吉田竜夫の情報(よしだたつお) 漫画家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
![もしもしロボ](../image/robo_message_s.png?)
吉田 竜夫さんについて調べます
■名前・氏名 |
吉田竜夫と関係のある人
越智一裕: 高校在学中からアニメーターを志しており、1977年9月にはタツノコプロを志望するつもりで上京したが、事前連絡を入れていなかったうえに当日は社長の吉田竜夫が急逝した日でもあったため、一旦はあきらめて帰郷している。 鳥海尽三: 1970年代後半は吉田竜夫社長の死と前後して、タツノコプロから人材流出が相次いだ時期で、鳥海も1977年の『とびだせ!マシーン飛竜』の企画を最後に、タツノコを退社。 たつみ勝丸: 吉田竜夫に請われ、初期のタツノコプロに連載マンガの構成作家として参加。 小山高生: 小山はフリーに転じて他社作品を手がけるようになったが、自分を育てたタツノコプロ自体への恩義は強く感じ、タツノコプロ初代社長の吉田竜夫が没し、スタッフが次々と流出して苦境にあったタツノコプロを支えた。 九里一平: 1962年、吉田竜夫、吉田健二と3人でアニメーション制作会社「竜の子プロダクション」(タツノコプロ)を設立。 笹川ひろし: 手塚治虫のアシスタントから独立後、虫プロのテレビアニメ『鉄腕アトム』の絵コンテを2本描いたことでアニメの魅力に取り憑かれ、当時交友関係のあった吉田竜夫にアニメ製作の話を持ちかけた。当時のタツノコプロは吉田兄弟で経営する漫画スタジオだったが、同時期にタツノコプロへ東映動画からテレビアニメを共同制作する企画が持ち込まれ、共同制作の話は流れたものの、吉田竜夫はタツノコプロ単独でアニメ制作へ乗り出す。笹川は吉田のアシスタントだった原征太郎と2人で東映動画でアニメーターの養成教育を受け、タツノコプロ創立時から演出スタッフとして吉田竜夫を支えた。 中村光毅: 紹介を受けて当時の社長・吉田竜夫の面接を受け、お互いギター好きだったことで話が合って入社が決まった。 九里一平: マッハ三四郎(原作:久米みのる、構成:吉田竜夫) 望月三起也: 1962年、吉田竜夫が弟の吉田健二、九里一平と漫画専門のプロダクションとして創設したタツノコプロダクションに参加。 高橋資祐: 同プロでは笹川ひろしや吉田竜夫らの下で『おらぁグズラだど』『昆虫物語 みなしごハッチ』などの原画・演出を担当した他、作画チーフも務めた。 九里一平: タツノコプロ創業経営者一族の「吉田三兄弟」の三男で、長兄は漫画家・アニメ原作者・タツノコプロ初代社長の吉田竜夫、次兄はアニメプロデューサー・タツノコプロ第2代社長・初代会長の吉田健二。 山下幸雄: 科学忍者隊ガッチャマンII(小学館 てれびくん 1978年10月号 - 1979年9月号) しのはら幸雄 名義 ※吉田竜夫原作 吉田喜昭: 『おらぁグズラだど』 : 製作吉田竜夫、監督笹川ひろし・原征太郎・西岡たかし・坂本雄作・瀬山義文・高橋良輔・西牧秀雄・木下蓮三・芹川有吾・林純夫・佐々木治次、原作笹川ひろし、声の主演大平透、製作タツノコプロダクション、1967年10月7日 - 1968年9月25日放映(連続テレビアニメ映画・全52回) - 笹川ひろし・鈴木良武・酒井仁・村林信一・芹川有吾・伊東恒久・山崎晴哉・陣野修・瀬間三枝子・出崎哲・草川隆・板井れんたろうとともに脚本 伊海田弘: 『忍者部隊月光』第11・12話「まぼろし作戦」 : 原作吉田竜夫、主演水木襄、製作NAC、1964年3月13日 - 同20日放映 - シロタ役 小山春夫: 以後は、武内つなよし、桑田次郎、吉田竜夫(竜の子プロダクション)と漫画家のアシスタントを転々としていくうち、最も影響を受けることになる白土三平に出会う。 吉田喜昭: 『忍者部隊月光』 : 原作吉田竜夫、主演水木襄、製作国際放映、1964年1月3日 - 1966年3月31日放映(連続テレビ映画・全117話) 吉田喜昭: 『昆虫物語 みなしごハッチ』 : 製作九里一平、企画成嶋弘毅・嶋村一夫・堀越徹、原作吉田竜夫、声の主演石川ひとみ、製作タツノコプロ・読売広告社、1989年7月21日 - 1990年8月31日放映(連続テレビアニメ映画・全55話) 吉田喜昭: 『タイムボカン』 : 製作吉田竜夫、企画鳥海尽三・酒井あきよし・柳川茂、総監督笹川ひろし、原作タツノコプロ企画室、声の主演太田淑子、製作タツノコプロダクション、1975年10月4日 - 1976年12月25日放映(連続テレビアニメ映画・全61話) 広岡球志: 新造人間キャシャーン(原作:吉田竜夫、冒険王連載) 吉田喜昭: 『新忍者部隊月光』 : 原作吉田竜夫、主演水木襄、製作国際放映、1966年7月3日 - 同年10月2日放映(連続テレビ映画・全13話) しまざき由理: 竜の子プロダクション(現在のタツノコプロ)社長・吉田竜夫、同曲の作詞者・丘灯至夫が見守るなか、何度リテイクしても失敗し、嶋崎はとうとうトイレにこもって泣き出した。 天野喜孝: 1967年 - 15歳の頃、吉田竜夫の自宅に居候しながら高校に通う形でアニメーション制作会社タツノコプロダクションに入社。 たてかべ和也: タツノコプロのアニメに参加させてくれた際、初代社長の吉田竜夫に気に入ってくれて、プロデューサーに「これから、タツノコ作品にはたてかべさんを使う」と推薦してくれたこともあった。 吉田喜昭: タツノコ作品は、『おらぁグズラだど』に始まり、『ハクション大魔王』、『昆虫物語 みなしごハッチ』、『いなかっぺ大将』、『タイムボカン』と数多く手掛けてきたが、タイムボカンシリーズの第2作である『タイムボカンシリーズ ヤッターマン』では、1977年(昭和52年)7月30日に放映された第31話『ドビンソン・クロースルだコロン』以外は脚本を提供しておらず、同年9月5日に吉田竜夫が満45歳で死去、以降、長らくタツノコから離れた。 望月三起也: しかし連載は続かず、堀江卓、吉田竜夫のアシスタントとして働く。 大平透: タツノコプロとは仕事以外でも親交があり、自身が支援していた北海道の障害者団体の児童のために、タツノコプロ創設者である吉田竜夫の妻を介して、タツノコ作品の上映会を開催している。 梶原一騎: その頃、『力道山物語』の評判を聞きつけた『週刊少年マガジン』初代編集長・牧野武朗が梶原の元を訪ね、プロレス漫画『チャンピオン太』(画・吉田竜夫)の連載(原作)を依頼。 吉田喜昭: タツノコプロでの仕事は、吉田竜夫の没後、12年ぶりであった。 広岡球志: 宇宙の騎士テッカマン(原作:吉田竜夫、冒険王連載) 木村光久: 1950年代から、木村 光久として、少女マンガや少年マンガを発表、同時期に京都から上京した漫画家の吉田竜夫、辻なおきらとの親交は深かった。 |
吉田竜夫の情報まとめ
![もしもしロボ](../image/robo_message_s.png)
吉田 竜夫(よしだ たつお)さんの誕生日は1932年3月6日です。京都出身の漫画家のようです。
![もしもしロボ](../image/robo_message_s.png)
人物、受賞歴などについてまとめました。テレビ、ドラマ、映画、兄弟に関する情報もありますね。45歳で亡くなられているようです。
吉田竜夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)吉田 竜夫(よしだ たつお、1932年3月6日 - 1977年9月5日)は、日本の漫画家、アニメ原作者、実業家。本名・吉田龍夫(読みは同じ)。京都府京都市出身。アニメ制作会社タツノコプロの設立者で初代代表取締役。 1932年、京都市に生まれる。終戦後間もなく、両親を失う。絵を独学で学び、新聞や雑誌の挿絵、紙芝居の下絵などを描いて生計を立てる。地元・京都の新聞社で働いた後に上京し、絵物語作家として活動を始める。1954年にデビューした後、1955年から梶原一騎と組んで作品制作を続ける。1960年代には漫画家に転向。梶原と組んだ『チャンピオン太』やオリジナル作品の『少年忍者部隊月光』がヒットし、相次いでテレビドラマ化された。特に『忍者部隊月光』は2年間放映され、映画も作られるなど忍者ブームの一端を担った。 1962年10月、実弟の吉田健二と九里一平とともに株式会社竜の子プロダクション(現・タツノコプロ)を設立。初代社長に就任する。当初は漫画専門のプロダクションとして創設され、吉田の版権やアシスタントを管理を行なっていたが、吉田がアニメーション制作に強い意欲を持ち始めたことからアニメ制作に乗り出す。 1965年、タツノコプロのアニメ第一作『宇宙エース』が放映される。その後も次々と日本アニメ史上に残るヒット作品を世に送り出す。 1972年、『昆虫物語 みなしごハッチ』で第17回小学館漫画賞を受賞。 1977年9月5日午後9時10分、肝臓がんのため東京都千代田区の日本医科大学付属第一病院で死去。45歳没。 吉田の死後、社長は弟の吉田健二と九里一平が引き継ぐ。しかし、タツノコプロが大手玩具メーカータカラ(現・タカラトミー)の子会社となったのに伴い、2人とも2005年7月に退任した。 2005年、東京国際アニメフェアで行われた東京アニメアワードにて、「日本のアニメを作った20人」の一人として特別功労者賞が授与された。 人物タツノコプロ(竜の子プロダクション)の創設者として知られる。初代社長として『科学忍者隊ガッチャマン』『ハクション大魔王』『昆虫物語 みなしごハッチ』など数々のヒット作品を世に送り出し、日本アニメの黎明期を支えた。 創業経営者一族の「吉田三兄弟」の長男であり、次弟は吉田健二(アニメプロデューサー、タツノコプロ第2代社長・初代会長)、三弟は九里一平(本名:吉田豊治、漫画家・アニメプロデューサー・タツノコプロ第3代社長)。デザイナー、イラストレーターの吉田すずかは長女。 漫画などの原作をもとにしないオリジナルのテレビアニメ作品の制作にこだわり、アメコミのような絵柄でアメリカ的なアニメーションを制作するなど、ほかのアニメ制作会社ではやらないような挑戦をした。 タツノコアニメの初期のキャラクターのデザインは、骨格がしっかり描かれた緻密でクオリティーの高い吉田の画風で描かれていた。当時はタツノコアニメ第一作『宇宙エース』のような簡略化した絵を動かすのが主流だったが、吉田はアメコミのような劇画を動かすことにこだわって『マッハGoGoGo』を作り上げ、それがタツノコプロの源流となった。しかし、他のアニメーターたちには吉田のタッチを真似ることが難しく、スケジュールを順調に進めるためにデフォルメを効かせたシンプルな線のギャグアニメを制作ローテーションに入れることになり、その事が結果としてタツノコの作品の幅を広げた。 受賞歴第17回小学館漫画賞(1971年)- 受賞作『みなしごハッチ』 東京アニメアワード特別功労賞「日本のアニメを作った20人」(2005年) 2024/07/01 05:59更新
|
yoshida tatsuo
吉田竜夫と同じ誕生日3月6日生まれ、同じ京都出身の人
TOPニュース
Hey! Say! JUMPの有岡大貴と松岡茉優が結婚を発表
NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に
King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表
平野紫耀、神宮寺勇太、岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。
元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕
吉田竜夫と近い名前の人
話題のアホネイター
![吉田竜夫](https://if2.info/geinou/logo/吉田竜夫.gif)
最近追加された芸能人・有名人
りんごちゃん_(ものまねタレント) 藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手)
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「吉田竜夫」を素材として二次利用しています。