上司海雲の情報(かみつかさかいうん) 僧侶 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
上司 海雲さんについて調べます
■名前・氏名 |
上司海雲と関係のある人
清水公照: 1975年:上司海雲別当の死去に伴い、大僧正、華厳宗管長、東大寺第207世別当就任。 志賀直哉: 国立音楽大学ピアノ科在学中の孫娘・柳美和子(四女万亀子の娘)がピアノ演奏するなか、葬儀委員長の里見弴が弔辞を述べ、東大寺の上司海雲と橋本聖準が読経、その後参列者による献花が行われた。 曾宮一念: 奈良にて上司海雲と知り合う。 堀口大学: 日本現代詩人会の「詩祭」で顕彰され、上司海雲と東郷豊治の案内で、秋篠寺、唐招提寺、薬師寺などを参観、日本全国を旅した。 入江泰吉: 後に東大寺別当となる上司海雲(かみつかさかいうん)、橋本聖準(はしもとしょうじゅん)らとは、一緒に野球をするなど幼なじみであった。 須田剋太: 上司海雲 杉本健吉: 1949年、東大寺観音院住職上司海雲師の知遇を受け、観音院の古土蔵をアトリエにしてもらい、奈良の風物を描く。 入江泰吉: 翌年、たまたま東大寺に撮影に来ていた入江に幼馴染の上司海雲(当時、東大寺観音院住職)が声をかけ、久々の再会を果たした。 |
上司海雲の情報まとめ
上司 海雲(かみつかさ かいうん)さんの誕生日は1906年2月15日です。奈良出身の僧侶のようです。
観音院サロン、壺法師などについてまとめました。亡くなられているようです。
上司海雲のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)上司 海雲(かみつかさ かいうん 1906年(明治39年)2月15日 - 1975年(昭和50年)1月25日)は昭和の華厳宗の僧侶。第206世東大寺別当(住職)。文化人サロンを形成し「観音院さん」の名で親しまれた。 奈良市、東大寺塔頭持宝院に生まれる。1930年、龍谷大学英文科卒。一年志願兵で野砲22連隊に入隊。また太平洋戦争末期に召集され朝鮮に派遣される。1939年、東大寺塔頭観音院住職となる。東大寺学園中学校・高等学校校長、東大寺執事長、華厳宗宗務長等を歴任。1972年華厳宗管長・東大寺206世別当となり、開祖良弁上人の1200年忌を営む。東大寺大仏殿の昭和の大修理のために尽力したが、1975年、任期途中で癌で死去。事業は後任の別当・清水公照に引き継がれた。 観音院サロン文学・芸術を愛し、奈良で文化人のサロンを形成したことで知られる。はじめ、1925年(大正14年)に奈良に移住した志賀直哉(小説家)を中心としたサロン(高畑サロン)が形成され、上司も出入りしていた。志賀が一ヶ月ほど上司の観音院に逗留したこともあったという。 1938年(昭和13年)、志賀が奈良を去ると、残されたサロンを上司が引き継ぐ形となった。杉本健吉(画家)、会津八一(歌人・早大教授)、入江泰吉(写真家)、須田剋太(洋画家)などが出入りした。東大寺観音院の住職だったので「観音院さん」として親しまれた。杉本健吉は一時観音院のなかにアトリエを設けることをゆるされ、東大寺や奈良の街角の風景などを描いた。 1945年(昭和20年)3月、新薬師寺に疎開していた水島弘一(彫刻家)が観音院の離れの書斎に仮寓。以降30数年に亘り交友を深める。後に(1971年(昭和46年))、七人会(入江泰吉、上司海雲、熊谷九寿、杉本健吉、鈴木光、須田剋太、水島弘一)を結成し、奈良の芸術文化に力を注いだ。 壺法師壺の収集家としても知られ「壺法師」というあだ名もあった。 追悼文集は「壺法師海雲」と題された。 2024/06/18 18:21更新
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上司海雲と同じ誕生日2月15日生まれ、同じ奈良出身の人
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