谷村智啓の情報(たにむらともひろ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
谷村 智啓さんについて調べます
■名前・氏名 |
谷村智啓と関係のある人
リッチー=シェーン: 初盗塁:1975年9月30日、対阪神タイガース25回戦(阪神甲子園球場)、2回表に2盗(投手:谷村智啓、捕手:田淵幸一) 鈴木弘規: 1979年の最終戦で初登板するが、同年11月30日に谷村智啓との交換トレードで阪神タイガースに移籍。 大杉勝男: 1500安打:1977年8月25日、対阪神タイガース21回戦(岡山県野球場)、1回表に谷村智啓から左前安打 ※史上33人目 永尾泰憲: 初盗塁:1974年5月11日、対阪神タイガース4回戦(明治神宮野球場)、3回裏に二盗(投手:谷村智啓、捕手:田淵幸一) 桑原秀範: 1970年の都市対抗では、エース谷村智啓を擁し準々決勝に進出するが、サッポロビールに敗退。 三村敏之: 1000安打:1978年5月30日、対阪神タイガース9回戦(広島市民球場)、7回裏に谷村智啓から ※史上110人目 山本浩二: 一番本塁打打っている投手は堀内の21本塁打、対戦した投手287人で80打席以上対象とした41人の中で対戦打率が良いのは谷村智啓の.436、2番目に良いのは鈴木康二朗の.416で「谷村は右の本格派で真っすぐ系の高めが多かった。 遠井吾郎: 9回表にピンチを迎えたが山本和行、谷村智啓のリレーで3-2と逃げ切り、中日から首位を奪うと共に阪神球団通算2500勝目を飾った。 上田二朗: 1980年に南海ホークスに金銭トレードで移籍、この時は安仁屋宗八、谷村智啓といった功労者も他球団に放出されている。 王貞治: 9月11日宮本洋二郎から雨中の34号ソロ(後楽園、通算520号)でストリークを開始して、13日先発上田次朗のスライダーを打って35号ソロおよび江夏の直球を打って36号ソロ(後楽園)、14日谷村智啓から雨中の37号2ラン(後楽園)、17日のダブルヘッダーでは第1試合に渋谷幸春から38号ソロ、第2試合に稲葉光雄から39号ソロと土屋紘から40号2ランで、この2試合は6打数4安打4四球(後楽園)、19日はルーキー山本和行のフルカウントでの6球目のシュートを41号2ラン(甲子園)、20日は村山実の4球目の真ん中高めのフォークを42号ソロ(甲子園)。 永尾泰憲: 初打点:同上、5回裏に谷村智啓から 渡辺省三: コーチ1期目には1年目の久野剛司・上田次朗・谷村智啓を指導し、スカウト時代は新庄剛志・野田浩司・仲田幸司・遠山奬志・亀山努らを発掘した。 藤田平: 1970年代には江夏豊・池田純一・谷村智啓と共に『若虎四天王』と呼ばれ、1974年はシーズン後半に故障欠場するものの、自身初の3割でリーグ7位の打率.302を記録。 土屋正勝: 初奪三振:同上、9回表に谷村智啓から |
谷村智啓の情報まとめ
谷村 智啓(たにむら ともひろ)さんの誕生日は1947年8月3日です。兵庫出身の野球選手のようです。
現在、引退に関する情報もありますね。谷村智啓の現在の年齢は77歳のようです。
谷村智啓のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 谷村 智啓(たにむら ともひろ、1947年8月3日 - )は、兵庫県西宮市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。旧名「智博」。 報徳学園高では2年次の1964年、春の選抜に長坂正稔(中大-東芝)の控え投手として出場。2回戦で徳島海南の尾崎正司に完封を喫し、自身の登板機会は無かった。同年の夏の甲子園兵庫予選では準決勝でエース・鈴木啓示を擁する育英高と対戦し、長坂をリリーフするも4-5で惜敗。長坂以外の1年上のチームメイトに捕手の水沼四郎、二塁手の基満男、右翼手の三宅昇がいる。3年次の1965年夏の甲子園兵庫予選ではエースとして決勝に進出し、再度の対戦となった育英高の鈴木との投手戦の末に1x-0のサヨナラ勝ちで夏の甲子園本大会に出場。この大会では2試合完封を記録し、準々決勝では三池工と対戦。エース・上田卓三と投げ合うもボークを取られて動転し、延長10回2-3xで逆転サヨナラ負けを喫した。同年の岐阜国体でも、準々決勝で三池工の上田に抑えられ敗退。1年下のチームメイトに捕手兼一塁手で5番打者の荒武康博がいる。 1966年に関西学院大学へ進学し、関西六大学リーグでは1年次の同年秋季に優勝を経験。リーグ通算60試合に登板し、20勝25敗、防御率1.67、179奪三振の成績を残した。 1970年に鐘淵化学へ入社し、同年の都市対抗では2勝を挙げて準々決勝に進出。サッポロビールに敗退したが、大会優秀選手に選出され、この時のチームメイトにはいずれも新日鐵広畑から補強された高橋二三男・佐々木恭介がいた。同年の産業対抗でも準々決勝に進み、熊谷組に惜敗するが同大会でも優秀選手賞を獲得。年間にわたる活躍が評価され、社会人ベストナインにも選出される。 1970年のドラフト1位で阪神タイガースに入団。エースナンバー18が与えられ、当時はワインドアップと同時に左足を高く上げ、右腕をいったん下ろさずにそのまま投球する「タコ踊り」といわれる風変わりなフォームを見せ話題になった。4月24日の広島戦(甲子園)の9回表に3番手で初登板を果たし、国貞泰汎から初奪三振を記録するなど1回を無失点に抑えた。5月25日の広島戦(甲子園)で初めて先発するが、衣笠祥雄に9号本塁打を浴びるなど8回4失点で降板。9回からは2番手の山本重政にバトンタッチするが、延長12回で4-4の引き分けに終わった。9月28日の中日戦(甲子園)に5回表1死から2番手で登板し、7回2/3を無失点に抑えて初勝利を挙げる。 1972年の4月末から先発の一角として起用され、5月21日の大洋戦(甲子園)で9回1失点の初完投勝利、同31日の大洋戦(川崎)で初完封勝利をマーク。生涯唯一のオールスター出場も果たし、7月22日の第1戦(東京)で先発を任される。公式戦と同じ田淵幸一とのバッテリーであったが、専任捕手として出場した野村克也に1回に先制打、3回には勝ち越し2ラン本塁打を浴びて降板。谷村は全セの敗戦投手となり、野村は第1戦のMVPを獲得。 1973年は、10月14日の広島戦(広島市民)で外木場義郎と投げ合うが、3回を5安打2失点と早々に降板して痛恨の敗戦を喫する。その後の3試合でチームは1勝2敗で、巨人の逆転優勝を許した。 1974年には小山正明コーチの指導でパームボールを取得し、5月14日の大洋戦(川崎)の7回裏1死に3番手で登板して、2回2/3を無失点に抑えて初セーブを挙げる。同30日の巨人戦(甲子園)で王貞治に600号本塁打を献上したが、シーズン途中の6月15日に現在の登録名である「智啓」に改名。6月26日のヤクルト戦(甲子園)で浅野啓司と投手戦を繰り広げ、完封で改名後初勝利を挙げる。 1975年に安仁屋宗八に背番号18を譲って15へ変更し、3年ぶりの2桁となる11勝を挙げる。 1976年には2年連続2桁で自己最多の12勝を挙げる。 1977年も7勝を記録。1977年8月25日のヤクルト戦(岡山)で大杉勝男に1500本安打を打たれる。 1978年9月26日の中日戦(ナゴヤ)で宇野勝にプロ初本塁打を献上。 1979年オフに鈴木弘規との交換トレードで阪急ブレーブスに移籍。 1980年には13試合に先発し、リリーフとしても活躍して7勝を挙げる。4月17日の西武戦(西京極)は古沢憲司と元阪神同士の先発となり、120球1失点完投勝ちで7回途中129球3失点の古沢に投げ勝つ。試合後に谷村は「力のあるボールを投げていた」、古沢は「ボールの切れが阪神時代よりいい。落ち着いた投球だった」と互いに相手を褒めた。7月29日の西武戦(西武)で野村に現役最後の本塁打を打たれた。 1985年10月14日の近鉄戦(西宮)で先発し、9回をリチャード・デービスのソロ本塁打のみの1点に抑えて2-1で勝利。最終登板を完投勝利で飾った。同年引退。 引退後は阪急→オリックスで二軍投手コーチ(1986年 - 1990年, 2004年 - 2006年)・スカウト・編成部長を歴任し、スカウト時代は関学大の後輩である田口壮を獲得。退団後はBCリーグ・福井ミラクルエレファンツ投手コーチ(2010年 - 2011年)を務め、2020年6月頃からは兵庫県立武庫荘総合高等学校投手コーチに就任。同校で週に数回指導しているほか、東大阪大学柏原高等学校アドバイザーも兼任し、月2回は大谷高等学校コーチも務めている。 各年度の太字はリーグ最高 初登板:1971年4月24日、対広島東洋カープ2回戦(阪神甲子園球場)、9回表に3番手で救援登板・完了、1回無失点 初奪三振:同上、9回表に国貞泰汎から 初先発:1971年5月25日、対広島東洋カープ7回戦(阪神甲子園球場)、8回4失点 初勝利:1971年9月28日、対中日ドラゴンズ26回戦(阪神甲子園球場)、5回表1死に2番手で救援登板・完了、7回2/3を無失点 初先発勝利・初完投勝利:1972年5月21日、対大洋ホエールズ7回戦(阪神甲子園球場)、9回1失点 初完封勝利:1972年5月31日、対大洋ホエールズ9回戦(川崎球場) 初セーブ:1974年5月14日、対大洋ホエールズ5回戦(川崎球場)、7回裏1死に3番手で救援登板・完了、2回2/3を無失点 オールスターゲーム出場:1回 (1972年) 18 (1971年 - 1974年) 15 (1975年 - 1979年) 13 (1980年 - 1985年) 71 (1986年 - 1990年) 86 (2004年 - 2006年) 78 (2010年 - 2011年)
谷村 智博 (たにむら ともひろ、1971年 - 1974年6月14日) 谷村 智啓 (たにむら ともひろ、1974年6月15日 - ) ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年 ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年 ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年 ^ 「日本社会人野球協会報1970」日本社会人野球協会 1971年 ^ 1970年代 | 東京ヤクルトスワローズ ^ スポーツ報知1980年4月18日一面 ^ 2期目のチーム名は「サーパス神戸→サーパス」 ^ “監督、コーチ勇退のお知らせ”. 福井ミラクルエレファンツ (2011年10月17日). 2011年10月18日閲覧。 ^ 無名の公立校にプロ注目右腕がいた!武庫荘総合の斉藤汰直が2安打2失点で完投勝利 ^ ようこそ武庫荘総合高校へ ^ 阪急の元バッテリーが再会 74歳の高校野球指導者2人が発した言葉はくしも ^ 魔球「ナックル」、僕のコツは小指 親子で極めた投げ方 阪神タイガースの選手一覧 オリックス・バファローズの選手一覧 個人年度別成績 谷村智啓 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 表 話 編 歴 1位:谷村智博 2位:末永正昭 3位:楠本秀雄 4位:船見信幸(入団拒否) 5位:才田修 6位:小川清一 7位:上甲秀男 8位:太田良章(入団拒否) 9位:勝亦治 日本の野球選手 報徳学園高等学校出身の野球選手 関西学院大学硬式野球部の選手 鐘淵化学硬式野球部及びその前身チームの選手 阪神タイガース及びその前身球団の選手 オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球指導者 福井ネクサスエレファンツ 兵庫県出身のスポーツ選手 1947年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/17 22:42更新
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