あすなひろしの情報(あすなひろし) 漫画家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
あすな ひろしさんについて調べます
■名前・氏名 |
あすなひろしと関係のある人
立原あゆみ: また、立原は、映像的にはあすなひろしのファンであり、「もうひとりの師匠といえる」「いろいろ美的感覚を学びました」とも語っている。 桂正和: こうした自身の作風について桂は、あすなひろしの“哀しい”作品の影響を述べている。 あびゅうきょ: 子どもの頃はあまり漫画を読まず、唯一買った単行本であるあすなひろしの『青い空を、白い雲がかけてった』が自身の漫画のルーツだという。 川本コオ: 高校卒業後、広島市の広告宣伝会社に就職するが漫画家の夢を諦めきれず、あすなひろしと共に上京し漫画家を目指すが挫折、単身帰郷する。 高信太郎: 後にあすなひろしのアシスタントを務めた。 もりたじゅん: 以後、水野英子、西谷祥子、あすなひろしなどの作品を愛読する。 みなもと太郎: あすなひろしの作品に惚れ込み、あすな作品の再評価と普及に力を注いだ。 みなもと太郎: 偶然知り合った平塚らいてうの孫の自宅に居候しながら、出版社との契約や写植など漫画家になるための方法を尋ねるため、各出版社や白土三平、一峰大二、貝塚ひろし、水野英子、石ノ森章太郎、あすなひろし、ちばてつや、藤子不二雄(藤本弘・安孫子素雄)、つのだじろう、赤塚不二夫、水木しげるなどの漫画家の自宅を1か月間訪問して回った。 秋田貞夫: 1970年代になり少年誌の『週刊少年チャンピオン』が『ドカベン』(水島新司)、『バビル2世』(横山光輝)、『魔太郎がくる!!』(藤子不二雄Ⓐ)、『ブラック・ジャック』(手塚治虫)、『あばしり一家』『キューティーハニー』(永井豪)、『番長惑星』(石ノ森章太郎)、『恐怖新聞』(つのだじろう)、『ふたりと5人』(吾妻ひでお)、『百億の昼と千億の夜』(原作:光瀬龍、漫画:萩尾望都)、『がきデカ』(山上たつひこ)、『月とスッポン』(柳沢きみお)、『青い空を、白い雲がかけてった』(あすなひろし)、『750ライダー』(石井いさみ)、『エコエコアザラク』(古賀新一)、『ゆうひが丘の総理大臣』(望月あきら)、『マカロニほうれん荘』(鴨川つばめ)などの大人気作品に後押しされ、『週刊少年ジャンプ』(集英社)と競い合う形で、1977年には200万部を突破してトップに立ち、また、少女誌の『月刊プリンセス』は『悪魔の花嫁』(原作:池田悦子、作画:あしべゆうほ)、『イブの息子たち』(青池保子)、『王家の紋章』(細川智栄子 山松ゆうきち: その後18歳で上京、あすなひろし、川本コオなどのアシスタントとなり、1967年に、『週刊漫画TIMES』に「ヤクザ無情」を掲載し商業誌デビューする。 川本コオ: 貸本漫画家時代の深井国に多大な影響を受け、同級生だったあすなひろしと共に漫画を描き始め、劇画短編誌『街』(セントラル文庫)で貸本漫画デビューする。 寺田克也: 一部で本人が好きだというあすなひろしも影響がある。 |
あすなひろしの情報まとめ
あすな ひろし(あすな ひろし)さんの誕生日は1941年1月20日です。東京出身の漫画家のようです。
作風と死後の再評価、単行本リストなどについてまとめました。卒業、映画、ドラマ、家族に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
あすなひろしのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)あすな ひろし(本名:矢野 高行(やの たかゆき)、1941年1月20日 - 2001年3月22日)は、日本の男性漫画家。東京都生まれ、6歳から18歳まで広島県呉市育ち。広島県修道高等学校卒。ペンネームの由来については「翌檜(あすなろ)の木」からという説がある。 東京で生まれ、終戦間もない6歳の時、父の転勤で広島県呉市に移り住む。原爆投下後の広島で多感な時期を過ごし、以降18歳まで広島で育った。「山ゆかば」の物語は創作。姉の今中鏡子(広島市安佐南区在住、今中大介の母)は「弟は感受性が強かったから、被爆後の広島を見て、相当影響を受けていると思う」と話している。放射能の脅威を伝える1971年の「赤いトマト」など反戦や原爆がテーマの作品も多い。修道中学校・高等学校卒業後上京し、東宝映画宣伝部、商業デザイン会社勤務を経て、1959年、「まぼろしの騎士」(少女クラブ冬の号)でデビュー。身長は170cm以上と当時としては高身長であり、体格も良かったので驚かれることがあった。 代表作といえるのが1976年「少年チャンピオン」で発表した『青い空を、白い雲がかけてった』。連載は断続的だが5年間に及んだ。手塚治虫の『BLACK JACK』や水島新司の『ドカベン』などとともに同誌の黄金期の一翼を担った。 少年誌・青年誌にも叙情を基本としながらも、時にはコミカルな作品を次々と発表した。流麗な描線とドラマチックな画面構成が特徴。創作は常に全力を注ぐ職人。ペンだけで描き、背景などに使う独特の模様「カケアミ」は「誰にもまねできない」と高く評された。コピーライターの糸井重里は彼の作風を「真っ昼間の悲しさ」と評した。 劇画を描く際には「臼杵三郎」という名前で活動していた。その由来は、BSマンガ夜話出演時の高信太郎のコメントによれば、「大分の臼杵郡出身で、好きな歌手が北島三郎だったから」である。ただし、あすなひろし公式サイトの記述では、「本籍が宮崎県西臼杵郡三ヶ所」とある。 飲酒しながら原稿を執筆しており、後年になると酒の量は増え、元アシスタントの高信太郎は「手が震えるらしい」と語っている。 その後、私的なトラブルに伴い東京を離れ40歳半ばで、実家のある東広島市に帰る。漫画よりも肉体労働に重点を置くようになり、晩年は非常に寡作になる。2001年、肺癌のため死去。享年60。 作風と死後の再評価作中のペンタッチは非常に繊細で、修正の為のホワイトは使わず、スクリーントーンも極力使用しない、写植や文字の白抜きもほとんど全部自分が行っているほどの職人肌であった。 『とうちゃんのかわいいおヨメさん』(週刊少年ジャンプ)、『走れ!ボロ』(女学生の友)で1972年第18回小学館漫画賞受賞。 少女漫画、少年漫画、青年漫画、そしてジャンルもポエジー、ハードボイルド、西部劇、アクション物からギャグまで幅広い活躍をしたが、元々、単行本化された作品は少なく、それらもほとんど絶版となっていた。 2002年より「あすなひろし追悼公式サイト」が『あすなひろし作品選集』の刊行を開始した。今まで劣悪な印刷により表現され得なかったあすなの流麗な線が、B5判のしっかりした印刷で再現されている。 また、2004年にはエンターブレインが『青い空を、白い雲がかけてった』と『いつも春のよう』を刊行したことから、一般書店でも手に入るようになり再評価に弾みがついた。 2004年「NHK BSマンガ夜話第31弾」でも取り上げられる。 単行本リストサマーフィールド(1970年:グランドコミックス、1976年:サンコミックス) からじしぼたん(1973年:別冊COMコミック) 心中ゲーム(1973年:もう一つの劇画世界・2) ぼくのとうちゃん(1976年:ホームコミックス、1999年:さくらコミックス) 哀しい人々(1977 - 80年:3巻 サンコミックス、1999年:1巻「家族日誌」のみ さくらコミックス) 美しき5月の風の中に(1977年:サンコミックス) 青い空を、白い雲がかけてった(1978 - 81年:3巻 少年チャンピオンコミックス、2004年:上下巻 BEAM COMIX) 行ってしまった日々(1978年:ロマンコミック自選全集) 風と海とサブ(1980年:2巻 少年チャンピオンコミックス) かたばみ抄(1982年:サンコミックス) サムの大空(1982年:少年チャンピオンコミックス) 白い星座(1983年:サンコミックス) 白い記憶(1983年:サンコミックス) いつも春のよう(2004年:BEAM COMIX) 嵐が丘(2006年:コミックパーク) みどりの花(2006年:ブッキング) 呪啼夢(2007年:ちくま秀版社) あすなひろし作品選集(2002年 - :既刊15巻 あすなひろし追悼公式サイト) 林檎も匂わない(2008年:BEAM COMIX) リチャード三世(あすなひろし普及会) あすなひろしセレクション(2011年 - :既刊1巻「砂漠の鬼将軍」 あすなひろし企画室) 2024/06/06 18:51更新
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asuna hiroshi
あすなひろしと同じ誕生日1月20日生まれ、同じ東京出身の人
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