! Naked〜」を演奏した際に間奏で「子供たちの未来と大事な命を守りましょう!!」と叫んだりするなど、国民の生活に寄り添う発言を度々行っている。2022年の全国ツアー『お互い元気に頑張りましょう!!』の東京ドーム公演で「ヨシ子さん」を演奏した際にはラスサビ前の間奏のラップの内容を変更して東京の名所を讃え、コロナ禍や円安に振り回された日本および戦禍に襲われたウクライナの情勢を憂い、「ブラボーニッポン!!」と叫び国民にエールを送った。

平和や日本的なものという広い意味で「”和”という言葉が好き」といった発言をしており、2013年にサザンとして行ったスタジアムツアー『灼熱のマンピー!! G★スポット解禁!!』で「ピースとハイライト」を演奏した際のように日の丸をはじめとする世界各国の国旗が球体になって転がり、中央にピースマークが登場するという世界平和を希求する映像を取り入れたり、2012年にソロとして行った全国ツアー『I LOVE YOU -now & forever-』のように日本的な和風の要素などをライブの演出に取り入れている。2014年秋に紫綬褒章を受章することが報じられた際には「日本が、そして世界が平和でありますように」とコメントした。桑田の反戦を訴える姿勢は祖母や満州からの引揚者だった父の影響によるものである。桑田は「戦争なんて悲惨なことはもう二度とやるもんじゃないというのは、ともかく親父から刷り込まれました」と語っている。こうした思いおよび歌詞やステージでの演出意図がうまく伝わりきらなかったり、日の丸の掲揚に関連する誤ったエピソードや出自に関する誤った情報などのように、本来伝えたかった意図とは真逆の解釈のデマが流れたことがあるが、これについて桑田は「一部だけ切り取られて、まったく別の意味に受け取られるのは残念だなと。希望とか友好とか、前向きな思いが聴き手に残ってほしい」と語っている。広島県および長崎県に投下された原爆に関して桑田は「人類史上最悪の不条理」と表現している。また、「蛍」や「鬼灯」のように戦死者や遺族の心情に寄り添う楽曲も存在するほか、激動の時代を生き抜いた先人への感謝の念も述べている。ミュージック・ビデオや『第73回NHK紅白歌合戦』で「時代遅れのRock'n'Roll Band」を演奏した際には、ウクライナの国旗と同じ青と黄色の模様がデザインされたギターストラップを着用して歌唱している。同楽曲が制作された2022年にはロシアによるウクライナ侵攻が開始しており、歌詞の内容にも影響を与えている。2023年春に松任谷由実と食事をした際には「世界各国で起きている、さまざまな出来事に対しての憂い」「次の世代へ向けて今の自分たちに何ができるか」といった内容の会話を行い、最終的に桑田とユーミンは共に「今、この世界に必要なのは、争い傷つけ合うことではなく、互いに歩み寄り、穏やかに対話すること」という結論を出した。

日本人の従順さや平和ボケをしている自分たちを戒める発言を行っており、「真夜中のダンディー」「漫画ドリーム」「貧乏ブルース」「汚れた台所」「ROCK AND ROLL HERO」「現代人諸君!!」「いいひと 〜Do you wanna be loved?〜」のようにそうした自戒の念や政治への風刺、マスコミおよびメディアへの批判などを歌詞に込めた楽曲や先述したいじめや差別、北朝鮮による拉致やウイグルの事件など人権問題をテーマにした楽曲も存在している。中野富士見中学いじめ自殺事件で亡くなった男子中学生がサザンのファンであったことが報じられており、この事件に心を痛めていた桑田は当時の墓前に花を供えた。桑田は日本社会の風潮について、文藝春秋(2018年10月号)のロングインタビューの中で「決して何かが解決したわけじゃないのに、なんとなくタブーみたいにして、そっと触らず済ませてしまおうということって多いように思います。それで、ちゃんと見つめてこなかったツケが、東日本大震災のときにまた噴き出してきた気もする」「政治のゴタゴタなんかも含めて、そういうことを言い募ったりすると、ましてや表現の中に織り込んだりすれば、『なんかちょっと変わってるね』『そういうの、あんまり面白くないからさ』と言われがちですが、そうやって未解決のものを積み上げてきてしまったことが、日本の最も弱い部分になってしまっているのでは?」と指摘し、向き合うべき深刻な問題を議論の俎上に載せることを避け、その場しのぎで見て見ぬ振りをしてやり過ごすことを危惧する発言を行っている。

1993年に開催された泉谷しげるの奥尻島救済コンサートおよびAct Against AIDS '93に参加して以来、チャリティー活動にも熱心に取り組んでいる。特にAct Against AIDSではエイズに対する正しい知識を広めるため、桑田佳祐&Mr.Childrenの作品として発表された「奇跡の地球」の収益の全額(約2.4億円)をエイズ対策に使用し、それ以降もコンサート活動やグッズ販売およびそこから得た利益を啓発パンフレットやポスターの制作、教育機関や保健所への発送に充てるなど役割を果たし終えるまで活動に貢献し続けた。事実上最後の参加となった2018年の『Act Against AIDS 2018 平成三十年度! 第三回ひとり紅白歌合戦』ではアンコールの際に原由子から「長い間お疲れさまでした」と花束を贈られている。桑田は25年に及ぶAct Against AIDSでの活動について「当時(1993年)はエイズについての理解も、感染や予防についての情報も、きちんと浸透していなかった。それを少しずつ知っていく過程は"差別"や"偏見"という言葉の意味を、あらためて理解するという点においても、とても良い機会となりました」と振り返っている。また、治療法の進歩による死亡率の激減や正しい知識の浸透により2020年にAct Against AIDSの活動が終了したことについては「今日、治療が飛躍的な進歩を遂げたこともまた、急激な時代の変容のひとつだったといえます。活動当初は想像もしなかった画期的な展開でした(中略)『ひとり紅白』のナレーションでもお話しした通り、AAAの活動の根底には"人の弱さに寄り添う"というテーマがありました」と語っている。

東日本大震災が発生した2011年3月11日に、桑田は妻の原、バンドメンバー、スタッフとともに特番の追加収録をするために東京のNHKのスタジオにいた。直接的な被災はしなかったが、収録は取りやめとなり、桑田は次々と入る悲惨なニュースに心を痛めた。前年に食道がんで入院し手術を受け復帰したこともあって、当たり前の暮らしや人の命の大切さを痛感していた矢先のできごとであり、なおさら胸に沁みたという。また、楽曲やライブの収益を被災地へ寄付するなど、同震災を含む様々な災害の復興支援活動を熱心に行っており、チーム・アミューズ!!名義のチャリティー・シングル「Let's try again」のリリースに際して発表されたコメントでは、犠牲者への追悼の言葉、被災者やその家族へのお見舞いおよび現場で命がけで救援、支援活動を行っている者への激励の言葉を述べている。震災から半年後に『宮城ライブ 〜明日へのマーチ!!〜』が開催され、犠牲者への黙祷を捧げたり、「青葉城恋唄」および先述した文部省唱歌「故郷」の演奏や、「月光の聖者達」のアウトロでの日の丸の掲揚が行われ、「明日へのマーチ」では「願うは遠くで生きる人の幸せ」という部分を「願うは東北で生きる人の幸せ」と歌い、「祭りのあと」のアウトロでは会場のある宮城県のみならずパブリックビューイングが行われた福島県・岩手県および対象外だった青森県・秋田県・山形県といった東北の県名と「ありがとう」という感謝の言葉を叫び、日本および東北へエールを送った。同ライブのDVDに収録されているインタビューでは、被災者の苦しみなどの現実と前向きな表現とのギャップや、「自分の故郷がなくなったらどうなっちゃうんだろう」といった葛藤を述べつつ、桑田にとっての同ライブの大きなキーワードが「故郷」であったことを明かしている。実際のライブのMCでも「あの震災以来なんか、日本がというか、日本中が故郷みたいだなと思った人も多いと思うんですけども」としみじみと語り、会場がある宮城県を「故郷仙台」と称えたのみならず、ライブビューイングが行われた福島県・岩手県のことも「故郷福島でも、故郷岩手でもみんな見てくれてると思いますが、(当時の時点で)一番新しい曲を聴いてください」と述べて慮ったうえで「明日へのマーチ」を歌っている。同ライブ以降、会場となったセキスイハイムスーパーアリーナは"約束の地"としばしば称されるようになり、「震災を忘れない」「風化させない」という思いからサザンおよびソロの全国ツアー初日の会場に選ばれることが多くなっている。2012年には震災で大きな被害を受けた宮城県・福島県・岩手県の復興への願いを込め、同会場にソメイヨシノを3本植樹している。同震災から10年後の新聞のインタビューでは「音楽人として東北に向き合うことが、プライオリティー(優先順位)だと思っています」「『東北復興世代』と言うのでしょうか、東北復興のために活動するというのが、われわれの年代、世代にとっての第一のプライオリティーだと思っています」と述べた。

違法薬物の存在や薬物乱用については批判的な立場で「ドラッグに頼ればいい音楽をつくれるわけでもありませんしね」「(酒席でドラッグの使用を勧められた過去や、時間にルーズ・演奏中に高熱を出すといった薬物使用者の症状を語った上で)そんな風にはなりたくないなと思ったんですよね」「そっちの方向に流されなかったのは、運が良かったのかもね」と語っており、薬物の所持などで逮捕された元サザンメンバーの大森隆志を『桑田佳祐のやさしい夜遊び』で叱責したこともある。

日本の音楽シーンで長く活躍していることについて桑田は「好きな音楽を(2010年の時点で)32年間続けてこれたのは自分の才能とかじゃなく、スタッフやファンのお陰である」「自分は優秀なミュージシャンじゃない。(ファンやリスナーは)自分の手癖を愛してくださってるんじゃないかな」と語っており、福山雅治や平井堅がこのことを証言している。また、ドラマ『Sweet Season』(TBSテレビ)の内容に合わせて「LOVE AFFAIR 〜秘密のデート」の歌詞を書き下ろす際の打ち合わせで「僕は(音楽の)天才じゃないから、ただ(音楽が好きだから)人の三倍は努力するけどね」と発言した逸話も残っている。オファーしたプロデューサーの貴島誠一郎は桑田の姿勢を「桑田さんは努力する才能がある『努力の天才』なのかもしれませんが、そういう意味では『桑田佳祐は長嶋茂雄と同じだ』と思いました」と高く評価した。

2005年にサザン名義で発表したインストゥルメンタルの楽曲「キラーストリート」のことを「もしかしたら音楽の神様がこの曲を私に与えてくれたのかもしれない」と語ったり、2008年に日産スタジアムで開催されたサザンのライブ『真夏の大感謝祭』のMCで「音楽の神様に乾杯!!」「音楽の神様が皆さんに微笑んでくれますように心から祈っています」と観客やファンおよび関係者に向けて叫ぶなど、「音楽の神様」という言葉を度々好んで使う。その一方で無神論者である旨を語ったこともある。

40歳のころに「他者との比較ではなく自分のなかで一番信じられる才能は?」との問いに「17歳のころの感性をいまだに信じられるところ」と答えた。太田光(爆笑問題)はこのエピソードを気に入っており、著書『違和感』で話題に挙げている。

座右の銘として「また逢う日まで」を挙げており、「『こんにちは』でも『さよなら』でもない、けっして重くも軽くもなく、人に対してこんなに気遣い溢れる、さりげない思いやりの言葉、美しい響き」と語っている。また、植木等の「だまって俺について来い」の一節「そのうちなんとかなるだろう」も座右の銘として挙げている。

桑田はサザンを解散させず長く続けている理由として「絶対、サザンオールスターズは解散しません。だってさぁ… もったいないじゃん!」と語っており、2005年に開催した全国ツアー『みんなが好きです!』の東京ドーム公演のMCではサザンの活動について「これからもゆっくり、命ある限り続きますんでよろしくお願いします」と発言している。

ファンや観客への呼びかけとして『宮城ライブ 〜明日へのマーチ!!〜』の終盤のMCで「諦めないで 何事も 無理しないで 何もかも 人生を楽しんでください」と発言したほか、近年のライブではエンディングで「みんな死ぬなよ!」「頑張ろうな!」と叫びエールを贈ることが多くなった。

愛妻家として知られており、自身のラジオで「女の人の意見とかね、女の人の顔色うかがうっていうのは、これ基本ですね。生きる上で」といった発言をしている。2010年夏の食道がんの早期発見は、妻の原や幼なじみの医療関係者などを始めとした周囲の行動の結果であることが語られている。そのため桑田は病状の発覚直後に出演した自身のラジオ番組で「今後は原由子には頭が上がらないでしょう」と感謝の念を発言した。

作詞家としての秋元康の才能を認めており、秋元が作詞した楽曲を『桑田佳祐のやさしい夜遊び』でかけた際には「秋元さん弟子にしてください、稼ぎたい!」「(秋元が)『ザ・ベストテン』で構成作家していた頃に、(桑田が)アルバムを何枚も渡したじゃないか。仕事回してくれよ!」などとジョークを述べたこともある。

1981年にアンネット『アンネシャンテS』のCMに出演。椅子に座った桑田が「僕は男にも生理日があるべきだと思います。ああ、偉大なる女性に感謝」などと語る内容が女性層からの絶大な支持を受けた。当初は5月に2週間だけ放映する予定だったが、再放映を希望する声がアンネ本社に殺到し、「アンコール・キャンペーン」を張る女性誌まで現れ、同年8月から10月まで再放映された。当時男性が女性用生理用品のCMに出演するのは前代未聞の快挙であった。

2013年のサザンの活動の中で映画版『永遠の0』の主題歌のオファーを受けた際に製作途中の映画を観賞し、本人が言うには「手ぬぐいがビショビショになるほど」涙を流し、親しい関係者に「今年No.1の映画になるのではないか」と話し、「蛍」を書き下ろし提供した。情報の解禁に伴い発表されたコメントにおいて「『家族のために必ず生きて帰る。それこそが愛ではないか。』そう信じ、『待っている人がいる』ことそのものが生きる力となり、生きる原動力となっている。現代を生きる私たちにも通ずる、そんな主人公・宮部久蔵の姿に非常に大きな感動をいただきました」と述べた。同曲は原作者の百田尚樹から自身のTwitterで「胸に染みいるような素晴らしい歌」と評価されているほか、サザンファンを公言している弁護士の北村晴男や政治家の山田宏からも高く評価されている。

玉井詩織(ももいろクローバーZ)は自身の名前の由来がサザンの「栞のテーマ」から来ていることを桑田に直接伝えた。桑田はそれを受けて「(僕が)名付け親みたいなもんですね」と自慢し、笑いを誘った。

オカマのことを「男と女のハーフだからニューハーフだね」と、大阪のラジオ番組で「Bettyのマヨネーズ」(パブ)のママに名付け、「ニューハーフ」という言葉を世間に広めた。しかし桑田自身は、自分が広めたわけではないと否定している。

エピソード

ラジオ・パーソナリティとしての評価も高く、特に『桑田佳祐のやさしい夜遊び』では自然体なトークや、楽曲制作の裏話、生歌などを繰り広げている。同番組では度々ユニークな名言及びいわゆる迷言を発しており、先述した思想や語録の一部は番組の中で発せられたものも含まれている。桑田は本番前からメモ書きなどの用意周到な準備を綿密に行い、アドリブでのトークを時間内に終わらせるように気を配っている。

楽曲と同様にエロティックな要素のある発言も多く見受けられており、当初は言葉が出なかった時や、シリアスな生歌や話題の後に照れくさくなると放送禁止用語を唐突に発言することもしばしばあったが、現在はトークのスキルが上がったこともあり、番組内でそういった発言をする頻度は減少傾向にある。

桑田は日本人であり、本人の口からも「やはり僕は日本人」「僕の中にあるのは、当然、日本人の情緒そのもの」と民族的立場を語っている。日本文化や古典への敬意を持っており、四季折々の情景や古語・都々逸・南京玉すだれを始めとした和風要素を楽曲の歌詞やライブの演出に取り入れている。特に歌詞に対してソロの楽曲「影法師」は「トニー・ヴィスコンティ風の幻惑的なストリングス・アレンジをバックに、しかし描かれている世界は俳句のような日本的情緒を漂わせている」と高瀬康一に評価されており、サザンの楽曲「通りゃんせ」は「桑田によって慎重に選ばれた日本語が 美しくも物悲しい鎌倉の四季を描いている。これを言葉の鳴りと流れを重視して力強く歌う事により、妖しさまでをも引き出している姿は圧巻である」とスタッフに評され、原由子に提供した「京都物語」は「京都に久しぶりに行ったときに日本の文化の良さを再認識して、そういうことに触発されてできた」「原さんにぴったりな楽曲」と桑田自身が制作経緯と出来栄えを簡潔に語っている。音楽プロデューサーの亀田誠治はこのような姿勢をとる桑田を「『日本人である』っていうことを最大の武器にして音楽を作られてる方だと思いますね」と評し、歌詞について「すごく日本っぽいキーワードをたくさん使ってる」「日本っていう国が持つ文化とか日本民族の歴史みたいなものを、桑田さんはごく自然に音楽の歌詞としてまとめあげてるんじゃないかっていう気がするんですね」などと高く評価している。また、DVDの冊子に越前和紙を使用したり、自ら春画風のイラストを書き下ろしてTシャツにデザインするなど、ソロ・サザンを問わずDVDやグッズなどにも日本文化や和風要素を意欲的に取り入れている。また、『桑田佳祐のやさしい夜遊び』でも日本の四季・風習や名所の魅力をリスナーから募集し、それを基に桑田が語る企画を度々実施している。

日本人が日本文化を見失ってしまうことへの強い危機感を持っており、そういった思いがあるゆえにビートルズなどの外国の文化への影響を受けている旨や日本的情緒を自身の音楽に積極的に取り入れていきたいことを語った上で「みんな日本人であることをもっと懐かしむべきだよ」と述べたり、サザンの11枚目のオリジナル・アルバム『世に万葉の花が咲くなり』の制作の過程で『万葉集』を読み返し、日本語独特の情緒や情報量の多さに興味を覚えつつ「この言葉を我々はなくしていいのだろうか」といった危機感を持った旨を語ったりしている。2012年にベスト・アルバム『I LOVE YOU -now & forever-』の発売に伴い放送されたWOWOWでのインタビューで「今興味があるのは日本の『和』。そういったものをステージに取り入れられないかと考えているところです」と発言し、著書『やっぱり、ただの歌詩じゃねえか、こんなもん』でも「古の日本文化を、ステージなどに取り入れるのも有りだろう」と同年に開催された全国ツアーの演出案を語り、実際に全国ツアー『I LOVE YOU -now & forever-』でその演出が取り入れられた。また、その後もサザンの15枚目のオリジナル・アルバム『葡萄』の制作経緯を「戦後70年、われわれ日本人の過去から現在、未来にいたるまでの生きざま、考え方を胸にメンバー、スタッフ一丸となって作り上げました」と簡潔にコメントしたり、2015年のサザンの全国ツアー『おいしい葡萄の旅』で百人一首80番(待賢門院堀河作)を朗読するなどの言動がみられている。なお、現在でこそ世界平和や友好を訴え、グローバルな発展などを意識したメッセージを発信しているが、過去には1999年発売の著書『素敵な夢を叶えましょう』の中で「日本はもう一回鎖国したほうがいいんではないかとつねづね思っててさ(中略)だから、貿易は出島だけですればいい(笑)。そうしたら、もう少し日本人の有り様、文化の中身みたいなものを考えるのではないかと。街並みなどもふくめて、とにかく我々は行政などが絡んでくると日本のいいところを捨ててしまいがちな気がするんだ」「中途半端に国際化を唱えるんであれば、いっそのこと鎖国したほうが日本人のパーソナリティには、合ってるんじゃないのかな」といった独自の鎖国論を唱えた時期も存在している。

「声に出して歌いたい日本文学 <Medley>」の制作にあたり様々な日本文学に触れたことが、のちのオリジナル楽曲の制作に大きな影響を与えたことを述べており、同時に日本語の美しさや、ニュアンスの持たせ方、先達の表現力の豊かさに驚いた旨も述べている。また、2012年の全国ツアー『I LOVE YOU -now & forever-』で愛媛県松山市に滞在した際に道後温泉本館を訪れ、夏目漱石を偲んで作られた「坊つちやんの間」を見学した際には「現代のアートなんかでもそうだけど、相当、ぶっ飛んでるものだったんじゃないですかね、ある程度理解不能でも、民衆はそこが魅力でね、喰いついたに違いないと思うんですよ。日本人の言語感覚なり思考回路っていうか、僕は誇らしげに感じましたけどね」と発言している。音楽評論家の岩田由記夫は同楽曲に対し「『声に出して歌いたい日本文学』で彼(桑田)は己の根っこと大人になると何が大切か僕達に教えたかったのだ。これを愛国心と言う」と評価している。

俳句や短歌も好んでおり、『桑田佳祐のやさしい夜遊び』では度々句会を開催し、番組側から指定された季語で季節折々に合わせた俳句や短歌をリスナーから募集した。

2022年の全国ツアー『お互い元気に頑張りましょう!!』では会場に合わせて各地の民謡やご当地ソングを歌うコーナーが存在した。このコーナーは三橋美智也や三波春夫らが歌う歌謡曲や江利チエミが歌う「さのさ」などがテレビで流れたり、父親の鼻歌が「さのさ」や都々逸であったりと、子供時代からそういった音楽を耳にする環境にいたことが影響しており、桑田は「そうしたものが、子どものころから刷り込まれちゃっていたんじゃないですかね」「だから、僕らの年代というのは、ああいうニッポンの歌や民謡が意外とすんなり歌えるんだと思うんですよね」と語っている。

先述した「通りゃんせ」の歌詞に若宮大路の一・二・三の鳥居を登場させたり、御霊神社を散策コースとして気に入っているなど、神社仏閣への参拝に肯定的である。また、毎日仏壇や神棚に手を合わせ、両親や姉の墓参りも積極的に行っている。また、地元である茅ヶ崎では毎年夏に浜降祭が開催されており、サザン名義の「歌えニッポンの空」の歌詞のモチーフになったり、ソロ名義の「MY LITTLE HOME TOWN」で茅ヶ崎甚句の掛け声の音源をサンプリングしたり、2009年に海の家『夏倶楽部』で演奏した際はバックダンサーが法被を着用し小さな御輿を担いだり、2017年の全国ツアー『がらくた』で演奏した際はバックモニターに神輿を登場させ、ステージにいる桑田も担ぐ仕草をして会場を盛り上げるなど、伝統行事や神事への敬意を込めることがある。

ファッションや食の面でも日本的な要素を好んで取り入れており、病気療養を経て2010年12月31日の『第61回NHK紅白歌合戦』にビクター青山スタジオからの中継で出演し本格的に活動を再開した際には、紋付羽織袴姿で「それ行けベイビー!!」と「本当は怖い愛とロマンス」を熱唱した。ミニ・アルバム『ごはん味噌汁海苔お漬物卵焼き feat. 梅干し』を特集した『ROCKIN'ON JAPAN』2021年10月号では和室を背景に浴衣姿の桑田が表紙およびグラビアに登場した。桑田が理想とする和食のメニューとして飯、味噌汁、海苔、漬物、卵焼き、梅干しの6品を挙げている。これらは同ミニ・アルバムのタイトルやジャケットの由来にもなっている。

歌舞伎に対して興味を持っている。桑田は十八代目 中村勘三郎のファンであり、十八代目 勘三郎もサザンのファンであった。十八代目 勘三郎が特発性両側性感音難聴での療養をした際に桑田が手紙でエールを送ったことをきっかけに、双方の間では間接的な交流があった。2012年の全国ツアー『I LOVE YOU -now & forever-』ではオープニングで歌舞伎を意識した演出が取り入れられた。また、サザンファンを公言している四代目 中村梅玉とも京都で出会ったことをきっかけに意気投合し、交流がある。

落語のファンであり、公言しているミュージシャンでは山下達郎やさだまさしと肩を並べる。桑田は落語の魅力を「人間の色気」と形容している。落語に存在する語感に親しみを持っている旨を語っており、歌詞に登場する粋な江戸言葉風のフレーズは落語からの影響が大きいのではないかといった指摘もされている。桑田が少年時代を過ごした昭和30年代から40年代は昭和落語の黄金期といわれており、さまざまなテレビ番組に出演していた落語家達は、当時の日本人には身近な存在だった。特に好きな落語家として立川談志、三代目 古今亭志ん朝、五代目 古今亭志ん生などを挙げている。特に談志への傾倒は相当なものであり、先述した『第61回NHK紅白歌合戦』に出演した際には、談志が発した「ふとした病」というフレーズを借用して自身が病気(食道癌)を乗り越えたことについて語っており、桑田を特集した「BRUTUS」2011年3月1日号では談志が出演した『落語のピン』のDVDを見ている旨を公言している。また、立川志の輔、三代目 桂春蝶、桂雀々らとの共演や交流があることが語られている。三代目 古今亭志ん朝、立川志の輔、桂吉弥、林家たい平、立川志の太郎、立川キウイ、立川志ららなどのようにサザンファンを公言している落語家も多く、特に三代目 志ん朝は自身の告別式の出棺の音楽にサザンの曲が使用されたほどであった。桑田は2016年および2017年に架空の落語家『波乗亭 米祐』に扮して落語を演じた経験がある。桂雀々は桑田の落語を演じる才能を高く評価する発言をしており、『波乗亭米祐』名義で独演会を開催することや新作落語を制作することを桑田にリクエストし、「影響力のある米祐師匠ですから、もっと多くの人に落語の面白さを広めて欲しいと願います」と持ち上げている。

2017年に桂雀々の落語会にゲストで出演していたブレイク前の六代目 神田伯山による講談を見たことを自身のラジオ番組で言及し高く評価した。当時桑田は長年メールでの親交がある太田光(爆笑問題)に伯山のことを教えており、後に太田と伯山は共演する頻度が多い間柄になった。

桑田は学生時代、父に教えてもらった影響からボウリングに傾倒する。憧れていたプロボウラーとして岩上太郎を挙げており、特に学生時代は岩上のフォームの真似を教室で披露したりもしていた。プロボウラーを目指していた時期があり、マイボールを保持しアマチュア公認の試合に出場していた。大人に混じっての公式戦では優勝しトロフィーを獲得。40年以上経過した2017年には実物を発見し写真で公開した。当時は毎週4ゲームずつ投げ、平均の点数は220点ほどあった。また、ボウリング場でアルバイトをしていた経験があり、レーンにオイルを引くなどして、客が来ない早朝には練習もしていた。しかし、ボウリングのレーンの規定などが変わってからフォームが決まらず、そこでプロボウラーになることを諦め、音楽に関心が移っていった。

2016年に親交のあった矢島純一プロに還暦祝いとしてマイボールをプレゼントされて以降はボウリング熱が再燃し、週に一度スタッフと10ゲーム以上プレーしている。その実力は年を重ねても衰えず、1年後の2017年には279点という高記録を達成した。同年には自ら編集長に就任し『Sports Graphic Number』のボウリング特集号『Number PLUS 桑田佳祐×ボウリング特集』(文藝春秋、ISBN 9784160082311)を製作している。

2019年以降は自身の名を冠したボウリング大会『KUWATA CUP』を開催。テーマソングも担当し、「日本ボウリング競技 公式ソング」として日本ボウリング機構から認定されている。

2020年1月31日、自身初となるパーフェクトゲームを達成した。

お笑いや演芸が好きであることも知られており、自らもファンの笑いを誘う発言をステージでするほか、前述の通り落語への造詣が深いことが語られ、お笑い芸人や演芸関係者との親交も深い。

映画館とスーパーマーケットに行くことを好んでいる。また、島田洋七は漫才ブームのころにコンビニエンスストアでインスタントラーメンや弁当、お茶を手にした桑田と偶然遭遇し会話をしており、これがきっかけで桑田の人柄に好印象を持ち、サザンのアルバムを購入し車の中で好んで聴くようになった。

福岡県を拠点に活動するサザンのトリビュートバンドであるKAWAMURA BANDの楽曲「君のメロディ」は、オリジナル曲でありながらも桑田の楽曲の作風を忠実に再現したものであった。同楽曲はボーカルであり作詞作曲を担当した河村和範の実家である『カワムラ家具』のCMソングに起用され、そのクオリティの高さゆえ事情を知らないサザンファンの視聴者から「サザンの新曲か!?」と問い合わせがサザンの公式ファンクラブ「サザンオールスターズ応援団」に殺到した。桑田はこれをきっかけに河村と対面し、労いの言葉をかけた。

有料配信でのバラエティ番組やドラマの鑑賞を好んでいる。また、好きなサスペンスドラマ映画を見たうえで、プロットを楽曲の歌詞のアイディアに応用することもある。アダルトビデオ鑑賞も趣味の一つであり、それを題材にした楽曲も制作されている。MVや雑誌で多くのAV女優と共演したほか、村西とおる監督の型破りな半生を描いた配信ドラマ『全裸監督』をNetflixで視聴したことも語っている。

サーフィンに関しては『稲村ジェーン』制作時は全くやっておらず、1993年に37歳を迎えてから本格的に始めた。パドルサーフィンも好んでいる。

料理が得意。自身の著作に本格的なカレーのレシピを掲載したこともある。レコーディング中は鍋料理をよく作る。スタッフに手料理を振る舞ったこともあり、桑田が言うには「喫茶店風ナポリタン」をよく作る。

食用きのこメーカーや識者の間では桑田はエリンギを日本の食卓に広めた人物と言われており、エリンギの人工栽培が開始された1993年当時は知名度も低く生産も伸びなかったが、桑田が『ミュージックステーション』2000年11月3日放送分でエリンギ料理にハマっていることを公言し、実物をポケットから出した場面が放送されると、エリンギの出荷量が一気に10倍になるなどの反響を呼んだ。

中学生時代には同級生の家族が経営していた中華料理店のサンマーメンを好んで食べていた。また、2016年3月26日に『桑田佳祐のやさしい夜遊び』の企画で宮城県女川町を訪れた際に現地の飲食店「女川海の膳 ニューこのり」で食べたクジラの刺身を気に入っている。

かつてはヘビースモーカーだったが、1999年10月から禁煙。定期検診に通い、スタッフにも人間ドックへ行くことを勧める、暴飲暴食をしないなど、2010年の闘病以前から健康には気を使っていた。闘病後も経過検査の結果を『桑田佳祐のやさしい夜遊び』で語ることがある。

人間関係

同じサザンのメンバーであり、かつ妻である原由子にはミュージシャンとしても一人の女性としても頭が上がらないといい、度々敬意を示し感謝の言葉を述べている。

同学年で長年親交がある世良公則とは双方が「戦友」と語るほどの仲であり、現在もメールでやり取りをしたり、桑田が世良の自宅を訪れたりするなどの交流が続いている。桑田は世良について「ライバルで戦友でもあり大好きな人」「同時期にデビューして、同じようなことで楽しんだり悩んだり、そういうことを共有できたライバルですよ」「いまでもたまに会うと、なんか兄弟と久しぶりに会うときのくすぐったさを感じる」と話している。また、桑田は世良を精神的支柱として頼りにしている旨を語っており、「僕はいじめられたら、世良くんのところに行こうと思って。『世良に言いつけるぞ』みたいな」といった発言もしている。同学年のミュージシャンを集めて行われた「時代遅れのRock'n'Roll Band」の企画は世良との会話がきっかけで生まれたものであり、桑田は後に「世良くんがいなかったら、出来なかっただろうなと思うんです」「世良公則さんとの友情がありまして。思いがけないささやかな友情から、楽曲ができました。ステキなミュージシャンと再会できまして、セッションできたこと、うれしゅうございました」と感謝の言葉を語っている。

佐野元春とは1983年に『元春レイディオ・ショー』で共演して以来、渡米時のニューヨークの佐野の家を桑田が訪れたり、文通を行うなどの交流を行っている。また、佐野も桑田の才能を認めており、自身が司会を務めた『佐野元春のザ・ソングライターズ』(NHK教育テレビジョン)で真っ先に桑田に出演オファーをしたが、食道がんで休養していた時期と重なったためにいまだに実現していないといったエピソードがある。

桑田は同世代であるHOUND DOGに対して高い評価を与えており、1980年に『80's JAM』で共演した際のHOUND DOGの印象として「大友(康平)が客をノセるのが上手くてね」「ステージ裏から観ててアイツらには完全に食われそうでヤバいなと思ったんだけど、なるべく顔に出さないようにしてた」と語っている。現在もボーカルの大友康平とはメールや電話での交流を行っており、大友が「時代遅れのRock'n'Roll Band」のMVにドラマーとして出演したのは、桑田からの電話でのオファーがきっかけである。

桑田は西城秀樹への尊敬の念を持っており『ひとり紅白歌合戦』で楽曲を度々カバーしたほか、1995年のサザンのライブ『ホタル・カリフォルニア』ではオープニング・アクトとして西城を出演させている。西城の訃報が報じられたことを受け、桑田は2018年5月20日放送の『桑田佳祐のやさしい夜遊び』にて西城を追悼するコメントを述べ、ライブでのエピソードや西城の人柄を語ったうえで、生歌のコーナーで「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱し、同年5月26日に行われた西城の告別式にサザンオールスターズとして弔電を届けている。また、『Act Against AIDS 2018 平成三十年度! 第三回ひとり紅白歌合戦』でも西城への追悼として「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱した。

桑田は松山千春の音楽やトークの才能を高く評価する発言を度々している。松山も桑田の楽曲を聴いている旨を語っている。二人とも同学年で野球やプロレス観戦という共通の趣味を持ち、草野球で対戦したこともある。また、双方ともに『オールナイトニッポン』のパーソナリティを担当した経験を持っているという共通点もある。また、松山は「時代遅れのRock'n'Roll Band」には参加していないが、前述した桑田と世良公則の会話の中ではメンバー候補の一人として話題に挙げられていた。

鈴木雅之とは「ソウルメイト」と称するほどの仲であり、東京・赤坂の日枝神社で行われたラッツ&スターのメンバー5人の合同結婚式に桑田が出席したり、鈴木が『桑田佳祐のやさしい夜遊び』にゲスト出演するなどしている。

CHAGE and ASKAとはかつては『ミュージックステーション』などで共演し交流があった。桑田は現在もChageのことを気にかけており、楽曲を『桑田佳祐のやさしい夜遊び』でかけている。

同郷の先輩の加山雄三とは、双方の父親同士が友人関係にあったこともあり、幼少のころから縁が深い。桑田がミュージシャンになってからは自身が主催した2006年の野外音楽イベント『THE 夢人島 Fes.』で共演したり、2014年の加山のライブに桑田がサプライズ出演するなどの交流があり、プライベートでは電話でやり取りをする仲である。桑田は『桑田佳祐のやさしい夜遊び』『ひとり紅白歌合戦』などで度々加山の楽曲をカバーしているほか、サザンとして開催した『茅ヶ崎ライブ2023』では「夕陽は赤く」「君といつまでも」を登場曲にした。

堺正章は鎌倉学園高等学校の先輩にあたり、サザンが「TSUNAMI」で『第42回日本レコード大賞』を受賞した際に共演している。桑田は堺への敬意から度々「あの時君は若かった」(ザ・スパイダース)や「さらば恋人」をカバーしている。

桑田が作曲をするきっかけとなった吉田拓郎とは良好な関係を築いており、吉田も桑田のファンである旨を語り、サザンの才能や影響力を称えている。また、桑田と長渕剛の間に確執が生じた際には「ボクは桑田クンのファンとしていえば、桑田クンは何も説明しなくてもいい、謝る必要なんてない」などと桑田の肩を持つ発言を行い、長渕をトーンダウンさせた。

桑田は宇崎竜童を尊敬しており、宇崎をモデルにした「Hey! Ryudo! (ヘイ! リュード!)」がサザンの楽曲として存在するほか、1990年の著書で歌謡曲の衰退を憂いた際に「あんなに大好きだったのに、俺の中での愛すべき歌謡曲は75年のダウン・タウン・ブギウギ・バンド『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』以降、ほとんど出てないですね」と発言している。また、2009年の『桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜』のアンプラグドライブ企画で同曲の替え歌をメンバー紹介を兼ねて歌ったり、山口百恵に提供した「プレイバックPart2」を『Act Against AIDS 2018 平成三十年度! 第三回ひとり紅白歌合戦』でカバーするなどしている。宇崎との縁はデビュー前に遡り、桑田が宇崎の楽屋にデモテープを持参して挨拶をし「事務所に入れてくれないか?」と打診したエピソードがある。宇崎の事務所に入ることは叶わなかったが、デビュー後には宇崎が原由子に「うさぎの唄」という楽曲を提供するなどの交流が生まれている。

松任谷由実とは1986年と1987年に『メリー・クリスマス・ショー』で共演し「Kissin' Christmas (クリスマスだからじゃない)」を共作した。以降は特段の交流がなかったが、2018年の『第69回NHK紅白歌合戦』で31年ぶりに再会し「勝手にシンドバッド」の歌唱中に実現したツーショットが話題となった。その後も交流が続き、2023年には先述の楽曲のリメイク版「Kissin’ Christmas (クリスマスだからじゃない) 2023」が制作された。

忌野清志郎とは1983年のライブイベント『北海道スーパージャム'83』や『メリー・クリスマス・ショー』、1993年に開催された泉谷しげるの奥尻島救済コンサートなどで共演した。以降は共演はなかったが桑田と忌野は互いを認め合う良好な関係を続けていた。2009年5月に青山葬儀所で営まれた忌野の告別式には桑田・原夫妻が参列した。

泉谷しげるはアルバム『吠えるバラッド』の収録曲に桑田を『JOHN PAUL MacLENNON(ジョン・ポール・マッカレノン)』という名義でスライドギター奏者として参加させている。また、『メリー・クリスマス・ショー』や1993年に開催された奥尻島救済コンサート、93年及び94年のAct Against AIDSコンサートなどでも共演した。桑田は『桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜』の網走刑務所慰問ライブや『桑田佳祐のやさしい夜遊び』の拡大版などで泉谷の楽曲「春のからっ風」をカバーしている。

内田裕也は桑田の才能を認め、『New Years World Rock Festival』への出演オファーを度々かけていた。しかし、サザン及び桑田ソロの年越しライブと重なり出演が実現しなかったことを内田の没後に桑田が明かしている。

アマチュア時代にサザンとして新宿ロフトでライブを行った際にもんたよしのりと共演し、「勝手にシンドバッド」に対して「あれは最高にいい曲やぁ」と高評価を受けた。後に桑田はもんたについて「部外者で最初に誉めてくれたのはあの人ね」と語っている。また、もんたは桑田・原夫妻の結婚披露宴にも出席している。

サザンのデビュー当時には甲斐バンドとも接点があり、1978年7月23日に日比谷野外音楽堂で開催した甲斐バンドのコンサートにサザンがオープニング・アクトとして出演したほか、ボーカルの甲斐よしひろはデビュー前後から「勝手にシンドバッド」を高く評価する発言を当時自身が担当していたラジオ番組『甲斐よしひろの若いこだま』(NHK-FM)でしていた。

サザンとして出場した際の『NHK紅白歌合戦』では三波春夫と2回共演しており、特に2回目にあたる1982年の『第33回NHK紅白歌合戦』では桑田が三波を真似ながら「チャコの海岸物語」を歌い物議を醸した。しかしながら会場のウケは良く、得点集計コーナーで桑田と三波が並んだ際は客席から大爆笑が起こった。当の三波はこのパフォーマンスを寛大に受け止め、桑田の芸に対する真摯さと人柄を称え、「(デビューから数えて)20年の歳月は、人間の心を知る見事な歌手を育てました」「更なる精進と活躍を祈ります」と今後の活躍を期待するコメントをサザンが20周年を迎えた1998年にしている。

中村雅俊と親交が深く、桑田が「マーマレードの朝」「恋人も濡れる街角」「ナカムラ・エレキ・音頭」を中村に提供したほか、桑田が2016年3月26日に『桑田佳祐のやさしい夜遊び』の企画で宮城県女川町を訪れた際に出身者である中村に報告のメールを送っている。なお、桑田は古くからの中村の大ファンであり、主演ドラマである『俺たちの旅』を熱心に見ていたことが語られている。

桑田・原夫妻と山下達郎・竹内まりや夫妻は公私ともに長い家族ぐるみでの交流があり、山下・竹内の楽曲には後述のように4人でコーラスを入れたものが存在するほどである。

桑田・原夫妻の長男や山下・竹内夫妻の娘と同じ学校だった縁から依布サラサおよび父親の井上陽水とも交流がある。特に依布は桑田のソロやサザンを問わずライブが福岡で開催されると会場に訪れたり、楽屋で挨拶をする関係になっている。

生前の高橋幸宏と家族ぐるみでの交流があり、桑田の自宅に招いては酒を飲んだり、サイコロゲームをしたり、お互いに好きなビートルズの楽曲をセッションしたりするなどの仲であった。

アミューズの後輩の福山雅治とはメールでのやりとりを行っており、度々その内容が双方から語られている。桑田は福山への誕生日プレゼントとしてギターを贈ったことがあり、のちに福山の楽曲「18 〜eighteen~」のレコーディングで使用されたエピソードが存在する。

神木隆之介はかつて同じ事務所だったこともあり、子役時代から「彩 〜Aja〜」のMVへの出演やフェスでの共演などでサザンとの縁が深かった。双方がボウリングを特技としていることもあって、2017年の『Number PLUS 桑田佳祐×ボウリング特集』で共演し、これをきっかけに親交を深めることになり、以降桑田は神木に「桑田くん」と呼ばせるようになった。

サザンファンを公言し『ミュージックステーション』などで度々共演の機会があるaikoはサザンビーチちがさきで不定期に行われる無料ライブ『Love Like Aloha』で桑田のソロ名義やサザンを問わず幅広く楽曲をカバーしている。桑田はaikoのことを「素晴らしい子です」と称える発言をしており、2013年に開催された『Act Against AIDS 2013 昭和八十八年度! 第二回ひとり紅白歌合戦』ではaikoの楽曲「カブトムシ」をカバーしている。

サザンファンを公言する平井堅は大学生時代に、桑田の自宅の門の上に「コーラスでいいので雇ってください」という弟子入りを志願する趣旨のメッセージを入れたデモテープを置いていった経験がある。のちに平井と桑田は2003年の『桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜 サザンオールスターズスペシャル』(『FNS27時間テレビ みんなのうた』内での放送)や『桑田佳祐のやさしい夜遊び』2012年5月19日放送分で共演を果たし、後者では前述したデモテープの音源も放送された。

フォークデュオのゆずは2人とも桑田の大ファンであり、ラジオ番組に「桑田さんとセッションがしたいです」と手紙を送ったところ、後日桑田は本当にゆずの路上ライブに出向き、3人でセッションをしたといわれている。その後はゆず、ユースケ・サンタマリア、KEIKO(globe)、こずえ鈴らが出演した1998年6月28日放送のスペースシャワーTVの特番『電リク野郎ELVISスペシャル“オール サザン 電リク”』や『ミュージックステーション』でも共演するようになり、桑田がゆずの楽曲「ヒカレ」を高く評価したり、北川悠仁が好きなサザンの楽曲として「素敵な夢を叶えましょう」を挙げるなど、双方が才能を認める発言をしている。

落語会に訪れたり、DVDを鑑賞したことをきっかけに桑田・原夫妻共に三代目 桂春蝶のファンであり、特に桑田は春蝶とメールでの交流を持ち、「月光の聖者達」を知覧特攻隊をテーマにした新作落語「明日ある君へ ~知覧特攻物語~」のエンディングテーマとして使用することを許可したり、落語会の終演後に食事に連れて行ったり、サザンのライブの打ち上げに参加させ、メンバー・大里洋吉・スタッフの前で落語を披露させたりしている。

桑田はタモリ・ビートたけし・明石家さんまのいわゆるビッグ3全員に楽曲を提供した唯一のミュージシャンであり、それぞれと良好な関係を築いているが、特にタモリとは『今夜は最高!』や『ミュージックステーション』などの番組で共演頻度が多く、音楽性を高く評価されている。

桑田は嘉門タツオの芸名の名付け親であり、サザンやソロの楽曲を嘉門の持ちネタである替え唄メドレーに使用することも容認している。一方の嘉門も桑田を恩人として慕っており、敬意や感謝の念を語ったり、サザン・ソロ問わずライブに足を運ぶなどしている。

内村光良(ウッチャンナンチャン)とは1989年にフジテレビ系バラエティ番組『夢で逢えたら』に出演して共に出会い、以降共演の機会が多く、メールでの交流もある。桑田は『第69回NHK紅白歌合戦』で共演した際の内村の人柄と司会ぶりを「ウッチャンは温かいよね。芸能の神をまつる紅白の神主はウッチャン」と『桑田佳祐のやさしい夜遊び』で高く評価している。

爆笑問題とは1998年のサザン20周年記念特番『バカさわぎの腰つき!!』(TBS系列)及び『1998 スーパーライブ in 渚園』へのゲスト出演をきっかけに交流が始まり、特に太田光とはメールでのやりとりを行う間柄になっている。桑田は年下の太田のことを理由は不明だが「兄貴」と呼んでいる。桑田は爆笑問題の漫才のファンであり、太田の誘いを受けて原と共にタイタンライブに足を運び観覧したり、『爆笑問題の検索ちゃん』や『バクモン学園』(共にテレビ朝日系)を始めとした出演番組を楽しみに視聴していることや、番組の感想を太田にメールで送るなどのエピソードが語られている。太田も桑田の新曲がリリースされると一曲ずつ丁寧に感想をメールで送っており、『桑田佳祐のやさしい夜遊び』で紹介されることもある。また、桑田はサザンの活動に関する重要な情報を解禁前に太田に教えることがあり、その代表的な例として2008年の無期限活動休止や2013年の活動再開の際のエピソードが双方の口から語られている。特に後者の情報が解禁された際に桑田は「今まで(発表できずに)苦しかったというか。みんな口堅いね。絶対バレると思ってたんですけどね。抜かれるだろうと」「爆笑問題の太田さん、黙っててくれてありがとう」と『桑田佳祐のやさしい夜遊び』でコメントした。

同じ美容院に通っていることがきっかけで、サザンファンを公言するさまぁ〜ずと交流がある。三村マサカズは自身がデザインしたTシャツを桑田へプレゼントしたことがあり、サザンの映像作品にも桑田がそのTシャツを着た姿が映されている。また、桑田は『桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜』の収録中に前述の美容院の美容師を通して「なんかいいボケがないか、大竹ちゃんに訊いてくれる?」と尋ねたこともあったといい、収録では大竹一樹が提案したボケを行なったものの、オンエアではその部分がカットされたという逸話が存在する。

サザンファンを公言している伊達みきお(サンドウィッチマン)は『宮城ライブ 〜明日へのマーチ!!〜』のDVDを高く評価する発言をブログで行った。この記事は『桑田佳祐のやさしい夜遊び』2012年3月10日放送分で紹介されており、桑田・原夫妻も知っている。桑田は同年の全国ツアー『I LOVE YOU -now & forever-』セキスイハイムスーパーアリーナ公演でも前述の記事に言及した。伊達もブログの読者からのコメントを通してこのことを知っており、桑田と教えてくれた読者に感謝する発言を行った。なお、この時点では桑田とサンドウィッチマンは面識がなく、初めて共演したのはサザンが「究極の大トリ」として出演し、サンドウィッチマンが副音声で出演した2018年の『第69回NHK紅白歌合戦』だった。

桑田はナイツのファンであることを『桑田佳祐のやさしい夜遊び』で公言しており、これがきっかけで「KUWATA CUP 2020」の実行委員会が同大会の公式アンバサダーをオファーした結果、ナイツが就任した。

矢部浩之(ナインティナイン)やせいや(霜降り明星)のようにサザンファンを公言する著名人が結婚を発表した際には『桑田佳祐のやさしい夜遊び』で生歌を贈ったり祝福のコメントをすることがある。

格闘家の角田信朗はサザンの大ファンであり、「桑田佳祐というアーティストの熱狂的な信者」を自認している。1996年のスタジアムツアー『ザ・ガールズ万座ビーチ』横浜スタジアム公演の楽屋で挨拶をして以来桑田とは交流があり、2000年の年越しライブ『ゴン太君のつどい』では客席で観覧していた角田を桑田が発見し、ステージに上げている。桑田は「サザンオールスターズ特別名誉会員」という称号を角田に与えている。

小説家の角田光代は15歳の時に『NUDE MAN』を聴いて以来ライブに通っていたほどのサザンファンである。また、桑田は角田の小説を愛読しており、その旨が『桑田佳祐のやさしい夜遊び』で語られていたことを知人から伝え聞いた角田は自身の小説と手紙をアミューズへ送った。後日、桑田はお返しとして万年筆と本への感謝の意を記したカードを送っている。これをきっかけに角田・河野丈洋夫妻は2012年に行われた桑田の全国ツアー『I LOVE YOU -now & forever-』横浜アリーナ公演へ招待された。この際に角田・河野夫妻は桑田の楽屋に通され挨拶を行っており、後に桑田はスタッフから「角田さんがお見えになりました」という言葉をかけられた際の顛末を自身のラジオ番組で「マッチョな方の角田(信朗)さんだと思ってた」などと笑いを交えながら振り返っている。後に角田信朗もこのネタを自身のInstagramで言及している。

桑田は上沼恵美子の大ファンであり、YouTubeチャンネルを見ていることを公言し『桑田佳祐のやさしい夜遊び』でも「上沼恵美子は天才」と語っている。同番組のリスナーから多くの報告があったことをきっかけにそのことを上沼本人も知っている。

黒柳徹子とはTBSテレビ系の音楽番組「ザ・ベストテン」に、桑田がサザンの一員として出演して以来、親交が深い。サザンが2ndシングル「気分しだいで責めないで」で出演した際、桑田が歌の間に「ノイローゼ、ノイローゼ」と叫んでいたのを聞き、桑田への同情と司会者として出演者をかばわなければいけないという意識が働いたことにより、黒柳がとっさに「みなさま息子が失礼いたしました」と言えばいいと考え、それ以来桑田を「息子」と呼ぶようになり、桑田もその後黒柳を「お母さん」と呼ぶようになった。また、黒柳は原由子のことを「嫁」と呼んでいる。

SMAPとは音楽番組で度々共演し、1997年にはメンバーの香取慎吾と原由子のデュエット曲「みんないい子」を制作・提供した。桑田はSMAPをリスペクトしており、SMAPの楽曲「夜空ノムコウ」「Dear WOMAN」を気に入って弾き語りでカバーしていた。SMAPの解散後の2018年に開催された『平成三十年度! 第三回ひとり紅白歌合戦』ではサザンのメンバーが5人揃って「世界に一つだけの花」を歌唱した。また、SMAPも2016年にサザンの「涙のキッス」をカバーしている。なお、SMAPのマネージャーを担当していた飯島三智はサザンのファンである旨が語られている。

野球選手では長嶋茂雄を敬愛している。青学時代には長嶋の引退試合を青山の喫茶店で見ており、一つの時代の終わりを感じたのと同時に長嶋の人生と桑田自身の人生を比較し、人目をはばからず号泣したと語っている。この思い出を基にサザン名義で「栄光の男」を制作している。このことを知った長嶋は桑田の人柄と功績を「素晴らしい。歌をはじめ、他の面においてもすごい方」と称えており、同楽曲に対しても「桑田さんの素晴らしい音楽に私の野球がいくらかでも貢献できたと思うと大変うれしい気持ちです」とコメントしている。また、桑田はイチローに対しても敬意を持っており、2019年のサザンの全国ツアーで同楽曲を演奏した際には、本人サイドの許可を得た上でバックモニターに長嶋とイチローの映像が映され、2人の功績を称える演出を行った。イチローはサザンの楽曲を好んで聴いていることが報じられたことがある。桑田は引退してからのイチローについて「マリナーズのみならず、草野球をやったり、アマチュアを指導するための研修を受けたり、今後、何を目指していくのかというこだわりも特別で、そういうところも素晴らしいじゃないですか」と語っている。また、落合博満に対して強い共感を示しており、落合の個人主義的な側面を称賛した上で「落合には共感するね。凄く分かるんだ。彼がやろうとしていることが凄く」「もし野球が出来なくなったらうちのサザンへいらっしゃい(笑)」と述べている。

プロサッカー選手の三浦知良とは、三浦が11歳年下で親交があり、2008年に日産スタジアムで開催されたサザンのライブ『真夏の大感謝祭』の最終日に開会宣言を行った経験もある。また、誕生日が同じであり、同ライブで桑田が言及しているほか、一方の三浦も2021年に54歳の誕生日を迎えた際には、オンライン上で行われた誕生日イベントで敬意を込めて桑田のモノマネを披露している。

プロレスのファンでアントニオ猪木を敬愛している。1982年に音楽番組「ザ・ベストテン」で初めて対面し、生放送中に得意技のコブラツイストをかけてもらった。また、猪木はサザン名義の「太陽は罪な奴」のミュージック・ビデオにも出演した。桑田はソロ・サザンを問わずライブ終了後に「1! 2! 3!ダァ〜!」を観客と斉唱するのを恒例にしている。また、ライブが佳境を迎え盛り上がると、何度となくアゴを突き出しファイティングポーズをとることもある。猪木の死後開催された2022年の全国ツアー『お互い元気に頑張りましょう!!』で「Soulコブラツイスト〜魂の悶絶」が歌われた際には、間奏でプロレスラーを引退した際に語った詩を叫び、追悼とリスペクトを捧げている。インタビューなどで自身の音楽活動をプロレスに例えることもある。また、猪木以外にも団体や派閥を問わず様々なプロレスラーとの交流もあり、1989年には前田日明と『週刊プレイボーイ』(集英社)内で「平成元年大対談!! 前田日明VS桑田佳祐」と題した対談企画をした経験がある。2007年には「WONDA」(アサヒ飲料)のCMにおいて合成映像の中でジャイアント馬場と共演し、その際に馬場から16文キックを浴びせられた。

漫画家のさくらももこは学生時代からのサザンファンであり、自身のエッセイには「たくさん持っているサインの中で一番の自慢は桑田さんのサインです」といった記述がなされている。このサインの存在は後述の告別式の際に、司会の笠井信輔(当時フジテレビアナウンサー)を経由して桑田本人にも知らされている。2012年1月にさくらは桑田の元へ『ちびまる子ちゃん』のエンディングテーマの作曲の依頼の手紙を歌詞と共に送った。桑田はさくらの綴った世界中の幸せを願う内容に共感しその依頼を快諾。同年4月1日から2017年10月1日の放送までさくら作詞、桑田作曲による「100万年の幸せ!!」がエンディングテーマに使用された。その後も交流は続き桑田夫妻からのプレゼントと花をアミューズのスタッフを経由して貰ったり、逆に桑田もさくらから額に入った直筆の絵が多数送られ自宅に飾っている。さくらの訃報が報じられたことを受け、桑田は2018年9月1日放送の『桑田佳祐のやさしい夜遊び』で、冒頭と終盤にさくらを追悼するコメントを述べ、制作時のエピソードやその後の交流を語ったうえで、生歌のコーナーで「100万年の幸せ!!」を歌唱した。桑田は2018年11月16日に青山葬儀所で営まれた「さくらももこさん ありがとうの会」に参列し、献歌として「100万年の幸せ!!」を歌っている。また、『平成三十年度! 第三回ひとり紅白歌合戦』でもこの曲をさくらへの追悼として「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」(西城秀樹)とのメドレーとして歌唱した。

桑田はデビュー当時からの沢口靖子のファンであり、現在も『科捜研の女』(テレビ朝日系)を視聴していることを『ポップス歌手の耐えられない軽さ』で語っている。沢口とは2001年に『桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜』で共演しており、鎌倉市で擬似デートを行う企画を行っている。

桑田は小柳ルミ子のファンであることを『ポップス歌手の耐えられない軽さ』で語っており、そのことを小柳本人も知っている。当時小柳はコロナ禍をきっかけに引退を考えていたが、桑田の発言を知ったことをきっかけに思い留まり、「命の恩人」と語るようになった。その後は双方が誕生日や周年ごとの節目を迎える度に花束を送る関係になっている。

和田アキ子は桑田の才能を認める発言を度々している。桑田も和田に敬意を表しており、『ひとり紅白歌合戦』では毎回和田のことを『白組・和田アキ男』と紹介し、『ジョーズ』のテーマに乗せて着ぐるみ人形を登場させ、怪獣のような雄叫びをサンプリングし、桑田も歌唱中に「しばいたるぞ」などと和田の口調をものまねするなどし、和田の芸風・キャラクターを誇張させた演出をしたうえで楽曲をカバーしている。なお、これらの演出はすべて和田の了解を得たうえで行われている。

女優の大空眞弓と交流があり、大空が葡萄の鉢植えを桑田のもとに送ってきたことがサザンの15枚目のオリジナル・アルバムのタイトルを『葡萄』にしたきっかけになった。

生前の伊集院静とは面識こそなかったが手紙のやりとりをしたり、宮城県でのライブの際には伊集院から差し入れが届くなど間接的な交流があった。

サザンの名付け親である宮治淳一や「盆ギリ恋歌」の歌詞とMVに登場する同級生などのように、小中学校時代の同級生の一部とは現在も交流がある。

父方の先祖は明治初期に小倉(現:福岡県北九州市)の城下町に住んでいた。曽祖父が40代で早世した影響により桑田家は息子達が中心となり満州に渡っている。桑田家は祖母の実家にあたり、祖父は満州に働きに来ていた鹿児島の農家の次男であった。満州にいた時期に離婚したことにより、祖母は父を連れて桑田家に戻り、終戦後に北九州に引き揚げて来た後に上京している。桑田は父方の先祖のことを「めちゃくちゃイビツで家系図が枝垂れ桜みたいに一方向に傾いてる(笑)」と語っている。

母方の先祖は昭和初期に東海道沿いで『太田屋百貨店』という百貨店を経営していた。当時の百貨店の写真は茅ヶ崎市の歴史写真集『保存版 ふるさと茅ヶ崎』(郷土出版社)に掲載されている。桑田は母方の先祖のことを「かなり真面目で家系図がきれいなシンメトリックになっている」と語っている。

父は上京後は映画好きだった影響からしばらく日本劇場で働いていた。その縁により当時映画製作が盛んだった茅ヶ崎市に移り住み、妻(桑田の母)と出会っている。その後も湘南の地方新聞の記者、パシフィックホテル茅ヶ崎への勤務、茅ヶ崎市の映画館(大黒館。後に茅ヶ崎国際劇場と改名)や小田原市の西洋料理店「grill KONOMI」の雇われ支配人、妻と二人三脚でのバー経営と数々の職業を転々とした。また、真偽は明確ではないが小津安二郎の運転手をやっていた時期があることも示唆されている。なお、父は桑田と同様に歌が上手いことで有名だったことが語られており、父の真似をして歌っていたことが桑田が歌手を志すきっかけになったといわれる。

母は父とのバー経営の後に平塚市で割烹の経営をした。

姉のえり子とは腹違い(異母姉弟)であると桑田は述べている。

著名な親戚として、石黒ケイ(歌手、女優)がいる。桑田はかつて「POPEYE」で担当していた連載『桑田佳祐のC調Interview』の第14回で石黒と対談したことがある。

来歴

生い立ち、学生・アマチュア時代

1956年2月26日に神奈川県茅ヶ崎市にて生誕した。

1962年に茅ヶ崎市立茅ヶ崎小学校に入学した。小学生時代から将来の夢として漠然と歌手になることを考えていたが、先生によっては通用しないと思い、建築家や弁護士になりたいと答えていたこともあったという。5・6年生のころに入浴中に父の勧めで当時流行していた歌謡曲を歌い、「上手いね」と褒められた経験があり、それを後の音楽活動における原点として挙げている。また、このエピソードは同郷の先輩の加山雄三も父を介して知っており、度々紹介することがある。

1968年に茅ヶ崎市立第一中学校に入学した。当時は野球部に所属しており、エースだった。同じ野球部にいたことがきっかけで宮治淳一との交流ができている。このころから教壇でコンサート会場さながらに歌い皆を楽しませており、また黒板消しをマイクに見立てて前川清のものまねをするなど、エンターテイナーの片鱗を見せている。登校前の早朝には学校のすぐ隣にあったパシフィックホテル茅ヶ崎でボウリングを行っていた。

1971年に鎌倉学園高等学校に入学した。当時は友人と2人で「ボウリング部」を名乗りトレーニングや練習をやっていた。また、これまで交流がなかった小中学校の同級生とも音楽を通して交流が生まれ、互いの家に出入りして楽器を鳴らしながらビートルズなどを2人で歌ったことが、桑田にとってギターやピアノを覚えるきっかけになった。3年生になった1973年に宮治からのオファーにより神奈川県立鎌倉高等学校の文化祭(鎌倉高校祭)のロック・コンサートに出演、ビートルズの「マネー」とエルヴィス・プレスリーの「ブルー・スエード・シューズ」を披露した。これが桑田が人前で演奏した初めてのステージであった。本人によると3年生の時のみ勉強に集中しており、英語と日本史と国語を勉強していた。特に英語と日本史は自己採点の結果パーフェクトだったという。

1974年に5校の入試を受験した結果、最初に合格の通知の電話が来た青山学院大学に入学した。大学の音楽サークル「BETTER DAYS」(ベター・デイズ)に所属し、本格的にバンド活動を開始。「温泉あんまももひきバンド」「脳卒中」「ピストン桑田とシリンダーズ」「青学ドミノス」など、頻繁にバンド名の変更やメンバーチェンジを繰り返していたが、1976年ごろから宮治の命名により自身のバンドに“サザンオールスターズ”の名を使用した。

1977年にサザンとして『EastWest '77』に出場し、桑田はベストボーカル賞を受賞、デビューのきっかけをつかむ。このころの桑田は音楽のプロになる気はなかったといわれるが、一方で軽い気持ちで「作詞家になる」と父に告げていたとも語っている。父は自身の経験から学生時代の桑田に喫茶店の学校に行ってバーテンダーの勉強をすることや自衛隊に入隊することを勧めていたという。これについて桑田は「今思うと、親父は僕のことをよく考えてくれていたんだなと思いますね」とインタビューでこのことを振り返った際に述べている。

メジャーデビュー

1978年6月25日にビクター音楽産業より、サザンオールスターズとして「勝手にシンドバッド」でメジャーデビューを果たした。

1979年に桑田は青山学院大学を除籍となった。

1980年に発売したサザンの3枚目アルバム『タイニイ・バブルス』に収録されている原由子のボーカル曲「私はピアノ」が評判となり、1981年に桑田によるプロデュースで原が「I Love Youはひとりごと」でソロデビューを果たした。1982年に桑田と原は結婚をした。後に2児が生まれる。また、1982年に中村雅俊に提供した「恋人も濡れる街角」が50万枚近くの売り上げを記録し、1983年にはアミダばばあ & タケちゃんマンに提供した「アミダばばあの唄」が35万枚を売り上げた。

KUWATA BAND結成、ソロデビュー

1986年から原が産休に入るため、サザンは活動を休止した。桑田は同年1月に結成したKUWATA BANDとして活動をした。活動期間は1年であり、シングル4作もヒットした。唯一のスタジオアルバム『NIPPON NO ROCK BAND』は、日本語詞中心に構成されたシングル曲は一切収録せず、全曲新曲の全英語詞アルバムになった。同年と1987年の12月24日には自身が企画・出演した特別番組『メリー・クリスマス・ショー』(日本テレビ系列)が放送され明石家さんま、松任谷由実、忌野清志郎らと共演した。

1987年10月には「悲しい気持ち (JUST A MAN IN LOVE)」でソロデビューした。小林武史と藤井丈司が楽曲制作に参加し、プログラミングや打ち込み中心のポップス路線を展開。1988年には桑田・小林・藤井の共同プロデュースで1枚目アルバム『Keisuke Kuwata』を発売した。発売後は再びサザンとしての活動となった。

サザンの活動と並行して、1989年9月から自身が監督と音楽を務めた映画『稲村ジェーン』の撮影を開始し、同時に映画の楽曲のレコーディングも開始した。映画は1990年9月に公開され、賛否両論はあったが、配給収入は18.3億円を記録し、同年の日本映画配給収入年間4位にランクインした。1991年に入り、7月にサザンとして「ネオ・ブラボー!!」を発売後に桑田は小林を迎え、SUPER CHIMPANZEEを結成し、9月に「クリといつまでも」を発売した。

アコースティックでの制作、エイズ啓発チャリティー

1993年7月、桑田はサザンとして発売した「エロティカ・セブン」のヒット直後に再びソロ活動を始動させた。第2期ソロ活動では小倉博和との共同作業を行い、10月には3枚目シングル「真夜中のダンディー」をソロで発売した。11月に札幌厚生年金会館で行われた泉谷しげるの奥尻島救済コンサートに参加、12月にアクト・アゲインスト・エイズの一環でAct Against AIDS '93に出演するなど、チャリティー活動も行った。

1994年2月に母が心筋梗塞により60歳の若さで死去。このことは当時の作風に影響を与えている。8月には4枚目シングル「月」を発売し、9月には2枚目アルバム『孤独の太陽』を発売した。アルバムは前作とは異なり、楽器本来の音に着目したアコースティック(アンプラグド)・フォーク路線を展開した。10月末には5枚目シングル「祭りのあと」を発売。12月にはAct Against AIDS '94に出演し、年末には年越しライブを開催した。

1995年に入り、1月に小林武史によるプロデュースでMr.Childrenとコラボしたチャリティーシングル「奇跡の地球」を発売。半年間による期間限定販売であったが、170万枚以上を売り上げ、全ての収益金が「Act Against AIDS基金」に充てられた。4月からは現在も放送しているラジオ番組『桑田佳祐のやさしい夜遊び』が開始した。5月からはサザンとしての活動を再開した。1995年も引き続きAct Against AIDS '95に出演した。1996年以降は桑田が単独でアクト・アゲインスト・エイズの一環したライブを開催した。

ポップとロックの展開、フェスとの関わり

2000年10月にサザンの活動と並行して、桑田はフジテレビ系列で自身の冠番組となる『桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜』が開始し、11月にはパシフィコ横浜で『Act Against AIDS 2000 桑田佳祐が選ぶ20世紀ベストソング』も開催された。2001年に入り、桑田は完全にソロ活動に移行した。同年7月発売の6枚目シングル「波乗りジョニー」が110万枚、10月発売の7枚目シングル「白い恋人達」が120万枚を記録し、夏と冬のポップソングがヒット。11月にパシフィコ横浜で『Act Against AIDS 2001 桑田佳祐 plays "The Beatles" クワガタムシ対カブトムシ』を開催し敬愛するビートルズのナンバーを演奏した。12月にはクリスマスコンサートを開催するなど精力的に活動した。

2002年に入ると、斎藤誠・片山敦夫らサポートメンバーで結成されたTHE BALDING COMPANYとの共同作業を行い、前年に発売したポップ作品とは異なり、バンド形態の本格派ロック路線を展開した。8月には「ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2002」に出演。9月には6月に発売した8枚目シングル「東京」を収録した3枚目アルバム『ROCK AND ROLL HERO』を発売した。12月にはベストアルバム『TOP OF THE POPS』を発売し、前年の楽曲はこちらのアルバムに収録された。このベストアルバムは170万枚を記録して、ソロ名義として最大ヒット作品となった。なお、11月から12月にかけて全国ドームツアーを開催している。

2003年以降はサザンが25周年を迎えることもあり、再びサザンとしての活動を再開した。2004年3月に父ががん性腹膜炎で死去。葬儀・告別式では桑田が喪主として挨拶を行い、生前に父が好んでいた黒沢明とロス・プリモスの「ラブユー東京」を生ギターで歌った。

2006年8月26日・27日、浜名湖ガーデンパークにてフェス『THE 夢人島 Fes.』が開催された。きっかけは桑田が「無人島でフェスを開催できないのか」と提案したことが実現した。出演者はアミューズの後輩である福山雅治・BEGIN・ポルノグラフィティ・ONE OK ROCKなど、また桑田と交流がある加山雄三・Mr.Children・GLAYなども参加した。同年11月から12月にかけて、桑田は『Act Against AIDS 2006 「星条旗よ永遠なれ!? 〜私のアメリカン・ヒーローズ」』を開催している。

2007年4月に桑田が本格的にソロで活動することが発表され、5月に9枚目シングル「明日晴れるかな」を発売した。オリコンで1位を獲得し、着うたではミリオンセラーとなり大ヒットした。その後、8月発売の10枚目シングル「風の詩を聴かせて」と、12月発売の11枚目シングル「ダーリン」も共にオリコン1位を獲得。11月から12月末にかけて、年越しも兼ねてソロでライブツアーを開催した。2008年はサザンが30周年を迎えることもあり、再びサザンとして活動を始めた。また、ソロとしては同年3月に沖縄県石垣市の石垣市民会館で『桑田佳祐 アコースティックライブ in 石垣島』を開催した。

食道癌の治療、震災復興チャリティー、ソロ25周年

2008年5月、年中いっぱいでサザンが無期限活動休止をすることを発表し、8月にライブ『真夏の大感謝祭』を開催した。10月に桑田の音楽性に影響を与えた姉が膵臓癌で亡くなっている。11月に桑田はソロで『Act Against AIDS 2008 昭和八十三年度! ひとり紅白歌合戦』を開催し、2009年以降からは本格的にソロ活動を再開した。桑田は4月から9月まで、『桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜』(レギュラー第2期)に出演した。番組が終了と共に10月から2010年10月に発売予定の4枚目アルバム『MUSICMAN』の製作に入り、12月には12枚目シングル「君にサヨナラを」を発売した。

2010年に入り、毎年誕生日(2月26日)を目処に行う定期検診を半年以上早めて7月に受けたところ、食道癌であることが発覚。治療に専念することで音楽活動を休止し、10月発売のアルバム『MUSICMAN』は発売延期となり、その後のライブツアーも中止となった。8月に手術が無事に終了して退院した。直後に手術前から決まっていた通り13枚目シングル「本当は怖い愛とロマンス」を発売。10月にはアルバムのレコーディングを再開。12月には紅白歌合戦に特別枠として出演し音楽活動を再開させた。

2011年2月に発売延期となったアルバム『MUSICMAN』を発売した。その直後に発生した東日本大震災の被災地に収益を寄付するチャリティーを行うために桑田は所属事務所の後輩である福山雅治らと共にチーム・アミューズとして「Let's try again」を5月に発売した。この楽曲は桑田が制作したものであり、8月にはソロフルバージョンとして「Let's try again 〜kuwata keisuke ver.〜」が制作され、14枚目シングル「明日へのマーチ/Let's try again 〜kuwata keisuke ver.〜/ハダカ DE 音頭 〜祭りだ!! Naked〜」に収録したうえで発売された。9月に入ると宮城でライブ『宮城ライブ 〜明日へのマーチ!!〜』を開催し、12月には年越しライブを開催した。

2012年に入り、桑田はソロとして25周年を迎えた。7月に25周年ベストアルバム『I LOVE YOU -now & forever-』を発売し、80万枚に迫るヒットを記録した。9月から12月の年越しにかけてアルバムを引っ提げ、全国ツアー『I LOVE YOU -now & forever-』を開催した。2013年3月に15枚目シングル「Yin Yang/涙をぶっとばせ!!/おいしい秘密」を発売。6月にサザンは35周年を迎え、バンドとしての活動を再開した。7月には商工会議所や同級生を始めとした地元有志の働きかけもあり茅ヶ崎市民栄誉賞を受賞した。なお、サザンの活動と並行しつつ、11月には『Act Against AIDS 2013 昭和八十八年度! 第二回ひとり紅白歌合戦』を開催した。2014年11月には長年の音楽活動が評価され紫綬褒章を受章した。

還暦、ボウリングイベントの開催、オリンピックテーマの制作

2015年8月に桑田はサザンとしてのライブ『おいしい葡萄の旅』が終演し、11月からソロ作品発売のためにレコーディングを開始した。2016年2月に還暦を迎え、誕生日当日にはソロ名義の作品のダウンロード配信が開始された。6月に16枚目シングル「ヨシ子さん」を発売した。この楽曲はR&B・HIPHOP・ EDM・サブスクリプションなどの最先端の音楽用語に対応しきれず、サタデー・ナイト・フィーバー、ナガオカ針、演歌などを回顧するアナログ世代の悲哀ととれる内容になっている。そして、11月に17枚目シングル「君への手紙」を発売し、12月には年越しライブを開催した。

2017年4月、特設サイトにて「ROUND30」と名付けられた企画を発表し、ソロデビュー30年の節目を迎えるにあたって、30項目におよぶ“全力投球”を宣言した。7月にライブハウスイベントの開催、8月には「ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2017」に出演した。直後に5枚目アルバム『がらくた』を発売。アルバムは35万枚を超えるヒットとなり、この年の男性ソロアルバムとして最大売上を記録。10月から12月にかけて、アルバムを引っ提げて、全国ツアー『がらくた』を開催し、大晦日には『第71回NHK紅白歌合戦』に中継で出場した。

2018年11月に『Act Against AIDS 2018 平成三十年度! 第三回ひとり紅白歌合戦』を開催した。今回のライブで桑田にとって、Act Against AIDS活動は終了した。2019年に入り、サザンの全国ツアー『LIVE TOUR 2019 “キミは見てくれが悪いんだから、アホ丸出しでマイクを握ってろ!!” だと!? ふざけるな!!』と並行して桑田佳祐 & The Pin Boys名義の活動を開始。1月にボウリングシングル「レッツゴーボウリング」の発売、2月に自身主催のボウリング大会「KUWATA CUP 2019」を開催した。「レッツゴーボウリング」に関しては、オリコンで1位を獲得したことにより、30歳代〜60歳代で1位を獲得した。この記録は史上初となる記録になった。同年12月にはサザンも含めて自身の楽曲全てがサブスクリプション型サービスでのストリーミング配信が解禁された。

同年7月に民放5局列による2020年東京オリンピック共同企画「一緒にやろう2020」のテーマソングを桑田が制作することが発表され、2020年1月に民放5局列で同時放送された番組内で「SMILE〜晴れ渡る空のように〜」が公開された。2月にはボウリングシングル2枚目となる「悲しきプロボウラー」が発売された。

2020年1月から2021年4月まで、『週刊文春』にて『ポップス歌手の耐えられない軽さ』のタイトルでエッセイの連載をした。

2021年3月に桑田にとって初となるブルーノート東京で無観客ライブを開催し、昨年のサザンの無観客ライブも合わせて通算3回目の無観客ライブとなった。ブルーノートは格式が高く、桑田はこの会場でのライブに憧れていたという。このライブから得た収益の一部は「Music Cross Aid ライブエンタメ従事者支援基金」を通じ、ライブエンタテインメント業界支援のために役立てられた。9月には自身初となるミニ・アルバム『ごはん味噌汁海苔お漬物卵焼き feat. 梅干し』が発売され、発売に先駆けて7月に「SMILE〜晴れ渡る空のように〜」、8月に「炎の聖歌隊 [Choir]」と「Soulコブラツイスト〜魂の悶絶」が配信シングルとして先行発売された。ミニ・アルバムはオリコン週間ランキングで1位を獲得し、男性ソロアーティストとして初となる5年代(1980年代〜2020年代)連続アルバム首位獲得を記録した。また、9月から12月の年越しにかけて、全国ツアー『BIG MOUTH, NO GUTS!!』を開催した。

同級生らとのチャリティー、ソロ35周年

2022年5月に桑田の呼びかけによって、桑田と同学年・同級生である佐野元春、世良公則、Char、野口五郎らと共にチャリティー配信シングル「時代遅れのRock'n'Roll Band」を発売。収益の一部は、困難に直面している世界中の子供たちの未来といのちを守るため、「セーブ・ザ・チルドレン」に寄付される。8月にはソロとして5年ぶりとなる「ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2022」に出演予定であったが、出演3日前に新型コロナウイルスに感染したことをアミューズが発表し、出演見合わせとなり、後日『桑田佳祐のやさしい夜遊び』で代替企画を行った。11月にベストアルバム『いつも何処かで』が発売されたほか、11月から12月にかけて全国ドームツアー『お互い元気に頑張りましょう!!』が開催された。また、12月末には追加公演を横浜アリーナで開催、大晦日には「時代遅れのRock'n'Roll Band」で『第73回NHK紅白歌合戦』に事前収録という形で出演している。

2024/06/12 18:14更新

kuwata keisuke


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1968年4月1日生まれの有名人 大阪出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 桑田 真澄(くわた ますみ、1968年4月1日 - )は、大阪府八尾市出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者・野球評論家、コーチ。 …

桑田 二郎(くわた じろう)
1935年4月17日生まれの有名人 大阪出身

桑田 二郎(くわた じろう、1935年〈昭和10年〉4月17日 - 2020年〈令和2年〉7月2日)は、日本の漫画家。大阪府吹田市出身で、晩年は茨城県鉾田市(旧鹿島郡大洋村)に居住していた。旧ペンネー…

桑田 鎮典(くわた やすのり)
1976年4月26日生まれの有名人 福岡出身

桑田 鎮典(くわた やすのり、1976年4月26日 - )は、日本の元男子バレーボール選手。福岡県福津市出身。ポジションはウイングスパイカー。 友人に誘われて、福間東中学1年よりバレーボールを始め…

桑田 和美(くわた かずみ)
1963年7月27日生まれの有名人 広島出身

7月27日生まれwiki情報なし(2024/06/15 16:17時点)

桑田 美仁(くわた はるひと)
1955年9月2日生まれの有名人 広島出身

桑田 美仁(くわた はるひと、1955年9月2日 - )は広島県府中市出身の元男子バレーボール選手、指導者。元サントリーサンバーズ監督。 中学2年までは陸上の走高跳の選手だったが、校内のクラス対抗…

桑田彩(くわた あや)
1997年1月15日生まれの有名人 群馬出身

桑田彩(くわた あや、1997年1月15日 - )は、日本のグラビアアイドル、タレント。群馬県出身。 2010年、13歳でデビュー。デビューのきっかけは、「家が貧乏で、缶ジュースすら買えずに中学時…

桑田 義備(くわだ よしなり)
1882年10月5日生まれの有名人 大阪出身

桑田 義備(くわだ よしなり、1882年〈明治15年〉10月5日 - 1981年〈昭和56年〉8月13日)は、植物細胞学者。京都大学名誉教授。大阪府生まれ。 細胞の核分裂、稲の染色体数の決定や配列…

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