金剛弘樹の情報(こんごうひろき) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
金剛 弘樹さんについて調べます
■名前・氏名 |
金剛弘樹と関係のある人
前田三夫: 金剛弘樹(1995年夏第77回全国選手権大会優勝当時の控え投手) 吉見宏明: 3学年上に広田庄司が、同期に武田勝・金剛弘樹がいる。 落合博満: 2007年から2012年まで在籍していた金剛弘樹がつけていた背番号0についても「背番号ではない」とコメントしている。 武内久士: この年は二軍中心であったが40試合に登板し防御率4.93ながらも、2勝2敗17セーブ、最速149km/hを記録し、中日の金剛弘樹(12セーブ)を引き離してセーブ王に輝いた。 岡田貴弘: 6月2日の中日ドラゴンズ戦では、11回裏に金剛弘樹からプロ入り初のサヨナラ3ランを放ち、7点ビハインドを逆転する劇的な結末を締めた。 荻野忠寛: これに伴い、2007年時点で背番号0の投手は佐藤宏志、金剛弘樹に次いで3人目となった。 武田勝: 立正大学1年生から試合で投げていたが、自身曰く同期の金剛弘樹が「自分以上にいい」とバリバリに速い球を投げていたことから「自分とはモノが違う」と思ったという。 斉藤肇: 二軍における227試合登板は、金剛弘樹(中日)の282試合登板に次ぐ2位記録である。 小川将俊: 2022年から、同学年で日本通運から中日を通じてバッテリーを組んでいた金剛弘樹が監督に就任した立正大学のコーチを務める。 |
金剛弘樹の情報まとめ
金剛 弘樹(こんごう ひろき)さんの誕生日は1979年2月12日です。埼玉出身の野球選手のようです。
現在、卒業、引退に関する情報もありますね。去年の情報もありました。金剛弘樹の現在の年齢は45歳のようです。
金剛弘樹のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 金剛 弘樹(こんごう ひろき、1979年2月12日 - )は、埼玉県入間市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。現在は立正大学硬式野球部で監督を務めている。 帝京高では、1995年夏の第77回全国高等学校野球選手権大会優勝も含めて3度出場。ただし控え投手のため試合出場は2試合で、途中から外野守備に就いたのみで登板機会はなかった。 立正大学に進学し、東都大学野球に加盟する同校野球部に入部すると150km/hをマークして一躍スカウトから注目されたが、2年生の時に右肘を故障して手術するなど戦列を離れると以降は救援に回ってプロ入りの機会を逃す。大学では3学年上に広田庄司がいて武田勝、吉見宏明と同期であった。リーグ1部通算29試合に登板、6勝8敗、防御率2.69。3年以降は2部リーグとなり、4年春の東洋大学との入替戦2回戦で救援登板したが延長10回裏にサヨナラ本塁打を浴びて敗れた。 大学卒業後、2001年に社会人野球の朝日生命に入社。都市対抗野球にも出場したが、同年末に同社野球部の廃部が発表され、翌2002年から日本通運に移籍。同学年の小川将俊とバッテリーを組んで、後に中日に同期入団する川井進とともに左右の2枚看板として活躍した。 過去何度もドラフト候補に挙げられていたが、2004年のプロ野球ドラフト会議で中日ドラゴンズから9位指名を受けて念願のプロ入りを果たした。 2005年の春季キャンプでは、揺れて落ちるフォークボールが「フォークボールの神様」と呼ばれた杉下茂に絶賛された(杉下は日本の投手がフォークと呼んで投げている球の殆どはスプリットであると主張していて、フォークを褒めることはほとんどない)。しかし2005年、2006年とも二軍で防御率5点台に終わった。 2007年、背番号を0に変更。二軍でクローザーとして活躍し、チーム最多の36試合に登板して防御率0.68、11セーブの好成績で、ウエスタン・リーグ最多セーブ投手に輝いた(阪神タイガースの筒井和也と同数受賞)。9月29日に行われたファーム日本選手権でも終盤に登板し、ファーム日本一の胴上げ投手となった。 2008年は二軍で防御率2.00、一軍ではプロ入り最多の12試合に登板するも一軍に定着することはできなかった。 2009年は二軍でリーグ最多の42試合に登板し、防御率3.21、2勝4敗13セーブの成績で2度目のウエスタン・リーグ最多セーブを獲得した。 2010年は2年ぶりに一軍登板を果たす。6月2日のオリックス・バファローズ戦(スカイマークスタジアム)で延長11回裏に登板したが、T-岡田にサヨナラ3ラン本塁打を浴びて敗戦投手になった。なおこの試合は8回表終了時点で中日が7−0でリードしていた。結果的に金剛にとってはこれが1軍最後の登板となる。 2011年は二軍で31試合に登板し、防御率0.62、1勝14セーブの成績で3度目のウエスタン・リーグ最多セーブを獲得した(同僚の矢地健人と同数受賞)。 2012年は二軍で43試合に登板したが、一軍登板は一度もなく、10月2日に球団から戦力外通告を受け、その後現役を引退した。 二軍では8年間で272試合に登板したが、これはウエスタン・リーグにおける最多登板記録である。また、二軍のシーズン最多セーブを3度記録している。 引退後は現役続行を希望して韓国プロ野球の入団テストに臨むも、契約には至らず、読売新聞グループの読売情報開発に再就職した。 2016年の学生野球資格回復研修を受講した上で、翌2017年2月7日に日本学生野球協会より学生野球資格回復の適性認定を受けたことにより、学生野球選手への指導が可能となった。 2017年秋に、朝日生命時代に都市対抗で補強選手としてバッテリーを組んだ坂田精二郎監督の誘いで母校である立正大学の投手コーチに就任した。2022年からは退任した坂田に代わって監督を務める。 初登板:2005年4月8日、対読売ジャイアンツ1回戦(東京ドーム)、7回裏に3番手で救援登板、1回無失点 初奪三振:同上、7回裏にタフィ・ローズから空振り三振 初ホールド:2008年8月6日、対東京ヤクルトスワローズ13回戦(坊っちゃんスタジアム)、12回裏に5番手で救援登板、2/3回無失点 33 (2005年 - 2006年) 0 (2007年 - 2012年) ^ “プロ初サヨナラ弾!T―岡田、借り返した - スポニチ Sponichi Annex 野球”. スポニチ Sponichi Annex. 2022年7月25日閲覧。 ^ “来季の契約について”. 中日ドラゴンズ (2012年10月2日). 2012年10月5日閲覧。 ^ “新聞セールスから母校・立正大のコーチ就任 元中日・金剛弘樹さんが後輩に伝えたいこと”. スポーツ報知. (2018年3月27日). http://www.hochi.co.jp/baseball/column/20180326-OHT1T50167.html 2018年3月27日閲覧。 ^ “惜別球人 【中日】金剛弘樹 投手”. スポニチ Sponichi Annex (2012年12月20日). 2013年1月24日閲覧。 ^ “元ヤクルト宮本慎也氏ら132人が学生野球資格回復 - 大学・社会人”. 日刊スポーツ (2017年2月8日). 2017年2月8日閲覧。 ^ 岡本朋祐 (2018年11月18日). “神宮大会優勝の立正大・坂田監督をバックアップした2人の元プロのコーチ”. 週刊ベースボールONLINE. 編集部員コラム「Every Day BASEBALL」. 2023年6月17日閲覧。 ^ “元中日の金剛弘樹氏が立正大の監督に就任 坂田精二郎監督は退任”. 日刊スポーツ (2022年2月11日). 2022年2月13日閲覧。 埼玉県出身の人物一覧 立正大学の人物一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 個人年度別成績 金剛弘樹 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 自由獲得枠:樋口龍美 2巡目:中田賢一 4巡目:川井進 5巡目:鈴木義広 6巡目:石井裕也 7巡目:中村一生 8巡目:小山良男 9巡目:金剛弘樹 10巡目:鎌田圭司 11巡目:澤井道久 12巡目:普久原淳一 日本の野球選手 帝京高等学校出身の野球選手 立正大学硬式野球部の選手 朝日生命硬式野球部の選手 日本通運硬式野球部の選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 大学野球指導者 立正大学出身の人物 埼玉県出身のスポーツ選手 1979年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/19 20:12更新
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kongou hiroki
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