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大宅壮一の情報 (おおやそういち)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月18日】今日誕生日の芸能人・有名人

大宅壮一の情報(おおやそういち) 評論家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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大宅 壮一さんについて調べます

■名前・氏名
大宅 壮一
(読み:おおや そういち)
■職業
評論家
■大宅壮一の誕生日・生年月日
1900年9月13日
子年(ねずみ年)、乙女座(おとめ座)
■出身地・都道府県
大阪出身

大宅壮一と同じ1900年生まれの有名人・芸能人

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大宅壮一と関係のある人

西木正明: 大宅壮一ノンフィクション賞、日本推理作家協会賞、オール讀物推理小説新人賞、・植村直己冒険賞、さきがけ文学賞の選考委員。


竹内浩三: 2004年、稲泉連が評伝『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』を発表し、第36回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。


田中泯: 大宅壮一賞を受賞したNHK職員の国分拓のアマゾンのヤノマミ族を150日間同居取材したドキュメンタリー番組『NHKスペシャル ヤノマミ〜奥アマゾン 原初の森に生きる〜』(60分)などドキュメンタリー番組に参加している。


横山泰三: 作家の獅子文六は『朝日新聞』に「あゝいう表現からは、たとえ生殖器を描いても、ワイセツ感は乏しいだろう」「ちょう発的なエロさし絵やエロ表紙の意図と、同一視してはならぬ」と書き、評論家の大宅壮一は『毎日新聞』に「現場はそのままにしておいて、それを描いた作品だけを取締まるのはどうか」と書いて警視庁を批判し、横山を擁護した。


梶山季之: また成瀬数富と相談し、1965年に大宅壮一と梶山が発起人代表となって「広島カープを優勝させる会」を結成し(中心になって動いたのは前出の佐々木久子)、毎年激励会を開いた。


三角寛: 1935年ごろ、PL教団の前身である新興宗教「ひとのみち」に入信し、「ひとのみち」を批判した大宅壮一の自宅に抗議におしかけた。


清武英利: 2018年、『石つぶて 警視庁 二課刑事の残したもの』で第2回大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞(大宅賞)読者賞を受賞。


大宅昌: 1931年4月、前妻を亡くしたばかりの大宅壮一が富山へ講演会に来て見初められ、5月に結婚。


大宅昌: “大宅壮一について”.


中津燎子: 1974年第5回『なんで英語やるの?』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。


奥野修司: 2006年『ナツコ 沖縄密貿易の女王』で、第27回講談社ノンフィクション賞・第37回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。


近藤紘一: 赴任の翌年の79年5月、赴任半年前に出版した『サイゴンから来た妻と娘』で第10回大宅壮一ノンフィクション賞、80年3月には、インドシナで起きたさまざまな悲劇について体験者に直接取材し、ルポルタージュ・ジャーナリズムに新生面を開き、特に難民問題や米中ソ関係などについて力のこもった解説報道をしたとして、79年度ボーン上田賞を受賞した。


春日太一: 2024年、『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』で第55回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。


扇谷正造: 大宅壮一から「文春の池島、暮しの手帖の花森と並ぶ戦後マスコミの三羽烏」と讃えられた。


中野不二男: 〈新潮文庫〉、1992年 第21回大宅壮一ノンフィクション賞


近藤史人: また同「空白の自伝・藤田嗣治」を製作しこれをもとにしたノンフィクション、『藤田嗣治-「異邦人」の生涯』(講談社、2002)で、2003年大宅壮一ノンフィクション賞受賞(その後文庫)。


草柳大蔵: そのあいだ、1952年(昭和27年)から大宅壮一の助手として2年間師事。


菅原通済: 三悪追放は口の悪い友人(大宅壮一とも言われる)から「アレ(女)は菅原がやり尽くした事だ」と皮肉られている。


佐々木久子: 1966年、佐々木とは公私ともに親交の深かった梶山季之をはじめ、藤原弘達、石本美由起、木村功、杉村春子、森下洋子、灰田勝彦ら、広島出身者や縁のある文化・芸能人にアンチ巨人の大宅壮一、梶山の飲み友達だった田辺茂一を加えて「カープを優勝させる会」を結成。


石井光太: 2016年3月、「シリーズ 奈落の子供たち」(月刊誌「新潮45」掲載、のちに単行本『「鬼畜」の家』)が第47回大宅壮一ノンフィクション賞にノミネート。


辺見じゅん: 1990年、『収容所からきた遺書』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。


高木徹: 第2作の『大仏破壊―バーミアン遺跡はなぜ破壊されたのか』で第36回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。


吉田司: 国の補償金を貰った水俣病患者たちの生態を赤裸々に描いた最初の著作『下下(げげ)戦記』で、1988年、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。


明治天皇: 仕えている者が水を飲ませると、ようやく平静にもどったという逸話があるが、これは蜷川新および大宅壮一が最初に唱えた説である。


石井光太: 同年の開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞にノミネートされる。


桐島洋子: 大宅壮一ノンフィクション賞を受賞する。


平松剛: 2001年、建築ノンフィクション「光の教会 安藤忠雄の現場」で第32回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。


荒船清十郎: 『宝石』(光文社)1966年12月号は「'66年度“宝石最低殊勲賞”政界の部“最低放言賞”」に荒舩を選び、選考委員の一人であった評論家大宅壮一は「ダイコンみたいなものだ」と評した。


梶井基次郎: 4月中旬、年学制の改革により2年に進級した基次郎は実家からの汽車通学となり、同じく実家通学で高槻駅から乗車する大宅壮一(弁論部)と車中で出会った。


山田和: 2008年『知られざる魯山人』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。


大宅壮一の情報まとめ

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大宅 壮一(おおや そういち)さんの誕生日は1900年9月13日です。大阪出身の評論家のようです。

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選集・全集、語録などについてまとめました。卒業、病気、結婚、家族、離婚、再婚、事件、事故、現在、テレビに関する情報もありますね。亡くなられているようです。

大宅壮一のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

大宅 壮一(おおや そういち、1900年〈明治33年〉9月13日 - 1970年〈昭和45年〉11月22日)は、日本のジャーナリスト、ノンフィクション作家、評論家。妻は大宅壮一文庫の理事長を務めた大宅昌、三女はジャーナリストの大宅映子。

大阪府三島郡富田村(現:高槻市富田)の醤油屋に父・八雄、母・トクの三男として生まれた。祖父の八右衛門は、嫁入りの日に差し押さえを受けるような貧しい所から富を作ったり、法廷へ出るのに衣類が無くて薦を被って行ったという者の金まで絞り取る程の残酷な人だったが、妻子には甘かった、と大宅壮一自身が書き残している。

父について大宅は『青春日記』で、「14歳より放蕩を始め、青年時代に法律を志して弁護士試験に失敗し、中年よりは選挙、警察界に足を入れて産を傾け、最後に生涯離さなかった酒の為に死んだ。父は寡黙、寛大、鷹揚で、殊に他人の物と我が物とを区別する観念が甚だ乏しかった」。放蕩の一端として「芸者を総上げして遊び廻ったり、角力のある毎に酒樽の鏡を抜いて自由に飲ましてやり、入浴に若い力士二三人に肩を流させたりした」と述べている。何人もの返済の当ての無い者に大金を恵むも同然に貸していたため、人望は厚く名士であった。また醤油製造の仕事はきっちりこなしていた。

兄の勇一も放蕩者であり得意先や掛取で頭を下げるのを嫌ったため、家業はもっぱら壮一の肩に任された。なおこの兄は1916年(大正5年)に放蕩の末病を得て実家に戻り、1917年(大正6年)に徴兵され近衛騎兵に配属、同年末、朝鮮鎮海湾の要塞の砲兵大隊に合格し転勤する。

母は富田に近い福井村出身であった。いつも目を赤く腫らしているような神経質な人であった。セイ、ユウという二人の姉と弟の活男がおり、ユウは大阪の質屋の永井家に嫁いだ。

旧制富田尋常小学校、高等小学校を卒業。小学校を卒業後は大阪へ“商業見習”に出るつもりであった。大阪の姉の元へ修行へ出たりしている。この時に、丁稚や番頭らと質草の値踏みの練習を毎晩したが、壮一は番頭よりも値踏みが上手であったという。一方で親友が遠く離れて勉学に勤しむ姿に触発され、自身も中等学校への進学を親族に頼み込み、承諾を得た。入学の申請書類を小学校へ受け取りに行ったのはなんと中学校の入学試験の前日であったという。なお、小学校時代からの友人に大川光三がいる。

旧制茨木中学(現:大阪府立茨木高等学校)入学。一般的には尋常小学校を出て中等学校へ進むところを、高等小学校を出てから中等学校へ進んだため、同級生より年長であった。川端康成が三学年上に在籍していた。登下校時に寄った『虎谷』という書店は、川端も利用していた。在学中の成績は良好だったものの、唯一“唱歌”の科目のみ苦手だったという。実家の家業を支える一方で勉強が手につかなくなったりしていた。

当時の中学生向けの雑誌『少年』『少年倶楽部』などに作文や俳句を投稿したものが選ばれてメダルや昆虫採集用の虫籠など多くの懸賞を得ている。この頃、学内では大宅に関して、『部屋の四方をめぐらす鎖ほどのメダルを投稿で得ている』という噂され、川端康成も耳にしていたという。中学在学中の将来の夢は、まだジャーナリストではなく、渋沢栄一やカーネギーのような実業家であったり(実家の醤油業が傾いていたことによる)、文学者、渡米して学者であったりしている。家業をこなしつつ文学に親しむ一方で、ドイツ語とフランス語を独習していた。やがて教育勅語への疑問、米騒動の支持などから中学校からは好ましからざる生徒と目された。また、街の教会に講演に来た賀川豊彦に出会い、心惹きつけられる。中学校での友人の中には、秀才の寄気実英がいる。兄が家の金を持ち出して行方をくらました際に、父に兄の探索を命じられて大阪の松島遊郭を一軒々しらみつぶしに探し歩いたこともあるという。

1918年(大正7年)、18歳(旧制茨木中学4年生)の時、米騒動に際して民衆蜂起を支持する演説を行い、中学校を放校処分となる。前後して父死去。同年に専門学校入学者検定試験(通称・専検、当時存在した旧制中学卒業と同等資格)に合格し旧制高等学校入学資格を得る。

1919年(大正8年)、第三高等学校(現:京都大学)に入学。三高では茨木中学で一学年上であった文学好きの秀才・小方庸正と同級生となる。小方とは茨木中学時代から親交があり、時に病に伏せる小方が大宅に死の覚悟を打ち明けたりしている。学生生活は、弁論部に所属したり、校友会雑誌『嶽水会雑誌』に投稿をした。三高在学中に茨木中学校で制服に関するストライキが起きたが、背後に壮一の暗躍があったと言われている。兼ねてより心酔していた賀川が1921年(大正10年)に携わった川崎造船所の大規模ストライキには、馬上で指揮する賀川の伝令役を務めた。三高在学中の壮一はマルクス主義に傾倒していたという。父を失い兵役にある兄に代わり家業を手伝わねばならないため、京都の吉田までは実家から汽車で通った。登校途中の汽車内で、同じく大阪の実家から病気のために汽車通学をする梶井基次郎と出会う(旧制高校生は白線帽に独自の徽章を付けているので出先でも仲間を見つけ易い)。梶井は一年次は寮生活をしていたが、病気で実家からの通学に変更した。大宅は梶井と仲良くなり文学や恋愛を語り合った。また大宅と同じクラスであり、梶井とは寮で同室だった中谷孝雄が二人の友として加わる。

兵役を終えているはずの兄が戻らぬため、兄が所属する大隊の本部がある馬山へ探しに行った。三高在学中には大川光三より紹介された加島銀行員の女性と主に手紙を通じて交際をしている。後に最初の妻となる山本和子である。和子はいわゆるモダンガールだった。後、1922年三高卒業と同時に結婚する。

1922年(大正11年)、東京帝国大学文学部社会学科入学。帝大時代の大宅は小倉の袴にオールバックという出で立ちだった。大学1年の時に妻和子を東京へ呼び、下落合に間借りするも、生活費を稼ぐために東京帝大へ通学する傍ら、夜は下谷の岩倉鉄道学校(現:岩倉高等学校)で夜学の英語教師をした。また、長女が誕生している。新人会にも出入りしていた。大学2年の夏、帰省していた故郷から東京へ戻るため汽車に乗っていた1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生する。汽車は鉄道破損のため沼津より先へは進めず、東京の妻子を心配した大宅は徒歩で箱根の山を越え東京下落合の家へ向い家族の無事を確かめている。しかし日本フェビアン協会の活動を通じて出会った近藤愛子と親しくなると妻和子も浮気をし、離婚に至る。愛子と再婚するも後に結核で亡くなる。娘は他家へ預けた。三高で同級生であった小方庸正と第七次『新思潮』の同人となる。なお第六次『新思潮』は茨木中学の先輩でもある川端康成らの手に成る。川端とは『新思潮』の引継ぎで出会い、文学を通じて仲良くなる。後に川端が秀子夫人と結婚し杉並町に家を持つと隣に大宅夫婦も越して来た。在学中よりジャーナリストの道に入るも、大学を中退。「ほとんど学校に出ず、授業料も納めなかったらいつのまにか除籍されてしまった」と回想している。

新潮社で『社会問題講座』シリーズを企画編集して成功、また雑誌『新潮』に評論を発表してジャーナリストとしてデビュー。当初は「左翼のパリパリの評論家」として知られていた。昭和初頭に創刊された週刊新聞『時局新聞』の編集顧問に名を連ねた。また、大久保康雄をはじめとした「翻訳工場」を組織し、多くの翻訳書を円本で刊行する。1933年(昭和8年)にはゴシップ・スキャンダル雑誌の『人物評論』を自ら編集・刊行。

ナップの中央委員を務め、自宅を非合法下の日本共産党の秘密集会に提供した。1932年(昭和7年)6月に長男歩が、誕生した時もウラジーミル・レーニンやカール・マルクスに因んで「零仁」「丸人」などの名前を提案したほどであった。1933年(昭和8年)10月5日、オルグの実行者として特高に逮捕され、警視庁茅場町警察署にて一週間の留置を受ける。のち不起訴処分を受けて釈放。

1937年(昭和12年)の南京攻略戦では現地を取材しており、南京事件については規模に議論があるとした上で日本軍による虐殺の存在自体には事実であるとする証言をしている。

太平洋戦争中の1941年(昭和16年)には海軍宣伝班としてジャワ作戦に配属された。その際、同じ班には詩人の大木惇夫や漫画家の横山隆一がいた。その後、大木はこの時の経験を基に詩集「海原にありて歌へる」を出版し、その際に大宅が跋文を書いているが、その中で「戦争といふものは実に素晴らしい文化的啓蒙者である」と言っている。また、ジャワの軍政を担当していた今村均を賞賛し、今村が異動でいなくなった途端に大きく変わった、と嘆いている。

なお、戦時中にジャワで自身が乗船する輸送船が撃沈されたとき、「(旧制茨木中学で)泳ぎを習ったおかげで助かった、と旧制茨木中学の七十年記念式典に帰省したとき感謝していた」と中学時代の体育教師だった杉本伝が語っている大宅壮一が在学中の旧制茨木中学では全国に先駆けて学校内に水泳場が設置されていた。

戦後は猿取哲のペンネームで執筆を再開。

1950年(昭和25年)に、近衛文磨を評伝小説で描いた『日本の遺書』を刊行。また同年、週刊誌の企画で二代目・三遊亭歌笑と対談したが、直後に歌笑はGHQのジープにはねられ事故死した。なお没するまで週刊誌などで数多くの対談を行った。

イデオロギー的な表現を嫌い、1955年「無思想人宣言」を発表。ただし宗教と偽善者の排撃は終生止めなかった。宗教関係の文章では「出口王仁三郎訪問記」(『文学時代』新潮社1931年1月)「出口王仁三郎と大本弾圧事件」(『中央公論』〔80巻4号〕中央公論社1965年4月号)などがある。大宅の文章は、阿部真之助、高田保と比較され「マクラの真之助、サワリの壮一、オチの保」と言われたこともあるという。その観点で『昭和怪物伝』(角川書店、1957年)を著した。

1965年10月から没時の1970年11月まで『サンデー毎日』に「サンデー時評」を連載した(全244回)。連載中に取材見聞した中華人民共和国(当時表記は中共)での文化大革命は、幼い紅衛兵が支配者に利用され暴れてまわる様子を「ジャリ革命」と論評した。

戦前から接点があった林房雄は、大宅を「当代野次馬精神の親玉」と評した。

1957年「ノンフィクションクラブ」を結成し、一匹狼のノンフィクションライター達を集め、若手ジャーナリストを育成、著名な門下生メンバーに、青地晨、藤原弘達、蘆原英了、草柳大蔵、村上兵衛、丸山邦男、末永勝介、大隈秀夫らがいた。他の初期メンバーに杉森久英、永井道雄、小野田政、梶山季之、奥野健男らがいた。ノンフィクションクラブに、のちに参加したメンバーには、高木健夫、三鬼陽之助、扇谷正造、大森実、巖谷大四、村島健一、渡部雄吉、楠本憲吉、永六輔らがいた。また他のメンバーに、佐賀潜、藤島泰輔、夏堀正元らがいた。

1967年(昭和42年)1月に「大宅壮一東京マスコミ塾」(略称・大宅マスコミ塾)を開塾する。逝去で幕が閉じられるまで、8期480名の塾生を送り出した。この年東南アジアへ船で旅行した時、同行した青地晨の回想では、航海中に海が荒れ大宅は階段から転げ落ち腰骨を打ったが、それでも狭いカイコ棚のベッドで英和辞典を引き『バートン版 千夜一夜物語』(集英社、全12巻。普及版も刊)の新訳を続行していた。

没年となった1970年(昭和45年)から「大宅壮一ノンフィクション賞」が発足、毎年気鋭のノンフィクション作家・作品に授与している。

大宅の膨大な蔵書資料を元にした「大宅壮一文庫」は雑誌ジャーナリズムの総合図書資料館で著名で、昌夫人が没時まで理事長を務めた。現在は三女・大宅映子が文庫理事長である。植田康夫(副理事長、上智大学名誉教授)が、没時まで運営進展に寄与した。

1970年(昭和45年)11月22日、心臓血圧のため東京女子医科大学病院で死去。戒名は衆生院釈茫壮一大居士。

「週刊文春」の連載対談に登場するなど、面識のあった三島由紀夫が、割腹自決(三島事件)する3日前に病没したため、「生きていればあの事件をどう論評したか」と評された。娘の映子は「ジャーナリストとして光栄なこと」とコメントしている。

葬儀は11月28日に青山葬儀所で行われ、同郷の生まれの川端康成が弔辞を読み、仕事仲間の池島信平や野間省一ら出版社幹部が葬儀委員となっている。

選集・全集

『大宅壮一選集』(全12巻、筑摩書房 1959-1960)

『大宅壮一の本』(全8巻、サンケイ新聞出版局 1966-1967)

『大宅壮一 個性的人間 わが人生観10』(大和書房 1969)、解説草柳大蔵

『大宅壮一 選集 無思想の思想』(文藝春秋 1972、新版1991)、解説青地晨

『大宅壮一エッセンス』(全6巻、講談社 1976)

『大宅壮一全集』(全30巻 蒼洋社、1982年完結)

英潮社で発売開始されたが、同社が倒産し、桜楓社(おうふう)を経て刊行された。
編集委員:井上靖、永井道雄、扇谷正造、青地晨、三鬼陽之助、草柳大蔵、梅棹忠夫

『サンデー時評 編集復刻版』(限定版・2巻組、六花出版、2020)

伝記

新藤謙『大宅壮一とその時代』(東京書籍・東書選書、1983年)

大隈秀夫『裸の大宅壮一 マスコミ帝王』(三省堂、1996年)。大冊評伝

猪瀬直樹『マガジン青春譜 川端康成と大宅壮一』(小学館、1998年、同「著作集3」、2002年、文春文庫、2004年)。若き日の伝記

村上兵衛『昨日の歴史 大宅壮一と三島由紀夫の生と死』(光人社、2000年)。回想を交えた評伝

北村充史『テレビは日本人を「バカ」にしたか? 大宅壮一と「一億総白痴化」の時代』(平凡社新書、2007年)

阪本博志『大宅壮一の「戦後」』(人文書院、2019年)

語録

大宅による造語には以下がある。

一億総白痴化 - 日本のテレビメディア黎明期における発言。

駅弁大学

HOTEL UNIVERSITY - 法政大学市ヶ谷キャンパスの旧53年館(大学院棟)について、夜になると付近を走る中央・総武緩行線の車窓から、屋上のHOSEI UNIVERSITYの文字のネオンが煌々と輝くのを見えたことを揶揄したもの

男の顔は履歴書である

恐妻 - 大宅壮一の妻・大宅昌は1906年の丙午の生まれであるため、大宅が迷信を利用して「恐妻」と面白おかしく描写した。1966年の丙午の年にもさらに話題となった。

虚業家

口コミ

ジュラルミン高校 - ナンバースクール以後の旧制高等学校を指した言葉

ステッキガール - 銀座で一人歩きをかこつ男性にサービスするモガを指す

太陽族

阪僑 - 手塚治虫を漫画界の“阪僑”と呼んだ

肥後猛婦

緑の待合 - 接待ゴルフを揶揄した言葉

2024/06/16 14:51更新

ooya souichi


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