大橋巨泉の情報(おおはしきょせん) 司会者、タレント 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
大橋 巨泉さんについて調べます
■名前・氏名 |
大橋巨泉と関係のある人
横山やすし: 1978年には「24時間テレビ」(日本テレビ)で大橋巨泉らと共に初代司会を務め健在ぶりを見せた。 鈴木宏昌: 大橋巨泉「こりゃまたみなさん百面相」(編曲) 岩浪洋三: ジャズ・ヴォーカル名盤100(大橋巨泉との共著、講談社〈講談社+α文庫〉、2002年) 河田貴一: 共演した仲間由紀恵や島谷ひとみに、タモリや大橋巨泉等のものまねを舞台袖で振られた。 大谷瑠奈: 大橋巨泉 沢田幸二: 特技は逆さ言葉即答、大橋巨泉や戸張捷、パンチョ伊東、山本浩二、中村基樹、西村龍次の物まね。 関口照生: 現在はオーケープロダクション(旧・大橋巨泉事務所)所属で関連会社の株式会社アイ・バーグマン代表取締役。 時東ぁみ: 眼鏡にレンズを入れていない理由は、撮影等の際に光がレンズに反射するのを防ぐため(大橋巨泉など、実際に実生活で眼鏡を使っている人物も同様の理由でテレビ出演等ではレンズ無しの伊達眼鏡を使う者が多い)。 財津一郎: 同じ昭和9年(1934年)生まれの愛川欽也、坂上二郎、長門裕之、牧伸二、森山周一郎、藤村俊二、大橋巨泉、山本文郎、睦五朗らとは「昭和九年会」を結成していた。 胡口和雄: 当時共演していた大橋巨泉からは「胡口の競馬実況は日本一だ」、先輩の深澤弘からは「競馬実況が一級品。 居作昌果: TBS在籍時代、ドリフ以外にも同い年で早稲田大学の同期でもあった大橋巨泉の担当として公私共に交流があった。 伊勢浩二: 共演した仲間由紀恵や島谷ひとみに、タモリや大橋巨泉等のものまねを舞台袖で振られた。 松野太紀: 過去には大橋巨泉事務所に所属していた。 森光子: 大橋巨泉(以下、巨泉と記述)司会の人気番組だった『クイズダービー』『世界まるごとHOWマッチ』にも、度々ゲスト解答者として出演していた。 キャシー中島: 当時特徴的なファッションセンスから服飾雑誌のインタビューを受けたことから、大橋巨泉司会の音楽番組『ビートポップス』にゴーゴーガールズの一人として出演。 野村邦丸: 東尾は比較的好評であったが、その他のキャラクターは似ていないものが多いが笑いを呼ぶことも多く、「松浦亜弥をやれ」と指示された際はやけくそで大橋巨泉風に「はっはっは、松浦亜弥です」とまねて爆笑を誘った。大橋巨泉のまねは、茨城放送アナウンサー時代から得意とした 宮川俊二: 4月より大橋巨泉が代表を務めていたオーケープロダクションに所属し、フリーアナウンサー・タレントとしての活動を開始。 新井規矩雄: 1986年 - アサヒビール大橋巨泉ゴルフ 愛川欽也: 親交の深かった約700人が参列し、大橋巨泉が弔辞を述べた。 久美かおり: 東洋音楽大学付属高等学校(現在の東京音楽大学付属高等学校)2年生の時、ジャズシンガーを志し、マーサ三宅(大橋巨泉の元夫人)に師事する。 永六輔: この番組は、日本初のフリートークで進められる番組で、永六輔は番組開始後、早い時期に喧嘩別れして大橋巨泉と交代した。 前田武彦: 最後のテレビ出演は2010年5月23日に放映した『ボクらの時代』(フジテレビ)の小沢昭一と大橋巨泉との対談であった。 はらたいら: はらは生前大の酒好きで知られていたため、訃報に接した大橋巨泉は「酒を飲み過ぎたのかな」と語った。 藤村俊二: 1934年生まれの同い年であった長門裕之、愛川欽也、大橋巨泉、財津一郎、森山周一郎らと1976年に親睦団体「昭和九年会」を結成していた。 池永正明: これ以降、西鉄の先輩である稲尾や豊田泰光、同期入団だった尾崎、親交のある小野ヤスシ・なべおさみ・大橋巨泉らが中心となり、池永の処分取り消しを求める署名運動などが幾たびに行われ、国会でも取り上げられるなど広範囲に渡る支援が行われた。 タモリ: 大橋巨泉、山下洋輔などからは「タモリ」、和田アキ子や小松政夫、愛川欽也などからは「タモちゃん」と呼ばれる。 小倉智昭: 大橋巨泉が『大橋巨泉の日曜競馬ニッポン』(ニッポン放送)をスタートさせるにあたり小倉を起用することを決め、巨泉のスカウトに乗る形で29歳のときに東京12チャンネルを退社し、フリーアナウンサーとして大橋巨泉事務所(現:オーケープロダクション)に所属した。 西田健: なお、この番組は放映時に一部生放送の部分もあり、大橋巨泉 などとピアノを囲んでフリートークもあった。 清水アキラ: 大橋巨泉 愛川欽也: 深夜番組『11PM』の司会を大橋巨泉とともに1974年から1986年3月まで長年にわたり務め、司会者としての人気を確固たるものにした。 |
大橋巨泉の情報まとめ
大橋 巨泉(おおはし きょせん)さんの誕生日は1934年3月22日です。東京出身の司会者、タレントのようです。
テレビ、卒業、結婚、事件、引退、映画、ドラマ、母親、再婚、離婚、事故、趣味に関する情報もありますね。今年の情報もありました。2016年に亡くなられているようです。
大橋巨泉のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)大橋 巨泉(おおはし きょせん、1934年〈昭和9年〉3月22日 - 2016年〈平成28年〉7月12日)は、日本のテレビタレント、放送作家、政治家。 テレビ司会者のほか、競馬評論家、ジャズ評論家、時事評論家としての活動も行い、馬主でもあるなど、日本のマルチタレントの先駆けとなった。実業家・芸能プロモーターとしてもオーケープロダクション(旧・大橋巨泉事務所)を創業し、取締役会長を務めたほか、海外でお土産物屋「オーケーギフトショップ」を経営するオーケーギフトショップグループの取締役社長を務めた。また、政治家として参議院議員を務め、会派は民主党・新緑風会に所属した。 本名は大橋 克巳(おおはし かつみ)。芸名の「巨泉」は元々は自身の俳号である。なお、多くの芸能人や関係者・視聴者が「巨泉」「巨泉さん」と呼び、「大橋(さん)」と呼ばれることは皆無に近かったため、本稿では本人の人称を巨泉と記述する。 東京府東京市本所区(現:東京都墨田区)両国生まれ。祖父は江戸切子の名人・大橋徳松(岐阜県出身)。実家は両国でカメラの部品製造・小売を生業とする「大橋商店」を経営していた。同じく実家がカメラ屋の萩本欽一とは店同士取引があり、幼い萩本と巨泉はその当時からの知り合いである。巨泉の実家製作のカメラ「ロールライト」の現存する2機は萩本とすぎやまこういちが所有している、とも語っていた。 本所区立江東尋常小学校(現・墨田区立両国小学校)を経て、第二次世界大戦の戦局悪化に伴い、1943年7月から千葉県山武郡横芝町に疎開し、横芝国民学校4年に編入。敗戦直後、横芝の自宅で叔父が所有するジャズレコードを見つけアメリカへの憧れが強くなる。1946年、千葉県立成東中学校 (旧制)に入学。1947年、東京両国に再度移った。 「憧れのアメリカ」へ行くには英語の習得が必要と考え、当時朝鮮戦争の特需もあり、家業のカメラ商売に役立つと親を説得しアテネ・フランセ英語科で英語を学ぶ。日本大学第一中学校・高等学校を卒業し、ジャーナリストになってアメリカへ行こうと早稲田大学第一政治経済学部新聞学科(後に廃科)へ進学するも中退。 大学生の頃はほとんど勉強をせず、テストではカンニングをしていたという。大学中退の理由は、当時の大学は1年次から2年次にかけて教養課程があり、人文科学系や社会科学系に加えて自然科学系科目も必修だったのだが、苦手な理数系科目での単位取得が望めなかったためである。後に「早稲田大学を中退したタレントは出世する」という伝説のはしりにつながっている。 早稲田大学の学生時代から当時ブームだったモダンジャズ、コンサートの司会者として活動していた。なお、大学在学中に俳人としての活動もしていた。「巨泉」という芸名は俳号だが、戦前の郷土玩具画家である川崎巨泉とは関係ない。アイデアが泉のように湧き出るようにと、最初「大泉」を考えたが、それでは、名字も名前も大がつくので、大の巨人ファンということから大を巨に変えて「巨泉」とした。2年後輩の寺山修司と出会った時に「こいつにはかなわん」と思って俳句の道から足を洗ったという。また1956年頃には、主にラジオ・テレビの音楽番組評論をする時のペンネームとして「池間 仙也」の名前も使っていた。 最初の妻であるマーサ三宅と結婚後、中野区野方へ住まいを移し、実家の大橋商店に勤務するも「自分にはサラリーマン生活は無理」とすぐに辞める。ジャズ喫茶に出入りするうち、ジャズ評論家・放送作家からテレビ司会者に進出、弁舌家のタレントとして人気を得る。この方面では、同じく放送作家出身の前田武彦と人気を二分し、彼と2人で日本テレビ『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』の司会を務めた。 放送作家としてテレビの裏側にいた巨泉が、テレビ出演という表舞台に進出するきっかけになったのは『11PM』の開始だった。新番組の感想をディレクターに尋ねられた巨泉は「麻雀、競馬、ゴルフ、釣りなどの遊びを取り上げてみたら」と提案した。当時はテレビにとってギャンブルはまだタブーだった時代にもかかわらず巨泉の提案は受け入れられた。しかし、そのコーナーの進行役を務める適任者が見当たらなかったため、ディレクターは巨泉自身に出演をもちかけ、コーナー司会者として起用された。その後、番組全体の司会者であった小島正雄の急逝もあり、巨泉がメイン司会を務めることになった。 1960年代から1980年代にかけ、『11PM』や、TBS『クイズダービー』、毎日放送『世界まるごとHOWマッチ』などの司会で名を馳せる。「野球は巨人、司会は巨泉」のキャッチフレーズ通り、競馬や野球、麻雀の評論でも活動し、ニッポン放送『大橋巨泉の責任プロデュース 日曜競馬ニッポン』のパーソナリティを務めた。その後は1990年3月に「56歳になったし、身を引いて司会業は長くやるものではない!」とTBS『ギミア・ぶれいく』以外のテレビ・ラジオのレギュラー番組を全て降板して、メディア業界から「セミリタイア」(後述)した。 特に『クイズダービー』内で巨泉は女性出演者に対して、よく下の名前で呼んでいた。例として、長年の「4枠」レギュラーだった竹下景子には「けいこちゃん」、2枠レギュラーだった山崎浩子には「ひろこ」など。ただし、山崎の後の2枠レギュラーだった井森美幸に対しては、「みゆき」よりも上の苗字の「イモリ」で呼ぶことが多かった。 このようにタレントを呼び捨てにしたり、馴れ馴れしく呼ぶスタイルの司会者は当時では珍しく、タレントを呼び捨てで呼ぶのは巨泉にとって早大・ジャズ業界・司会業の先輩にあたる小島正雄の「ステージの上にいるものはギャラをもらって商売してるんだ。下で見ている人たちは金を払ってきているお客様だ。売っている人間同士が買ってくださるお客に対して「さん付け」で紹介するなんて、それこそ失礼だと思わないか」という教えを守ったためである。久米宏、タモリ、ビートたけし、明石家さんま、島田紳助など、後の大物の司会者たちも「久米」「タモリ」「たけし」「さんま」「紳助」と呼び捨てにしていた。そのため、巨泉の功績を知らない若者からは偉い人と勘違いされたこともある。 番組共演者にニックネームを付けるのを得意としていた。『クイズダービー』では、黒鉄ヒロシには「裏切り狸」、篠沢秀夫には「教授」、はらたいらには「宇宙人」、竹下景子には「三択の女王」、常連ゲストの松崎しげるには「クイズの帝王」とそれぞれ付けた。また、『世界まるごとHOWマッチ』では、石坂浩二を本名の武藤兵吉に因む愛称「兵ちゃん」と呼び、ケント・ギルバートには「ネギルバート」(「値切る」と「ギルバート」の語呂合わせ)、チャック・ウィルソンには「ケチャック」(「ケチ」と「チャック」の語呂合わせ)とそれぞれ付けた。このようによく出演者にニックネームを付けて呼ぶというやり方は、前田武彦に倣ったものであった。 同じ『11PM』の司会であった 愛川欽也を筆頭に財津一郎、玉置宏、藤村俊二、前田憲男ら、同じ1934年生まれの芸能人らと「昭和九年会」を結成した。 『11PM』ではお色気だけでなく硬派の社会ネタ「巨泉の考えるシリーズ」が月曜日を中心に行われており、当時のプロデューサーがたまたまアメリカ合衆国での福祉取材中に見た「レイバー・デイ・テレソン」をヒントに、「考えるシリーズ」内で行われた「世界の福祉」を取り上げた番組からの派生企画として『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』に発展。日テレ開局25周年記念の目玉企画として行われた第1回放送(1978年8月26日-8月27日)で、萩本欽一、ピンク・レディーらとともに総合司会を担当している。 1973年、カナダのバンクーバーに、日本人観光客が日本語で買い物できる土産物店「オーケーギフトショップ」を開店し、実業家に転進した。 その後、カナダ国内ではバンフとナイアガラに開店したほか、オーストラリアのゴールドコーストとケアンズ、ニュージーランドのオークランドとクライストチャーチ(2011年にクイーンズタウンへ移転)にも展開し、3ヶ国7店舗まで事業を拡大した。 湾岸戦争、アメリカ同時多発テロ事件、クライストチャーチ地震などの影響があったものの、同店舗のみ取り扱う限定商品の販売や、大手旅行代理店とのタイアップ(来店粗品や割引が効くクーポン券の配布)、日本語の通じる店員が常駐するなどの面で評判が良く、巨泉死去後も継続して運営されていた。しかし、新型コロナウイルス流行の影響で、2020年6月をもってカナダ国内の店舗を全店閉鎖し、オーケーギフトショップ・カナダは廃業した。なおオーストラリアとニュージーランドの現地法人は引き続き経営を続けている。 カナダ以外にオーストラリアとニュージーランドに進出した理由は、カナダとは季節が逆の南半球に出店することで、観光客が激減する冬季の売上を補う必要があったためだという。一方で、憧れていた隣国アメリカには、地元からの強い要望があったにもかかわらず出店していない。 「オーケー」の名は、オーナーの大橋巨泉と、共同経営者でカナダ日系人協会会長などを務めたゴードン門田(門田亮)の2人の苗字イニシャルからとられており、日本のスーパーマーケット「オーケー」とは関係がない。 競馬評論家としても積極的に活動していた。「プロの調教師が出してくる以上、八分以上の出来」にあるとして、出走各馬の調教を見ないで予想したことから、書斎派の筆頭格であった。サンケイスポーツや、1980年代後半まで「巨泉でバッチリ」のタイトルで競馬エイトの競馬予想のコーナーで執筆していたほか、『中央競馬ダイジェスト』(フジテレビ系・土曜深夜放送分)や『土曜競馬ニッポン・日曜競馬ニッポン』(ニッポン放送)に出演していた。 「土曜競馬ニッポン・日曜競馬ニッポン」は1976年4月にニッポン放送が鳴り物入りでスタートさせるが、開始前の巨泉はラジオ関東の「日曜競馬実況中継」に出演していた。移籍のきっかけは深澤弘が日参して口説き落としたものであり、巨泉は深澤について「あんまり好きじゃなかった」と述べたことがある。 巨泉は当時、競馬ファンに最も影響力を持つ論客として知られていた。ファン目線での評論が多く、しばしば競馬界全体を批判することもあった。その最たる例は第1回ジャパンカップにヨーロッパの馬を招待しなかったことに対して、「何故、イギリスやフランスなどから呼ばないのか?」と日本中央競馬会(JRA)の機関誌『優駿』やサンケイスポーツで痛烈に批判したことである(翌第2回よりヨーロッパ勢の招待が実現)。また、天皇賞の「勝ち抜き制度」に対しても、競馬エイトの「巨泉でバッチリ」で、批判を繰り返していた。 「府中の千八、展開要らず」、「競馬は所詮いい加減なもの」という競馬格言は、巨泉が作ったものとされている。血統と展開と騎手で推理し、しばしば長距離の逃げ馬を的中させていた(トーヨーアサヒが勝った1973年のダイヤモンドステークスなど)。谷岡一郎が「本命2,000円、対抗1,000円、穴・大穴・枠流し500円」で巨泉の予想と結果をGIレースのみ計算した結果、戻って来る金は賭け金の80.83%であった(谷岡一郎『ツキの法則』)。これでは負け越しだが、競馬の控除率が25%前後であることから、平均してそれ以上の戻りがあった巨泉の予想を優れたものと結論づけている。 中央競馬の馬主でもあり(本名の大橋克巳、オーケー商事名義)、1973年には所有馬のロックプリンスが東京優駿(日本ダービー)に出走している(27頭中11着)。「タケシツービート」という名前の馬も所有していた。 シンボリ牧場オーナーだった和田共弘、騎手・調教師だった野平祐二と親交が深く、スピードシンボリが海外遠征した際には、ロンシャン競馬場(フランス・パリ)へ両者と行動を共にした。 また、日本ダービーに出走する競走馬を登録するために馬主が支払う登録料の増額を実現させたのも巨泉である。登録料の上限が1万円だった当時、「1万円だったらまあいいや、みたいなダメもと出走が出て来てレベルが下がる」と苦言を呈し、レースのレベルを高め、本当に勝ちたい馬だけが出走できるように仕向けて競馬法の改正、登録料増額につなげた。 1988年、自身のセミリタイアから1年早く、競馬評論からセミリタイアした。きっかけは、1988年の天皇賞(秋)の「オグリキャップとタマモクロスの一騎討ちムードの状況で、登録料が1万円と安いから勝負になりそうもない馬が何頭も出てきている」といった内容を、巨泉が当日のラジオの中継で話したことが発端であった。それに対し、同競走にレジェンドテイオーを出走させていた美浦の田村駿仁調教師が『週刊競馬通信』(競馬通信社)に、「大橋巨泉氏に物申す」と題する抗議文を送付し掲載された。それに対し巨泉がサンケイスポーツのコラムで反論し、さらに田村が反論するという論争にまで発展したが、やりとりの中で巨泉は競馬サークルの閉鎖性やぬるま湯体質に失望し、サンケイスポーツ紙上にて休筆を宣言した。なお、田村とは数年後に和解し、田村は巨泉の追悼記事に週刊Gallopで和解した時の思い出を記載し、巨泉を評価している。 競馬評論家のセミリタイア後、2006年に『keiba01』(ケイバゼロワン、2006年12月20日発行)誌上において約20年ぶりに競馬をテーマに、「シンザンとスピードシンボリ」と題するコラムを執筆した。 2009年の著書『やめたら』では、三連単馬券について言及し、「三連単はギャンブラーの射幸心を煽る」と反対、否定的な考えを示した。また「マフィアのボスは三連単は買わない」とも言及した。また、三連複馬券や、馬単馬券についても同様に反対、否定的な見解を示した。 ディープインパクトの引退が発表された際、ファンや各マスコミから「来年も走ってほしかった」という意見が多勢だった中、巨泉は「あんな小さい体で来年も現役だの、海外遠征だの冗談じゃないよ!!」と陣営の引退の判断を支持した。その他、当時騎手だった藤田伸二の著書『騎手の一分』の感想を『週刊現代』の自身のコーナー「今週の遺言」(2013年7月8日発売号)で述べたりもしていた。 「セミリタイア」は巨泉が出演中の『ギミア・ぶれいく』以外の全番組を降板する際の記者会見で使った表現で、完全に芸能界・放送界と縁を切る「引退・リタイア」ではないことを強調したものである。 なお、巨泉は50歳でセミリタイアする人生設計を描いていたが、各方面からの慰留や、49歳の時に始めた『世界まるごとHOWマッチ』での石坂浩二やビートたけしとの絡みが楽しかったこともあり、56歳まで仕事を継続した。 その後「セミリタイア」は、早くから蓄財しておき仕事が好調のうちに辞め、悠々自適に過ごしながら余裕のある時に仕事もするという意味合いの言葉として定着している。 同じような形で芸能活動の一線から退いた司会者として、芳村真理がいる。芳村は、巨泉と同じく司会者として絶頂を極めていた50代で、テレビの第一線から引くことを宣言し、以降はスポットでのテレビ出演に留めている。 2001年(平成13年)に当時民主党幹事長だった菅直人が参議院議員通常選挙への出馬を依頼した。これを受け、最大野党・民主党から第19回参議院議員選挙の比例代表候補として立候補し、初当選。6カ月間議員を務めた。立候補打診を受けた当時、既に外国暮らしをしていて「選挙運動のために帰国するつもりはない。党の方で選挙運動をして、私を当選させておいてくれ」と言っていたが、さすがに反発が強く、帰国して選挙運動をして、党内第1位で当選(選挙結果は小泉フィーバーで自民党圧勝)。 当選後すぐにアメリカ同時多発テロ事件が起き、これをきっかけに安全保障問題をめぐっての当時民主党代表・鳩山由紀夫ら当時の党執行部との考えの違いが鮮明になる。アメリカ同時多発テロ事件を非難する国会決議には、「アメリカを支持する」との文言を理由に民主党でただ1人反対。また、インド洋への自衛隊派遣に伴う事後承認にも反対するなど、短期間でいわゆる左翼的な「造反」を連発した。 また、8月6日の民主党両院総会では、巨泉は鳩山に「社会主義インターナショナルに加盟しセンターレフト(中道左派)の党としての性格を鮮明にせよ」と迫ったが、鳩山から「民主党のコンセンサスではない」と言下に却下されている。 こうした党との意見の違いによりわずか6か月で辞職。これに伴い、ツルネン・マルテイが繰り上げ当選した。辞職の弁では「日本の民主党がこれほどまでに反民主的な集団とは思わなかった」と述べた。辞職会見の時には、旧社会党系の民主党議員や社会民主党の議員が「巨泉さん辞めないでください!」「(辞職を)やめて! 辞めないで! 辞めるのをやめて!」などと辞職する巨泉を止めようと説得する場面があった(この時は、福島瑞穂や辻元清美、中川智子などの議員もいた)。この時巨泉は「これは辞めるって会見じゃないんです。既に辞職願を出して受理されました。もう辞めたんです!」と説得する議員に向かって述べた。 比例代表で当選した議員がその党の路線への不満を理由に辞職することと、その不勉強と我が儘さに対して各方面から批判された。当時内閣官房長官だった福田康夫は会見で「職場放棄だ」と批判したが、巨泉は『爆笑問題の日曜サンデー』(2008年9月14日)に出演した際、この発言を引き合いに出し、当時首相であった福田が唐突に辞意を表明したことについて逆に批判している。 後に巨泉が語ったところによると、中村敦夫らが結成したみどりの会議への移籍を一時真剣に考えたという(みどりの会議は選挙時に存在しなかったため、比例選出の議員でも移籍は可能だった)。また、当時党内で巨泉と意見が近く、鳩山らの執行部ともたびたび対立していた横路孝弘・赤松広隆・生方幸夫ら横路グループがもしも離党、新党結成へと踏み切っていたなら共に参加しただろうとも述べている。 議員辞職後は、民主党を強く批判するスタンスを取っていた。後に再び民主党に歩み寄る姿勢を見せ、民主党政権の誕生を望んでいるような発言もしていた時期もあったが、一方で民主党が保守に寄り過ぎているという認識は同じで、民主党が自民党化することに警鐘を鳴らしている。そのため、2009年第45回衆議院議員総選挙では、民主党の“勝ち過ぎ”を警戒し、社会主義的な理念を持つ政党が一定の影響力を持つことが必要として、比例区では社民党か日本共産党に投票するよう勧めた。 2005年5月、胃癌を患っていたことが判り、6月に摘出手術を行った。毎年11月中旬から翌年3月中旬までオーストラリアとニュージーランドに、5月のゴールデンウィーク後から9月中旬までカナダに滞在し、オーケーギフトショップの管理の傍ら、ゴルフを楽しむなどの生活を送った。この太陽の動きに合わせ居住地を移動する生活形式を「ひまわり生活」と呼んだ。日本に帰国するのは3月末からゴールデンウィークまでと9月中旬から11月上旬までであった。 逝去まで一貫してこのスタイルで生活していたことから「出稼ぎタレントのパイオニア」とも呼ばれるようになった。 海外移住先をハワイではなくカナダ、オーストラリア、ニュージーランドにした理由について、友人である元日本テレビプロデューサーの井原高忠がハワイに移住したが、ハワイは物価が高く、ゴルフ場料金も高いため老後の移住先として不適格と判断したため。カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの順で永住権(永住資格)を取得している。 セミリタイア後も、帰国時は『笑っていいとも!』や『ニュースステーション』といった生放送番組を中心にゲスト出演していた。特に『開運!なんでも鑑定団』には通算32回出演しており、最多ゲスト出演者となっている。 また、たけし・タモリ・紳助・久米などは番組内で巨泉の話題が出ると「(セミリタイアの分際で)偉そうに」「お前の番組に出てやると偉そうに言ってくる」「勝手に自分が出演する日を決める」「フルリタイアしてほしい」などと罵倒するのが恒例となっており、紳助は2009年7月に放送されたFNSの日で司会を務め、22年ぶりに笑っていいとも!にゲスト出演した際、「一度ガンになったけど、残念ながら復活しました」「医学は進歩しすぎやね」と発言した。また、テレビ朝日の駐車場に駐車していたタモリの車に乗り込み、車内にいたタモリに「おいタモリ、お前の番組に出てやる!」と発言した直後に久米が駐車場を通りかかると、車を降りて久米の元へ行き「久米、お前の番組にも出てやる」と駐車場で出演交渉をしていたことを、タモリがいいとも内で明かしている。 「バラエティは生放送じゃなきゃ駄目。今の番組はすぐにスタッフの意向でハサミを入れる(カットする)から、出演者の面白さが全部切り取られている」「映画は監督のもの、テレビはホストのもの」が口癖だった。 メジャーリーグ評論家としても知られ、日本のメジャー通タレントの第一人者でもあり、メジャー30球団の選手名鑑を発売する程精通していた。2001年当時、メジャーで通用する日本人選手として、当時西武に所属していた松井稼頭央を挙げた。また、アメリカンフットボールにも造詣が深く、NHK BS1でNFL中継のゲスト解説を担当したこともある。サンフランシスコ・フォーティナイナーズのファンを公言していた。 2009年2月12日、同年4月にオーケープロダクションが設立40周年を迎えることを期に、オーケープロダクションが巨泉と縁が深いイーストの完全子会社となり、同時に巨泉自身もオーケープロダクションの取締役会長を退任し、代表取締役だった巨泉の実弟で秘書の大橋哲也も相談役に退いている。 2013年10月13日、次女の豊田チカ(チカ・シンガー)と共に横浜ジャズプロムナードに出演した。同年11月、中咽頭癌を発症し摘出手術を受ける。 2014年11月、肺と食道の間にある「縦隔」のリンパ節に腫瘍が見つかり、放射線治療を受ける。 2015年5月18日、肺癌の手術を受け、右肺の約3分の1を摘出。同年10月14日、縦隔のリンパ節に2か所発見された腫瘍の除去手術を受ける。手術から5日後の10月19日にはゲストとして『徹子の部屋』の収録を行った(11月2日放送分)。同年10月24日には、長女の大橋美加と 阿佐谷ジャズストリート で共演している。 2015年11月3日、腸閉塞の疑いで入院。13日にいったん退院した後、27日に再び入院、30日に開腹手術を受けた。軽い腸閉塞で、がんの転移もなく、手術は成功した。12月9日に退院。21日放送のTBSラジオ『六輔七転八倒九十分』へのゲスト出演が予定されていたが、リンパ節除去手術の影響で声がかすれることから出演を見送った。 2016年2月4日放送分の『徹子の部屋』に永六輔とともにゲスト出演している。しかし同年2月には左鼻腔内に新たな癌が見つかり、外科手術を避け、抗がん剤および放射線による治療を行った。 その後も闘病しながら活動を続けていたが、体力の低下を感じて2016年3月27日に入院。4月5日に一旦退院して在宅介護に切りかえたものの、在宅介護の医療機関によるモルヒネ系鎮痛剤の誤投与により極端な体力減退に陥り、4月11日に都内の病院に緊急入院し、5月下旬には集中治療室に入っていた。週刊現代で連載していたコラムも6月27日発行号掲載分で容態悪化を説明し「気力も体力もない」と連載を終了。 |
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