もしもし情報局 > 3月8日 > 俳人(俳句)

嶋田青峰の情報 (しまだせいほう)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【11月23日】今日誕生日の芸能人・有名人

嶋田青峰の情報(しまだせいほう) 俳人(俳句) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

嶋田 青峰さんについて調べます

■名前・氏名
嶋田 青峰
(読み:しまだ せいほう)
■職業
俳人(俳句)
■嶋田青峰の誕生日・生年月日
1882年3月8日 (年齢1944年没)
午年(うま年)、魚座(うお座)
■出身地・都道府県
三重出身

嶋田青峰と同じ1882年生まれの有名人・芸能人

嶋田青峰と同じ3月8日生まれの有名人・芸能人

嶋田青峰と同じ出身地三重県生まれの有名人・芸能人


嶋田青峰と関係のある人

秋元不死男: 1929年、嶋田的浦が横浜海上火災保険に入社して同僚となり、翌年、的浦に兄・嶋田青峰を紹介され師事、青峰の主宰する「土上」に投句を開始する。


金子兜太: 1939年に、嶋田青峰の「土上」に投句するが、新興俳句弾圧事件によって「土上」が廃刊に追い込まれる。


アウグスト=ストリンドベリ: 訳書は嶋田青峰訳『絆』


高浜虚子: 同年、國民新聞時代の部下であった嶋田青峰に『ホトトギス』の編集一切を任せる旨を表明した。


嶋田青峰の情報まとめ

もしもしロボ

嶋田 青峰(しまだ せいほう)さんの誕生日は1882年3月8日です。三重出身の俳人(俳句)のようです。

もしもしロボ

現在、事件、卒業、病気、退社、兄弟に関する情報もありますね。1944年に亡くなられているようです。

嶋田青峰のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

嶋田 青峰(しまだ せいほう、1882年3月8日 - 1944年5月31日)は、日本の俳人・翻訳家・新聞記者・教員。本名は嶋田 賢平。姓の「しまだ」は「嶋田」と書くのが正式であるが、一般に「島田」の表記も用いられる。俳号の青峰は、故郷の山・青峰山(あおのみねさん、標高336m)に由来する。

三重県答志郡的矢村(現在の志摩市磯部町的矢)出身。大正時代末期に俳句雑誌『ホトトギス』において、池内たけし・篠原温亭・鈴木花蓑らと並び、活躍したが、晩年は新興俳句弾圧事件の犠牲となり、俳句史上に悲しい印象を残している。

1882年3月8日に、的矢村にて父・峰吉と母・りうの3男として生まれる。地元の的矢尋常小学校を卒業後、学を成そうと上京、旧制日本中学校(現在の日本学園中学校・高等学校)を出て1899年(明治32年)に東京専門学校予科に入学、卒業後は早稲田大学哲学科に進むが、後に英文科に転じる。途中、病気療養のため帰郷することもあったが、1903年(明治36年)に早稲田大学英文科を卒業する。

早稲田大学を卒業後、広島県立広島高等女学校(現在の広島県立広島皆実高等学校)で英語教師となるが、1904年(明治37年)に茨城県立竜ヶ崎中学校(現在の茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)で教鞭を執り、1907年(昭和40年)に母校・早稲田大学に清国留学生部講師として戻った。しかし同部の規模縮小により、翌1908年(明治41年)4月に職を辞することになった。失職した青峰は、当時新聞記者をしていた土肥春曙の名で仕事をしていたが、その春曙が国民新聞の吉野左衛門に青峰を紹介し、入社を頼んだ。左衛門はちょうど記者を一人求めていたところだと言って青峰の採用を決め、当時小説や文芸作品を掲載する「国民文学」欄の創設準備中で、その主宰者に内定していた高浜虚子に会いに行くように言った。

こうして青峰は1908年(明治41年)9月20日に国民新聞社に入社、10月1日から始まった「国民文学」の編集部員として虚子の部下となった。この国民新聞社には、後に俳句雑誌『土上』を主宰する篠原温亭が社会部編集主任として在籍していた。左衛門と温亭も俳人であり、国民新聞社は「俳人内閣」の様相を呈していたが、1910年(昭和43年)9月に虚子は俳句雑誌『ホトトギス』の仕事に専念するために退職、左衛門と温亭は俳句界から離れていき、国民文学部は青峰一人となった。こうして青峰は虚子の後を継ぎ、国民文学部長として一人で文芸欄を担当し、虚子に頼まれ『ホトトギス』に文章を寄稿することで虚子を支えるようになった。

そしてある日、青峰が虚子宅を訪ねると暇な時に手伝ってほしいと頼まれ、新聞社の仕事の傍ら『ホトトギス』の編集を手伝うこととなった。ただ、青峰自身は手伝い始めた初期は、まだ俳句に関して門外漢だったと述べている。1913年(大正2年)、8月号の『ホトトギス』に虚子は

と書いて青峰を読者に紹介、青峰に編集一切を任せる旨を表明した(同文中の「貴下」が青峰を指している)。「過去二年間の悪闘」とは、虚子自身の病との闘いと新傾向俳句との闘いを意味しており、『ホトトギス』史上苦しい時期に青峰は編集を任されたことになる。この頃青峰は、国民新聞社の文芸欄の担当もしており、夜や日曜日に出勤して『ホトトギス』の仕事をすることが少なくなかった。虚子から編集一切を任されるようになってからは、「消息」欄・「発行所句会記録」・「吟行記」・随筆等の穴埋め的な文章を多数書いている。青峰らしい企画を『ホトトギス』で取り行うこともあり、1917年(大正6年)の新年号では与謝野晶子や平福百穂らによる「専門家に非ざる人の俳句談」を載せた。

俳句に関しては1914年(大正3年)の『ホトトギス』5月号に

が掲載されて以降、翌1915年(大正4年)の『ホトトギス』12月号まで断続的に1、2句程度載っている。

1914年(大正3年)12月11日、高浜虚子は『ホトトギス』12月号の誌上で、読者に種々の便宜を図ることと、運営資金とするため、原稿用紙や俳諧絵はがき等の販売、俳句や絵画の依頼を斡旋する「俳諧堂」を設立することを広告した。この広告を出した翌12日には注文が入り、俳諧堂は期待以上の繁盛となった。当時のホトトギス社は市谷船河原町に発行所を構え、虚子は留守番係として下山霜山を雇い、自身は神奈川県鎌倉郡鎌倉町(現在の神奈川県鎌倉市)から発行所に通う生活をしていた。俳諧堂の経営は青峰と霜山が担当した。翌1915年(大正4年)4月18日、青峰は再上京してホトトギス社を訪れた原石鼎の応対をしている。石鼎は4年前にホトトギス社への入社を懇願するも断られ、奈良県吉野で次兄の医業の手伝いの傍ら『ホトトギス』の雑詠に投稿して名を挙げ、今般再び雇ってもらおうとホトトギス社を訪れたのであった。

1920年(大正9年)、青峰は『ホトトギス』の編集の仕事を下りる。退職について『ホトトギス』大正9年2月号上には、虚子名義で「一身上の都合」と触れられているのみである。細井啓司は、1920年(大正9年)1月22日に国民新聞で虚子の有力な支持者であった吉野左衛門が死去していることと、直前の1919年(大正8年)の『ホトトギス』12月号の消息欄に退社を連想させるような記述を青峰がしていないことから、国民新聞社の虚子支持者の穴埋めのために青峰がホトトギス社を退いたのではないか、と推論している。

1922年(大正11年)1月、虚子の影響で俳句が盛んであった国民新聞社の句会である「国民吟社」の機関誌として『土上』が創刊される。『土上』は篠原温亭が主宰し、青峰は協力する形で参加していたが、1926年(大正15年)10月に温亭が逝去すると、青峰自らが『土上』を継承した。

『土上』は当初、「温厚な生活感情の句」を特徴としていたが、青峰が若い人の新しい意見として、プロレタリア俳句やそれに関する論文を掲載したため、昭和に入ると新興俳句運動の流れを受け社会主義リアリズムの色彩を帯びるようになっていった。1930年(昭和5年)7月、『土上』にABCなる者の「プロレタリア俳句の理解」という文章が掲載され、俳壇では奇異の感を持たれることとなった。ABCは秋元地平線、東京三と俳号を変えてきた秋元不死男であった。「プロレタリア俳句の理解」は読売新聞文芸部長の千葉亀雄により評価され、同紙の文芸欄で紹介された。これを喜んだ青峰は地平線にもっと書くよう勧め、地平線は執筆意欲を高めた。なお、地平線が『土上』に投稿するようになったきっかけを作ったのは、会社の同僚であった青峰の弟・嶋田的浦だった。

『土上』は新興俳句運動の中心となり、青峰はその援助者と目された。こうした新興俳句の動きに理解を示した背景に、1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)まで早稲田大学文学部で講師として教壇に立ったことが影響している。青峰は「俳諧研究」の講義を担当し、俳句サークルの「早稲田吟社」・早稲田大学高等師範部の「二月堂俳句会」の指導も行った。こうして若い人との接触が多く、豊富な理解力があったことが、『土上』で新興俳句の二大勢力となった古家榧夫と東京三を支えたと考えられる。この頃、息子の洋一が早稲田大学に進学、『早稲田俳句』を立ち上げ中心人物として活躍した。

虚子の門弟らは青峰のこの行動を「恩ある虚子に弓を引いた」と考え、水原秋桜子は自身の主宰する雑誌『馬酔木』において「天地眼前にくずるるとも無季俳句を容認すべきではありません」と10歳年上の青峰に忠告を発した。そして1930年(昭和5年)に、青峰は『ホトトギス』同人から除名された。

1940年(昭和15年)は紀元二千六百年の記念の年であった。その陰で日中戦争の意義を問うた衆議院議員の斎藤隆夫が除名処分に遭ったり、古代史研究の権威・津田左右吉の東京帝国大学講師就任が右翼団体の圧力で取りやめになるなど各界で穏やかならぬ動きがあった。その動きは俳句界にも忍び寄り、2月15日(『特高月報』上では2月14日)に京都府警察部は『京大俳句』の幹部8人を一斉に逮捕した。これが、新興俳句弾圧事件の第一次逮捕である「京大俳句事件」である。

当時この事件は新聞で報道されず、俳句雑誌にも掲載されなかったため、情報が正確に伝わらず、俳句界を噂話が駆け巡った。関西での事件であったが、東京にも波及するのではないかという不安や、東京は大丈夫だろうという楽観視が在京の俳人の間で広がった。この頃青峰は『土上』にて「東亜新秩序建設の新体制に即応する俳句報国」という当世の時流に乗った文章を発表し、伊東月草が「日本俳句作家協会」の結成を呼び掛けると、『俳句研究』誌上で賛同の意を表明した。そうした立場の転換ともいえる行動に出た背景には、身に迫る危険を感じ、早稲田大学講師・国文学者としての立場・地位を守りたい、という気持ちがあったからだとされる。しかし時すでに遅く、1941年(昭和16年)2月5日、第四次検挙により、弟子の東京三・古家榧夫を含む12人とともに逮捕された。「『土上』に進歩的思想あり」とされ、治安維持法で検挙されたのである。

警視庁特別高等警察と早稲田警察署(牛込警察署の前身)の刑事3人が逮捕のため牛込区若松町(現在の新宿区若松町)の自宅にやってきた時、青峰は風邪で寝込んでいた。病気かつ老いた身の青峰を刑事は容赦なく連行し、それが病をこじらせることとなった。留置場生活から約半月、肺結核が再発、午前四時に喀血するも何らの手当はなく、昼過ぎになってようやく東京女子医学専門学校(現在の東京女子医科大学)から医師が呼ばれ、「相当の重患」と診断を受け、夕方に寝台車で帰宅を許された。この時、這うことさえできないほどの体となっていた。

この検挙事件を虚子の門弟らは「秋桜子の警告を無視し、新興俳句派の若造たちにおだてあげられていい気になっていた天罰だ」と囁いたという。そして主宰者の青峰と主要作家の検挙により、『土上』は廃刊に追い込まれた。

青峰逮捕の背後には、息子の洋一が編集を担当し、当時150万部を発行する日本最大の雑誌『家の光』の俳句欄の選者の座を小野蕪子が青峰から奪うために暗躍した、という見解がある。洋一は父の逮捕後、秋桜子と富安風生に選者を要請するも断られ、風生の推薦した蕪子が選者となった。

釈放後、自宅での療養に入るも、戦時中で十分な医薬品・栄養・燃料を得られなかったばかりでなく、門下生からは連座を恐れて絶縁を申し入れられ、見舞いの客もほとんどないという不遇の生活が続いた。結局、病状が好転することなく、釈放から3年が経過した1944年(昭和19年)5月31日に62歳で亡くなった。亡くなるまで一度も立つことができなかった。「青峰忌」は夏の季語となった。

青峰死去の報を受け、弟子の東京三(秋元不死男)は葬儀に馳せ参じたが、その席に俳句の関係者はほとんどなく、近所の住民を除けば、加藤武雄・本間久雄・日高只一らが焼香した程度で弔問者も少なく葬儀は閑散としていた。

師であった虚子は葬儀に参列しなかったが、お悔やみ状と香典を送った。遺族の中からは、『ホトトギス』同人から青峰の名が削除されたことを根に持ち、受け取りを拒否すべきだという意見もあったという。

平明で視覚的作風を特徴としていた。自然や人物を客観的に詠んだ句に郷土・的矢を詠んだものが多く、的矢への懐旧が窺える。

写生や花鳥諷詠を特徴とする『ホトトギス』の出ではあるが、それだけを良しとはせず、自由主義的な思想の持ち主であった。

大正時代には虚子から最も信頼され、友人・知人・弟子にも恵まれたが、新興俳句に味方したと見なされてからは、苦境に立たされた。三谷昭は、青峰の温厚な人柄と包容力で『土上』が地盤を築いていた、と書いている。また、本間久雄は「温藉な人だった」と岡保生に語った。温藉(おんしゃ)とは「柔らかにして穏やかなること」という意味である。

若い頃に肺結核を患ったことがあり、体は元々強くなかった。病の身で連行されたことが致命傷となった。

青峰は嶋田家の三男である。父・峰吉は船問屋を主業とし、造船所も営んでいた。加えて田畑を所有し農作業もしていたが、力仕事は不得意で、田んぼの中に突っ立っていることもあった。1914年(大正3年)5月に峰吉が亡くなった時に、虚子は弔電で「兄弟の 喪にこもり寝る 蚊帳一つ」という句を送った。

兄の愁風、弟の的浦、息子の洋一も俳人である。

わが影や 冬の夜道を 面伏せて

頬冠りが 淋しかり人 田植にも - 父の死に際して郷里・的矢に帰省した時に、田植え作業を見て亡き父の姿を思い起こし詠んだ句。『ホトトギス』に掲載。

たゞ蟻の 為すまゝに蝶の 衰へる

朝寒の この道を行く つとめ哉

市に暮るゝ 師走の人の 眉太し

而して 蕃茄の酸味 口にあり

トマト一鉢に 露台(バルコニー)の色を 集めけり

句碑公園 - 新潟県十日町市小出にある公園。青峰ほか約20基の句碑が並ぶ。

「日輪は 筏にそそぎ 牡蠣育つ」の碑 - 三重県志摩市磯部町的矢の的矢村神社の高台にある。的矢かきの養殖風景を詠んだ句である。

「秋晴れや 海のほとりに かえりけり」の碑 - 三重県志摩市磯部町的矢にあり、青峰の生家の近隣に建つ。

『青峯集』春陽堂、1925

『静夜俳話』春秋社、1925

『俳句読本』富士書房、1930

『俳句評釈選集 第1巻』非凡閣、1934

『自句自釈 海光』交蘭社、1935

『子規・紅葉・緑雨』言海書房、1935

『俳句の作り方』新潮社、1936

『明治大正随筆選集 7』正岡子規著、人文社、1924

『一茶選集』春秋社、1925

『温亭句集』篠原英喜著、土上発行所、1927

『芭蕉俳句紀行全集』緑蔭社、1927

『土上俳句集』青峰選輯、土上発行所、1935

『現代俳句選集』新潮社、1937

『俳句文学全集. 第10巻』第一書房、1938

『地平線 第二土上句集』土上発行所、1939

『絆』ストリンドベルヒ著、アカギ叢書、1914

『マキシム・ゴオリキイ』ハンス・オストワルド著、アカギ叢書、1914

『トルストイ叢書 第12』レフ・トルストイ著、新潮社、1918

『世界短篇小説大系 独逸篇』「犠牲」(ウエデキント著、青峰訳)、近代社、1926

『日本文学講座 第5巻』「写生文研究」新潮社、1927

『綜合ヂャーナリズム講座 第5巻』「中間読物としての短歌と俳句」内外社、1930

『俳句作法講座 第1巻』「子規の名句」改造社、1935

『俳句作法講座 第3巻』「作法概説」改造社、1935

^ 青峰の生誕した当時の郡名。答志郡(とうしぐん)は後に英虞郡(あごぐん)と合併し、志摩郡となったため、「志摩郡」出身と表記する文献がある。

^ 村山(1985):100ページ

^ 細井(1996):48ページ

^ 三好・山本・吉田 編(1987):257 - 258ページ

^ 村山(1985):284ページ

^ 美味し国の料理旅館 橘"伊勢志摩 的矢かき スペイン村-伊勢神宮/風待ち港"(2011年7月24日閲覧。)

^ 磯部郷土史刊行会 編(1963):270ページ

^ 『會員名簿』早稻田大學校友會、1928年、286頁。 

^ 細井(1996):49ページ

^ 細井(1996):49 - 50ページ

^ 細井(1996):50ページ

^ 細井(1996):50 - 52ページ

^ 細井(1996):52 - 53ページ

^ 細井(1996):54ページ

^ 細井(1996):53ページ

^ 秋元(1966):130ページ

^ 秋元(1966):130 - 131ページ

^ 秋元(1966):131 - 132ページ

^ 細井(1996):58 - 61ページ

^ 秋元(1966):133ページ

^ 細井(1996):62 - 63ページ

^ 村山(1986):55 - 56ページ

^ 村山(1986):57ページ

^ 村山(1986):56ページ

^ 村山(1986):56 - 57ページ

^ 村山(1986):58ページ

^ 村山(1986):58 - 61ページ

^ 秋元(1966):134ページ

^ 細井(1996):47ページ

^ 細井(1996):65 - 66ページ

^ 村山(1986):286ページ

^ 三好・山本・吉田 編(1987):558ページ

^ 村山(1985):101ページ

^ 村山(1985):99 - 100ページ

^ 村山(1985):103ページ

^ 村山(1985):103 - 104ページ

^ 三好・山本・吉田 編(1987):556 - 557ページ

^ 三谷(1966):130ページ

^ 久松・吉田 編(1974):367ページ

^ 嶋田(1966):148ページ

^ 夢幻亭"『密告』…5嶋田青峰:夢幻と湧源"2007年11月10日.(2011年7月13日閲覧。)

^ 村山(1985):262ページ

^ 村山(1985):224ページ

^ 村山(1985):225ページ

^ 村山(1985):230ページ

^ 村山(1985):226 - 234ページ

^ 村山(1985):235ページ

^ 村山(1985):267 - 268ページ

^ 村山(1985):283ページ

^ 法政大学大原社会問題研究所"法政大学大原社研_戦時中の俳句・短歌運動〔日本労働年鑑 特集版 第五編 言論統制と文化運動〕"2000年2月22日(2000年2月22 日閲覧。)

^ 村山(1985):283 - 284ページ

^ 三好・山本・吉田 編(1987):559ページ

^ 岡(1994):89ページ

^ 秋元(1966):132 - 133ページ

^ 十日町市観光協会"句碑公園 - 十日町市観光協会"(2011年7月7日閲覧。)

^ 伊勢志摩きらり千選実行グループ"伊勢志摩きらり千選/嶋田青峰の句碑・的浦の句碑"(2011年7月24日閲覧。)

秋元不死男(1966)"嶋田青峰のこと"俳句(角川書店).15(7):130-134.

磯部郷土史刊行会 編『磯部郷土史』磯部郷土史刊行会、昭和38年5月10日、506ページ

岡保生(1994)"文学みをつくし 安乗・的矢"學苑(昭和女子大学).650:88-89.

嶋田洋一(1966)"「早稲田俳句」まかり通る"俳句(角川書店).15(10):147-153

久松潜一・吉田精一 編『近代日本文学辞典』東京堂出版、昭和49年6月10日増訂17版発行、328pp.

細井啓司(1996)"『ホトトギス』と嶋田青峰"俳句文学館紀要(社団法人俳人協会).9:47-66.

三谷 昭(1966):"新興俳句運動の俳諧とその傾向"俳句(角川書店).15(10):127-133.

三好行雄・山本健吉・吉田精一 編『日本文学史辞典 近現代編』角川書店、昭和62年2月15日、647pp. ISBN 4-04-063200-1

村山古郷『大正俳壇史』角川書店、昭和61年1月30日、302pp. ISBN 4-04-884054-1

村山古郷『昭和俳壇史』角川書店、昭和60年10月25日、308pp. ISBN 4-04-884066-5

俳人の一覧

三重県出身の人物一覧

早稲田大学の人物一覧

島田青峰とは - コトバンク

早稲田と文学(島田青峰) - ウェイバックマシン(2008年2月13日アーカイブ分) - 早稲田大学

ISNI

VIAF

WorldCat

アメリカ

日本

20世紀日本の俳人

日本の翻訳家

明治時代の国民新聞社の人物

早稲田大学の教員

早稲田大学出身の人物

三重県出身の人物

結核で死亡した日本の人物

20世紀に結核で死亡した人物

1882年生

1944年没

Titlestyleにbackgroundとtext-alignを両方指定しているcollapsible list使用ページ

ISNI識別子が指定されている記事

VIAF識別子が指定されている記事

WorldCat Entities識別子が指定されている記事

LCCN識別子が指定されている記事

NDL識別子が指定されている記事

ISBNマジックリンクを使用しているページ

2024/11/18 19:17更新

shimada seihou


嶋田青峰と同じ誕生日3月8日生まれ、同じ三重出身の人

松本 キック(まつもときっく)
1969年3月8日生まれの有名人 三重出身

松本キック(まつもとキック、1969年(昭和44年)3月8日 - )は、日本の漫才師・俳優。2007年(平成19年)まで大川興業に所属していた。サンミュージック所属。 三重県上野市(現:伊賀市)出身。…

松田 由雄(まつだ よしお)
1914年3月8日生まれの有名人 三重出身

3月8日生まれwiki情報なし(2024/11/01 23:55時点)

田川 亮三(たがわ りょうぞう)
1919年3月8日生まれの有名人 三重出身

田川 亮三(たがわ りょうぞう、1919年〈大正8年〉3月8日 - 1995年〈平成7年〉9月18日)は、日本の官僚、政治家。三重県知事を務めた。神奈川県横須賀市出身。旧制神奈川県立横須賀中学(現:神…


TOPニュース

動画を見るだけで10万円稼げる!?

闇バイトに引っかからない方法

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去


嶋田青峰と近い名前の人

島田 清次郎(しまだ せいじろう)
1899年2月26日生まれの有名人 石川出身

島田 清次郎(しまだ せいじろう、1899年(明治32年)2月26日 - 1930年(昭和5年)4月29日)は、日本の小説家。文壇で有名であった時代には「島清」という略称でも呼ばれた。 石川県石川郡…

島田 精一(しまだ せいいち)
1937年10月21日生まれの有名人 東京出身

島田 精一(しまだ せいいち、1937年10月21日 - )は、日本の実業家。日本ユニシス株式会社特別顧問。前住宅金融支援機構理事長。元三井物産株式会社副社長。元日本ユニシス株式会社社長。 東京都出…


しまだ りら(本名:嶋田 莉来)
1970年3月6日生まれの有名人 出身

しまだ りら(本名:嶋田 莉来、1970年3月6日 - )は、1990年代に活動したレースクイーン、タレントであり、カーレーサーである。元スティングコーポレーション代表、元スティングレーシングチーム所…

嶋田 仁美(しまだ ひとみ)
1964年7月5日生まれの有名人 熊本出身

嶋田 仁美(しまだ ひとみ、1964年7月5日 - )は、フリーアナウンサー。元・宮崎放送のアナウンサーだった。 かつて、準・ミス熊本に選ばれたことがある。ただ、この選考会場に行く時に自分の足に合わ…

嶋田 真(しまだ まこと)
1984年8月29日生まれの有名人 東京出身

嶋田 真(しまだ まこと、1984年8月29日 - )は、日本の俳優、声優。 東京都出身。元スーパー・エキセントリック・シアター所属。 2011年 遊☆戯☆王ZEXAL(2011 - 2014、武…

嶋田 翔平(しまだ しょうへい)
1982年1月6日生まれの有名人 沖縄出身

嶋田 翔平(しまだ しょうへい、1982年1月6日 - )は、日本の俳優、声優。沖縄県出身。青年座所属。 勝田声優学院(19期)、舞台芸術学院(ミュージカル部17期)、青年座研究所(31期)を経て。…

嶋田 久作(しまだ きゅうさく)
1955年4月24日生まれの有名人 神奈川出身

嶋田 久作(しまだ きゅうさく、1955年〈昭和30年〉4月24日 - )は、日本の俳優、声優。神奈川県横浜市瀬谷区(旧戸塚区)出身。ザズウ所属。 幾徳工業高等専門学校中退、東洋大学文学部哲学科を卒…


嶋田なのか(しまだ なのか)
7月7日生まれの有名人 出身

嶋田 なのか(しまだ なのか、7月7日 - )は、日本の漫画家。『ちゃおDX』(小学館)で執筆中。 2007年、「なついろ☆真剣ロマンス」でデビュー。 なついろ☆真剣ロマンス(2007年ちゃおDX…

嶋田 美樹(しまだ みき)
1983年3月29日生まれの有名人 和歌山出身

嶋田 美樹(しまだ みき、1983年3月29日 - )は、日本の元女子バレーボール選手。 和歌山県新宮市出身。小学校5年生からバレーボールを始める。四天王寺高校入学時には身長が180cmを超え、将来…

嶋田 衛(しまだ まもる)
1959年5月4日生まれの有名人 東京出身

GARDEN(ガーデン)は、実の双子である嶋田衛と嶋田繁による日本の音楽ユニット。 1982年にNICO(ニコ)として、NEWSレコードからシングル「海辺の赤い電話」でデビュー。1992年に、現在の…

嶋田 繁(しまだ しげる)
1959年5月4日生まれの有名人 東京出身

GARDEN(ガーデン)は、実の双子である嶋田衛と嶋田繁による日本の音楽ユニット。 1982年にNICO(ニコ)として、NEWSレコードからシングル「海辺の赤い電話」でデビュー。1992年に、現在の…

嶋田 歩(しまだ あゆみ)
1985年6月30日生まれの有名人 大阪出身

嶋田 歩(しまだ あゆみ、1985年6月30日 - )は、日本の元タレント、元グラビアアイドル、元AV女優。大阪府出身。 中学生時代からタレントに憧れ、2001年「LOVEオーディション21」を受け…


嶋田 親一(しまだ しんいち)
1931年8月30日生まれの有名人 秋田出身

8月30日生まれwiki情報なし(2024/11/20 02:26時点)

嶋田 繁太郎(しまだ しげたろう)
1883年9月24日生まれの有名人 東京出身

嶋田 繁太郎(しまだ しげたろう、1883年〈明治16年〉9月24日 - 1976年〈昭和51年〉6月7日)は、日本の海軍軍人、政治家。海軍大将正三位勲一等功二級。 海兵32期・海大13期。海軍大臣…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
嶋田青峰
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

こっちのけんと 斎藤元彦 松島かのん 澤繁実 小野寺紘毅 桜井誠_(活動家) 安野貴博 ジャンボ松田 後藤輝樹 石丸幸人

グループ

ライムベリー Prizmmy☆ ALLOVER アイドルカレッジ Especia でんぱ組.inc 乙女新党 asfi 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「嶋田青峰」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました