はせさん治の情報(はせさんじ) 声優 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
![もしもしロボ](../image/robo_message_s.png?)
はせ さん治さんについて調べます
■名前・氏名 |
はせさん治と関係のある人
はせさん治の情報まとめ
![もしもしロボ](../image/robo_message_s.png)
はせ さん治(はせ さんじ)さんの誕生日は1936年1月2日です。東京出身の声優のようです。
![もしもしロボ](../image/robo_message_s.png)
人物、後任などについてまとめました。卒業、テレビに関する情報もありますね。66歳で亡くなられているようです。
はせさん治のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)はせ さん治(はせ さんじ、1936年1月2日 - 2002年3月8日)は、日本の声優、俳優。東京府東京市淀橋区(現:東京都新宿区)出身。 1936年、東京市立大久保病院(現:東京都立大久保病院)で誕生。 戦時中は小学3年生の時に静岡県田方郡伊東町(現:静岡県伊東市)に集団疎開していたが、その後東京に帰郷した。 終戦後、小学生から児童劇団「青い鳥」に入団したが、理由は劇団の稽古場に行けば芋が貰えたからであった。中学・高校時代は演劇部に所属していた。中学時代は貧乏であり、卒業式を待たずに丁稚奉公に出されて東京都千代田区神田の紙問屋に働いていた。夜は東京都立工芸高等学校印刷科に通って印刷技術の習得をしていた。 吉本興業が東京で始めていた新人タレントの募集に応募し、3千人の応募者の中からトップの成績で合格し、夜学に通いながら昼は吉本興業東京支社のレッスン場に通っていた。「これからの役者は、歌って踊れなくてはダメだ」と考えて吉本興業のレッスン場に通うかたわら、16歳の時にクラシックバレエを習う。 1954年、18歳の時に吉本ラジオセンターに所属し、スタジオで文化放送の下請けをとってから文化放送の『連続歌謡物語』などに出演できるようになり、プロの世界へと足を踏み入れる。同工芸高等学校卒業後、「さらに幅広い芸を身につけたい」と思い、東宝芸能学校2期として入学。同芸能学校の先輩に藤村俊二がいる。ここでは毎日8時間、演劇、歌唱、クラシックバレエからモダンバレエ、日本舞踊にタップダンス、殺陣まで、あやゆる芸事を学んでいた。在学中から、新宿コマ劇場でのエノケン劇団や、宮城まり子ショーにも出演し、貝谷八百子、近藤玲子などの一流のバレリーナのステージにも出演。一方、夜はキャバレー「青い城」で踊り、若手ながらかなりの収入も得られるようになったという。江戸家猫八(3代目)門下。当時は同芸能学校の2年間の過程を終え、卒業も間近な時、東宝現代劇に進むチャンスがあったが、敢えて断り、猫八に弟子入りしたという。当時は早朝、東京都中野区の自宅から師匠の東京都中央区日本橋浜町まで通い、交通が不便な時代だけに大変なことで、遅刻もしていたという。内弟子1年を含めて、2年と4カ月務めていた。その時の師匠のお供以外の日課は、靴みがきと犬の散歩だけで、「芸は盗め!!」というのが、師匠の教育方針で、芸事は教えてくれなかったという。事務所は松竹青春喜劇、コメディー・フランキーズ、みどりプロ、さわプロダクション、東京俳優生活協同組合、青二プロダクション、蛭川企画、九プロダクションを経てフリー。 みどりプロ時代はチョイ役、代役を引き受けていたが、番組プロデューサーの目にとまり、初レギュラーでもあるNHK総合テレビの子供向け番組『ものしり博士』にコント役者として1960年から1968年まで8年間、レギュラー出演。 その後も、『チロリン村とくるみの木』が6年、『いいものつくろ』が3年、『ひょっこりひょうたん島』が1年と、NHKの子供番組に長期にわたって出演し、声は子供たちにはおなじみとなったという。その時はワンテンポずれたような、間延びした台詞回しが大いに受け、役柄としては、ボケ役、やせたヒョロヒョロ男役が多かったという。民間放送の子供番組『テレビのおばちゃま』では、水森亜土と組み、『おはよう!こどもショー』では、愛川欽也が声&スーツアクターを務めていたロバくんと共演し、人気を博していた。 ステージで歌って踊って演劇をする役者になりたく、芸能界に身を投じたが、テレビの仕事が増え、レギュラーは週7本にもなっていた。当時は来る日も来る日も、次の台本の台詞を覚えなくてはならなく、台詞を覚えたと思ったところ本番で、そんな毎日の生活に、ノイローゼ気味となっていった。創造性を発揮させないうちに本番が終わり、不本意な作品が次から次へと放映されていくテレビの仕事に欲求不満をつのらせていき、「このままでは、役者としての俺は殺される!!」と思った。矢も楯もたまらず、全てのテレビ番組を降板し、大阪府へ向かう。OSミュージックホールで、今までテレビではできなかったコント、漫才を心ゆくまでして、観客の喝采を浴びたまっていたうっぷんを一気に晴らしたという。1970年、レ・フレール・ジャック(英語版)の日本版を作ろうと、仲間を誘いカンカン帽に黒タイツ姿の4人組のグループを結成し、ステージに、フロアに、日本万国博覧会にも出演していた。日本万国博覧会が終えると、大阪は祭りのあとの静かさのようになったため、再び東京に戻った。 声優としては1970年代から1980年代にかけて、東映動画制作のアニメに数多く出演、名脇役として活躍した。後述の通り、『ひらけ!ポンキッキ』には顔出しして出演。パンチョ加賀美、TBS版『トムとジェリー』のナレーターを務めていた谷幹一と共演し、高い評価を得ていた。 そのままアニメなども出演し、56歳まで続き、その後、舞台も参加していた。 晩年は長男に先立たれ、さらに自身も肺癌を患うという苦難に見舞われるも、闘病を続けながらテレビ・舞台などで活躍を見せた。 2002年3月8日、肺癌のため東京都豊島区の病院で死去。66歳没。 2006年7月28日 - 30日、妻、長谷妙子を座長とし、劇中で本人の録音音源を使用した追悼公演が新宿でシアターBRATSにて行われた。 人物声種は飄々と優しくモダンな中音。 長男は同じく俳優・声優の長谷有洋。父は郵便局員だったが、ピアノ、アコーディオン、ギター、その他もろもろの楽器からタップダンスまで、熱心にレッスンに通っており、人の集まるところに出かけて芸を披露するなど中々の芸人ぶりだった。当時の下級官吏は経済的には恵まれていなかったが、父は芸事を決してやめようとせず、母は父に対し恨み言ひとつ言わずに尽くしていた。そんな父の芸達者ぶりに尊敬の念を抱いており、後年に俳優への道を歩み始めることになったのは、父の血を受け継いでいたからでもあるだろうという。 特技はクラシックバレエ、タップダンス、榎本健一の歌。 モットーは「急がば回れ」。 後任はせの死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。
2024/06/18 15:51更新
|
hase sanji
はせさん治と同じ誕生日1月2日生まれ、同じ東京出身の人
TOPニュース
Hey! Say! JUMPの有岡大貴と松岡茉優が結婚を発表
NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に
King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表
平野紫耀、神宮寺勇太、岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。
元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕
はせさん治と近い名前の人
話題のアホネイター
![はせさん治](https://if2.info/geinou/logo/はせさん治.gif)
最近追加された芸能人・有名人
りんごちゃん_(ものまねタレント) 藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手)
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「はせさん治」を素材として二次利用しています。