ルイ15世の情報(LouisXV) 王族 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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ルイ14世: アンリ4世の孫、グラン・ドーファンの父、ブルゴーニュ公ルイとフェリペ5世の祖父、ルイ15世とルイス1世とフェルナンド6世とカルロス3世の曽祖父、ルイ・フェルディナンとカルロス4世の高祖父である。 ボーマルシェ: 国王ルイ15世への謁見を許され、高貴な人々からたくさんの注文を受けたことで、ルポートを追い落として正式に王室御用の時計職人となったのである。 エティエンヌ=ド=シルエット: ルイ15世の下で財務総監(財務大臣)を務めた。 稲田徹: シュヴァリエ 〜Le Chevalier D'Eon〜(ルイ15世) エミリー=デュ=シャトレ: スタニスワフの娘のマリーはルイ15世と政略結婚し、スタニスワフはルイ15世によって1738年にロレーヌ公国を与えられた。 ボーマルシェ: ルイ15世の王姫たち。 ボーマルシェ: 士官学校を訪れた娘たちが喜んでいるのを知って、国王ルイ15世は大いに心を動かされ、1760年8月12日、ついに士官学校を訪問したのだった。 ボーマルシェ: ルイ15世も、何も手を打たなかったわけではない。この返答の通りに、ルイ15世はモランドの身柄を抑えるべく警吏をイギリスに派遣したが、この動きがどこからかモランドに伝わり、イギリスの新聞にすっぱ抜かれてしまった。 ジャコモ=カサノヴァ: 1757年1月5日、ロベール=フランソワ・ダミアンによるルイ15世暗殺未遂事件の同日であった。 ルイ14世: ルイ14世と同じく幼くして即位したルイ15世も60年近い長い治世となった。ルイ15世は曽祖父の遺言に従わず再び数々の戦争を行い、1774年に彼が崩御した時にはフランスの財政は破綻状態となり、そしてアンシャン・レジームの社会矛盾が表面化しつつあった。但し、ルイ14世本人やルイ15世の血統が断絶したわけではなく、2024年現在のスペイン国王であるフェリペ6世は2人の子孫である。 ボーマルシェ: デオン・ド・ボーモンという男が、外交上の書類、故ルイ15世の書簡を有していることが判明したためである。この男が持っていた文書の中には、ルイ15世が密かに計画していたイギリス上陸作戦計画書もあったらしく、フランス政府としては絶対にこれらの文書を流出させるわけにはいかなかった。 鈴森勘司: 薔薇に隠されしヴェリテ(ルイ15世) ヴォルテール: しかしヴォルテールと宮廷の雰囲気は全く合わず、ルイ15世とも全くそりが合わなかった。 勝田久: ベルサイユのばら(ルイ15世) マリー=レクザンスカ: マリー・レクザンスカ(Marie Leszczyńska(Leszczynska, Lesczynskaとも)、1703年6月23日 - 1768年6月24日)は、フランス王ルイ15世の妃。 ルイ16世: しかし「高等法院なしに国王はない」とのモールパ伯爵ジャン=フレデリック・フェリポーの進言により、ルイ15世が弱体化させた高等法院を1774年に復活させたことにより常にその抵抗に遭い、改革は妥協を強いられ抜本的な変革には至らず、また財政の決定的な建て直しには及ばなかった。 田中一永: 王妃マリー・アントワネット(ルイ15世) マリア=テレジア: マリア・テレジアは個人的にフランスの閨閥政治を嫌悪していたが、多額の資金を使ってフランスに侮られぬよう装い、ポンパドゥール夫人を通じ国王ルイ15世を懐柔した。 ルイ14世: 5歳の王太子がルイ15世として即位する。法に従えばルイ14世の甥のオルレアン公フィリップ2世が幼少のルイ15世の摂政を務めることになるが、オルレアン公には放蕩者の評判があり、生前のルイ14世は彼の権力を制限しようとした。 ポンパドゥール夫人: ポンパドゥール夫人(仏: Madame de Pompadour)ことポンパドゥール侯爵夫人ジャンヌ=アントワネット・ポワソン(仏: Jeanne-Antoinette Poisson, marquise de Pompadour, 1721年12月29日 - 1764年4月15日)は、ルイ15世の公妾。 フランソワ=ブーシェ: ルイ15世の公妾にブーシェは素描とエッチングを教えた。 クロード=ジョセフ=ヴェルネ: 同年9月に国王ルイ15世から注文を受け、連作『フランスの港』に取りかかった。この連作はルイ15世の治世下において最大規模の注文であり、フランスの産業や軍事を示す教育的な内容を持つものであった。 ルイ16世: 前々代ことルイ14世、前代ことルイ15世の積極財政(主に対外戦争費による負債)の結果を受け継いだため、即位直後から慢性的な財政難に悩まされ続けた。 ルイ16世: 結婚の反対者であったルイの父が1765年に死亡した後の1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。 フランソワ=ブーシェ: ポンパドゥール夫人の寵の厚かったブーシェは国王ルイ15世の覚えもめでたく、1755年にゴブランのタピスリ製作所の監察官を拝命すると、翌年にはジャン=バティスト・ウードリー(パリ、1686年-ボーヴェ、1755年)の後任として同製作所の長官に就任する。 ポンパドゥール夫人: フランス国王の公式の愛妾となったポンパドゥール夫人は、湯水のように金を使って、あちこちに邸宅を建てさせ(現大統領官邸エリゼ宮は彼女の邸宅のひとつ)、やがて政治に関心の薄いルイ15世に代わって権勢を振るうようになる。 名香智子: 黒百合の騎士 2009 小学館 - 女装して男爵夫人となっている美貌の青年ラファエルは、宮廷に呼び出され、誘拐されたルイ15世の救出を依頼される。 シャルル=メシエ: ルイ15世はメシエを「彗星の狩人」と呼んだ。 ルイ18世: ルイ・スタニスラス・グザヴィエはルイ15世の王太子ルイ・フェルディナンとマリー=ジョゼフ・ド・サクスとの間に4男として1755年11月17日にヴェルサイユ宮殿にて生誕した。 マリア=テレジア: 結婚に際しフランツは、フランス国王ルイ15世の理解を得るため、領地ロレーヌ公国をフランスへ割譲しなければならず、代わりにトスカーナ大公の地位を得た。 |
ルイ15世の情報まとめ
ルイ15世(Louis XV)さんの誕生日は1710年2月15日です。
結婚、病気、兄弟、事故、姉妹、趣味、現在、事件、解散、映画、ドラマ、テレビに関する情報もありますね。去年の情報もありました。1774年に亡くなられているようです。
ルイ15世のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)ルイ15世(フランス語: Louis XV、1710年2月15日 - 1774年5月10日)は、ブルボン朝第4代のフランス国王(在位:1715年9月1日 - 1774年5月10日)。ナバラ国王としてはルイス4世(バスク語: Luis IV.a)。 曾祖父ルイ14世の崩御によりわずか5歳で即位し、ルイ14世の甥に当たるオルレアン公フィリップ2世が摂政の座に就いて政務を取り仕切った。成人後はブルボン公ルイ・アンリ、次いでフルーリー枢機卿が執政した。優れた政治家であるフルーリー枢機卿の執政によりフランスは繁栄した。フルーリー枢機卿の死後は親政を行う。 ポーランド継承戦争に参戦して領土を得たが、続くオーストリア継承戦争では得るものはなく、戦争により財政を逼迫させた。七年戦争ではアメリカ大陸の権益を失い、フランスの衰退を招いた。ジョン・ローのミシシッピ会社が破綻してしまい、治世の間に5回もデフォルトした。 多くの愛人を持ち私生活は奔放で、最愛王(Bien-Aimé)と呼ばれた。特にポンパドゥール夫人とデュ・バリー夫人はルイ15世の治世に大きな影響を与えている。晩年になってショワズール公、次いで大法官モプー(英語版)を起用して改革を行い王権の強化を図るが、1774年に天然痘により64歳で崩御した。 この時代、啓蒙思想がヨーロッパ世界を席巻し、ヴォルテール、シャルル・ド・モンテスキュー、ジャン=ジャック・ルソーなどがフランスのサロンで活躍している。 曾祖父ルイ14世の治世時の1710年2月15日に王太子ルイ(グラン・ドーファン)の嫡子ブルゴーニュ公ルイと妃マリー・アデライード・ド・サヴォワの3男としてヴェルサイユ宮殿で生まれた。誕生とともに彼は次男に慣習的に与えられる儀礼称号のアンジュー公、および国王の曾孫としてプチ=フィス・ド・フランス(Petit-Fils de France)の称号を与えられた。 祖父の王太子ルイは唯一存命しているルイ14世の嫡出子であり、王太子妃マリー・アンヌ・ド・バヴィエールとの間にはブルゴーニュ公ルイ、アンジュー公フィリップ(後のスペイン王フェリペ5世)、ベリー公シャルルの3人の息子がいた。 ルイ15世の母マリー・アデライード・ド・サヴォワはサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世と公妃アンナ・マリーア(ルイ14世の弟オルレアン公フィリップ1世の娘)の長女である。ブルゴーニュ公とマリー・アデライードは1696年のトリノ条約によって婚約し、1697年に結婚した。この時代の王族や貴族では非常に珍しいことに、ブルゴーニュ公夫妻は互いに愛し合い仲睦まじかった。 アンジュー公ルイの誕生によりブルボン家は、当時ヨーロッパで最多の3世代6人の直系王位継承権者がいることになり、王位継承は万全かと思われていた。1700年にアンジュー公フィリップはスペイン王位を継承し、フェリペ5世として即位した。このため、フランスとスペインの同君連合の実現を恐れたヨーロッパ諸国との間にスペイン継承戦争が勃発している。 1711年に1歳の時に祖父の王太子ルイが49歳で急死し、父のブルゴーニュ公が王太子となる(プチ・ドーファンと呼ばれた)。これは不幸な出来事だったが、ブルゴーニュ公はまだ若く、またブルターニュ公ルイとその弟アンジュー公ルイの2人の息子がいた。だが翌1712年2月12日に妃マリー・アデライードが天然痘(あるいは麻疹)で薨去すると、事態は劇的に変わる。病気の妻に長時間付き添っていたブルゴーニュ公も罹患し、6日後に薨去してしまう。更に、幼いブルターニュ公とアンジュー公の兄弟もこの病に罹患した。ブルターニュ公は瀉血治療が元で3月8日に薨去する。アンジュー公ルイのみが、養育係のヴァンタドゥール夫人が瀉血治療を拒否して死を免れた。こうして、一人残された幼いアンジュー公ルイがフランス王位継承権第1位となり、王太子(ドーファン)となる。ブルボン家の不幸は続き、1714年にアンジュー公の叔父ベリー公シャルルも狩猟中に事故死している。 1715年9月1日、72年間王位にあったルイ14世が崩御し、わずか5歳のアンジュー公がルイ15世として即位する。本来なら幼いルイ15世の摂政を務めるのはルイ14世の甥のオルレアン公フィリップ2世であったが、ルイ14世は彼に不信感を持っていた。 ルイ14世はモンテスパン侯爵夫人との間に生まれたメーヌ公ルイ・オーギュストとトゥールーズ伯ルイ・アレクサンドルに、自らの崩御後に幼君のため設置される摂政政府での重要な役割を与える遺言を同年8月に作成させている。彼らはルイ14世の後妻マントノン侯爵夫人(両人の養育係で王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュの死後に秘密結婚をしている)の願いにより、嫡出子とされていた(他の多くの庶子たちはこの待遇を受けていない)。 遺言では摂政は置かず、ルイ15世が成人するまで14名からなる摂政諮問会議を設置し、合議によって国政運営に当たることになっていた。摂政諮問会議はオルレアン公が座長となるが、メーヌ公とトゥールーズ伯を含むルイ14世の側近たちが加わっており、必然的にオルレアン公の権力は制限されることになる。 しかし、オルレアン公は中世以来の帯剣貴族(英語版)(noblesse d'épée)の支持を受けており、ルイ14世によって国政から排除されていた彼らは政策の変更を望んでいた。更に彼らは、メーヌ公とトゥールーズ伯を私生児と見なして忌み嫌ってもいた。これに加えて、ルイ14世によって建言権を奪われていたパリ高等法院、そしてイエズス会やローマ教皇重視政策の変更を望むジャンセニスト(厳格主義信仰運動)とガリカニリスト(フランス教会自立主義)もまたオルレアン公を支持していた。 死の床にあったルイ14世はオルレアン公と和解しようとしたのか、崩御の数日前の8月26日に廷臣や大臣たちに「オルレアン公に従え、彼が王国を統治する」と語っていた。ルイ14世が崩御した翌9月2日、パリ高等法院で大臣や王族、大貴族の会議が開かれた。その場でオルレアン公は崩御数日前のルイ14世の言葉を持ち出して、自分に全権を与えるよう要求する。パリ高等法院はオルレアン公を支持して摂政諮問会議のメンバー選別の決定権を与え、ルイ14世の遺言は事実上無効化されてしまった。こうしてオルレアン公が摂政としての実権を握った。オルレアン公は支持の見返りとして、パリ高等法院に建言権を返還している。その後、パリ高等法院はこの権限をもって、事あるごとに王権に抵抗するようになる。 メーヌ公は非嫡出子に落とされて王位継承権を奪われ、失脚してしまう。メーヌ公はスペイン王フェリペ5世と通じて陰謀を企てるが、12月に露見して投獄され、後に国外追放となっている。 オルレアン公はパレ・ロワイヤルで執務を行い、幼いルイ15世は先王の遺言により、空気がよく健康に良いとの理由でヴァンセンヌ城へ移転させられた。だが、その4ヶ月後にはヴァンセンヌは冬が厳しいとの理由で、今度はパリ中心部のテュイルリー宮に移っている。 7歳になったルイ15世は、フランス王家の伝統に則って男性によって養育されることになり、ルイ15世は心から慕っていた養育係のヴァンタドール夫人と涙を流して別れた。ルイ14世の遺言により新たな養育係となったのは、ヴィルロワ公とフルーリー司教であった。ヴィルロワ公は宮廷作法を教えたが養育者としては凡庸な人物で、ルイ15世に良い影響を与えず、内気な性格を助長させただけだった。一方、フルーリー司教は温雅な人物で教え子に優れた教育を施し、ルイ15世から敬愛される。 摂政となったオルレアン公は放蕩家として有名な人物だが、公私の分別はつけ、政治家としては有能だったという見方もある。オルレアン公の摂政政府は1715年に大臣制を廃止して、帯剣貴族層を国政に参加させる多元的議会制(Polysynodie)と呼ばれる制度を導入した。彼はまた、もしもルイ15世が崩御すればフランス王位を主張できるスペイン王フェリペ5世を牽制するため、1717年にイギリスとの同盟を成立させている。 多元的議会制は帯剣貴族たちに国政運営能力が欠如していたため上手く機能せず、3年で廃止となってしまっている。財政立て直しのためにスコットランド人のジョン・ローを財務総監に起用し、フランス初の紙幣を発行し、北アメリカ植民地の開発・貿易会社を立ち上げるが、バブル経済が発生して失敗し、多くの貴族たちが破産する結果となった(ミシシッピ計画)。 1721年、ルイ15世は従妹のスペイン王女マリアナ・ビクトリアと婚約した。3歳のスペイン王女は養育のためパリに移り住んだが、11歳のルイ15世はこの幼い婚約者に全く関心を示さなかった。1722年6月、ルイ15世はヴェルサイユ宮殿に移り、終生ここで暮らすことになる。同年10月、ルイ15世はランス大聖堂で成聖式を執り行った。1723年2月15日にルイ15世は13歳となり、パリ高等法院で成人を宣言して摂政政治が終わった。オルレアン公は引き続き宰相として国政に当たったが、同年12月に薨去した。フルーリーの助言に従い、ルイ15世はブルボン公ルイ・アンリを後任の宰相に指名する。 1725年2月にルイ15世が体調を崩し、2日程病床に伏した。若い国王の健康に王統の危機を心配したブルボン公は翌3月に、まだ幼く子を生むことが望めないスペイン王女マリアナ・ビクトリアとの婚約解消を決定する。マリアナ・ビクトリアはスペインに帰され、このためスペインとの関係が一時悪化した。代わって、ヨーロッパ諸国の中から出産可能な年齢の王女を選ぶことになった。なお、マリアナ・ビクトリアは後にポルトガル国王ジョゼ1世に嫁いでいる。 最終的に王妃は元ポーランド国王スタニスワフ・レシチニスキの娘で21歳のマリー・レクザンスカに決まる。スタニスワフは王位を失い国を追われた身であり、不釣り合いな結婚と見なされて国民の失望を買った。婚儀は1725年9月に行われた。ルイ15世は王妃マリー・レクザンスカを熱愛し、王妃はほぼ毎年のように妊娠出産し、11人もの子を生むことになる。 宰相ブルボン公は失政続きで、穀物の価格が高騰し景気が悪くなり、国民の評判がひどく悪くなった。1726年、16歳になったルイ15世はブルボン公を罷免し、かつての養育係フルーリー枢機卿を事実上の宰相とした。 フルーリー枢機卿は1726年から死去する1743年まで、ルイ15世の信任の下フランスを統治した。この時期はルイ15世の治世下では最も平和で繁栄した時代であり、ルイ14世期の戦争による人的物質的損失からの「回復」の時代(gouvernement "réparateur")と呼ばれている。 フルーリー枢機卿は大蔵卿ミシェル・ロベール・ル・ペルティエ・デ・フォール(1726年 - 1730年)と後任のフィリベール・オリ(英語版)(1730年 - 1745年)の助けを受けて、1726年に貨幣を安定化させ、1736年には収支の均衡に成功した。また1738年にはサン・カンタン運河を開通させてオワーズ川とソンム川をつなぎ、後にスヘルデ川とネーデルラントにまで拡張している。国立土木学校が創立され、土木事業が進められて、フランス各地に近代的な道路が舗装された。海上交通も急成長して、フランスの貿易額は1716年から1748年までの間に8000万リーブルから3億800万リーブルに増加している。一方で、ルイ14世時代のコルベールによって定められた経済・社会機構統制(dirigisme)のために産業の発展は遅滞している。 宗教面ではジャンセリストとガリカニリストの反抗を抑え込み、外交面ではフルーリーはイギリスとの同盟を継続させるとともにスペインとの和解に努めている。 1729年、王妃が3度目の出産で王太子ルイ・フェルディナンを生んだ。待望の王位継承者である男子の出産にフランス国民は喝采し、国王の人気は大いに高まった。この王太子の誕生により、王位継承問題とスペインとの戦争の危機を回避することができた。 1733年、外務卿ジェルマン・ルイ・ショーブラン(英語版)の勧めにより、ルイ15世はフルーリーの平和政策を一時放棄してポーランド継承戦争に介入する。この戦争は王妃の父スタニスワフ・レシチニスキを復位させることと、神聖ローマ皇帝カール6世の皇女マリア・テレジアの婚約者フランソワ・エティエンヌ(後の皇帝フランツ1世)からロレーヌ公国を奪うことが目的だった。 フランス軍はロレーヌを占領し、1738年にウィーン条約が結ばれて、スタニスワフにはポーランド王位放棄の代わりにロレーヌ公国が与えられ、フランソワはロレーヌの代償としてトスカーナ大公国の公位継承者となる。1766年にスタニスワフが死去すると、ロレーヌは義理の息子ルイ15世が相続してフランスに併合され、これがブルボン朝におけるフランス領土拡大の最後となった。その後、フランスがオーストリアとオスマン帝国との調停を行ってベオグラード条約が締結された。条約はオスマン帝国に有利な内容で、これは16世紀以来のフランス・オスマン同盟の効果である。この結果、オスマン帝国はフランスのカピチュレーション(帝国内における外国人の恩恵的特権)を更新し、フランスは中東地域における貿易の優位を確保した。これらの成功により、ルイ15世の権威は大いに高まった。 私生活でルイ15世は、王妃マリー・レクザンスカと結婚から数年間は仲睦まじかったが、王妃はほぼ毎年妊娠させられると夫婦生活を厭うようになり始め、一方、ルイ15世も王妃が生んだ子の多くが女子だったことに憤っていた。王妃は11人中2人しか男子を生まず、2人のうち王太子ルイ・フェルディナンだけが成人している。王妃がほぼ年中妊娠していたこともあって、ルイ15世は1734年頃から公的愛妾を持つようになり、ネール侯爵家の姉妹を寵愛した。最初にマイイ夫人、次に妹のヴァンティミーユ夫人そしてシャトール侯爵夫人である。 1739年以降、ルイ15世は国王が病人に手を触れて病を治す奇蹟の儀式(英語版)を止めてしまう。これは不倫を繰り返すルイ15世が自ら、神聖な儀式を行う資格がないと考えたためとされている。だが、このことにより国王の神聖性の権威が損なわれる結果となった。 1740年のカール6世の崩御とマリア・テレジアのハプスブルク家相続はオーストリア継承戦争を引き起こす。90歳近いフルーリー枢機卿には参戦に反対する気力はなく、フランスは1741年にプロイセン側で参戦した。戦時中の1743年にフルーリーが死去すると、ルイ15世は先王ルイ14世に倣い、以後宰相を置かないことを宣言する。 フルーリー枢機卿が死去して親政を開始した時点で、ルイ15世は33歳になっていた。彼は肖像画の通り美男子であり、体格も良く教養に富んでいたが、内気で臆病な性格であり、政治にあまり関心を持たず、もっぱら趣味の狩猟に興じる日々を送り、狩猟のための馬や犬の調教に熱心で「王は犬馬のために、犬馬の労を厭わない」と評された。 1744年、ルイ15世はオーストリア継承戦争で戦う軍隊の指揮を執るためアルザスに出征したが、この出征にシャトールー夫人が同行したことが世間の不評を買っていた。8月にルイ15世はメスで病に倒れ、重体に陥った。従軍聖職者は赦罪のために愛妾と別れることを求め、ルイ15世はこれに従って懺悔し、シャトールー侯爵夫人は追い返された。ルイ15世は回復し、国民は彼を「愛しの君」と呼んだ。しかしながら、ルイ15世の女性関係はすぐに元に戻ってしまった。この年の終わりにシャトールー侯爵夫人は死去し、国王は寵姫の死をひどく悲しんだ。 後にポンパドゥール夫人と呼ばれることになるジャンヌ=アントワネット・ポワソンは1745年2月に仮面舞踏会でルイ15世と出会った。知的で教養がある彼女は国王を魅了し、5月に彼女はポンパドゥール侯爵領を与えられ、正式にルイ15世の公妾となった。それまでの国王の愛人はみな貴族階層出身だったのに対し、彼女がブルジョワ階層出身であることが人々には不評で、彼女は様々な誹謗にさらされることになる。 ポンパドゥール夫人はヴェルサイユ宮殿の3階に住まい、ここで国王は退屈で煩わしい宮廷儀礼から逃れて寛ぎ、ブルジョア風の生活を好んだ。 ポンパドゥール夫人は体を壊したため1750年以降は公妾を退き、国王とは友人として付き合った。性的関係はなくなったものの、彼女は国王から深く信頼され有力な助言者となった。ポンパドゥール夫人は政界にポンパドゥール派と呼ばれる派閥を形成し、「私が支配する時代」と自ら言うほどの権勢を持つことになる。ポンパドゥール夫人の奢侈と浪費は当時の人々から非難されたが、彼女は芸術家のパトロンとなり、ルイ15世時代のフランス芸術の発展に無視しえない貢献をなしている。セーヴルに王立磁器製作所を設立してセーヴル焼を完成させたこと、パリに陸軍士官学校を設立させたのもポンパドゥール夫人の貢献である。彼女は建築家のパトロンにもなり、パリ市内のルイ15世の屋敷(現在のコンコルド広場)やエコール・ミリテール(英語版)の建築をしたアンジュ=ジャック・ガブリエルに出資している。また、彼女は啓蒙思想を擁護して百科全書派を教会の攻撃から守り、百科全書の刊行を実現させた貢献もある。 一方で彼女は「鹿の園」(Parc-aux-Cerfs)と呼ばれる個人的な娼館をつくり、多数の若い女性たちに国王への性的奉仕をさせた。「鹿の園」の娼婦の一人マリー=ルイーズ・オミュルフィの裸体画が現代に残されている。この様な乱脈な女性関係が元で、国王は処女の血の風呂に浴しているだの、90人の非嫡出子がいるだのといった淫らな噂がフランス中に流れてしまった。 オーストリア継承戦争ではフランスはプロイセン側に立ち、オーストリア、イギリスそしてオランダ共和国と戦った。1742年、シャルル・ルイ・オーギュスト・フーケ・ド・ベル=イルがフランス軍を率いてバイエルン選帝侯カール・アルブレヒトを神聖ローマ皇帝カール7世、ボヘミア王に擁立、1745年のフォントノワの戦いではモーリス・ド・サックス率いるフランス軍がイギリス軍に大勝している。1748年までにフランス軍はオーストリア領ネーデルラント(現在のベルギーなど)を占領し、フランスの長年の念願だった国境をライン川にまで押し出すことに成功したかに見えた。 だが、1748年に結ばれたエクス・ラ・シャペル条約では元ロレーヌ公フランソワの神聖ローマ皇帝位を承認し(カール7世はオーストリアの反撃を受けてバイエルンを占領され、1745年に崩御)、ネーデルラントの占領地を返還するという、フランスに全く利益をもたらさない結果となった。このため、ルイ15世は国民から酷く不評を買うことになり、その人気は凋落した。 戦争のために財政はひどく悪化しており、このため財務総監マチュー・ダルヌヴィル(英語版)は聖職者、貴族を含む全国民を対象とした「二十分の一税」の導入に取り組んだ。だが、新税の導入には免税特権を侵される聖職者、貴族が猛反発し、パリ高等法院は王令の登記を拒んで抵抗する。結局、新税は導入されたものの、譲歩を重ねたもので骨抜き同然のものになってしまった。ジャンセリストの問題でも国王とパリ高等法院が対立して紛糾し、国王の権威が低落する。 1756年、フランスは七年戦争にオーストリア側で参戦した。伝統的にフランスはハプスブルク家と対決しており、この同盟は「外交革命」と呼ばれた。これにはプロイセン王フリードリヒ2世を嫌うポンパドゥール夫人がオーストリアとの仲介役となったが、その役割は巷間に知られるほど大きくはなかったようである。 1757年1月5日、ルイ15世が馬車に乗ろうとした際に男に襲われ、右脇腹を短刀で刺される国王暗殺未遂事件が起こる。男はすぐに取り押さえられ、国王の傷も命に別条はなかったが、不安になった国王はしばらくひどく落ち込んでいる。犯人はパリ高等法院の司法官の家に仕えるロベール=フランソワ・ダミアンで、主人から国王の悪評を聞き犯行に及んだと自白した。3月にダミアンは公開執行による八つ裂きの刑に処された。この事件の余波で、陸軍卿ダルジャンソン伯と海軍卿兼国璽尚書マチュー・ダルヌヴィルが罷免されている。ダルヌヴィルは「二十分の一税」を導入した有能な政治家だったが、ポンパドゥール夫人の不興を買って失脚したとされている。 七年戦争でオーストリア・フランス同盟軍は、名将フリードリヒ2世率いるプロイセン軍に苦戦し、1757年11月のロスバッハの戦いで大敗を喫してしまう。アメリカ新大陸の戦いでもフランス軍はイギリス軍に敗れ、ケベックとモントリオールが陥落した(フレンチ・インディアン戦争)。 1763年2月、パリ条約が結ばれ、フランスはカナダ、ルイジアナ、西インド諸島の一部を含む広大な植民地を失った。この条約は「フランス史上最もみじめな条約」と呼ばれた。翌1764年4月15日にこの戦争に少なからず関わったポンパドゥール夫人が死去した。ルイ15世はポンパドゥール夫人の葬列を涙を流して見送っている。 「朕の後には大洪水がくるであろう(フランス語: Après moi le déluge、直訳すると「我が後に大洪水あれ」、日本語の「後は野となれ山となれ」に近いニュアンス)」という有名な言葉がある。ルイ15世自身が言ったわけではないが、彼の晩年と将来の王政の終焉を象徴する言葉とされている。 戦争により国庫は破綻に瀕していた。ルイ15世晩年の数年間は外務卿兼陸軍卿のショワズール公が政権を担った。彼はポンパドゥール夫人の人脈で出世した人物で、七年戦争では主戦派として戦争を推進していた。ショワズール公はイギリスへの報復のためにフランス海軍の再建に努め、その実績は多くの歴史家が評価している。一方、国内問題ではイエズス会と対立したガリカニリストのパリ高等法院に同調して、イエズス会を解散させた。財政政策では穀物取引の自由化を行い、経済の自由化改革に着手したが、その効果には賛否が分かれる。 1765年、王太子ルイ・フェルディナンが薨御する。ルイ・フェルディナンの長男と次男は夭逝しており、三男のベリー公がドーファン(王太子)となった(後のルイ16世)。ショワズール公はオーストリアとの同盟関係を強化すべく、新王太子とマリア・テレジアの皇女マリー・アントワネットとの政略結婚を取りまとめ、婚儀は1770年5月に行われた。マリー・アントワネットの父方の祖母とルイ15世の母方の祖母はオルレアン公フィリップ1世の娘で異母姉妹であったので、マリー・アントワネットはルイ15世の又従妹であった。 1768年6月24日に王妃マリー・レクザンスカが薨去した。王妃が薨去する1カ月ほど前にルイ15世はジャンヌ・ベキュと出会っている。ジャンヌは庶民の出で、娼婦同然の生活をしてデュ・バリー子爵の愛人となっていた女性だった。老境に入っていたルイ15世はジャンヌをヴェルサイユ宮殿に迎え入れて寵愛し、更にデュ・バリー子爵の弟と結婚させてデュ・バリー夫人と名乗らせ公妾とした(公妾は既婚者である慣わしがあった)。ショワズール公はデュ・バリー夫人を嫌悪し、そのために政治に関心がなかったデュ・バリー夫人は反ショワズール公の廷臣たちと結びつき、政争に巻き込まれるようになった。 パリ高等法院と国王との対立は続き、王権の危機を感じたルイ15世は1770年12月にパリ高等法院に迎合的なショワズール公を罷免してしまう。ルイ15世は大法官モプー(英語版)を登用して、翌1771年に一種のクーデターを起こし、パリ高等法院の司法官の追放、司法官職売官制の廃止、上級評定院の設置といった司法改革を断行させた。これによってパリ高等法院は弱体化し、王権が著しく強化された。だが、失脚したショワズール公派とパリ高等法院の法服貴族たちが、デュ・バリー夫人を元娼婦と非難する小冊子を作成して広め、国王の権威を更に貶めることになった。その後政権はモプーとデギュイヨン公、アベ・テレ(英語版)が担当、三頭政治になっていった。 1774年4月27日、ルイ15世は小トリアノン宮に滞在する間に片頭痛と足の痛みを感じ始めた。デュ・バリー夫人や孫のベリー公と朝食を共にしたが、ご飯はほとんど食べられなかった。食事後、狩りに出掛けるルイ15世は寒さを訴えて馬車に留まり、侍医の勧めでヴェルサイユに戻った。翌日より国王の顔に赤い斑点が現れ、症状が天然痘であることが判明すると、免疫力のないベリー公は国王と隔離された。病状が悪化して助からぬと悟った彼は、神への懺悔のためにデュ・バリー夫人を宮廷から立ち退かさせた。5月7日、国王は告解を行い罪の赦し受ける儀式を執り行った。ルイ15世の最後の瞬間を見守ったクロイ公(英語版)は膿だらけに変色された国王の顔がムーア人とネグロ、または青銅仮面のように暗くなったと表現した。5月10日午後3時30分、ルイ15世は64歳で崩御した。19歳になるベリー公がルイ16世として即位したが、彼は「私は何一つ教わっていないのに」と嘆いたという。 王妃マリー・レクザンスカとの間には以下の嫡出子がいる。 長女エリザベートと長男ルイ・フェルディナンは、それぞれスペイン王フェリペ5世の子女と結婚した(二重結婚)。ルイ15世の嫡出子で子孫を2020年現在まで残しているのはこの2人のみである。 公妾:ルイズ・ジュリー・ド・マイイ=ネール(マイイ伯爵夫人、1710年 - 1751年) 公妾:ポーリーヌ・フェリシテ・ド・マイイ=ネール(ヴァンティミール侯爵夫人、1712年 - 1741年)
公妾:マリー・アンヌ・ド・マイイ=ネール(シャトールー公爵夫人、1717年 - 1744年) 公妾:ポンパドゥール夫人(ポンパドゥール侯爵夫人1721年 - 1764年) 公妾:デュ・バリー夫人(デュ・バリー伯爵夫人1743年 - 1793年) 愛妾:ディアヌ・アデライーデ・ド・マイイ=ネール(英語版)(ロラゲ公爵夫人、1713年 - 1760年) 愛妾:マリー=ルイーズ・オミュルフィ(1737年 - 1815年)
愛妾:フランソワーズ・ド・シャリュー(英語版)(ナルボンヌ侯爵夫人、1734年 - 1821年)
庶子:ルイ・マリー・ド・ナルボンヌ(1755年 - 1813年) 愛妾:マルグリット・カトリーヌ・エノー(英語版)(1736年 - 1823年)
庶子:アンヌ・ルイーズ・ド・ラレアーレ(1763年 - 1831年) 愛妾:ルーシー・マドレーヌ・デスタン(英語版)(1743年 - 1826年)
庶子:アフロディト・リュシー・オーギュスト(1763年 - 1819年) 愛妾:アンヌ・クーピエ・ド・ロマン(英語版)(マイイ=クロンジュ男爵夫人、1737年 - 1808年)
愛妾:ルイーズ・ジャンヌ・ティエスラン・ド・ラ・コルテリエ(英語版)(ボンヌヴァル夫人、1746年 - 1779年)
愛妾:イレーヌ・デュ・ビュイソン・ド・ロングプレ(英語版)(? - 1767年)
愛妾:カトリーヌ・エレオノーレ・ベナール(英語版)(1740年 - 1769年)
愛妾:マリー・テレーズ・フランソワーズ・ボワスル(英語版)(1731年 - 1800年)
愛妾:ショワズール・ボープレ伯爵夫人(英語版) (1733年 - 1753年) 『ベルサイユのばら』(池田理代子) - 1972年-1973年『週刊マーガレット』(集英社)で連載された漫画。 『ラ・マキユーズ~ヴェルサイユの化粧師~』 - 『COMIC BRIDGE online』(KADOKAWA)で連載された漫画。 『悪役令嬢に転生したはずがマリー・アントワネットでした』(小出よしと) -2020年-2022年『月刊コミックフラッパー』(KADOKAWA)で連載された漫画。 『ルイ16世に転生してしまった俺はフランス革命を全力で阻止してアントワネットと末永くお幸せに暮らしたい』(スカーレッドG) - ライトノベル(なろう小説版は2019年-。書籍版は2020年- 、一二三書房サーガフォレスト)。漫画版(いの作画)は2021年- 『コミックポルカ』(一二三書房・SANKYO)連載。 『ジャンヌ・デュ・バリー 国王最期の愛人』(原題:JEANNE du BARRY)- 2023年のフランス映画。ジョニー・デップがルイ15世を演じた。 ^ 1715年、1722年、1726年、1759年、1770年の5回。1726-1728年の間は償却金庫を通じて減債した。 ^ 「聖なる王権ブルボン家」p164 ^ 「聖なる王権ブルボン家」p165 ^ 「聖なる王権ブルボン家」p159-161 ^ 「聖なる王権ブルボン家」p171 ^ 「聖なる王権ブルボン家」p172 ^ 「世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花」p445 ^ 「聖なる王権ブルボン家」p195-196 ^ 「聖なる王権ブルボン家」p193-194 ^ 「世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花」p444 ^ 「世界の歴史8 絶対主義の盛衰」p232-233 ^ 「世界の歴史8 絶対君主と人民」p416 ^ 「世界の歴史8 絶対主義の盛衰」p230 ^ 「国王を虜にした女たち―フランス宮廷大奥史」p191-195 ^ 「世界の歴史8 絶対君主と人民」p428-431 ^ 「国王を虜にした女たち―フランス宮廷大奥史」p201-203 ^ 「聖なる王権ブルボン家」p202-204 ^ 「世界の歴史8 絶対主義の盛衰」p241 ^ 「聖なる王権ブルボン家」p200 ^ 「聖なる王権ブルボン家」p202 ^ 「世界の歴史8 絶対君主と人民」p426 ^ 「世界の歴史8 絶対主義の盛衰」p242 ^ 「世界の歴史8 絶対君主と人民」p431 ^ 「聖なる王権ブルボン家」p209 ^ 「聖なる王権ブルボン家」p210 ^ 「聖なる王権ブルボン家」p215 ^ 「聖なる王権ブルボン家」p216 ^ 「世界の歴史8 絶対君主と人民」p432 ^ “La maquilleuse~ヴェルサイユの化粧師~”. 2023年5月10日閲覧。 ^ “ラ・マキユーズ~ヴェルサイユの化粧師~ 5(最新刊) |無料試し読みなら漫画(マンガ)・電子書籍のコミックシーモア”. www.cmoa.jp. 2023年5月9日閲覧。 ^ “ルイ16世に転生してしまった俺はフランス革命を全力で阻止してアントワネットと末永くお幸せに暮らしたい【WEB連載版】”. 小説家になろう. 2023年6月25日閲覧。 ^ “ルイ16世に転生してしまった俺はフランス革命を全力で阻止してアントワネットと末永くお幸せに暮らしたい1 | サーガフォレスト | 一二三書房公式サイト”. 一二三書房公式サイト | なろう系ノベル「サーガフォレスト」、ライトノベル「ブレイブ文庫」、Webコミック「コミックポルカ」など様々なレーベルを発行している出版社です。 (2020年8月17日). 2022年12月30日閲覧。 ^ スカーレッドG; いの (2022). ルイ16世に転生してしまった俺はフランス革命を全力で阻止してアントワネットと末永くお幸せに暮らしたい. 東京: 一二三書房. https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I031948229-00 ^ “ルイ16世に転生してしまった俺はフランス革命を全力で阻止してアントワネットと末永くお幸せに暮らしたい 無料試し読みなら漫画(マンガ)・電子書籍のコミックシーモア|検索結果一覧”. www.cmoa.jp. 2022年12月29日閲覧。 ^ “ルイ16世に転生してしまった俺はフランス革命を全力で阻止してアントワネットと末永くお幸せに暮らしたい - コミックポルカ”. コミックポルカ - 毎週金曜夕方更新! (2021年4月13日). 2023年4月6日閲覧。 Duke of Saint-Simon, Mémoires, Book 12, Chapter 15. [1] Marquis en:Philippe de Dangeau, Journal; 1856-60, Paris; XVI, 136; in Olivier Bernier, Louis the Beloved, The Life of Louis XV: 1984, Garden City, New York: Doubleday and Company. p. 3. The scene is described in Olivier Bernier, Louis the Beloved, The Life of Louis XV: 1984, Garden City, New York: Doubleday and Company. p. 17. 「聖なる王権ブルボン家」(長谷川輝夫、講談社選書メチエ、2002年) ISBN 978-4-06-258234-6 「国王を虜にした女たち―フランス宮廷大奥史」(川島ルミ子、講談社、2006年) ISBN 978-4-06-281078-4 「世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花」(長谷川輝夫、大久保桂子、土肥恒之共著、中公文庫、2009年) ISBN 978-4-12-205115-7 「世界の歴史8 絶対君主と人民」(大野真弓、中公文庫、1975年) ISBN 978-4-12-200188-6 「世界の歴史8 絶対主義の盛衰」(大野真弓、山上正太郎、教養文庫、1974年) ISBN 978-4-390-10829-4 『ルイ十五世 ブルボン王朝の衰亡』 G.P.グーチ 林健太郎訳 (中央公論社、1994年) 『啓蒙時代 ルイ十五世の世紀』 ユベール・メティヴィエ、安斎和雄訳 (文庫クセジュ:白水社、1974年) 『ヴェルサイユの苑 ルイ十五世をめぐる女たち』 窪田般弥(白水社、1988年) ルイ15世の著作およびルイ15世を主題とする文献 - ドイツ国立図書館の蔵書目録(ドイツ語)より。
1710年2月15日 - 1774年5月10日 表 話 編 歴 シャルル2世 843-877 ルイ2世 877-879 ルイ3世 879-882 カルロマン2世 879-884 シャルル肥満王 885-888 ウード 888-898 シャルル3世 898-922 ロベール1世 922-923 ラウール 923-936 ルイ4世 936-954 ロテール 954-986 ルイ5世 986-987 ユーグ1世 987–996 ロベール2世 996–1031 ユーグ2世(共同王) 1017-1025 アンリ1世 1031–1060 フィリップ1世 1060–1108 ルイ6世 1108–1137 フィリップ(共同王) 1129-1131 ルイ7世 1137–1180 フィリップ2世 1180–1223 ルイ8世 1223–1226 ルイ9世 1226–1270 フィリップ3世 1270–1285 フィリップ4世 1285–1314 ルイ10世 1314–1316 ジャン1世 1316 フィリップ5世 1316–1322 シャルル4世 1322–1328 フィリップ6世 1328–1350 ジャン2世 1350–1364 シャルル5世 1364–1380 シャルル6世 1380–1422 シャルル7世 1422–1461 ルイ11世 1461–1483 シャルル8世 1483–1498 アンリ2世(異説あり) 1422-1453 ルイ12世 1498–1515 フランソワ1世 1515–1547 アンリ2世 1547–1559 フランソワ2世 1559–1560 シャルル9世 1560–1574 アンリ3世 1574–1589 アンリ4世 1589–1610 シャルル10世(対立王) 1589–1590 ルイ13世 1610–1643 ルイ14世 1643–1715 ルイ15世 1715–1774 ルイ16世 1774–1792 ルイ17世(名目上) 1792–1795 ナポレオン1世 1804–1814 ルイ18世 1814–1815 ナポレオン1世(復位) 1815 ナポレオン2世(名目上) 1815 ルイ18世 1815–1824 シャルル10世 1824–1830 ルイ19世(異説あり) 1830 アンリ5世(異説あり) 1830 ルイ・フィリップ1世 1830–1848 ナポレオン3世 1852–1870 一覧 カテゴリ 表 話 編 歴 オスカル アンドレ マロン・グラッセ ロザリー ベルナール アラン ジェローデル マリー・アントワネット フェルゼン ルイ16世 マリー・テレーズ王女 ルイ・ジョゼフ王子 ルイ・シャルル王子 ルイ15世 デュ・バリー夫人 ポリニャック伯夫人 オルレアン公 ジャンヌ ロベスピエール サン・ジュスト ナポレオン・ボナパルト ベルサイユのばら 外伝ベルサイユのばら 薔薇は美しく散る サウンドトラック
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2024/11/14 20:36更新
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