久保幸江の情報(くぼゆきえ) 歌手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
久保 幸江さんについて調べます
■名前・氏名 |
久保幸江と関係のある人
服部逸郎: 『ヤットン節』、1951年(昭和26年)7月、野村俊夫作詞、歌:久保幸江 霧島昇: ニコニコ音頭(1951) - 共唱:久保幸江、作詞:福田伝吉/作曲:上原げんと 霧島昇: 山梨音頭(1954) - 共唱:久保幸江、作詞:奥山靉/作曲:服部レイモンド 古賀政男: トンコ節(1949年、1951年) 歌:久保幸江・楠木繁夫(1949年版)、久保幸江・加藤雅夫(1951年版) 近江俊郎: 『小豆島小唄』1952年コロムビア 共演:久保幸江 西條八十: 「トンコ節」(作曲:古賀政男、歌唱:久保幸江・加藤雅夫、1949年) 古賀政男: 京都音頭(1951年) 歌:霧島昇・久保幸江 霧島昇: 月が出た出た(1951) - 共唱:久保幸江、作詞:西條八十/作曲:古賀政男 霧島昇: 良いとこ節(1951) - 共唱:久保幸江、作詞:西條八十/作曲:古賀政男 服部逸郎: 『新ヤットン節』、1954年(昭和29年)2月、野村俊夫作詞、歌:久保幸江 霧島昇: 京都音頭(1951) - 共唱:久保幸江、作詞:西條八十/作曲:古賀政男 野村俊夫: 1952年「夜船の灯り」(作曲:古関裕而、歌:久保幸江) 岡本敦郎: 葛飾音頭 共唱:久保幸江 霧島昇: 白浪五人男(1955) - 共唱:久保幸江・岡本敦郎ほか、作詞:正岡容/作曲:古賀政男 萩原章: 『十六文からす堂 千人悲願』 : 監督 原作山手樹一郎、脚本木下藤吉、撮影平野好美、出演黒川弥太郎、市川春代、横山エンタツ、久保幸江、大友柳太郎 古賀政男: 伊勢おどり(1954年) 歌:霧島昇・久保幸江 霧島昇: 伊勢おどり(1954) - 共唱:久保幸江、作詞:西條八十/作曲:古賀政男 日高真弓: 久保幸江 古賀政男: 良いとこ節(1951年) 歌:霧島昇・久保幸江 近江俊郎: 『増田小唄』1952年コロムビア 共演:久保幸江 古賀政男: 白浪五人男(1955年) 歌:霧島昇・久保幸江・岡本敦郎 他 古賀政男: 月が出た出た(1951年) 歌:霧島昇・久保幸江 |
久保幸江の情報まとめ
久保 幸江(くぼ ゆきえ)さんの誕生日は1924年1月24日です。旧 台湾出身の歌手のようです。
ディスコグラフィー、NHK紅白歌合戦出場歴などについてまとめました。卒業、家族、映画、退社、結婚、引退、テレビに関する情報もありますね。86歳で亡くなられているようです。
久保幸江のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)久保 幸江(くぼ ゆきえ、1924年(大正13年)1月24日 - 2010年(平成20年)9月8日)は、日本の女性歌手。芸者経験はないが、芸者風歌手として活動した。 1924年(大正13年)、日本統治下の台湾・屏東市で生まれる。本名:篠原幸江。 1942年(昭和17年)屏東高等女学校を卒業後、家族とともにシンガポールに移る。当時のシンガポールは日本占領下にあり昭南島と称していたが、家族はそこで日本軍相手の料亭を開いていた。久保はこの店で好きな流行歌を歌い、また軍の慰問にも赴き、歌を歌っていたという。 1946年(昭和21年)、日本に引き揚げた後、翌1947年(昭和22年)、日本コロムビア社の新人歌手募集の新聞広告を見て応募、1500人の応募者の中から合格した。 1948年(昭和23年)「千鳥なぜ啼く」でデビューしたが不発に終わる。民謡を歌謡曲風にアレンジした2曲目の「おこさ節」も市井の注意を引かないまま終わったが、民謡もうまくこなせる新人として社内で注目を集めた。 ところで、このころ古賀政男は「炭坑節」に興味を持っていた。古賀はこれをさらに都会的な宴会ソングに仕立て上げ、1949年(昭和24年)、「トンコ節」として久保と楠木繁夫のデュエットとして発売させた。当初はさっぱり売れなかったが、都内、地方を問わずあらゆる営業先のステージで幾度となく一人で歌いまくったため、じわじわと売上が伸び、翌1950年(昭和25年)、新人歌手加藤雅夫と共に吹き込んだ新しい「トンコ節」が彼女の運命を決定づけるほどの大ヒット曲となった。それは松竹をして映画「初恋トンコ娘」(監督・斎藤寅次郎。柳家金語楼、川田晴久他、久保自身も出演。1951年4月20日封切)を製作せしめるほどであった。当時の人気投票では、美空ひばりを抑え一位になったこともあった。 以後は1951年(昭和26年)発売の「ヤットン節」(30万枚の大ヒット)や、「パチンコ人生」、コミックソング「旅は楽しいシュッポッポ」などヒット曲を放ち、1952年(昭和27年)にはNHK紅白歌合戦に出場した。1955年(昭和30年)、日本舞踊の名取になるため、コロムビアを退社。 しかしコロムビアの敵社である日本ビクターから再三カムバックの誘いを受けたため、1957年(昭和32年)9月、『靖國の母(詩吟入り)』で歌手復帰。1960年(昭和35年)にはブラジル公演を行い、その際に録音したLPレコード「久保幸江の南北みやげ」も発売している。しかし、外交員と結婚し、同年12月に再び引退した。 1969年(昭和44年)、NHKのテレビ番組「第1回思い出のメロディー」で久々に歌ったことや、渡辺はま子の勧めもあり本格的に歌手活動を再開。しかし1973年(昭和48年)、甲状腺手術中の医療ミスによって声帯を一本切除されてしまう。懸命なリハビリと治療のかいあって翌年には復帰した。1977年(昭和52年)、マリモスレコードに入社。リハビリの末アルバムやシングルを発売している。 その後は神奈川県内で歌謡教室を開きながら、テレビの懐メロ番組や舞台などに出演。1998年(平成10年)にはデビュー50周年を迎え、新曲『女の人生花ざかり』と代表曲『トンコ節』を古巣のコロムビアから発売。精力的に歌手活動を続けてきたが2003年(平成15年)に体調を崩す。一度は復帰し、同年12月に新曲『ふるさと府中』を発売したりもしたが2005年を最後に表舞台を退いた。 その後は東京都内の老人施設に入所。施設によると、「みんなにせがまれるとよく歌っていた」という。2010年9月7日未明、東京都内の老人施設で突然意識を失い、病院に搬送。翌8日に心不全のため死去。86歳没。久保の死去は2年後の2012年になってから明らかにされた。 ディスコグラフィーコロムビア 1948年(昭和23年)『千鳥なぜ啼く』『おこさ節』 1949年(昭和24年)『トンコ節』共唱:楠木繁夫 1950年(昭和25年)『トンコ節』共唱:加藤雅夫 1951年(昭和26年)『月が出た出た』共唱:霧島昇『ヤットン節』『五ツ木子守唄』『パチンコ人生』 1952年(昭和27年)『チャンバラ節』『トコトン節』『旅は楽しいシュッポッポ』 1953年(昭和28年)『キューッと一杯』 1954年(昭和29年)『阿波踊り』共唱:岡本敦郎『野球拳』共唱:高倉敏『今度生まれたら』 1955年(昭和30年)『船頭可愛いや』他 ビクター 1957年(昭和32年)『靖國の母』『月夜子守唄』『雪の南部坂』 1958年(昭和33年)『ソーラン吹雪』『温泉ぶし』 1960年(昭和35年)『おたまじゃくし』他 マリモス 1977年(昭和52年)『日本の母』『サラリーマン節』『徳島ばやし』他 コロムビア 1998年(平成8年)『女の人生華ざかり/トンコ節』 キング 2003年(平成13年)『ふるさと府中』 NHK紅白歌合戦出場歴
2024/06/25 17:36更新
|
kubo yukie
TOPニュース
Hey! Say! JUMPの有岡大貴と松岡茉優が結婚を発表
NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に
King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表
平野紫耀、神宮寺勇太、岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。
元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕
久保幸江と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「久保幸江」を素材として二次利用しています。