大木こだまの情報(おおきこだま) 漫才師 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
大木 こだまさんについて調べます
■名前・氏名 |
大木こだまと関係のある人
本多章一: 大木こだま「おやじブルース」(2008年) 大木ひびき: 大木こだまはもともと、大木ひかりと漫才コンビを組んでいた。 トニーヒロタ: 大木こだま 大木ひびき: からん・ころん解散後、大木こだま・ひかりを解散して映画出演(『吼えろ鉄拳』)等でピンの仕事をしながら相方を募集していた大木こだまとオーディションによりコンビを組み、現在に至る。 原口あきまさ: 大木こだま・ひびき 矢野勝也: その頃、大木こだま(大木こだま・ひびき)の助言により発奮した兵動は2003年にbaseよしもとにて1度行ったトークイベントをベースに、1人で月1回のトークライブ『兵動大樹のおしゃべり大好き。 海原しおり: 1985年、さおりが漫才師の大木こだまと結婚、2005年7月、しおりが元競艇選手の夫と離婚。 中田ダイマル: 中田ネオン・サイン (後の大木こだま・ひびきのひびき) 中務靖久: からん(現・大木ひびき)は元「大木こだま・ひかり」の大木こだまと「大木こだま・ひびき」を結成。 中務靖久: 大木こだま・ひかり(大木こだま、大木ひかり)ケーエープロダクション 西山加朱紗: 当日は父である大木こだまもサプライズでスタジオに登場し、父娘の初共演が実現した。 新山武司: ゆう作は同じく大木こだま・ひびきの弟子であった大木しゅん作と「優駿(「大木しゅん作・ゆう作」から改名)」を再結成し、後に解散。 中田ラケット: 中田ネオン・サイン (後の大木こだま・ひびきのひびき) 西山加朱紗: 2012年6月4日放送の『静岡○ごとワイド!』で父親が大木こだまであることを公表。 マギー審司: 得意なネタは「大きくなる耳」で、その際に「でっかくなっちゃった」と言うのがお約束(バリエーションとしては「小さくなる耳」という演目もあり、最後に親指にはめた小さな耳を突き出し、大木こだまの「チッチキチー」を行う)。 海原さおり: 上述のように、さおりの夫は大木こだまで、長女の西山加朱紗は元静岡第一テレビ(だいいちテレビ)のフリーアナウンサー、次女の西山穂乃加は元テレビ新広島のアナウンサー(2024年3月退職)。 新山武司: こだまは「古都からん・ころん」の古都からん(現・大木ひびき)と「大木こだま・ひびき」を結成、ひかりは自身の不祥事により引退。 西山加朱紗: 父親は大木こだま・ひびきの大木こだま、母親は海原さおり・しおりの海原さおり。 大木ひびき: 他にも主に島田紳助やダウンタウンが借用しており、大木こだま・ひびきの代名詞ともなっているネタである。 磯部公彦: 大木こだま(大木こだま・ひびき)とシルクに即興をしろと言われ「食べたいし、痩せもしたいし、寝てこまそ」と返したが非難轟々であった(『ラジオよしもと むっちゃ元気!』(ラジオ大阪)にて)。 海原しおり: 上述のように、さおりの夫は大木こだまで、長女の西山加朱紗は元静岡第一テレビ(だいいちテレビ)のフリーアナウンサー、次女の西山穂乃加は元テレビ新広島のアナウンサー(2024年3月退職)。 中務靖久: ゆう作は同じく大木こだま・ひびきの弟子であった大木しゅん作と「優駿(「大木しゅん作・ゆう作」から改名)」を再結成し、後に解散。 大木ひびき: 「第二のいとし・こいし(夢路いとし・喜味こいし)か!」とまで大木こだま・ひかりの将来性を嘱望し、こだまのポーカーフェイスのボケ芸を称賛していたのが、往年の人気コメディー番組『てなもんや三度笠』や『スチャラカ社員』の作者であった笑芸作家の香川登枝緒であった。 大木ひびき: 大木こだま・ひびき(おおきこだま・ひびき)は、日本の漫才コンビ。 新山武司: からん(現・大木ひびき)は元「大木こだま・ひかり」の大木こだまと「大木こだま・ひびき」を結成。 静恵一: 過去にはダウンタウン、ナインティナイン、宮川大助・花子、大木こだま・ひびき、ミルクボーイなど賞を獲るお笑いの登竜門。 東村雅夫: 大木こだま(大木こだま・ひびき)とシルクに即興をしろと言われ「食べたいし、痩せもしたいし、寝てこまそ」と返したが非難轟々であった(『ラジオよしもと むっちゃ元気!』(ラジオ大阪)にて)。 大木ひびき: 建設会社人事課勤務を経て、1973年に吉田正純(大木ひかり)と大木こだま・ひかりを結成。 新山武司: 大木こだま・ひかり(大木こだま、大木ひかり)ケーエープロダクション 海原さおり: 1985年、さおりが漫才師の大木こだまと結婚、2005年7月、しおりが元競艇選手の夫と離婚。 |
大木こだまの情報まとめ
大木 こだま(おおき こだま)さんの誕生日は1951年4月26日です。大阪出身の漫才師のようです。
メンバー、主な持ちネタなどについてまとめました。現在、テレビ、事件、解散、引退、結婚、ドラマ、卒業、映画、家族に関する情報もありますね。大木こだまの現在の年齢は73歳のようです。
大木こだまのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)大木こだま・ひびき(おおきこだま・ひびき)は、日本の漫才コンビ。1981年5月にコンビ結成。所属事務所は当初、ファースト企画であったが1983年、吉本興業へ移籍し現在に至る。 じっくりとしたテンポ、間を大事にする正統派しゃべくり漫才コンビであり、横山やすしにも絶賛されていた。人生幸朗ばりのぼやきや、庶民の暮らしをネタにしたりと、ネタの数は多い。また、ボケ・ツッコミ担当と一応役割が分かれてはいるものの、漫才の形式としては珍しく、こだまのボケに対してひびきがつっこみ、それに更にこだまが一種の屁理屈のようなボケでつっこみ返すというパターンを持っている。コンビ名の由来は、ともに新幹線開業前に東海道線を走った特急列車の名前(こだま・ひびき)から。「ひびき」は準急型電車で、「こだま」の混雑を補完する目的で運転されていた。 大木こだまはもともと、大木ひかりと漫才コンビを組んでいた。その後、ひびきとコンビを組み現在に至る。前のコンビ名は新幹線の名称(こだま・ひかり)から。 新コンビを結成した頃は、大阪・梅田の阪急ファイブ(現HEP)のオレンジルーム(現HEP HALL)で青芝フック・キックの主催により月一回開催されていた『ニュース寄席』に非定期出演していたこともある。吉本移籍後の初舞台は、1983年6月うめだ花月上席の「フレッシュコーナー」で踏む。 メンバー大木 こだま(おおき - 、本名:西山 利幸(にしやま としゆき)、 (1951-04-26) 1951年4月26日(73歳) - )ボケ担当。向かって左側(下手)に立つ。大阪商業大学中退。
建設会社人事課勤務を経て、1973年に吉田正純(大木ひかり)と大木こだま・ひかりを結成。当時としては珍しく師匠を持たないノーブランド芸人だった。翌年1月に所属するケーエープロの根城だった大阪梅田のトップホットシアターで初舞台。屋号の「大木」は、当時の漫才師にしては両人ともに長身であったことから採用された。大木凡人とは無関係である。ひかりは男前で、こだまも「井上順さんみたいな顔したはった」(大平サブロー談)という女性ファンの多いコンビだった。名古屋・大須演芸場に出演した時、そこで共演したのが東京からのツービートであった。若き日のビートたけしは、「こだま・ひかり」の漫才を目のあたりにして大阪漫才のレベルの高さを感じたという。こだま・ひかりはその実力に違わず、1978年には第8回NHK上方漫才コンテストにおいて最優秀話術賞(優勝)を受賞した。ただし、木津川計が編集長であった雑誌『上方芸能』第62号(1979年7月発行)は、「特集 はためけ“漫才王国の旗”」と題して、漫才ブーム一年前の沈静した状況の上方漫才界を特集したが、当時の若手漫才に対しての激励のコーナーにおいて、こだま・ひかりに対しては、「もっちゃりしたいかにも大阪人的しゃべくりの漫才、悪くいえば若さが感じられません」「大きな体の二人がマイクに覆いかぶさるようにボソボソ喋っているのは頂けないということ」と期待しながらも辛口の批評をしている。外見とは対照的に地味な芸風であった。 そして、翌1980年には漫才ブームが起きる。すでに吉本系の劇場には月に十日の割合で出演していたが、弱小プロであるファースト企画にその段階で所属していたこともあり快調にブームに乗れなかったため、日本テレビ『お笑いスター誕生!!』 にエントリーした。そこで最高潮にレベルアップしたこだま・ひかりは、「実はそうですねん」を得意のフレーズとして、両手を上げてコンブのように体を揺らせるギャグ等で、毎週のように会場の爆笑を獲得し続け、"10週ストレート勝ち抜き"(B&B、おぼん・こぼんに続く)でグランプリを獲得した。くす玉が割れて紙吹雪が舞い皆から胴上げされて、表彰式でトロフィーを授与され、コンビ結成以来の最高の瞬間を迎えた(1981年2月4日)。 ところが、その受賞直後に事件が生じる。番組収録が終了してグランプリ獲得を祝う山野ホールの楽屋へ、上京してきた大阪府警福島警察署の刑事が突然入り、その場でひかりが薬物使用の容疑で逮捕された。天国から地獄へのまさかの転落。「漫才版『砂の器』」(里見まさと談)。グランプリを剥奪され、程なくしてファースト企画はコンビの解散を決定した。当時この『お笑いスター誕生!!』のMCであった中尾ミエは、当番組に関して今も覚えている最もショッキングな出来事として、目の前で見た逮捕劇を挙げている。当番組のプロデューサーであった赤尾健一によると、本番直前に山野ホールに来ていた福島警察署の刑事から、大木ひかりを覚せい剤取締法違反容疑で逮捕すると連絡が来ていたが、「グランプリが獲れるかどうかは分からないけどやらせて欲しい」「今すぐは勘弁して欲しい」と頼んだところ、「そんなこと関係ない」と言いながらも承諾して待機しててくれた。その結果、こだま・ひかりはグランプリを獲ったが、ひかりは逮捕状が出された後にすぐに連行されたという。なお、ひかりはそれを機に芸能界を引退した。 「第二のいとし・こいし(夢路いとし・喜味こいし)か!」とまで大木こだま・ひかりの将来性を嘱望し、こだまのポーカーフェイスのボケ芸を称賛していたのが、往年の人気コメディー番組『てなもんや三度笠』や『スチャラカ社員』の作者であった笑芸作家の香川登枝緒であった。泣きながらコンビ解散を電話報告してきたこだまに対して「君はまだ若いのや、また出直さないと」と香川は激励したという。果たして、コンビ再結成の二か月後に行われた第2回今宮子供えびすマンザイ新人コンクールで、新生のこだま・ひびきは、抜群の成績で優勝(福笑い大賞)、表彰式で感涙にむせぶこだまを目の前にして、審査員であった香川も目頭を熱くした(なお、2位は宮川大助・花子であった)。 大学を中退して漫才師になりたいと思った若き日のこだまは、大胆にも、当時無名の前座漫才としてなんば花月に出ていた中田カウス・ボタンのカウスとの面会を申し出て会うことに成功し、近所の喫茶店に連れて行ってもらった。漫才師になる方法を質問して教わった上で、弟子にしてくれとカウスに願ったところ、「君は今すぐに漫才師になる必要はないよ」とカウスに諭され、弟子入りを断られたが、こだまはひるまず「僕の生涯の友だちになって下さい」と提案した。こいつ変わったヤツやなあと思いながらも、カウスは承諾してくれたという。また、こだまが漫才師になりたいと思ったのは、15分の舞台を1日2回演じさえすれば早く家に帰れる仕事である、という至って「合理的」な理由からであった。 上岡龍太郎が司会をしていた『エキスタ寄席』(朝日放送)に、コンビを組んで約4年のこだま・ひびきが出演した回があった(1985年4月放送)。絶頂から一転の悲劇でコンビ解散〜一からのやり直しを余儀なくされたことで、相当な覚悟が必要だったのではないか、と上岡に質問されたこだまは、「確かにそうでしたけど思たんです。ここ(こだま・ひかり解散時)できれいに辞めるか、もういっぺん一から自分が新人の気持ちで頭を下げられるかで統計を取ったんです。そしたら、まだ自分は頭下げられる。自分より芸歴の浅い人の靴を揃えられる。そしたら漫才続けよう。そう決心しました」と答えた。なお、上岡龍太郎は「こだま君はエエ人ですよ」と、こだまの人柄を事あるごとに称賛していた。 こだま・ひびきを結成して2年後、吉本入りしたことによって、常打ちの舞台(なんば花月、うめだ花月、京都花月)に出るチャンスをようやく得たが、その前後で収入は約1/3に激減したという。それからも、舞台での漫才は受けるのになかなか売れず、テレビ出演に恵まれず、「自分は他の若手漫才師たちのように速くしゃべることが苦手だからインパクトが弱くて損をしている。どうしたらいいか」と中田カウスに相談し「それは君の短所ではない、むしろ長所。よそのヤツらは、ゆっくりしゃべりたくてもしゃべられへんだけや。自信を持てばいい」「君の性格からして、ブームを追いかけたらアカン。自分らの漫才忘れんとずっと頑張ってたら、そのうち“運”が時計の針みたいに、グルーッと一周して、おまえんとこでピタッと止まってブレークするから」などと激励されたという。オール阪神・巨人や西川のりお・上方よしおの代演をしたり、時には吉本新喜劇にも出たりと、活動し続けた。 新コンビを結成して4年後の1985年には、女性漫才コンビ海原さおり・しおりの海原さおりと結婚し、二女をもうける。夫に比べて妻の収入が圧倒的に多い状況でのスタートであった。長女はフリーアナウンサー(元静岡第一テレビ)・西山加朱紗。次女はテレビ新広島のアナウンサー・西山穂乃加。 大相撲の春日野親方(元関脇栃乃和歌)に似ただみ声で、非常にねちっこいしべりを得意としている。後述のように、ネタやギャグの宝庫であり、ピンでの仕事も多い。 横浜DeNAベイスターズ(元エース投手で現監督の三浦大輔とも親交がある)と、Jリーグ(J1リーグ)ガンバ大阪のファンである。 桂文珍が1990年頃に司会していた『遊々!文珍クラブ』(朝日放送)にこだま・ひびきで出演した時、文珍は、こだまには芸人としての「フラ(持って生まれたおかしみや愛嬌)」があることを述べていた。 本名で漫才作家としても活動しており、海原さおり・しおりのネタの脚本を手掛けていた。また、あまりメディアや舞台では披露されることはないが、声帯模写も得意としている(中田カウス・ボタン(一人二役でカウスとボタンを演じ分ける)、藤山寛美、鳳啓助、上田吉二郎、常田富士男等)。また、漫才コンビプラス・マイナスの兼光タカシは、こだまの声帯模写を得意としている。 競馬についても造詣が深い。 韓国ドラマの熱いファンである。時代劇にも造詣が深い。 特技は暗算。 こだま・ひかり時代、ピン(一人)での司会の余興をこなした時、トークで客席を笑わせる瞬間に自分から笑うクセが身に付いてしまい、その後しばらくは本業の漫才でもそのクセが抜けず、漫才が受けなくなったことがあった。それ以来、ピンでの司会は原則的に引き受けないことをモットーにするようになった。 漫才の中で「どつき」を入れることを嫌う。かつて舞台でひびきに叩かれた時、真顔で「そういう漫才がしたかったらコンビ別れさせてほしい」と告げたという。また、「親子で一緒に仲良く笑ってほしい」という理由から、下ネタも封印している。 最近の若い芸人のマニアックなネタは分からないという先輩風を吹かすことは良しとしない性格。そうしたネタが客席に受けて自分が理解できないことを恥として、わかるまで繰り返して見ることをポリシーとしている。 漫才のアイデアを仕入れると、そのアイデアを短冊に書いてストックしている。 漫才における、ツッコミ役の鋭いセリフで笑いが左右されることが比較的目立つ傾向に対して寂しさを抱いており、強烈なボケで客を沸かせるような従来型の若手漫才の台頭を切望している。 大木 ひびき(おおき - 、本名:加藤 修(かとう おさむ)、 (1955-06-21) 1955年6月21日(68歳) - )ツッコミ担当。向かって右側(上手)に立つ。滋賀県立彦根工業高等学校卒業。
上方落語協会相談役の桂春団治 (4代目)、現内閣総理大臣の岸田文雄、ナイツの土屋伸之に似ている。 少年時代のあこがれの人は長島茂雄。 元は歌手志望で「全日本歌謡選手権」の滋賀予選に応募し落選した事がある。 1975年に歌手志望で東俳タレント養成所に入るも断念し、気晴らしで京都花月の舞台を見に行く。そこで見た中田ダイマル・ラケットの漫才に衝撃を受け、同年11月にダイマル・ラケットの弟子の中田アップ門下で、松竹芸能から中田ネオン・サインの中田ネオンとしてデビューし(つまりダイマル・ラケットの孫弟子にあたる)、こだまと同じく、トップホットシアターに出演していた。1977年の解散後、同年12月に秦欣嗣(古都ころん)と共に古都からん・ころんの古都からんとして活動。角座や新花月といった松竹芸能系の舞台で漫才をしていた。1980年に第10回NHK上方漫才コンテスト最優秀話術賞を受賞した。からん・ころん解散後、大木こだま・ひかりを解散して映画出演(『吼えろ鉄拳』)等でピンの仕事をしながら相方を募集していた大木こだまとオーディションによりコンビを組み、現在に至る。 ひびき(当時からん)は、『お笑いスター誕生!!』で快進撃を続けるこだま・ひかりをテレビで観ながら、もともとは「引く」漫才を基調にしていた彼らが、「前に出る」漫才(特にこだま)をも合わせてこなすようにブラッシュアップしていることに、同じ漫才師でありながらしびれたという。 売れていなかった時代には里見まさとの経営していた大阪・南方のスナック『キラーズ』でバイトをしていたことがある。 独身時代、同じく独身の坂田利夫が格好の飲み友達であった。 2015年、10歳年下の一般女性と約10年の交際期間を経て結婚。なお、吉本興業所属前に一度結婚歴がある。 主な持ちネタひびき「ようこそお越し下さいました」こだま「も〜わざわざ来てくれんでも良かったんや〜。電話したらわし、家まで行きましたのに!」ひびき「行きません行きません」こだま「ごもったいない話で」
こだま「よ〜見たら***やったんや〜」ひびき「んなもん、見てわからんのかいな?」こだま「わからへんねや〜」ひびき「ボケとったん?」こだま「ボケとんねや〜」ひびき「情けないなあ」こだま「情けないねや〜」ひびき「(ちょっと間をあけてから)お前何言うてんねん?」こだま「わからへん〜」
似たようなパターンで、ひびき「お前、おちょくっとんのか!」こだま「おちょくっとんねや〜」、またはひびき「お前、なめとんのか!」こだま「なめとんねや〜」というやりとりもある。 こだま「そんな奴おれへんやろ〜」
こだま「そら、アホやで〜」
こだま「そらそんでええやろ〜」
こだま「***は###せえへんやろ〜」
その他の主な慣用句に対するツッコミ
ひびき「胸がおどる言うてね!」こだま「胸はおどれへんやろ〜。胸が躍ったらレントゲン取りにくいがな〜」 ひびき「足が棒になる言うてね!」こだま「足は棒になれへんやろ〜。足が棒になったら自転車乗りにくいがな〜」 ひびき「目くそ鼻くそを笑うやな!」こだま「目くそは笑えへんやろ〜。膝は笑うわ目くそは笑うわ、お前の周り大爆笑やな〜」 ひびき「猫の手も借りたいんや!」こだま「猫に手はあれへんやろ〜。あれは前足や〜」 ひびき「恥ずかしいて顔から火が出たんや!」こだま「顔から火は出えへんやろ〜。火が出たらライターいらんやないか〜」 ひびき「目ぇ光らしてるんや!」こだま「目ぇは光れへんやろ〜。目ぇが光ったら懐中電灯いらんやないか〜」 ひびき「肩落としてたんや!」こだま「肩は落とせへんやろ〜。いや、奥さん肩落としてはりますがな!肩落としましたて、おまわりさんに言いに行くんか〜い」 ひびき「目と鼻の先やね!」こだま「そない近ないで〜」 ひびき「目に入れても痛くないのよ!」こだま「目には入らんやろ~。お前の初孫の大きさこんなんか(親指と人差し指で大きさを示す)?それ目に入れたら、コンタクトやないか~い」 また、「どこで見たんや〜」と返すパターンもある。
ひびき「弘法も筆の誤りやな!」こだま「どこで見たんや〜。ほな何かい、弘法さんは筆見たら「えらいすんまへん」て謝んのか〜い」 ひびきがシャレなどを言った時のこだまの返し。
ひびきが、「自分もこんなことがあった」的なネタを言うと、「そんな奴おれへんやろ〜」に続いて「へえ〜、***やったん?」を3〜4回繰り返し、これが出る。 こだま「んなこと言われたらアンタ、往生しまっせ〜」
ひびき「お〜!夢みたいな話やな〜!」こだま「夢やがな〜」
ひびき「***も###も一緒やないか!」こだま「そら別々のもんやないか〜い」
こだま「(グルメリポートで行った鶏料理の店の料理がおいしくて)家族にも食べさせてあげたいんで鶏送ってもらえませんか?そしたら親切に送ってくれたで!代金着払いで…」ひびき「そんなんサギ(詐欺)やがな!」こだま「サギ(鷺)ちゃう!ニワトリ(鶏)や鶏の話をしとんねん!」 こだま「***が###した話、聞く?」又は「***が###した話あんねんけど、聞くか?」
こだま「チッチキチー」
「んなこと言われたらアンタ、チッチキチーやで〜」というふうに、「往生しまっせ〜」と似たような場面で使われる。但し下記のような説明を要するので、オチになる場合は2回目に使った時となる(3回以上使うことはない)。 ひびきに「どういう意味やねん?」とつっこまれると「意味はないけど楽しい言葉やないか〜。これがあるからコマーシャルにも出れとんねや〜(「笑点」に出演の場合は「これがあるから笑点に呼んでもろてるんやないか〜い」と言うことも)これがなかったら普通のおっさんやで〜」。踊る!さんま御殿!!で「チ」を指の腹に書いては消すのが面倒だったので、親指に貼る「チッチキチーシール」を開発。また、2006年には当時東京ヤクルトスワローズに所属していたアレックス・ラミレスが、本塁打を打った後のパフォーマンスの一つとしていた。 小島よしおがブレイクした頃にはパターンを変えると言い「そんなのチッチキチー」と拳を振り下げてから親指を突き出すパターンもあった。 ひびきがこだまの話に対し「おれもこんなことあったんや」と、自分の話を言いかけるが、こだま「お前は無い〜」ひびき「あるがな!!」こだま「あっても言うな〜。」ひびき「言わなわからへんやろ!!」こだま「聞きたない〜。」
ひびき「そんなん、おかしいやないか!」こだま「おかしかったら笑わんか〜い」 オチでひびきが「もうええわ!」と言うと、こだまが「ええことあるか〜い」と返す。これはオチなので、これで漫才が終わる TVドラマなどに突っ込む。例:「最後30分見たら、犯人が全部喋ってくれよんねや〜」「主人公が犯人呼び出しよんねん。それがたいがい断崖絶壁や」「犯人が主人公を殺そうとした時にパトカーが来る・・・はよ殺さんかい!」など。さらに、それに答えてひびきもTVドラマに突っ込みを入れ、こだまが「そんな奴おれへんやろ〜」または「そらそんでええやろ〜」と返す。 2024/06/16 14:04更新
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ooki kodama
大木こだまと同じ誕生日4月26日生まれ、同じ大阪出身の人
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