岡晴夫の情報(おかはるお) 歌手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
岡 晴夫さんについて調べます
■名前・氏名 |
岡晴夫と関係のある人
佐藤惣之助: 『花の広東航路』(1941年8月)[上原げんと作曲、歌:岡晴夫] 上原げんと: 『港シャンソン』(昭和14年8月)[内田つとむ作詞、歌:岡晴夫] 上原げんと: 1938年(昭和14年)2月、歌手の岡晴夫と組み、「国境の春」でキングレコードからデビュー。 春日八郎: そもそも、「お富さん」は、岡晴夫を想定して作られたものであったが、曲ができる直前に岡はフリーとなり、日本マーキュリーレコードに移籍してしまったため、歌い手が宙に浮いていた。 林伊佐緒: 南の島に雪が降る(岡晴夫)映画主題歌 よっぴ: 岡晴夫 飯田三郎: 『啼くな小鳩よ』(昭和22年1月)[作詞:高橋掬太郎、歌:岡晴夫] 戸川純: 「昭和の懐メロをカバーする」というコンセプトの元、上野耕路が編曲した「星の流れに/菊池章子」、「東京の花売娘/岡晴夫」、「アカシアの雨がやむとき/西田佐知子」、「バージンブルース/野坂昭如」。 龍崎一郎: 岡晴夫のマドロスの唄(1950年)※主演 若原一郎: 若原と同じレコード会社の先輩で、若原が敬愛していた岡晴夫の没後も岡のヒット曲を歌い継ぎ、テレビ/ラジオ/ステージ、ファン主催の「岡晴夫を偲ぶ会」で度々歌を披露していた。好評であったこともあり、「岡晴夫を歌う」というアルバムも発売した。 門田ゆたか: 『東京の花売娘』(昭和21年6月) 作曲:上原げんと、歌:岡晴夫 白山雅一: 岡晴夫 西村小楽天: 戦後は岡晴夫や美空ひばりの専属司会を務める一方、無声映画の鑑賞会などで弁士として出演している。 上原げんと: その後も、岡晴夫の黄金期を支える作曲家として数々の曲を作曲する。 上原げんと: 『花の広東航路』(昭和16年8月)[佐藤惣之助作詞、歌:岡晴夫] 近江俊郎: 「湯の町物語」などシリーズものが発売されるほどのヒット作となり、岡晴夫、田端義夫とともに戦後三羽烏と呼ばれ、スターダムにのし上がることとなる。 八洲秀章: 港に赤い灯がともる(昭和22年6月、矢野亮作詞、歌:岡晴夫) 五木ひろし: 「逢いたかったぜ」はコロムビア時代の恩師である上原げんとが作曲、岡晴夫が歌い、1955年7月に発売になった同名ヒット曲をカバーしたものである。 青空たのし: その後浅草松竹楽劇団員、1955年からは岡晴夫歌謡ショー専属司会者を経て、1958年に中野四郎(元『ハッピーボーイズ』の瓶九郎)と立体司会コンビを組み、松山恵子歌謡ショー専属として巡業。 細川潤一: 『船は港にいつ帰る』(昭和26年3年)[高橋掬太郎作詞、歌:岡晴夫] 林伊佐緒: ヘイワオンド(1946年8月発売)共唱:岡晴夫、都能子(織井茂子)、徳太郎 青空うれし: 漫才のみならず1955年から2年間歌謡ショーで岡晴夫の司会を担当、それを皮切りに村田英雄、五月みどりの専属司会等にも幅広く活躍するが、お互いピンの仕事が増えて行き違いが多くなり、1981年の満20年を期にコンビを解消。 上原げんと: 『国境の春』(昭和14年2月)[松村又一作詞、歌:岡晴夫] 上原げんと: 『アラカンの夜明け』(昭和18年12月)[大倉芳郎作詞、歌:岡晴夫] 矢野亮: 『港に赤い灯がともる』(昭和22年6月)[八洲秀章作曲、歌:岡晴夫] 春日八郎: 作詞家の矢野亮曰く、当時のキングでは岡晴夫・小畑実・林伊佐緒等のベテラン勢に加え、津村謙・若原一郎と高音の美声が魅力の有望な若手も活躍中で、新人・渡部実にまでは手がまわらなかった。 上原げんと: 『パラオ恋しや』(昭和16年7月)[森地一夫作詞、歌:岡晴夫] 上原げんと: 『艦上日記』(昭和18年3月)[武内俊子作詞、歌:岡晴夫] 上原げんと: 『東京の花売娘』(昭和21年6月)[佐々詩生作詞、歌:岡晴夫] 坂上二郎: もともと岡晴夫の持ち歌だった『憧れのハワイ航路』をTVなどで数多く歌っている。 |
岡晴夫の情報まとめ
岡 晴夫(おか はるお)さんの誕生日は1916年1月12日です。千葉出身の歌手のようです。
結婚、テレビ、映画に関する情報もありますね。1970年に亡くなられているようです。
岡晴夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)岡 晴夫(おか はるお、1916年〈大正5年〉1月12日 - 1970年〈昭和45年〉5月19日)は戦前から戦後にかけて活躍した流行歌手。本名は佐々木 辰夫(ささき たつお)。愛称は「オカッパル」「オカッパレ」 千葉県木更津市に生まれる。幼い頃に両親を亡くし、祖父の手で育てられる。小学校時代は唱歌の授業が嫌いで成績はいつも「丙」だったという。六年生の時に音楽の先生から人前で歌を歌うことを勧められて歌を歌うことに興味を持ったという。16歳の時に上京し、万年筆屋の店員をしながら坂田音楽塾に通う。その一年後には上野松坂屋に勤める。 1934年(昭和9年)に、上原げんととのちに妻となる奥田清子と出会う。浅草や上野界隈の酒場などで流しをしながら音楽の勉強をする。 1938年(昭和13年)にキングレコードのオーディションを受け、専属となる。翌1939年(昭和14年)2月には、「国境の春」でデビュー。すぐに「上海の花売娘」「港シャンソン」などのヒットを飛ばし、一躍スターとなる。 1940年(昭和15年)には市川市に居を構え、奥田清子と結婚。3人の子供にも恵まれる。太平洋戦争末期には、軍属としてアンボン島(現・インドネシア領)に配属されるが、現地の風土病にかかり帰国を余儀なくされる。 太平洋戦争終結後、彼のリーゼントスタイルの髪型と独特の明るいビブラートのかかった歌声は、平和の到来や開放感に充ちた時代とマッチし、「東京の花売娘」「啼くな小鳩よ」「憧れのハワイ航路」など相次いで大ヒットをとばす。昭和20年代を代表するスター歌手として、近江俊郎・田端義夫とともに「戦後三羽烏」と呼ばれた。 地方巡業はどこも大入り満員で、 昼夜2度の公演にファンが会場へ入りきれず、「夜の部」終了後に急遽「第3回公演」を行なうことになった。 大阪劇場での公演で、「夜の部」が終わって劇場そばの旅館で休もうとしたところ、翌日の「昼の部」を見るために徹夜待ちする観客が既に劇場から旅館の前まで列を作っていた。 などの逸話が伝えられている。 また、ポマードの販売を行う など副業でも話題を集めた。 しかし、人気に伴う多忙さから体調を崩しがちになり、当時芸能界で蔓延していたヒロポンにも手を出すようになって、人気に陰りがみえ始める。 1954年(昭和29年)には、デビュー以来専属だったキングレコードを辞めてフリー宣言(日本マーキュリーと本数契約を結んでいる)するも ヒット曲にめぐまれず、人気は低迷する。それでも妻や旧友・上原げんとの支えを受けて、1955年(昭和30年)にはコロムビアの専属となり、上原の作曲による「逢いたかったぜ」で再出発を果たす。 だが、間もなく過労のため再び病床に伏し、糖尿病から白内障を併発してしまう。1962年(昭和37年)に再度キングレコードの専属となる が、1965年(昭和40年)には上原げんとの急逝という不幸に見舞われる。 それでも舞台に立ちたい執念で、1968年(昭和43年)に放送を開始した歌番組『なつかしの歌声』(東京12チャンネル(現:テレビ東京))へ頻繁に出演し、往年のヒット曲を披露した。長年の闘病生活で、身体は痩せ往時の美声も失われるなど悲壮な姿だったが、ファンの声援を受け、彼もそれを支えに最晩年まで歌い続けた。最後のステージは文京公会堂で収録され、昭和45年3月30日に放送された。そのステージでは上海の花売娘を歌った。 1970年(昭和45年)4月、大阪府守口市での『帰ってきた歌謡曲』(読売テレビ)公開収録へ出演する直前に腹痛を訴え、急遽飛行機で東京に帰った。空港には救急車が手配されていた。その後、飯田橋の警察病院に入院。同年5月19日に肝臓がんのため東京都千代田区の病院で死去。満54歳没。法名「天晴院法唱日詠居士」。遺骨は江東区本立院墓所に埋葬された。 没後7年経った1977年(昭和52年)には、長年暮らした市川市の葛飾八幡宮境内に岡晴夫顕彰碑が建立されている。 代表曲の一つである「憧れのハワイ航路」は本来小畑実が歌う予定で作られたが、たまたま小畑が東京を離れていて、岡が譲り受けた経緯がある。その一方、岡が歌う予定で作られた「お富さん」は、完成前に岡がキングレコードを辞めたことで、当時新人だった春日八郎が急遽歌うことになり、結果として春日の代表曲の一つとなった。 上原げんとの葬儀には、ほとんど失明状態だったが参列し、友人代表として弔辞に代えて「逢いたかったぜ」を絶唱した。 他界した1970年の夏には、大阪万国博覧会会場でのNHK『第2回思い出のメロディ』に出演し、十八番の「啼くな小鳩よ」を歌う予定だった(死の直前まで、万博の舞台に立つことを言い続けていたという)。なお本番では、かしまし娘と坂本九が「啼くな小鳩よ」を歌って、岡を偲んだ。 紅白歌合戦には生涯出場することが無かった。これは、全盛期(紅白歌合戦の黎明期と重なる)には地方巡業のスケジュールを優先し、その後はヒット曲に恵まれず闘病生活が続いたことによる。 長谷川町子の漫画『サザエさん』に、フグ田サザエが「啼くな小鳩よ」を歌う場面がある(夕刊フクニチ1948年3月5日付)。 「~幻のオン・ステージ~岡晴夫ヒット・パレード 旭川国民劇場ライヴ盤」(1959年・旭川国民劇場、キングレコード NA-275) 「実演 岡晴夫の魅力 旭川国民劇場ライヴ盤」(1961年1月&12月・旭川国民劇場、同 NA-277) 「甦る岡晴夫 幻のライヴ~「新春歌ごよみ」より」(1962年1月23日・名古屋名鉄ホール、同 SKD-502M,K25A-610) 男の涙(1949年8月29日、新東宝) - 主演 岡晴夫のマドロスの唄(1950年2月14日、東京映画配給) - 主演 憧れのハワイ航路(1950年4月1日、新東宝) - 主演 哀愁の港 やくざブルース(1950年6月27日、大泉映画) - 主演 泣くな小鳩よ(1950年7月8日、青柳プロ) - 主演 母を慕いて(1951年7月27日、松竹京都) - 本人役(歌唱シーンのみ) 花火の舞(1952年11月27日、第一テレビ) - 主演 逢いたかったぜ(1955年12月20日、日活) - 主演 東京バカ踊り(1956年5月10日、日活) - 岡田晴彦役 ^ 上原は翌年(1939年)、キングレコードの専属となる。なお、この前にポリドールのオーディションを受けたが、落ちた。 ^ 岡と共に地方巡業をしたことがあるコロムビア・トップによれば山形県鶴岡市での出来事で、会場からあぶれた客が「もう一回公演をやれ」と騒ぎ出したため、興行師が岡に泣きついて夜10時から始めたという。 ^ 岡の専属司会だった西村小楽天によると、常用の副作用から声がかすれ、周囲と口をきかなくなり、楽屋の隅に新聞紙で小屋を作って閉じこもるというような奇行も見られたという。 ^ 1951年(昭和26年)にコロムビアへ移籍していた。 ^ この前に、ビクターから専属のオファーがあったが、断っている。 ^ 桑原宏「タレント風土記 千葉県 (5)」読売新聞1984年7月1日付朝刊(東京本社版)、27面。 ^ 「岡晴夫“フリー歌手”に終止符 上原げんとの友情に コロムビア専属で再出発」、読売新聞1955年7月6日付夕刊(東京本社版)、2面。 ^ 斎藤茂 & 2000年, p. 237. ^ 斎藤茂 & 1996年, p. 44. ^ 鳥山輝「この歌に 憧れのハワイ航路(2) 若さぶつけた明るい詞」、読売新聞1990年10月28日付朝刊(東京本社版)、日曜版、4面。 ^ 西村小楽天 & 1978年, p. 197-198. ^ 「変わった社長さんお顔拝見 岡晴夫さん」『富士』第4巻第3号、世界社、1951年3月、口絵。 ^ 西村小楽天 & 1978年, p. 199-200. ^ 「0993 “無心に歌います” 岡晴夫の再出発」、読売新聞1962年4月24日付朝刊(東京本社版)、10面。 ^ 「岡晴夫の歌碑除幕式」、毎日新聞1977年3月28日付夕刊(東京本社版)、4面 ^ 「この日この時 1970・5・19 歌手・岡晴夫没」、毎日新聞1992年5月19日付夕刊(東京本社版)、9面。 ^ 奥山弘「この歌に お富さん(2) ツキにも曲にも乗った」、読売新聞1990年2月4日付朝刊(東京本社版)、日曜版、4面。 ^ 斎藤茂 & 1996年, p. 78. ^ 斎藤茂 & 2000年, p. 197. ^ 林るみ「サザエさんをさがして のど自慢 「番組中止」に応募者が殺到」、朝日新聞2015年11月14日付朝刊(東京本社版)、be on Saturday、e3面。 西村小楽天『私は昭和の語り職人』エイプリル・ミュージック、1978年。 斎藤茂『この人この歌 : 昭和の流行歌100選・おもしろ秘話』広済堂出版、1996年。ISBN 4331505251。 斎藤茂『歌謡曲だよ!人生は : 『平凡』編集長の昭和流行歌覚え書』マガジンハウス、2000年。ISBN 4838712464。 岡晴夫 - 日本映画データベース 岡晴夫の戦時歌謡 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 VIAF フランス BnF data MusicBrainz
日本の男性歌手 戦前の流行歌手 1916年生 1970年没 千葉県出身の人物 大丸松坂屋百貨店の人物 2024/11/20 22:49更新
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oka haruo
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