飯田幸夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)
飯田 幸夫(いいだ ゆきお、1947年4月9日 - )は、神奈川県横浜市中区出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ。
横浜高校では2年次の1964年に23本塁打を記録したが、同年の夏の甲子園県予選では準々決勝で武相高に敗退。3年次の1965年夏の甲子園県予選でも準々決勝で鶴見工に敗れ、甲子園には出場できなかったが、この予選で.545の好打率をマーク。高校通算打率では.476を記録するなど、関東地区では林千代作(鎌倉学園)と共に強打者として各球団のスカウトに注目され、阿天坊俊明(銚子商業)や藤田平(市和歌山商)らと並び「高校遊撃手の三羽ガラス」ともいわれた。100mを11秒台で走る俊足でもあり、陸上部にも籍を置いて三種競技の選手としても活躍し、高校同期にはエースの岸勝之がいた。同年のドラフト第1期生(4位)で近鉄バファローズに入団。
1966年は高卒ルーキーながら開幕一軍入りを果たし、4月10日の西鉄戦ダブルヘッダー第1試合(平和台)でいきなり一番打者、遊撃手に抜擢される。結果は4打数無安打に終わったが、第2試合では七番打者で出場して池永正明からプロ初安打を記録。
1967年にはシーズン途中に外野手にコンバートされ、北川公一と右翼手のポジションを争って打率.281の好成績を挙げる。同年の秋季練習ではスイッチヒッターへの転向を志願。
1969年までは主に控え野手として代打や守備固めでの登場が多かった。
1970年には開幕から六番打者、二塁手に起用され活躍、初の規定打席(23位、打率.237)にも到達した。
1971年は打撃の低迷もあって関根知雄、佐野勝稔と併用され、出場機会が減る。オフに一枝修平との交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍し、新天地では主に外野手として起用される。
1972年には15試合に先発出場した。
1974年には江藤省三と共に代打の切り札として活躍。9月3日の広島戦(中日)では金城基泰から代打満塁サヨナラ本塁打を打ち、巨人のV10を阻止しての20年ぶりのリーグ優勝に貢献。同年のロッテとの日本シリーズでも、10月16日の第1戦(中日)に代打として起用されている。
1978年オフに横浜大洋ホエールズへ移籍。
1979年は左翼手として5試合に先発出場する。
1980年限りで現役を引退。
引退後は中日で一軍コーチ補佐(1982年)、一軍打撃コーチ(1983年)、二軍打撃コーチ(1984年 - 1988年, 1993年 - 1994年)を歴任。コーチ1年目にいきなり8年ぶりのリーグ優勝に貢献したが、4月24日の大洋戦(横浜)で宇野勝がユニフォームを忘れたため、背番号77を付けていた飯田から借りて試合に出場。大洋ファンが浴びせる野次の中で宇野は本塁打を放つ(のちに宇野は2003年オフに打撃コーチとして中日に復帰した際、再び背番号77を付けた)。
詳細情報
41 (1966年 - 1967年)
2 (1968年 - 1971年)
12 (1972年 - 1978年)
30 (1979年 - 1980年)
77 (1982年 - 1986年)
75 (1987年 - 1988年)
94 (1993年 - 1994年)