大山泰彦の情報(おおやまやすひこ) 格闘家/空手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
大山 泰彦さんについて調べます
■名前・氏名 |
大山泰彦と関係のある人
山崎照朝: 同月21日に大山倍達以下、大山泰彦・山崎・添野・鈴木浩平・三浦美幸・佐藤勝昭・磯部清次・大石代悟、ハワード・コリンズなど黒帯・茶帯約20名からなるメンバーが、赤坂の迎賓館に訪問。 三浦美幸: 在学中は部内で稽古する他に極真会館本部道場にも出稽古に行き、山崎照朝の指導を受け、復帰してきた大山泰彦からも教わった。 添野義二: 先輩には大山茂・大山泰彦・千葉真一・郷田勇三・中村忠・加藤重夫・藤平昭雄・芦原英幸らがいた。 山崎照朝: 長谷川の試合も山崎有利という戦前の予想が外れた結果となり、両試合の敗因を大山茂は「技と精神の関係」、大山泰彦は「天才ゆえの欠点」と分析している。 山崎照朝: 先輩には大山茂・大山泰彦・千葉真一・郷田勇三・藤巻潤・中村忠・加藤重夫・藤平昭雄・芦原英幸らがいて、共に稽古を重ねた。 三浦美幸: 当時は師範代の大山泰彦、郷田勇三、山崎照朝ら先輩の他には、後輩の佐藤勝昭、岸信行、磯部清次、大石代悟、東谷巧、東孝らがいた。 三浦美幸: 同年の第3回全日本選手権では、Aブロック決勝で大山泰彦と激戦を繰り広げたが敗れ、第4位入賞。 大山倍達: 大山の姓は、書生として住み込んでいた大山家(大山茂、大山泰彦の実家)の恩義から名乗ったとする説があり、日本名にも使った「倍達」とは朝鮮(韓国)の雅名の一つ(そのため朝鮮民族は「倍達の民」「倍達民族」を美称として使うことがある)。 黒崎健時: 大山は黒崎を監督、メンバーに当時「極真四天王」と云われた、岡田博文・大山泰彦・中村忠・藤平昭雄を選出した。 石橋雅史: その他の門下生では岡田博文・渡辺一久・藤巻潤・春山一郎・大山泰彦、ジョン・ブルミン、千葉真一・郷田勇三・中村忠・加藤重夫・藤平昭雄・芦原英幸・添野義二らがいる。 芦原英幸: 中でも知られているのが、大山泰彦との確執である。 黒崎健時: 大山茂・渡辺一久・岡田博文・春山一郎・大山泰彦・千葉真一・郷田勇三・中村忠・加藤重夫・藤平昭雄・芦原英幸・盧山初雄・山崎照朝らを指導した。 山崎照朝: 特に大山泰彦の動きに衝撃を受け、とっさに「こんな連中と戦ったらやられてしまう。 |
大山泰彦の情報まとめ
大山 泰彦(おおやま やすひこ)さんの誕生日は1942年7月2日です。東京出身の格闘家
空手のようです。
卒業、兄弟、テレビ、映画、父親、引退、現在に関する情報もありますね。大山泰彦の現在の年齢は82歳のようです。
大山泰彦のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)大山 泰彦(おおやま やすひこ、1942年7月2日 - )は、日本の空手家。国際大山空手道連盟の創士・最高師範。段位は九段。東京都文京区小石川生まれ、修徳高校卒業 明治大学法学部卒業。 極真会館出身で、山崎照朝と並び天才と称された。 中学でサッカーをやっていた泰彦は、ケンカも頻繁にやる問題児でもあった。それをみかねた兄大山茂が既に空手道を修行していた事から、泰彦の鼻っ柱をへし折る目的で大山道場へ連れて行った。「いつもやっているケンカのようにやればいいんだよ」と言われた泰彦は、いきなり組手をやらされる事になる。「中足蹴りがわからないのでサッカーの蹴りをしたが、結果的にはそれが背足蹴りだった」と泰彦は述懐しているが、同い年の春山一郎や茂に組手で、散々に痛めつけられた。 その悔しさから泰彦は大山道場に入門する決心をした。大山倍達以下、師範代である石橋雅史・安田英治・黒崎健時らの指導を受け、春山一郎をライバルと意識して稽古に励む。二年目には茂と、三年目には春山と、互角に組手するようになり、特に茂との組手はまるで親の敵討ちのように激しくやりあうようになり、見かねた大山が兄弟の組手を禁止にした。 1963年春に大山道場は、野口修からムエタイとの対抗戦を持ちかけられる。大山倍達は黒崎を監督、メンバーに当時「極真四天王」と云われた、岡田博文・泰彦・中村忠・藤平昭雄を選出した。黒崎ら5名は、8月から鬼怒川で1か月間合宿を行い、10月のタイ遠征に備えた。しかし12月に延期され、更に翌1964年1月に再延期された。弁護士を目指していた泰彦は、司法試験との兼ね合いからこの遠征を辞退する。同年、大山道場は国際空手道連盟 極真会館へ刷新するが、泰彦は「司法試験に合格するには、空手と二股をかけていたのでは到底無理」と考え、一時空手の修行を断念し、極真会館を離れた。その後、受験勉強の傍ら、たまに会館に訪れたり、1969年から開催されたオープントーナメント全日本空手道選手権大会の手伝いをする程度の関りであった。 そんな泰彦が1971年4月、本部道場師範代に任命され、正式に極真会館へ復帰した。その理由を「(司法試験に対して)自分の限界もみえた。そんな時に大山(倍達)館長からお誘いを受けた」と語っている。同年6月15日に四段允許。秋に開催された第3回全日本選手権では、開催直前まで裏方スタッフとして働いていたところ大山より出場するように命じられ、当時としては異例の29歳で急遽初出場し、稽古らしい稽古をしていない状態で挑んだにもかかわらず、準優勝した。 1972年百人組手に挑戦。同年、インストラクターとして渡米し、アラバマ州バーミングハムで指導を始める。その後、アメリカ各地、ヨーロッパでも極真空手の普及に勤しむ。現地で育成した主な門下生に、チャック・チズムや竹森毅らがいる。第1回オープントーナメント全世界空手道選手権大会前には「日本選手が優勝しなくてはいけない」という大山の意向で送り込まれた郷田勇三・添野義二・佐藤勝昭・岸信行・二宮城光・佐藤俊和らを指導した。 毎年秋に開催されている全日本選手権と全世界選手権ではテレビ中継の解説を担い、そこで様々な論理を展開し、好評を博していた。これら大会では自らトンファーを持ち、真剣を持った相手との演武も行った。ドキュメンタリー映画「地上最強のカラテ2」(三協映画)では、このトンファーの他にヌンチャクでの演武も披露している。また、劇画『空手バカ一代』でも重要人物の一人として登場した。 1984年極真会館から離脱。兄の茂や三浦美幸と共に国際大山空手道連盟を設立し、最高師範に就任。 極真カラテの様々な理論の系譜をさかのぼる上で、欠かせない人物と評されている。二段蹴りをはじめ、いろいろな技に積極的に挑んだ。試合中に相手の死角をついて、できるだけ低い体勢から蹴りを低く繰り出し、畳スレスレになるぐらいに足刀を出し膝を蹴りにいく、というような戦法も試みたようだ。この研究熱心さと泰彦の人間性に心酔者も数多い。 技の習得が早く、フットワークを生かした素早い動きで相手を翻弄し、技の切れで倒すスタイルだった。泰彦の上段への中足蹴りは、黒崎健時から「禁じ手」と言い渡されていたほど強力だった。 泰彦先輩は第3回全日本選手権にも出場した。かつての伝説的な「触れなば切れん」といった強さは最早なかったが、実に巧いのである。フットワークを使った速い動きで後ろ蹴り・パンチを繰り出し、相手を追い込む。それ以上に素晴らしいのは完璧な受けである。試合ぶりは老獪で、いつの間にか自分のペースにもちこんで、相手の技を殺す。相手は自分の技を出す暇もなく、気が付くと試合が終わっている、といったあんばいだった。この時期の泰彦先輩は相手を徹底的に叩きのめす破壊力こそなかったが、相手の実力を封じて試合を進める円熟さを示した。 先輩の事を噂に聞いていた私は、「この人が泰彦先輩か」と有名人を見るような目付きで眺めていたものである。泰彦先輩の組手を何度も目にしたが、技の切れ味・スピード・身のこなしは当時の本部道場でも随一だったと記憶している。対戦相手を華麗な技で翻弄する姿は、まさに天才の名に相応しいものだった。私は泰彦の先輩の組手を見て『5~6年のブランクがあるにもかかわらずこれほど凄いのだから、数年前はどれだけ強かったのだろう』と心底感心していた。 私と泰彦先輩の出会いは、1970年1月末に山崎先輩が指導するクラスに出席した時でした。稽古終了後に白帯締めた人が道場に入ってきたんです。そうしたら山崎先輩が入ってきた白帯に対して、姿勢を正して『押忍』と頭を下げたんです。山崎先輩はムダな事は一切しゃべらず、めったに笑ったりもしない人でした。私の憧れで、本当にストイックで一徹な先輩で、凛として、人を近づけないような、そしてまず人に頭を下げないような人でした。その山崎先輩が入ってきた白帯に対して、頭を下げたんです。私も負けん気だけは強かったですし、黄帯を締めていましたからビックリして「何だ、この白帯は?」と思いました。 するとその白帯から「君、ちょっと組手の相手をしてくれないか」と手招きされたんです。「相手をしていいのかどうか」と思っていたら、滅多に笑わない山崎先輩が笑いながら、「OK」の合図をされたのです。それで組手をしたのですが、あっという間に転がされました。もう1回向かい合ったら、またやられました。黄帯を締めていた私は「どんな偉い人かわからないけど、やっぱり白帯に負けちゃいけない」と思い、また向かっていたら、3度目はより一層鮮やかに転がされました。そこで山崎先輩が「先輩、もういいでしょう」と言ったんです。その白帯が泰彦先輩でした。 あとになって、背後に回り込まれていたのがわかったのですが、あまりに速過ぎてその時はわからなかったんです。泰彦先輩の次元の違う強さを嫌というほど、思い知らされました。泰彦先輩が「道着を着たのは何年ぶり」など山崎先輩といろいろ話し合ってましたが、私は幸運にも、二人の天才を目の前でみる事ができました。そして『私にできる事は努力あるのみ』と思い知りました。 1972年9月、泰彦は百人組手に挑んだ。対戦者は添野義二・鈴木浩平・三浦美幸・佐藤勝昭・岸信行・磯部清次・大石代悟・ハワード・コリンズ・東谷巧らの他に一般道場生が相手となった。介添役には山崎照朝。審判は山下勇が勤め、立会い人に大山倍達、梶原一騎らがいた。 大山倍達は対戦者に「手抜きは絶対に許さない。徹底的にやりなさい。もし泰彦四段を一本で倒したら、昇段を認める。心してかかりなさい」と通達した。後の百人組手では 握り棒を相手が落とす 相手を崩し、決めた時点で終了 などで技ありを認められたが、大山の意向により、完璧な一本で倒さない限り、きっちり2分で行われた。極真機関誌の写真を多く手がけ、この撮影にも参加していた土戸カメラマンは「みんなガチンコじゃないか。こんなので持つわけがない。大山館長は何を考えているのか?と思い大山館長を見たら、苦渋の表情をしていた」と述懐している。 結果は61人目で中止となり、完遂できなかった。しかし、その場にいた真樹日佐夫は「こと技の巧みさという点では、のちの達成者『三浦美幸やハワード・コリンズ』に比べて数等すぐれていた」と証言し、三浦は「ぼくの百人組手は、“達成させてやろう”という雰囲気が周囲にあったけれど、泰彦師範の場合は“絶対に阻止する”という百人組手だった。あれは本当に凄かった」と語るほど、試合さながらの激しい組手を交わし、“史上最激の百人組手”として語り継がれている。 大山倍達と同姓であるが血縁はなく、大山は泰彦の父親の書生をしていた時期があった。泰彦の実家には曺寧柱も出入りしている。泰彦は3人兄弟の三男で、元々は博という長男が大山の弟子であった。その後、博は力道山の弟子になりプロレスを経験し、ハワイ州に在住している。 泰彦は大山倍達と直接、組手をした弟子の一人である。大山が弟子と組手する際には、自分は攻撃せず受ける組手が多かったが、中村忠によると「僕は高一でまだ始めて間もない頃、大山館長は受けの組手で手加減してくれていました。だけど、もっと上手な先輩とやる時は正拳突きも使っていましたよ。安田先輩や茂さん、泰彦さんなんかと、大山館長が組手をする時は激しくやってましたね」と証言している。 松井章圭は第4回全世界空手道選手権大会前にアラバマへ出稽古に行き、泰彦の指導を受けた。 『パーフェクト空手』朝日出版社、1986年、ISBN 4-255-86019-X ※大山茂監修、三浦美幸共著 『OH!KARATE』福昌堂、1992年、ISBN 4-89224-216-0 『OH!OH!KARATE』福昌堂、1993年、ISBN 4-89224-302-7 『極真・K-1・US大山』ブックマン社、1998年、ISBN 4-89308-353-8 『空手教典 第一巻』朝日出版社、2000年、ISBN 4-255-00050-6 ※大山茂、三浦美幸監修 『空手教典 第二巻』朝日出版社、2000年、ISBN 4-255-00051-4 ※大山茂、三浦美幸監修 『空手教典 第三巻』朝日出版社、2002年、ISBN 4-255-00097-2 ※大山茂監修 『空手教典 第四巻』朝日出版社、2002年、ISBN 4-255-00134-0 ※大山茂監修 ^ 劇画『空手バカ一代』に登場する「有明省吾」のモデルで、大山倍達が「歴代の弟子の中で一番強い」と語った人物。 ^ 第2回オープントーナメント全世界空手道選手権大会ベスト16。 ^ 第4回トーア杯新空手ジャパンオープン中量級チャンピオン。 ^ 極真会館秋田支部所属で、第3回オープントーナメント全日本空手道選手権大会に初出場。第4・5回全日本選手権は共に3位、第6回全日本選手権5位、第1回世界選手権5位とそれぞれ入賞し、第8回全日本選手権で念願の初優勝を遂げた。正拳突き・前蹴り・回し蹴りを得意とし、その戦いぶりから「闘将」と呼ばれた。第2回全世界選手権に推薦枠で出場。5回戦でウィリー・ウィリアムスと対戦し、延長戦でウィリーの正拳突きと下突きの連打で一本負けをし、引退。現在は新極真会の秋田本庄道場の師範である。 ^ 親指を起こして、反対の小指の根元からかかとにかけての足の外側部分。組手時には横蹴りで使用される。 ^ 第1回全世界選手権10位。 ^ 直径1.5センチメートル、長さ7センチメートルの棒で、対戦者同士に掴みを防止するために両手に持たせる棒の事である。 ^ 剛柔流空手の達人で大山倍達の師匠であった。 ^ 『月刊フルコンタクトKARATE』No.18、福昌堂、1988年8月8日、3 - 20頁。 ^ 真樹日佐夫『極真カラテ27人の侍』サンケイ出版、1986年、21-28頁。 ^ 「山崎照朝 - 円の受けと構えの極意-華麗なる組手の秘密」『月刊フルコンタクトKARATE』1995年、10月号、福昌堂、9頁、15頁。 ^ 『月刊フルコンタクトKARATE』2006年、12月号、福昌堂、61頁。 ^ 磯部清次 『ザ・ブラジル極真』スキージャーナル、1999年、117 - 118頁。 ^ 中村忠 『人間空手』 主婦の友社、1988年、82 - 91頁。 ^ 『ゴング格闘技』No.35、日本スポーツ出版社、1996年、34頁、50頁。 ^ 「国際空手道連盟極真会館 - 年度別昇段登録簿 (国内)」(日本語)『極真カラテ総鑑』(初版)株式会社I.K.O. 出版事務局(原著2001年4月20日)、62-64頁。ISBN 4816412506。 ^ 『新・極真カラテ強豪100人(ゴング格闘技1月号増刊)』日本スポーツ出版社、1997年、44 - 45頁、49頁、58 - 61頁。 ^ 『格闘Kマガジン』2001年、3月号、ぴいぷる社、8 - 9頁。 ^ 『ゴング格闘技』1989年、5月号、日本スポーツ出版社、14頁。 ^ 『現代カラテマガジン』15巻通算160号、1986年、7・8月合併号、真樹プロダクション、41頁。 ^ 極真館吉川支部・鈴木浩平「極真館吉川支部→思い出の写真」昭和48年(1973年)- 池袋白雲閣での大山泰彦氏壮行会。 ^ 佐藤勝昭『王道の空手』講談社、1987年、193頁、208頁、226頁。 ^ 「わが青春の大山道場を語ろう」『月刊フルコンタクトKARATE』1997年、12月号、福昌堂、4頁、23頁、41頁。 ^ 『格闘Kマガジン』78号、March, 2005、ぴいぷる社、13頁。 ^ 「春山一郎に関する四つの証言 (3) 郷田勇三」『蘇る伝説「大山道場」読本』日本スポーツ出版社、2000年、28 - 29頁。 ^ 不動武『空手仙人 - 岸信行 - 枕にキノコが生えるまで泣け!! - 不敗の人生術』東邦出版、2009年、233 - 234頁。 ^ 『極真黄金伝説(ゴング格闘技12月号増刊)』日本スポーツ出版社 1993年12月15日、46 - 47頁。 ^ 『月刊フルコンタクトKARATE』2号、October, 1986、福昌堂、54頁。 ^ 『格闘Kマガジン』2002年、6月号、ぴいぷる社、6頁、24頁。 ^ 『ワールド空手』1999年、3月号、ぴいぷる社、48-52頁。 ^ 『拳聖 - 大山倍達 - 地上最強の空手(月刊フルコンタクトKARATE4月号別冊)』福昌堂、1988年、18頁。 ^ 北之口太『一撃の拳 - 松井章圭』講談社、2005年、184 - 186頁。 空手家一覧 明治大学の人物一覧 国際大山空手道連盟総本部 大山泰彦のエッセイ 国際大山空手道連盟日本総本部 ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 日本の男子空手家 極真会館の人物 空手道指導者 日本の男性YouTuber 東京都出身の人物 在アメリカ合衆国日本人のスポーツに関する人物 明治大学出身の人物 1942年生 存命人物 プロジェクト人物伝項目 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ
2024/11/20 20:55更新
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ooyama yasuhiko
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