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和田 夏十さんについて調べます
■名前・氏名 |
和田夏十と関係のある人
市川崑: 妻の和田夏十などの協力でシナリオ作りを進める一方、既存のスポーツ大会の記録フィルムやレニ・リーフェンシュタール監督の『民族の祭典』を参考鑑賞して記録映画に必要な演出を勉強しながら、記録映画に必要な機材や人員の確保に奔走した。 市川崑: また本作の影響を受けて以降、市川の演出スタイルは撮影や編集などの手法が大きく変貌し、同時期に、妻だった和田夏十が脚本家としての筆を置き、直後に乳癌を発病したこともあって、シナリオ作りなどの製作方面でも、その手法が大きく変わっていくことになる。 市川崑: デビューから一貫して市川と公私に亙るパートナーだった和田夏十は、1964年の『東京オリンピック』を最後に脚本家を休筆し、長らく乳癌との闘病生活を送っていたが、その間も、間接的に市川に助言やアイディアを提供し、市川も、和田のテイストを意識した脚本を盛り込むなど、関係は続いていた。 市川崑: この時、デビュー作の原作となった野上弥生子作の小説『眞知子』を選出したのは、同じく組合離脱派で、後に二度目の結婚をする和田夏十だった。 市川崑: 結局、原作名に「金閣寺」を記載し、映画の題名と作中の寺院名を、妻で脚本も担当した和田夏十が発案した『炎上』・「驟閣寺」に変更する事で金閣寺側の了承を貰うと映画作りに取り掛かった。その後も、当時の流行歌に便乗して企画された『あなたと私の合言葉・さようなら、今日は』を自身初のカラー・スコープで映画化すると、映画解説者の淀川長治の仲介で谷崎潤一郎原作の『鍵』を、和田夏十の企画で大岡昇平原作の『野火』を、立て続けに発表して国内外で高い評価を得た。 皆戸麻衣: ナイロン100℃「黒い十人の女 〜version100℃〜」(オリジナル脚本:和田夏十、上演台本・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ)(2011年) 峯村リエ: 36th SESSION「黒い十人の女 ~version100℃~」(2011年5月 - 6月、原作:和田夏十、青山円形劇場)- 風市子 新房昭之: 映画監督である市川崑のファンであり、『てなもんやボイジャーズ』のエンディングテーマに市川監修のTVドラマ『木枯し紋次郎』の主題歌「だれかが風の中で」のカバー曲(作詞は市川夫人の和田夏十)を使用したり、『俗・さよなら絶望先生』第11話「黒い十二人の絶望少女/今月今夜この月が僕の涙で曇りますように」では『犬神家の一族』や『黒い十人の女』といった市川作品のパロディが登場したりするなど、新房作品の随所に市川作品に対するオマージュが見られる。 市川崑: しかし、五輪にもスポーツにも興味がなかった市川は態度を保留、妻だった和田夏十と相談の上で、永田に判断を一任し、最終的に永田が、大映との契約を度外視しても良いので引き受けるよう、市川に伝えた事で総監督への就任が決まった。 増村保造: 足にさわった女(1960年、大映東京)原作:沢田撫松、脚本:和田夏十・市川崑 ロバート=ドーナット: 脚本家の和田夏十はドーナットのファンで、自分のペンネームの夏十(なっとう)も彼の名前からつけたものだった。 白坂依志夫: 『東京オリンピック』 : 監督市川崑、1965年3月20日公開 - 和田夏十・谷川俊太郎・市川崑と共同で脚本 市川崑: 脚本は当初、妻の和田夏十に委せることが多かった。 |
和田夏十の情報まとめ
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和田 夏十(わだ なっと)さんの誕生日は1920年9月13日です。兵庫出身の脚本家のようです。
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参考資料などについてまとめました。映画、卒業、結婚に関する情報もありますね。62歳で亡くなられているようです。
和田夏十のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)和田 夏十(わだ なっと、1920年(大正9年)9月13日 - 1983年(昭和58年)2月18日)は、兵庫県姫路市出身の脚本家。映画監督・市川崑の妻。本名:市川 由美子(いちかわ ゆみこ)、旧姓:茂木(もぎ)。 東京女子大学の英文科を卒業後、戦後間もなく東宝撮影所で通訳をしていた頃、脚本の校正をしたのがきっかけで助監督時代の市川崑と知り合った。東宝争議で組合離脱派だった市川は、同じく離脱派だった茂木と意気投合したが、互いに初婚に失敗していた経験から、市川が1本映画を撮り、監督としてやれる見通しがついたら式を挙げる約束を交わし、後年の1948年(昭和23年)、新東宝撮影所に移った市川のデビュー作『-「眞知子」より- 花ひらく』が無事完成し、同年の4月10日に市川と結婚した。結婚式は東宝撮影所のゼネラル・プロデューサーだった森田信義の提案で、成城にあった新東宝の寮で挙げることになり、佐伯清夫妻や青柳信雄、八住利雄らが仲人となって、和やかな雰囲気で執り行われた。以後、茂木は35年にわたって市川の生活を支えるかたわら、脚本家・和田夏十としてその生涯でほとんどの市川作品の脚本を手がけるという、文字通り公私における市川のパートナーだった。 「和田夏十」という名は、東宝撮影所時代に市川と茂木が共同執筆するために考案したペンネームだった。「和田」は茂木がNHKの和田信賢アナウンサーのファンで、「ナット」は市川がイギリスの二枚目俳優ロバート・ドーナットのファンだったことに由来し、当時、女性の仕事だと判ると批評が甘くなることを茂木が嫌って男性名となった。初めて映画に表記されるのは1949年に公開された映画『人間模様』からで、その後1951年の『恋人』で市川が「脚本の才能ではとても妻に及ばない」と茂木に譲り、以後は彼女専用のペンネームになった。以降は、市川がどうしても茂木と共同執筆をしたい場合には「久里子亭」(くりすてい)というペンネームを用いた。こちらは市川がアガサ・クリスティを崇拝していたことに由来するが、茂木自身もクリスティの愛好者だったという。 和田夏十および久里子亭の名は、1970年代までの市川作品の大部分にクレジットされている(1970年代の久里子亭のフィニッシュワーク担当は日高真也である)。映画『東京オリンピック』を最後に精神的な理由から脚本業を休業し、乳癌の発症後は闘病生活に入ったこともあって、事実上の休筆状態だったが、それでも市川にさまざまなアドバイスをして和田風の脚本を書かせており、クレジットの有無にかかわらず、和田夏十は、市川映画と不可分の存在だった。 自らの信念もあり、市川以外の監督が手掛ける作品の脚本は、ほとんど手掛けなかったが、増村保造がリメイクを担当した1960年版の『足にさわった女』の脚本リテイクを自ら行ったほか、田中絹代の強い要望で、映画『流転の王妃』の脚本を手掛けている。 子育てに関して、添い寝はせず、子供用にベッドに一人っきりで寝かせるスタイルを採っていた。夫の市川が「いいの? 1人にしておいて」と聞くと「ええ。子供のためには、これが一番いいんです」と意に介さなかった。市川自身は子育てに一切関与せず、茂木に任せっきりだったという。 市川は自己の監督作品が称賛されると、「それは、夏十さんの功績です」と答えるのが常だった。実際2人の関係には「夫婦」や「同僚」のそれを越えた、「同志」のようなものがあった。 18年間の乳癌との闘病の末に死去。62歳没。葬儀は東京都渋谷区南平台の聖ドミニコカトリック渋谷教会で行われ、谷川俊太郎が追悼の詩を読み、映画監督の黒澤明や松林宗恵、東宝社長の松岡功、元総理大臣の三木武夫、そして夫の市川が監督を務める映画『細雪』が製作中だったこともあり、原作者の谷崎潤一郎の妻である谷崎松子などが参列した。 2024/06/14 08:41更新
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wada natto
和田夏十と同じ誕生日9月13日生まれ、同じ兵庫出身の人
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