古川清蔵の情報(ふるかわせいぞう) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
古川 清蔵さんについて調べます
■名前・氏名 |
古川清蔵と関係のある人
岩本義行: 1938年の綿製品禁止令以降、粗悪となった用具が更に進んだ年の記録で、本塁打王・古川清蔵が105試合で8本、南海のチーム本塁打が11本という年の1試合3本塁打であった。 島秀之助: 実際にカウント0-2から古川清蔵が、野口二郎から起死回生の同点2ランホームランを放ち、試合は28回(3時間47分)の死闘となった。 金山次郎: 1948年に球団代表の赤嶺昌志が辞任に追い込まれると、後を追って、小鶴誠、加藤正二、古川清蔵、三村勲、野口正明、岩本章、井上嘉弘、藤原鉄之助らと共に退団し、永田雅一が結成した大映球団に所属し大映球団が東急フライヤーズに合流する形で急映フライヤーズに移籍した。 広瀬叔功: 通算RFも2.33であり、これは守備機会3000以上の外野手において歴代3位に相当する数字である(1位・2位は戦前・1リーグ時代からの選手である坪内道典・古川清蔵)。 島田誠: 350盗塁:1989年9月30日、対福岡ダイエーホークス24回戦(平和台球場)、1回表に三盗(投手:加藤伸一、捕手:内田強) ※史上12人目、盗塁王未獲得での達成は他に古川清蔵のみ |
古川清蔵の情報まとめ
古川 清蔵(ふるかわ せいぞう)さんの誕生日は1922年3月4日です。鹿児島出身の野球選手のようです。
引退に関する情報もありますね。今年の情報もありました。2018年に亡くなられているようです。
古川清蔵のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 古川 清蔵(ふるかわ せいぞう、1922年3月4日 - 2018年10月17日)は、プロ野球選手(外野手、1942年のみ捕手)・競馬評論家。 鹿児島二中から、鹿児島商業学校に進学、八幡製鉄を経て、1941年に名古屋に外野手として入団。 1942年は開幕から捕手として起用される。5月12日の対南海軍戦で川崎徳次からサヨナラ本塁打を放つと、5月24日の大洋戦では、2点ビハインドの9回に野口二郎から同点本塁打を放っている。この試合はそのまま延長戦に入り、当時世界最長の延長28回の末、4対4で引き分けている。7月18日の対阪急戦では西沢道夫のノーヒットノーランに貢献した。同年は初の規定打席(13位、打率.216)にも達し、本塁打王(8本)にも輝いた。翌1943年は外野手に戻り、シーズン4本ながら2年連続の本塁打王となった。同年オフに兵役により退団。 戦争が終わると復員し、1945年11月23日の戦後初のプロ野球試合となった職業野球東西対抗戦(明治神宮野球場)に出場した。1946年に中部日本に復帰するも、翌1947年オフに赤嶺昌志球団代表の解任を受けて、その後を追って退団。 1948年に阪急ブレーブスへ移籍。中心打者として起用され、1949年には自己最高の打率.291(リーグ19位)を、翌1950年には木塚忠助に次ぐリーグ2位の56盗塁を記録した。1953年8月30日の対南海ホークス戦で延長戦の参考記録ながらNPBタイ記録の1試合7安打を記録、同年は打率.285(11位)の好成績を挙げた。1959年に引退。通算370盗塁は日本プロ野球歴代12位の記録であるが、盗塁王を獲得出来なかった選手としては、歴代最多である。 その後、妻(阪神・淡路大震災で死去)の父が中央競馬の調教師(伊藤勝吉)である縁から競馬評論家になり、サンケイスポーツで予想コラムを書いていた他、野球解説者・評論家を兼業した時期もあった。日本中央競馬会の「平成26年度顕彰馬記者投票名簿」に「会友」として名前が掲載されており、投票権を有していた。 2018年10月17日に老衰のため、兵庫県宝塚市内で死去。96歳没。 古川の死去により、判明している限りで戦前のプロ野球を経験した選手は全員、鬼籍に入ったことになる。 各年度の太字はリーグ最高 名古屋(名古屋軍)は、1944年に産業に、1946年に中部日本に、1947年に中日(中日ドラゴンズ)に球団名を変更 本塁打王:2回(1942年、1943年) 1000試合出場:1953年5月16日※史上19人目 1試合7安打:1953年8月30日、対南海ホークス戦 ※延長戦での参考記録、1試合7安打はNPB記録 24(1941年 - 1943年、1946年 - 1947年、1949年 - 1959年) 12(1948年) ^ “プロ野球創成期の強打者、古川清蔵さん死去 96歳…老衰”. サンケイスポーツ. (2018年10月18日). https://www.sanspo.com/article/20181018-7YLEFYCKNFJGLNQLXLYA7OAMXM/ 2018年10月18日閲覧。 ^ 1949年に大下弘が9回までで記録。1試合7安打はこれまでに古川と大下の2例のみ ^ 週刊ベースボール2014年8月25日号97ページ ^ 入団2年目の1942年から記録が取られ始めた盗塁死においても、リーグ最多を記録していない選手の中で通算155盗塁死は歴代最多 ^ “中日、阪急で活躍した古川清蔵氏が死去 96歳、本塁打王2度獲得の強打者”. full-count. (2018年10月21日). https://full-count.jp/2018/10/21/post232341/ 2024年2月13日閲覧。 鹿児島県出身の人物一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 オリックス・バファローズの選手一覧 個人年度別成績 古川清蔵 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 1936秋 藤村富美男, 山下実, 古谷倉之助 1937春 中島治康, 松木謙治郎 1937秋 高橋吉雄 1938春 ハリス 1938秋 中島治康 1939 鶴岡一人 1940 川上哲治 1941 服部受弘 1942 古川清蔵 1943 岩本章, 加藤正二, 古川清蔵 1944 金山次郎 1946 大下弘 1947 大下弘 1948 青田昇, 川上哲治 1949 藤村富美男 日本の野球選手 新日本製鐵八幡硬式野球部の選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手 本塁打王 (NPB) 産経新聞社の人物 競馬評論家 日本の競馬に関する人物 20世紀日本の評論家 21世紀日本の評論家 鹿児島商業高等学校出身の野球選手 鹿児島県立甲南高等学校出身の人物 鹿児島県出身の人物 1922年生 2018年没 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/20 04:18更新
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furukawa seizou
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