宇野宗佑の情報(うのそうすけ) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
宇野 宗佑さんについて調べます
■名前・氏名 |
宇野宗佑と関係のある人
前田正男: 宇野宗佑 伊能繁次郎: 宇野宗佑 橋本龍太郎: 宇野政権においては、リクルート事件や消費税の影響に加えて、宇野宗佑本人の女性スキャンダルが噴出した。 野中英二: 1989年、宇野内閣で国土庁長官に任命され初入閣したが、宇野宗佑首相は第15回参議院議員通常選挙で大敗し、退陣を表明。 石川要三: 宇野宗佑 宇野治: 宇野宗佑は岳父。 降矢敬義: 1989年4月の消費税導入直後、宇野宗佑首相のスキャンダル、土井たか子に代表されるマドンナブームで、自民党に逆風が吹く中で行なわれた参議院選挙に落選。 菅佐原英一: フリーになってからは『ごめんねママ』などのホームドラマに出演していたが、1967年頃には芸能界を離れて、当時、第2次佐藤内閣において菅野和太郎通商産業大臣の下で通産政務次官に就任していた宇野宗佑の秘書を務めており、その頃には信託銀行のCMだけに出演していた。 前田佳都男: 宇野宗佑 中村梅吉: 宇野宗佑 斎藤栄三郎: 宇野宗佑 熊谷太三郎: 宇野宗佑 久保田真苗: 1989年の第15回参議院議員通常選挙を控え、リクルート事件により引責辞任した竹下登首相に代わり、新たに就任した宇野宗佑の愛人スキャンダルを国会で追及。 宇野治: 1975年10月 ‐ 宇野宗佑の娘と結婚し宇野姓に改姓 宇野治: 1989年6月 ‐ 内閣総理大臣私設秘書(首相は宇野宗佑) 東郷茂彦: 更に1989年の組閣後に鳥越俊太郎が書いた宇野宗佑首相に関する女性問題は当初は国内では問題視されなかったが、東郷のワシントンポストでの記事がマスコミに紹介されたことで報道は批判一色となり、自由民主党は参議院選挙で敗北した。 倉成正: 宇野宗佑 上林山栄吉: 宇野宗佑 木村俊夫: 宇野宗佑 江藤隆美: 1989年6月、宇野宗佑内閣では自民党幹事長に昇格した橋本龍太郎の後任として、幹事長代理となる。しかし、迎えた1989年の第15回参議院議員通常選挙では土井たか子が委員長を務める社会党マドンナ旋風、宇野宗佑首相の女性問題、消費税、リクルート事件と逆風にさらされ、自民党は歴史的な大敗を喫す。 細田吉蔵: 1960年に退官後、第29回衆議院議員総選挙に旧島根全県区から出馬し初当選(当選同期に宇野宗佑・海部俊樹・亀岡高夫・仮谷忠男・小沢辰男・佐々木義武・田沢吉郎・谷垣専一・久保田円次・伊藤宗一郎・田川誠一・渋谷直蔵・藤井勝志など)。 竹内黎一: 宇野宗佑 近藤鶴代: 宇野宗佑 谷垣専一: 退官後、農林中央金庫監事を務めたが、1960年に芦田均の地盤を引き継いで自由民主党公認で京都2区から第29回衆議院議員総選挙に出馬し当選、吉田茂の流れを汲む宏池会に所属した(当選同期に宇野宗佑・海部俊樹・仮谷忠男・細田吉蔵・小沢辰男・佐々木義武・田沢吉郎・伊藤宗一郎・久保田円次・田川誠一・渋谷直蔵・藤井勝志など)。 田沢吉郎: 以来12回連続当選(当選同期に宇野宗佑・海部俊樹・亀岡高夫・仮谷忠男・細田吉蔵・小沢辰男・佐々木義武・谷垣専一・久保田円次・伊藤宗一郎・田川誠一・藤井勝志など)。 岸田文武: 自由民主党にあっては、都市局長、資源・エネルギー対策調査会副会長、中小企業調査会副会長、調査局次長、行財政調査会副会長などを歴任し、1988年12月からは党経理局長として、竹下登、宇野宗佑、海部俊樹、宮澤喜一の4代の総裁のもとで、幹事長を補佐した。 伊藤宗一郎: 自由民主党では、当初河野派に属し、河野の死後には三木派→河本派→高村派に所属した(当選同期に宇野宗佑・海部俊樹・亀岡高夫・仮谷忠男・細田吉蔵・小沢辰男・佐々木義武・田沢吉郎・谷垣専一・久保田円次・田川誠一・渋谷直蔵・藤井勝志など)。 上原正吉: 宇野宗佑 江藤隆美: 中曽根派では渡辺美智雄、宇野宗佑、藤波孝生、山崎拓らと共に幹部として発言力を持っていた。 神田厚: 宇野宗佑 |
宇野宗佑の情報まとめ
宇野 宗佑(うの そうすけ)さんの誕生日は1922年8月27日です。滋賀出身の政治家のようです。
現在、映画、結婚、事件、事故、病気、テレビ、引退、趣味、解散、再婚に関する情報もありますね。1998年に亡くなられているようです。
宇野宗佑のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)宇野 宗佑(うの そうすけ、1922年〈大正11年〉8月27日 - 1998年〈平成10年〉5月19日)は、日本の政治家。第75代内閣総理大臣。位階は従二位。勲等は勲一等。俳号は犂子(れいし)。 滋賀県議会議員(2期)、滋賀県議会副議長(第45代)、衆議院議員(12期)、防衛庁長官(第32代)、科学技術庁長官(第31代)、行政管理庁長官(第44代)、通商産業大臣(第42代)、外務大臣(第110代)、内閣総理大臣(第75代)、自由民主党国会対策委員長、自由民主党総裁(第13代)などを歴任。 1922年(大正11年)8月27日、滋賀県野洲郡守山町(現・守山市)に父の宇野長司と母の民子の間に長男として生まれる。 実家は造り酒屋の荒長(あらちょう)。生家は地元の町年寄を務め、祖父の正蔵は守山町長を2期務めるなど、地方政界では知られた存在だった。また、伯父の宇野豊蔵は、実教出版の名誉会長だった。 1929年(昭和4年)に旧制吉身尋常小学校(現在の守山市立吉身小学校)に入学。このころから良い成績を修める。絵にも優れ、『少年倶楽部』に漫画を送ってしばしば当選し、また、このころに乗馬も覚えた。同年に同町吉身に開館した映画館の大黒座に通い始める。 1935年(昭和10年)に滋賀県立八幡商業学校(現・滋賀県立八幡商業高等学校)に入学。商業学校時代は映画に夢中になり、また剣道を始めた。1940年(昭和15年)に彦根高等商業学校(現・滋賀大学経済学部)に入学し、2年生のときに全国高商剣道大会で初の全国優勝に導いた。 外交官を目指して、1943年(昭和18年)10月に旧制神戸商業大学(現・神戸大学)に進学。しかし2か月後に学徒出陣となり、戦後のシベリア抑留を経て、復学せずそのまま中退した。 1943年(昭和18年)2月1日に学徒出陣により敦賀連隊に配属された。主計試験を受けたが、当初は成績が悪かった。三重の津連隊に一時分遣後、5か月間、満洲国の新京経理学校で主計将校として訓練を受けた後、12月に主計少尉として朝鮮北部の連浦連隊に配属された。 1945年(昭和20年)の終戦後、8月23日にソ連軍により武装解除され、4日後に朝鮮の宣徳収容所に入った。ソ連の船に乗り、10月7日にナホトカに上陸してマラザ収容所に入所した。それから2年間ソ連に抑留された。 1947年(昭和22年)7月28日に収容所から出所、10月15日に帰還船「信洋丸」に乗って帰国して抑留生活を終えた。1948年(昭和23年)11月に自身の抑留体験を綴った『ダモイ・トウキョウ』(ロシア語: Домой Токио、「東京への帰郷」の意)を出版する。この本は、1952年(昭和27年)に阿部豊によって『私はシベリアの捕虜だった』というタイトルで映画化され、大きな反響を呼んだ。故郷の大黒座で試写が行われた際には、上映に関与し舞台挨拶を行っている。 1949年(昭和24年)2月22日に裏千家十三世圓能齋千宗室の姪の廣瀬千代と結婚。馴れ初めは、シベリアに抑留されていた広瀬の兄の帰還を北野天満宮に祈願していたことからだった。宇野家には嫁入りした妻は旧姓とともに本名をも捨て去るしきたりがあり、千代も結婚後は「弘子」の名を与えられ、首相就任まで40年間、「宇野弘子」を名乗った。 1947年(昭和22年)、野洲郡守山町商工会が初めて行った会長選挙で商工会長に当選。芝居などの企画を手がける。 1951年(昭和26年)4月、野洲郡選挙区の滋賀県議会議員として初当選。最年少で守山町から二番目(最初は祖父の宇野正蔵)の当選だった。当初は自由党に入党したが、民主党の森幸太郎が知事になると民主党に入党した。1955年(昭和30年)にトップ当選で再選し、5月21日に県議会副議長に就任した。1956年(昭和31年)3月24日に県会選出の教育委員となった。 1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙で自由民主党の候補として初出馬するが落選。河野派(春秋会)に入る約束をしており、河野一郎が選挙の応援に訪れていた。選挙後、河野に師事することが認められ、単身上京して河野の議員秘書となった。 1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙で再び出馬した。河野派は自民公認に推したが、党滋賀県連の支持が得られず無所属で立候補した。社会党の西村関一についで二番目の得票で当選した。当選後、11月25日に自民党に入党した。 1961年(昭和36年)に自由民主党青年局部長となった。日本海外青年奉仕隊を構想し、局長の竹下登と共にインド・パキスタンや東南アジアを歴訪して青年海外協力隊発足に尽力した。また、自民党青年憲章を制定し、青年の家を創設した。 1966年(昭和41年)8月1日に第1次佐藤内閣第2次改造内閣・第3次改造内閣で三木武夫通商産業大臣の下で通産政務次官に就任した。1967年(昭和42年)の選挙では初のトップ当選を果たした。 1968年(昭和43年)に河野派を引き継いでいた森清の死後、森派から中曽根派に合流。 1974年(昭和49年)11月、第2次田中角栄内閣で、防衛庁長官として初入閣。防衛庁長官として、第十雄洋丸事件では海難事故で炎上した石油タンカーを撃沈する指令を出した。内閣は29日で終わり、離任式で「国を守る防衛長官がどうしてくるくる代わるのか」と話した。 1974年(昭和49年)12月に田中角栄に代わり、三木武夫が自由民主党総裁に就任すると、自民党国会対策委員長に就任した。まもなくロッキード事件が発覚。野党から執拗な追及を受け、国会対策委員長の仕事は非常に多忙であった。 1976年(昭和51年)、福田赳夫内閣で科学技術庁長官に就任。 科学技術庁長官として日米原子力交渉を担当。核燃料特別対策会議を開き、議長となった。核拡散問題担当大使ジェラルド・スミス(英語版)らと交渉し、9月には首席代表として訪米、協定に調印した。スミスは「はっきりモノを言う初めての日本人だった」と評価した。 1978年(昭和53年)12月7日、自民党広報委員長に就任。 1979年(昭和54年)、第2次大平内閣で行政管理庁長官に就任。行政管理庁長官として特殊法人の一割削減を計画し、各大臣を大臣室に呼びつけるが、省庁幹部が大臣の代理で大臣室に来ても面談を拒否する徹底した政治主導を行い、計18法人を整理した。 1982年(昭和57年)の自由民主党総裁選で出馬した中曽根康弘の代表世話人となった。中曽根が総裁に当選すると、自民党幹事長代理に就任し1983年(昭和58年)1月の中曽根首相の訪韓に同伴する。6月に山中貞則が病気により通産大臣を辞任すると後任に就任した。通産大臣として貿易黒字、貿易摩擦の対策に取り組んだ。中曽根首相の退陣に伴い、竹下登を後継総裁に指名する中曽根の裁定文を幹事長代理として発表した。 1987年(昭和62年)に竹下内閣で外務大臣に就任。 1988年(昭和63年)3月26日における参議院予算委員会で、日本共産党の橋本敦の北朝鮮による日本人拉致問題に関する質問が出て、梶山静六国家公安委員会委員長が「北朝鮮による拉致が濃厚である」と答弁した時、外務大臣として北朝鮮の拉致が現時点では仮定の話ではあることを前置きした上で、「我々の主権が侵されていたという問題」「全くもって許しがたい人道上の問題」「強い憤り」「主権国家として当然とるべき措置はとらねばならぬ」と答弁した。 1988年(昭和63年)6月に日本の外相として初めてイスラエルを訪問し、シモン・ペレス外相と会談した。その際、「イスラエル軍は、占領地から全面撤退すべきであります。日本の繁栄は、国民の汗と涙の結晶。武力で土地を取る国には、金は一銭も出せない」と言うと、ペレス外相から「愛国心を喚起しないと、我々は選挙が大変なんだ」と理解を求める声が返ってきた。 1989年(昭和64年)1月7日、外遊先のフランス・パリで昭和天皇崩御の訃報に接し、参加中の化学兵器禁止国際会議の会場で、各国要人が弔意を伝えた。さらに、会場では異例の黙祷が自然な形で行われた。「昭和という時代は、先の大戦から今日の自由民主主義の、もとでの繁栄まで我が国が極めて大きな振幅を経験した時代であり、長い日本の歴史の中におきましても、一際深い刻印を記した時代であったと言うことができます。」とテレビカメラの前で涙を見せながら語った。 外務大臣時代には「原子力発電所に反対する人はクーラーを使うなと言いたい」と発言して脱原発団体から抗議されたことがある。 リクルート事件発覚と消費税導入により支持率が急落した竹下登首相が、1989年(平成元年)4月25日に辞意を表明した。しかし、ポスト竹下と目されていた安倍晋太郎、宮澤喜一、渡辺美智雄ら自民党の有力者は軒並みリクルート事件に関与していたため身動きが取れず、河本敏夫は三光汽船経営危機問題から敬遠され、さらに伊東正義や田村元、坂田道太、後藤田正晴からも断られて後継の総理総裁選びは難航する。 そこで、主要閣僚の中でリクルート事件との関連性が薄く、総理総裁任期を満了した中曽根の派閥ナンバー2であり、サミットが近かったこともあり外相であった宇野に白羽の矢が立ち、5月26日に竹下から打診されて急遽後継総裁に擁立されることになった(竹下裁定)。 6月2日、自民党両院議員総会で全会一致にできずに異例の「起立多数」で第13代自民党総裁に選出される。自民党史において、派閥領袖ではない自民党総裁は宇野が初めてであった。鈴木善幸首相は就任当時こそ派閥領袖ではなかったが、間もなく派閥領袖となっている。 1989年(平成元年)6月3日、竹下改造内閣総辞職に伴い宇野内閣成立。主要閣僚は谷川和穂法務相、三塚博外務相、村山達雄大蔵相、西岡武夫文部相、小泉純一郎厚生相、堀之内久男農林水産相、梶山静六通商産業相、山村新治郎運輸相、村岡兼造郵政大臣、堀内光雄労働相、野田毅建設相、坂野重信自治相兼国家公安委員長、塩川正十郎内閣官房長官、池田行彦総務庁長官、井上吉夫北海道開発庁長官兼沖縄開発庁長官、山崎拓防衛庁長官、越智通雄経済企画庁長官、中村喜四郎科学技術庁長官、山崎竜男環境庁長官、野中英二国土庁長官。 なお宇野は、天皇明仁が即位後初めて任命した首相となった。 宇野内閣発足直後の同年6月4日、中華人民共和国で六四天安門事件が発生し、竹下内閣が決定した第三次円借款を凍結する一方で外務大臣・三塚博と共に「中国の孤立はさせない」とサミットで主張して他の西側諸国と距離を置き、サミット前にも対中制裁反対派・慎重派の中曽根康弘、鈴木善幸、竹下登元首相と会談した。総理退任後の1990年5月7日に訪中した際にも中国の指導者江沢民からこのサミットでの対応に感謝されている。 しかし、この急造内閣も自身のスキャンダルに足をすくわれることとなった。首相に就任した3日後、『サンデー毎日』(毎日新聞)が神楽坂の芸妓の告発を掲載し、女性スキャンダルが表面化。当時のサンデー毎日の編集長は鳥越俊太郎だった。 初めは国内の他のマスコミは無視したがが、外国メディアに「セックススキャンダルが日本の宇野を直撃」(ワシントン・ポスト)などと掲載されると、それが引用される形で日本で話題となった。一部マスコミからは宇野ピンクザウルス総理と揶揄された。 女性問題の報道に関して妻の千代は「宇野は私を大切にしてくれておりますし、私も宇野をずっと心から信頼してまいりました。もちろん、そんなことはなかったと信じております。デッチ上げだと思っております」と語っている。 同年7月の第15回参議院議員通常選挙は従来の3点セット(リクルート問題、消費税問題、牛肉・オレンジの輸入自由化問題)に加え宇野の女性問題が争点となり、さらにいわゆるマドンナブームがとどめを刺し、自民党は改選議席の69議席を大幅に下回る36議席しか獲得できず、特に一人区では3勝23敗と惨敗。参議院では結党以来初めての過半数割れとなった。 投票日翌日の7月24日、敗北の責任を取り退陣を表明。会見での「明鏡止水の心境であります」との言葉が話題になった。同年8月8日には自民党両院議員総会で河本派の番頭格であった海部俊樹が新総裁に選出された。総理在任期間はわずか69日、日本政治史上4番目の短命内閣に終わった。 退任後は自民党最高顧問に就任したが、1996年(平成8年)の第41回衆議院議員総選挙に立候補せず政界から引退した。また、1995年(平成7年)11月に森口華弘と共に初の守山市名誉市民に表彰された。 1998年(平成10年)2月から体調不良となり、通院を繰り返して5月18日に滋賀県立成人病センターに入院、翌5月19日午前11時4分死去、75歳没。死因は肺癌であったが、本人には知らされなかった。「今何時だ」が最後の言葉だった。 同年7月18日に県立体育館で県民葬、9月13日に市民ホールで集会(題は「守山市名誉市民・元内閣総理大臣故宇野宗佑氏を偲ぶつどい」)が開かれ、市民ら1100人が参加した。平成期に総理大臣を務めた政治家としては最初の物故者となった。 2002年(平成14年)11月30日に守山市市民ホールで宇野の銅像の除幕式が行われた。没後生家は「宇野宗佑記念館」となり、生前の写真パネルのほか、国内の視察先や外遊先などで収集した絵画や骨董品・民芸品などが展示されていたが、宇野家の資金難から閉鎖になり、土地や建物は売却された。自宅の裏には「中仙道守山宿 郷土人形館」が建てられ、収集した内外の人形約2万点、自作品も50点ほど展示されていたが、現在は限定公開となっている。 2003年(平成15年)の第43回衆議院議員総選挙では、女婿の宇野治が自民党公認で地盤であった滋賀3区から立候補し、比例復活で初当選した。だが、2009年の第45回衆議院議員総選挙で落選後、政界復帰することなく2012年に政界引退を表明した。 同時に自民党滋賀3区総支部長も退任、後任には武村展英が就任し、武村は2012年の第46回衆議院議員総選挙で初当選した。 政策研究大学院大学の本田雅俊准教授は、「閣僚としての宇野には、二つの見方が残っている。一つは権柄ずくに振る舞うばかりで、自ら汗をかかなかったというものである。例えば、行政管理庁長官時代には単にふんぞり返っていたとの評判がある。その一方、リーダーシップを発揮しながら、内閣の重要課題を手堅く処理していったとの評価もある。官僚を相手にせず、全閣僚を順次呼びつけ「馬鹿にしちゃいかんぞ」と怒鳴りつけながら18の特殊法人を整理したというエピソードもある。実際、大平は宇野の手腕を讃えたという」。 総理時代の評価は在任期間が69日と短かったこともあり、多くの評者が評価不能としている。 同じ文人政治家としても親交の深く、福田・竹下両内閣で共に閣僚(福田内閣で宇野は科学技術庁長官、石原は環境庁長官。11年後の竹下内閣では宇野は外相、石原は運輸相)だった石原慎太郎(後に東京都知事→日本維新の会代表)が「私自身はこの人事には密かに期待した者の一人だった。宇野氏とは個人的にも親しく、磊落で文人気質のこの人物が思いがけぬ状況の所産として総裁、総理になったことで、この国の政治家のイメイジが少しは変わってくるのではないかとも思っていた。残念なことに女性問題で宇野氏は苦境に立たされ短命に終わったが、もしあの政権が続いていたなら党の中にもある大事な変化があり得たのではないかと思っている」と述べている。 宇野内閣で防衛政務次官に抜擢された鈴木宗男も、「宇野さんは外務官僚から『歴代外務大臣で一番手がかからない』と言われたほど、国会答弁など完璧にこなす勉強家であり、宇野内閣が短命に終わったことは、日本の政治にとって不幸だった」と述べている。 初代内閣安全保障室長の佐々淳行が宇野総理に悪い情報を入れると怒られ、意見具申をすると意見半ばで怒りを含む発言にさえぎられ、宇野から「私は外務大臣も通産大臣も、防衛庁長官もやった、党の幹事長代行もやった。君にそんなことを言われなくたって、ちゃんと知っているし、わかっている!!」と一喝され、「それは失礼しました」と言って佐々が退出することがあった。 塩田潮の『大いなる影法師』によると、政治家秘書出身としては、初めての首相だったという。しかし、当時現役だった政治家秘書からは嫌われていた。秘書時代と比較し、秘書を叱りつけたりしたからである。秘書たちは、「宇野さんは、選挙の谷間の腰掛けで秘書をやっていただけ。いずれ政治家になる秘書と、秘書として生涯を終える秘書とを同列に論じないでほしい」と苦り切っていた。 自民党派閥では河野派に属し、河野死去後、派閥が分裂した際は森派へと参加した。しかし、間もなく派閥会長の森清が亡くなり園田直が派閥を継ぐと、「森との縁で派閥に参加したが、園田とはこれといった接点がないから」と、中曽根派へと移籍した。その中曽根派では幹部に上り詰めたが、派内では子分などはいなかった。 演説の名手であり、所信表明演説を聞いた「ニュースステーション」の久米宏は「大化けするかもしれない」とコメントした。 総理就任時にはピアノ演奏を披露し、趣味の広さや遊び心が好意的に報道された。またハーモニカの達人でもあり、閣僚時代にもしばしば各国との晩餐会などでハーモニカの即興演奏をし喝采を浴びている。ピアノ、ハーモニカ、絵画などの技も素人離れした才人であった。 剣道や馬術で身体を鍛え、剣道は彦根高商時代に全国優勝し、五段を有する腕前であった。 俳句を嗜み、犂子(れいし)と号し、句集も残した。初登院の日に詠んだ句は「枯園に 総理用車 呼ぶ声す」。 長女百合子の夫は養子の宇野治。 子孫は、僧侶の孫息子と孫娘が二人、曾孫息子が二人、曾孫娘が三人いる(娘の次女が二人出産)。 1922年(大正11年)8月27日 - 滋賀県野洲郡守山町(現・守山市)にて誕生。 1943年(昭和18年) - 旧制神戸商業大学在学中に学徒出陣となり、2年間のシベリア抑留を経験する。帰国後、滋賀県議会議員、河野一郎秘書 1960年(昭和35年) - 衆議院議員(自由民主党・河野派) 1961年(昭和36年) - 自民党青年局部長(局長・竹下登) 東南アジアを歴訪。青年海外協力隊発足に尽力する。 1974年(昭和49年)11月11日〜12月9日 - 防衛庁長官(第2次田中角栄内閣) 1976年(昭和51年)12月24日〜1977年(昭和52年)11月28日 - 科学技術庁長官・原子力委員会委員長(福田赳夫内閣) 1979年(昭和54年)11月9日〜1980年(昭和55年)7月17日 - 行政管理庁長官(第2次大平内閣) 1983年(昭和58年)6月10日〜1983年(昭和58年)12月27日 - 通商産業大臣(第1次中曽根内閣) 1987年(昭和62年)11月6日〜1989年(平成元年)6月3日 - 外務大臣(竹下内閣) 1989年(平成元年)6月2日〜8月8日 - 第13代自由民主党総裁 1989年(平成元年)6月3日〜8月10日 - 第75代内閣総理大臣(宇野内閣)
7月14日〜16日 - アルシュ・サミット(第15回先進国首脳会議)に出席 7月24日 - 参議院選で惨敗(自民党33議席減)して、引責辞任を表明。表明時、心境を「明鏡止水」と表現した。 1994年(平成6年)4月 - 勲一等旭日桐花大綬章受章。 1996年(平成8年)6月 - 政界引退を表明。9月27日、衆議院解散に伴い政界引退。 1998年(平成10年)5月19日 - 肺癌のため死去。75歳没。 宇野宗佑『ダモイ・トウキヨウ』葛城書房、1949年。
宇野宗佑『ダモイ・トウキョウ』国書刊行会、1989年6月。ISBN 978-4-336-02294-3。 宇野犂子『王廟 句集』市ケ谷出版社、1963年。 宇野宗佑『庄屋平兵衛獄門記』〈青蛙選書〉、青蛙房、1971年。 『中曽根内閣の課題』〈講演シリーズ 426〉、宇野宗佑(述)、内外情勢調査会、1983年。 宇野宗佑『中仙道守山宿』〈青蛙選書 67〉、青蛙房、1984年10月。 宇野宗佑『大正蘇音器』市ケ谷出版社、1986年5月。 『日本外交の基本課題 世界に貢献する日本』宇野宗佑(述)、外務省外務大臣官房国内広報課、1989年2月。 - 著者の肖像あり。 『宇野内閣総理大臣演説集』宇野宗佑(述)、日本広報協会、1991年2月。 - 監修:内閣総理大臣官房。 鈴木俊一、宇野宗佑・丹下健三(述) 著「都市経営の理念と政策 二十一世紀に向け東京を改造する」、立田清士 編『鈴木俊一著作集』 第5巻(座談会)、良書普及会、2001年11月。ISBN 4-656-21116-8。 ^ 神楽坂の芸妓の中でも抜きん出た美貌の持ち主だった中西ミツ子に「もし自分の愛人になってくれたらこれだけ出す」と言って自分の指を三本出した(30万という意味)。また、愛人となった後から別れる(首相就任の4年前)に至るまで中西へのフォローの悪さなどから、このような人物が日本の総理大臣であってはいけないと考え、マスコミにこの事実をリークしたという(中西本人がTV出演した際に語っている)。なお中西はその後芸妓を辞めて尼僧となった。そして東京新聞2003年4月30日付け掲載の記事によると、再婚して苗字は変わっているという。 ^ スキャンダルそのものの内容や、告発者の告発内容に対する検証がなされず、ただ批判だけが先行する状態であったが、女性票が離れるとして候補者から応援演説の要請がほとんどなかった。また当事者であるこの問題についてノーコメントを通したことも、世論特に女性層の批判を強めた。 ^ 当時のマスコミには、政治家の女性問題のネタは取り上げないという不文律があった。 ^ “史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2020年1月15日閲覧。 ^ 柚木&沼田 1988、45-49頁 ^ 宇野 1984, 309-324頁 ^ 柚木&沼田 1988、62-65頁 ^ 柚木&沼田 1988、67頁 ^ 柚木&沼田 1988、85頁 ^ 柚木&沼田 1988、73頁 ^ 柚木&沼田 1988、115-116頁 ^ 宇野千代とは別人。 ^ 柚木&沼田 1988、121-122頁 ^ 柚木&沼田 1988、105-108頁 ^ 柚木&沼田 1988、109,112頁 ^ 柚木&沼田 1988、301頁 ^ 柚木&沼田 1988、130,132頁 ^ 柚木&沼田 1988、134-135頁 ^ 柚木&沼田 1988、143-144頁 ^ 柚木&沼田 1988、150-154頁 ^ 柚木&沼田 1988、191-194頁 ^ 柚木&沼田 1988、195頁 ^ 柚木&沼田 1988、204-205頁 ^ 柚木&沼田 1988、62-63頁 ^ 柚木&沼田 1988、228-242頁 ^ “宇野外相 俳句もピアノも、口八丁、手八丁の文人 政策通、カネ集めは不得手”. 読売新聞. (1989年6月1日) ^ “天安門事件とアルシュ・サミット”. 朝日新聞デジタル. (2004年8月5日). http://www.asahi.com/international/aan/column/040805.html 2016年10月18日閲覧。 ^ “第13代 宇野 宗佑”. 自由民主党. https://www.jimin.jp/aboutus/history/prime_minister/100337.html 2016年10月18日閲覧。 ^ 天安門事件で中国に融和的姿勢~外交文書NNN2020年12月23日 ^ 「日本現任和前任首相反対制裁中国」人民日報、1989年7月10日 ^ 『週刊文春』2016年7月28日号P22 ^ 週刊文春1989・7・13号 ^ 岩見 2010、181頁 ^ “中日ニュース No.1604_2「自民惨敗、宇野首相退陣 -参院選-」(平成元年8月)”. 中日映画社 (2016年6月26日). 2020年12月8日閲覧。 ^ “守山市広報「広報もりやま」”. 守山市 (2000年7月1日). 2008年5月31日閲覧。 ^ “守山市広報「広報もりやま」”. 守山市 (1998年6月1日). 2008年5月31日閲覧。 ^ “守山市広報「広報もりやま」”. 守山市 (1998年7月1日). 2008年5月31日閲覧。 ^ “守山市広報「広報もりやま」”. 守山市 (1998年10月1日). 2008年5月31日閲覧。 ^ “守山市広報「広報もりやま」”. 守山市 (1998年9月1日). 2008年5月31日閲覧。 ^ “守山市広報「広報もりやま」”. 守山市 (2002年12月15日). 2008年5月31日閲覧。 ^ “中仙道守山宿 郷土人形館”. 滋賀県博物館協議会. 2011年12月18日閲覧。 ^ 本田 2008、180頁 ^ 石原 1999、572頁 ^ 鈴木 2012、123頁 ^ 佐々淳行著『わが上司 後藤田正晴』389頁 ^ 本田 2008、180頁 ^ 本田 2008、180頁 ^ 岩見隆夫、総理の娘 知られざる権力者の素顔 ^ https://twitter.com/unosamu/status/137072343360090112 ^ https://twitter.com/unosamu/status/656737423020261376 宇野宗佑『中仙道守山宿』青蛙房、1984年10月。 石原慎太郎『国家なる幻影 わが政治への反回想』文藝春秋、1999年1月。ISBN 4-16-354730-4。http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784163547305。
石原慎太郎『国家なる幻影 わが政治への反回想』 (下)、文藝春秋〈文春文庫〉、2001年10月。ISBN 4-16-712805-5。http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784167128050。 岩見隆夫『総理の娘 知られざる権力者の素顔』原書房、2010年2月。ISBN 978-4-562-04547-1。http://www.harashobo.co.jp/new/shinkan.cgi?mode=1&isbn=04547-1。 本田雅俊『総理の辞め方』PHP研究所〈PHP新書〉、2008年7月。ISBN 978-4-569-70085-4。http://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-70085-4。 八幡和郎『本当は誰が一番?この国の首相たち』ソフトバンククリエイティブ〈ソフトバンク新書 158〉、2011年4月。ISBN 978-4-7973-6461-3。http://www.sbcr.jp/products/4797364613.html。 柚木弘志、沼田大介『宇野宗佑・全人像』行研出版局、1988年6月。ISBN 4-905786-67-3。 鈴木宗男『政治の修羅場』文藝春秋〈文春新書〉、2012年6月。ISBN 9784166608645。http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784166608645。 滋賀県出身の人物一覧 滋賀県全県区 羽田孜 第75代 宇野 宗佑 歴代内閣 - 首相官邸 『宇野宗佑』 - コトバンク 表 話 編 歴 伊藤博文 黑田淸隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 幣原喜重郎 吉田茂 片山哲 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤榮作 田中角榮 三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曽根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護煕 羽田孜 村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 菅義偉 岸田文雄 石破茂 表 話 編 歴 小笠原長行 山口直毅 仁和寺宮嘉彰親王 山階宮晃親王 三条実美 伊達宗城 東久世通禧 澤宣嘉 山階宮晃親王 伊達宗城 澤宣嘉 澤宣嘉 岩倉具視 副島種臣 (副島種臣(外務事務総裁)) 寺島宗則 井上馨 井上馨 伊藤博文 大隈重信 青木周藏 榎本武揚 陸奥宗光 西園寺公望 大隈重信 西徳二郎 大隈重信 青木周蔵 加藤高明 曾禰荒助 小村壽太郎 林董 寺内正毅 小村壽太郎 内田康哉 桂太郎 牧野伸顯 石井菊次郎 本野一郎 後藤新平 山本權兵衞 伊集院彦吉 松井慶四郎 幣原喜重郎 田中義一 幣原喜重郎 犬養毅 芳澤謙吉 齋藤實 廣田弘毅 有田八郎 林銑十郎 佐藤尚武 宇垣一成 近衛文麿 有田八郎 阿部信行 野村吉三郎 松岡洋右 豊田貞次郎 東郷茂徳 東條英機 谷正之 重光葵 鈴木貫太郎 吉田茂 芦田均 岡崎勝男 岸信介 藤山愛一郎 小坂善太郎 大平正芳 椎名悦三郎 三木武夫 愛知揆一 福田赳夫 木村俊夫 宮澤喜一 鳩山威一郎 園田直 大来佐武郎 伊東正義 櫻内義雄 安倍晋太郎 倉成正 宇野宗佑 三塚博 中山太郎 渡辺美智雄 武藤嘉文 羽田孜 柿澤弘治 河野洋平 池田行彦 小渕恵三 高村正彦 田中眞紀子 小泉純一郎 川口順子 町村信孝 麻生太郎 高村正彦 中曽根弘文 岡田克也 前原誠司 松本剛明 玄葉光一郎 岸田文雄 河野太郎 茂木敏充 林芳正 上川陽子 岩屋毅 表 話 編 歴 稲垣平太郎 池田勇人 高瀬荘太郎 横尾龍 高橋龍太郎 小笠原三九郎 岡野清豪 愛知揆一 石橋湛山 水田三喜男 前尾繁三郎 高碕達之助 池田勇人 石井光次郎 椎名悦三郎 佐藤栄作 福田一 櫻内義雄 三木武夫 菅野和太郎 椎名悦三郎 大平正芳 宮澤喜一 田中角栄 中曽根康弘 河本敏夫 田中龍夫 江﨑真澄 佐々木義武 田中六助 安倍晋太郎 山中貞則 宇野宗佑 小此木彦三郎 村田敬次郎 渡辺美智雄 田村元 三塚博 梶山静六 松永光 武藤嘉文 中尾栄一 渡部恒三 森喜朗 熊谷弘 畑英次郎 橋本龍太郎 塚原俊平 佐藤信二 堀内光雄 与謝野馨 深谷隆司 平沼赳夫 平沼赳夫 中川昭一 二階俊博 甘利明 二階俊博 直嶋正行 大畠章宏 海江田万里 鉢呂吉雄 枝野幸男 茂木敏充 小渕優子 宮澤洋一 林幹雄 世耕弘成 菅原一秀 梶山弘志 萩生田光一 西村康稔 齋藤健 武藤容治 表 話 編 歴 斎藤隆夫 船田享二 船田享二 殖田俊吉 工藤鉄男 本多市郎 岡野清豪 広川弘禅 橋本龍伍 木村篤太郎 野田卯一 本多市郎 塚田十一郎 西田隆男 川島正次郎 河野一郎 大久保留次郎 石井光次郎 山口喜久一郎 益谷秀次 高橋進太郎 小沢佐重喜 川島正次郎 山村新治郎 増原恵吉 福田篤泰 田中茂穂 松平勇雄 木村武雄 荒木万寿夫 中村寅太 浜野清吾 福田赳夫 保利茂 細田吉蔵 松沢雄蔵 荒舩清十郎 西村英一 荒舩清十郎 金井元彦 宇野宗佑 中曽根康弘 斎藤邦吉 後藤田正晴 廃止 表 話 編 歴 大木喬任 木戸孝允 西郷従道 寺島宗則 河野敏鎌 福岡孝弟 大木喬任 森有礼 榎本武揚 芳川顕正 大木喬任 河野敏鎌 井上毅 西園寺公望 蜂須賀茂韶 濱尾新 外山正一 尾崎行雄 犬養毅 樺山資紀 松田正久 菊池大麓 児玉源太郎 久保田譲 桂太郎 牧野伸顕 小松原英太郎 長谷場純孝 柴田家門 奥田義人 大岡育造 一木喜徳郎 高田早苗 岡田良平 中橋徳五郎 鎌田栄吉 犬養毅 岡野敬次郎 江木千之 岡田良平 三土忠造 水野錬太郎 勝田主計 小橋一太 田中隆三 鳩山一郎 斎藤実 松田源治 川崎卓吉 潮恵之輔 平生釟三郎 林銑十郎 安井英二 木戸幸一 荒木貞夫 河原田稼吉 松浦鎮次郎 橋田邦彦 東條英機 岡部長景 二宮治重 兒玉秀雄 太田耕造 松村謙三 前田多門 安倍能成 田中耕太郎 高橋誠一郎 森戸辰男 下条康麿 高瀬荘太郎 天野貞祐 岡野清豪 大達茂雄 安藤正純 松村謙三 清瀬一郎 灘尾弘吉 松永東 灘尾弘吉 橋本龍伍 松田竹千代 荒木万寿夫 愛知揆一 中村梅吉 有田喜一 剱木亨弘 灘尾弘吉 坂田道太 高見三郎 稲葉修 奥野誠亮 三原朝雄 永井道雄 海部俊樹 砂田重民 内藤誉三郎 谷垣専一 田中龍夫 小川平二 瀬戸山三男 森喜朗 松永光 藤尾正行 塩川正十郎 中島源太郎 西岡武夫 石橋一弥 保利耕輔 井上裕 鳩山邦夫 森山眞弓 赤松良子 与謝野馨 島村宜伸 奥田幹生 小杉隆 町村信孝 有馬朗人 中曽根弘文 大島理森 町村信孝 正力松太郎 宇田耕一 正力松太郎 三木武夫 高碕達之助 中曽根康弘 荒木万寿夫 池田正之輔 近藤鶴代 佐藤栄作 愛知揆一 上原正吉 有田喜一 二階堂進 鍋島直紹 木内四郎 西田信一 平泉渉 木内四郎 前田佳都男 森山欽司 足立篤郎 佐々木義武 前田正男 宇野宗佑 熊谷太三郎 金子岩三 長田裕二 中川一郎 安田隆明 岩動道行 竹内黎一 河野洋平 三ッ林弥太郎 伊藤宗一郎 宮崎茂一 中村喜四郎 斎藤栄三郎 大島友治 山東昭子 谷川寛三 中島衛 渡辺省一 江田五月 近江巳記夫 田中眞紀子 浦野烋興 中川秀直 近岡理一郎 谷垣禎一 竹山裕 有馬朗人 中曽根弘文 大島理森 町村信孝 町村信孝 遠山敦子 河村建夫 中山成彬 小坂憲次 伊吹文明 渡海紀三朗 鈴木恒夫 塩谷立 川端達夫 高木義明 中川正春 平野博文 田中眞紀子 下村博文 馳浩 松野博一 林芳正 柴山昌彦 萩生田光一 末松信介 永岡桂子 盛山正仁 阿部俊子 省庁再編により、文部大臣と科学技術庁長官は文部科学大臣に統合された。テンプレート中の科学技術庁長官は国務大臣としてのもの。 カテゴリ 表 話 編 歴 正力松太郎 宇田耕一 正力松太郎 三木武夫 高碕達之助 中曽根康弘 荒木万寿夫 池田正之輔 三木武夫 近藤鶴代 佐藤栄作 愛知揆一 上原正吉 有田喜一 二階堂進 鍋島直紹 木内四郎 西田信一 平泉渉 木内四郎 中曽根康弘 前田佳都男 森山欽司 足立篤郎 佐々木義武 前田正男 宇野宗佑 熊谷太三郎 金子岩三 長田裕二 中川一郎 安田隆明 岩動道行 竹内黎一 河野洋平 三ッ林弥太郎 伊藤宗一郎 宮崎茂一 中村喜四郎 斎藤栄三郎 大島友治 山東昭子 谷川寛三 中島衛 渡辺省一 江田五月 近江巳記夫 田中眞紀子 浦野烋興 中川秀直 近岡理一郎 谷垣禎一 竹山裕 有馬朗人 中曽根弘文 大島理森 町村信孝 内閣府に編入 表 話 編 歴 增原惠吉 大橋武夫 柳沢米吉 木村篤太郎 木村篤太郎 大村清一 杉原荒太 砂田重政 船田中 小瀧彬 津島壽一 左藤義詮 伊能繁次郎 赤城宗徳 江﨑真澄 西村直己 藤枝泉介 志賀健次郎 福田篤泰 小泉純也 松野頼三 上林山栄吉 増田甲子七 有田喜一 中曽根康弘 增原惠吉 西村直己 江﨑真澄 增原惠吉 山中貞則 宇野宗佑 坂田道太 三原朝雄 金丸信 山下元利 久保田円次 細田吉蔵 大村襄治 伊藤宗一郎 谷川和穂 栗原祐幸 加藤紘一 栗原祐幸 瓦力 田沢吉郎 山崎拓 松本十郎 石川要三 池田行彦 宮下創平 中山利生 中西啓介 愛知和男 神田厚 玉澤徳一郎 衛藤征士郎 臼井日出男 久間章生 額賀福志郎 野呂田芳成 瓦力 虎島和夫 斉藤斗志二 中谷元 石破茂 大野功統 額賀福志郎 久間章生 久間章生 小池百合子 高村正彦 石破茂 林芳正 浜田靖一 北澤俊美 一川保夫 田中直紀 森本敏 小野寺五典 江渡聡徳 中谷元 稲田朋美 岸田文雄 小野寺五典 岩屋毅 河野太郎 岸信夫 浜田靖一 木原稔 中谷元 表 話 編 歴 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤栄作 田中角栄 三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曽根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 河野洋平 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 谷垣禎一 菅義偉 岸田文雄 石破茂 表 話 編 歴 中村梅吉 倉石忠雄 村上勇 福永健司 小沢佐重喜 山村新治郎 江﨑真澄 竹山祐太郎 園田直 佐々木秀世 中野四郎 佐々木秀世 長谷川四郎 園田直 塚原俊郎 金丸信 原田憲 福田一 江﨑真澄 宇野宗佑 海部俊樹 安倍晋太郎 三原朝雄 金丸信 田沢吉郎 田村元 小此木彦三郎 江藤隆美 森下元晴 江藤隆美 藤波孝生 渡部恒三 奥田敬和 村岡兼造 梶山静六 増岡博之 梶山静六 瓦力 小里貞利 島村宜伸 山崎拓 村岡兼造 保利耕輔 古賀誠 大島理森 中川秀直 細田博之 二階俊博 大島理森 川崎二郎 逢沢一郎 岸田文雄 浜田靖一 鴨下一郎 佐藤勉 竹下亘 森山裕 高木毅 浜田靖一 坂本哲志 表 話 編 歴 日ソ国交回復と国連加盟 保守合同 初の総裁公選による選出 満洲人脈 警察官職務執行法改正案 新安保 国民皆保険 所得倍増計画 農業基本法公布 OECD加盟 1964年東京オリンピック 岸派分裂 財界四天王 日韓基本条約 非核三原則(日米核持ち込み問題) 公害国会 日本万国博覧会 沖縄返還(西山事件) 佐藤派五奉行 黒い霧事件 日通事件 日中国交正常化 日本列島改造論 第1次オイルショック 第一次角福戦争 青嵐会結成 椎名裁定 ロッキード事件 三木おろし 日中平和友好条約調印 福田ドクトリン 大福密約 第二次角福戦争 田園都市構想 総合安全保障構想 第2次オイルショック ダグラス・グラマン事件 四十日抗争 第三次角福戦争 ハプニング解散 「和の政治」 増税なき財政再建 新保守主義 「戦後政治の総決算」(国鉄分割民営化ほか) 二階堂擁立構想 死んだふり解散 創政会結成と田中派分裂 皇民党事件 ニューリーダー(安竹宮)と中曽根裁定 消費税導入 昭和天皇崩御 竹下派七奉行 ネオ・ニューリーダー リクルート事件 参院選惨敗 バブル景気 自衛隊初の海外派遣 YKK 一龍戦争 一六戦争 安倍派四天王分裂と三六戦争 海部おろし バブル崩壊 東京佐川急便事件 ゼネコン汚職 KK戦争 経世会(金竹小)分裂 嘘つき解散 小選挙区比例代表並立制 自社さ連立政権 阪神・淡路大震災 失われた10年 六大改革と中央省庁再編の決定 保保連合構想 金融国会 ITバブル ブッチホン 五人組 KSD事件 加藤の乱 神の国解散 自公連立政権 聖域なき構造改革 金融再生プログラム 郵政民営化 年金未納問題(政治家の年金未納) 小泉劇場(小泉旋風)と抵抗勢力 日歯連事件(日歯連闇献金事件) 中二階と麻垣康三 美しい国 憲法改正論議(国民投票法) 防衛省昇格 教育基本法改正 価値観外交(自由と繁栄の弧) 再チャレンジ 年金記録問題 フールファイブ 大宏池会構想 参院選惨敗、第一党より転落 麻生包囲網 中宏池会 大連立構想 世界金融危機(リーマン・ショック) 麻生おろし 自民大敗、民主大勝 参院選勝利、改選第一党へ復帰 東日本大震災 三党合意(社会保障と税の一体改革) 結党以来初の総裁再登板 近いうち解散 3年ぶりの政権奪還、自公で2/3確保 アベノミクス 参院選圧勝、ねじれ解消 2020年夏季五輪開催地が東京に決定 国家安全保障会議創設 特定秘密保護法制定 防衛装備移転三原則 地方創生 一億総活躍社会 集団的自衛権の行使容認(平和安全法制) 森友学園問題及び加計学園問題 組織犯罪処罰法改正によるテロ等準備罪新設 都民ファーストの会と三大政党制 憲法改正論議 憲政史上初の皇位継承と令和改元 河井夫妻選挙違反事件 桜を見る会問題 新型コロナウイルス感染症の流行 岸破義信 安倍政権の継承 東北新社役職員による総務省幹部接待問題 2020年東京オリンピック・パラリンピック デジタル庁設置 未来選択選挙 新しい資本主義 ロシアによるウクライナ侵攻への対応 安倍晋三銃撃事件 参院選で改選過半数を獲得 安倍晋三元首相の国葬 旧統一教会問題 政治資金パーティー収入の裏金問題 岸田おろし 衆院選での与党大敗 石破おろし 30年ぶりの少数与党 国民民主党との政策協議開始 宏池会(宏池会系) 宏池会(池田派 → 前尾派 → 大平派 → 鈴木派 → 宮澤派) → 木曜研究会(加藤派 → 小里派 → 谷垣派 → 古賀派に合流×) 、※新財政研究会(堀内派 → 丹羽・古賀派) → 宏池政策研究会(古賀派 → 岸田派 → ×)、※大勇会(河野派) → 為公会(麻生派) → 志公会(麻生派)、※有隣会(谷垣グループ → ×) 平成研究会(木曜研究会系) 木曜研究会(佐藤派) → 周山会(佐藤派) → 周山クラブ(保利グループ → 福田派に合流×)、※七日会(田中派) → 政治同友会(田中派) → 木曜クラブ(田中派 → 二階堂派 → ×)、※経世会(竹下(登)派 → 小渕派) → 平成政治研究会(小渕派) → 平成研究会(小渕派 → 橋本派 → 津島派 → 額賀派 → 竹下(亘)派 → 茂木派)、※改革フォーラム21(羽田・小沢派 → 新生党に合流×) 水曜会 水曜会(緒方派 → 石井派 → ×) 白政会 白政会(大野派) → 睦政会(大野派) → 一新会(船田派 → ×)、※一陽会(村上派) → 巽会(水田派 → ×) 清和政策研究会(十日会系) 十日会(岸派 → ×)、※党風刷新懇話会 → 党風刷新連盟 → 紀尾井会(福田派) → 八日会(福田派) → 清和会(福田派 → 安倍(晋太郎)派 → 三塚派) → 21世紀を考える会・新政策研究会(三塚派 → 森派) → 清和政策研究会(森派 → 町村派 → 細田派 → 安倍(晋三)派 → ×)、※政眞会(加藤派 → 新生党に合流×)、※愛正会(藤山派 → 水田派に合流×)、※(南条・平井派 → 福田派に合流×)、※交友クラブ(川島派 → 椎名派 → ×)、※(亀井グループ → 村上・亀井派に合流×) 志帥会、近未来政治研究会(春秋会系) 春秋会(河野派 → 森派 → 園田派 → 福田派に合流×)、※新政同志会(中曽根派) → 政策科学研究所(中曽根派 → 渡辺派 → 旧渡辺派 → 村上派 → 村上・亀井派に合流×) → 志帥会(村上・亀井派 → 江藤・亀井派 → 亀井派 → 伊吹派 → 二階派)、※近未来政治研究会(山崎派 → 石原派 → 森山派 → 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2024/11/18 00:10更新
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uno sousuke
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