中村鋭一アナウンサーの情報(なかむらえいいち) アナウンサー/朝日放送(ABC)、政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
中村 鋭一さんについて調べます
■名前・氏名 |
中村鋭一と関係のある人
子守康範: 奇しくも、『おはようパーソナリティ道上洋三です』(『 - 中村鋭一です』の後継番組)の前半と放送時間が重なる『朝からてんコモリ!』で、ラジオパーソナリティを務めることになった。 阪本時彦: 特に、ABCラジオの『おはようパーソナリティ中村鋭一です』に対抗する目的で平日の早朝に開始した『おはようリスナー阪本時彦です』では、中村のように阪本の主張や個性を押し出そうとした。 横山やすし: やすしは師匠のノックと共にフリーアナウンサーの中村鋭一を応援した。 子守康範: アナウンサーを志したきっかけは、小学生の時に『おはようパーソナリティ中村鋭一です』(ABCラジオ)を聴いた時から。 福井敏雄: おはようパーソナリティ中村鋭一です(朝日放送ラジオ) - 気象台勤務時代。中村鋭一が朝日新聞大阪本社に出向していた時代に出来たつながりで出演。 若山彰: 「阪神タイガースの歌」は多くの歌手に歌唱されたが、若山の歌唱のものが甲子園球場での阪神戦で流されたのが切っ掛けで、歌詞を覚えた当時朝日放送アナウンサーだった中村鋭一によって多くのファンに広められ定着したとされる。 喜納昌吉: 1976年、「ハイサイおじさん」が久保田麻琴や中村鋭一らにカヴァーされ、本土でも知られる。 道上洋三: 1977年3月28日からは、『おはようパーソナリティ中村鋭一です』の後継番組『おはようパーソナリティ道上洋三です(おはパソ)』で、45年間にわたってパーソナリティを務めている(詳細後述)。 川藤幸三: 1983年には当時の一軍最低保障年俸で阪神と再契約したが、この話に感動した阪神ファンの上岡龍太郎、2代目桂春蝶、中村鋭一らが「川藤の給料はワシらで出そう!」とカンパで集めた金銭をシーズンオフに「これを給料の足しにしてほしい」と持参したところ、川藤は「上岡さんたちの気持ちはありがたいけど、そんなことは出来ない。 子守康範: 実家で長らく『おはようパーソナリティ中村鋭一です』を聴取していた影響で、中村鋭一のようなラジオパーソナリティを目指していたことによる。 谷畑孝: 大阪14区では、谷畑同様に参院から鞍替えした新進党の中村鋭一に敗れたが、重複立候補していた比例近畿ブロックで復活し、当選。 泉田行夫: 1951年にBKを退職後、映画で活動の傍ら、開局当初の朝日放送のアナウンサー(今村益三、中村鋭一、西村一男、村上守など)の養成を担当した。 横井英樹: なお、ホテル火災があった1982年、参議院議員中村鋭一は国会にて横井が10年間税金の申告をしていないことを取り上げ、「横井ファミリー全体で一千億円を超えるという財産形成をしている」と発言している。 道上洋三: これまで『ヤンリク』や『ヤング720』で実績を積み重ねてきた道上が『おはパソ』を担当するようになったきっかけは、前任者の中村鋭一が第11回参議院議員通常選挙への出馬を表明したことによる。 村上史好: 中野寛成衆議院議員、中村鋭一参議院議員(当時)の秘書を経て、民社党職員となった。 山内久司: パーソナリティ:山内久司、アシスタント:三枝雄子(三枝の休演時は中村鋭一が担当) 山口鶴男: 1989年には滋賀県大津市で行われた演説会において右翼の襲撃を受け中村鋭一が流血を伴う負傷、山口本人も首を殴打されるなどしたが、犯人が確保されるとそのまま演説を開始した。 |
中村鋭一の情報まとめ
中村 鋭一(なかむら えいいち)さんの誕生日は1930年1月22日です。滋賀出身のアナウンサーのようです。
人物、死去直前までの出演番組などについてまとめました。父親、母親、兄弟、卒業、テレビ、事件、退社、引退、趣味に関する情報もありますね。87歳で亡くなられているようです。
中村鋭一のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)中村 鋭一(なかむら えいいち、1930年〈昭和5年〉1月22日 - 2017年〈平成29年〉11月6日)は、日本のアナウンサー、タレント、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)。愛称は「えいちゃん」。「浪速のえいちゃん」と名乗っていた時期もある。俳号「中村一竿子(なかむら いっかんし)」。 滋賀県栗太郡金勝村(後の栗東町、現栗東市)大字上砥山(かみとやま)日吉神社で、神職の父親と小学校教員の母親益(ます)のもと、長男として生まれる。5人兄弟で、姉3人、弟1人。衆議院議員や滋賀県知事を務めた服部岩吉は伯父(母の兄)である。 父は立木神社、唐崎神社の宮司で、その後、日吉大社に禰宜として、そして近江神宮にも長く仕えた。終戦直後に唐崎神社の社務所に3年間住んでいた。その後、栗太郡草津町(現草津市)宮町、滋賀郡坂本村(現大津市坂本地区、松ノ馬場駅近くの線路沿いにある500坪)で15年間、松原市などで過ごす。 草津尋常高等小学校(現草津市立草津小学校)を経て、1942年3月、坂本国民学校(現大津市立坂本小学校)を卒業。 1942年4月、滋賀県立膳所中学校(5年制)入学。終戦後、進駐軍のラジオ放送FENを聴き、アメリカの文化に魅せられ英語を志す。一方、理数系が大の苦手で、秀・優・良・可・不可の5段階評価で代数、幾何、物理、化学は膳所中学校では全部不可(オール1)だった。一桁の足し算も暗算では絶対できなかったという。数学の授業は教員の目を盗み専ら英語の内職をしていた。教員に見つかり黒板用大型の三角定規で頭を強打されたこともある。平均という言葉の意味も全く理解していなかった。 1947年3月に膳所中学を卒業し、4月に同志社外事専門学校米英科(3年制)入学。学生時代は、軟派で、付文をつけては「べっぴんさん」を追い回していた。馬術部に所属し、障害飛越と純馬術で全国高等専門学校大会第2位になった。また、「物干し竿」と呼ばれた長尺バットを振り回す大阪タイガースの藤村富美男を見て、スポーツアナウンサーへの志望を抱いた。 1950年3月に専門学校を卒業。卒業に際してはNHKのアナウンサー試験を受け、学科試験は通ったが、アクセント試験で落ちる。NHKは東京の山の手の発音を基準としているため、江州弁の中村は不合格となった。同年4月、地方公務員の公立中学校教員となり草津中学校の英語教員に着任。中学では生徒に笞を振るい暴行を働く暴力教師だったという。 1951年4月、同志社大学商学部に入りなおすが、その年の開局が決まっていた朝日放送(ABC)のアナウンサー試験に合格したことで中途退学した。 1951年8月6日に朝日放送に第1期アナウンサーとして入社。泉田行夫らが養成を担当。「初鳴き」は開局した同年11月11日で、ニュースを読んだ。当時、多くの女性とつきあったが、ガールフレンドは全員ファッションモデルだった。福井放送や山口放送などの各開局時にも応援のために出向していたことがある。その後はスポーツ中継を中心に活躍。なお、ABCは朝日新聞社・毎日放送・毎日新聞社とともに設立・開局した大阪テレビ放送に出資していた時期もあり(1955年5月25日設立〜1959年5月)、同局に出向する形で番組出演することもあった。 当時の社長から「将来は朝日放送の幹部になってほしい」と言われ、1969年から1971年まで朝日新聞大阪本社社会部へ現場交換の形で出向、2年間新聞記者を務める。当初は事件記者(捜査1課など担当)、それから約1年にわたって天気担当記者をして、大阪管区気象台天気相談所長福井敏雄と親しくなった。大阪万博担当記者でもあった。 1971年4月、朝日放送に報道局部長プロデューサーとして復帰、ラジオにて「おはようパーソナリティ中村鋭一です」のパーソナリティとなった。なお、中村自身は日本初のラジオパーソナリティを自称していた。阪神タイガースが勝利した翌日には、必ず「阪神タイガースの歌」(六甲おろし)を熱唱したことで知られ、阪神ファンから広い支持を集めていた。 1977年3月、6月の第11回参議院議員通常選挙出馬のため、朝日放送を退社。 1977年6月、参議院議員選挙に大阪府選挙区から、河野洋平と宇都宮徳馬の支援を受け、新自由クラブ公認で立候補するが落選。タレント活動を始める。3年間は、月火水木金とベルトでラジオの生放送をやって、それとは別に、テレビの30分から1時間の番組を7本持ち、スタジオからスタジオを走り回っていた。 1980年6月、第12回参議院議員通常選挙に大阪府選挙区から、民社党・新自由クラブ推薦で立候補、初当選。 参議院議員として新人だった中村は国会で代表質問に立った時に本会議場の壇上で、村上正邦に「えいちゃん、今日タイガースどうなってんだい」と言われたのを受け、「ただいま4対0でタイガース、リードしております」と発言し、「こら、不謹慎だ」と懲罰委員会にかけられた。議長徳永正利に呼ばれて、「実は、中村さん、相談がある。タイガースのうんぬんのとこは切る代わりに、閣僚で大臣で居眠りしとるのがおる(直前の中村の発言)、いうところも切らせてくれんか。議事録を消させてくれ。それで勝負は1対1でパーや」と言われ、然るべき懲罰を受けなかった。 1986年の第14回参議院議員通常選挙大阪府選挙区で西川きよしらに敗れ落選。 1989年5月12日、大津市の滋賀会館で右翼に襲われ負傷。 1989年7月の第15回参議院議員通常選挙には出身地の滋賀県選挙区に国替えした上で連合の会(のち民主改革連合)公認で立候補し、当選。 1994年1月には民主改革連合代表に就任しているが、12月に離党、新進党の結党や民社協会結成に参加し第17回参議院議員通常選挙に不出馬。 1996年10月の第41回衆議院議員総選挙では大阪14区から新進党公認で立候補、同じく参議院議員から鞍替え、日本社会党から自由民主党へ移籍した谷畑孝を破り当選。 新進党解党後は自由党結党に参加し明日の内閣環境庁長官に就任(自民党と連立政権を組み消滅)、1999年7月本会議で国旗国歌法案採決で賛成、2000年4月自由党の連立離脱で保守党に所属し、2000年6月の第42回衆議院議員総選挙では比例代表近畿ブロックから保守党公認で立候補するが落選し、政界を引退した。 政治家を引退した後、昭和プロダクションに所属し、テレビ・ラジオのパーソナリティ、政治評論などで活躍した。この時期は吹田市に在住していた。 2000年、勲二等瑞宝章受章。 2012年8月1日から「大阪滋賀県人会」最高名誉顧問(名誉顧問から格上げ)を務めた。 晩年はパーキンソン病や脳梗塞を患い、2017年10月には誤嚥性肺炎で入院するなど体調が優れなかったという。2017年11月6日、肺炎のため大阪府吹田市の病院で死去。87歳没。死没日をもって従四位に叙される。 人物神職の家庭に育ったことから、出身地である草津や坂本では、「お宮さんのアナウンサー」と呼ばれていた。中村も神社神道一本で、家には仏壇は一切なかったという。 野球をきっかけにアナウンサーへの道を歩んだが、本人に本格的な野球の経験はない。ゴルフはたしなんだものの、100を切ったのは1回だけである(ゴルフ歴50年、ハンディキャップ36)。麻雀もするが得意ではなかった。2012年当時は「85Mの会」に所属し、中学時代の仲間8人で麻雀を1ヶ月に1回していたという。 タバコが好きで、愛煙家であった半面、「酒を飲む前に青酸カリを飲む」と言うほど酒が大嫌いで絶対に酒は飲まなかった。 川柳のクラブ「相合傘」に加入していたほか、タイガース応援、釣りが趣味であった。 妻との間には、二人の娘を授かっている。 死去直前までの出演番組鋭ちゃん順子のさざなBeゲーション(日曜 11:00 -12:00、KBS滋賀、2007年4月4日~) 鋭ちゃんのダイナマイト・トーク(土曜 13:00 - 14:30、FM千里、2011年4月 - 2017年3月) 2024/06/09 17:25更新
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nakamura eiichi
中村鋭一と同じ誕生日1月22日生まれ、同じ滋賀出身の人
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