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杉浦幸昌の情報 (すぎうらゆきまさ)
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【6月29日】今日誕生日の芸能人・有名人

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杉浦 幸昌さんについて調べます

■名前・氏名
杉浦 幸昌
(読み:すぎうら ゆきまさ)
■職業
経営者
■杉浦幸昌の誕生日・生年月日
1938年2月16日 (年齢86歳)
寅年(とら年)、水瓶座(みずがめ座)
■出身地・都道府県
富山出身

(昭和13年)1938年生まれの人の年齢早見表

杉浦幸昌と同じ1938年生まれの有名人・芸能人

杉浦幸昌と同じ2月16日生まれの有名人・芸能人

杉浦幸昌と同じ出身地富山県生まれの有名人・芸能人


杉浦幸昌と関係のある人

村上克司: 1973年、ポピーの専務・杉浦幸昌の誘いでポピーに入社し、大ヒット商品となった超合金、ポピニカ、マシンロボ、タマゴラス、TOKIMAといった、玩具史に残る名商品の数々を企画、デザインして世に送り出す。


寺田貴信: スーパーロボット大戦シリーズは当初『第4次スーパーロボット大戦』で完結する予定だったが、制作中にシリーズ継続が決定しバンプレストの初代社長である杉浦幸昌から「もっと売れるようにしろ」「20年続けろ」との指示が出された。


杉浦幸昌の情報まとめ

もしもしロボ

杉浦 幸昌(すぎうら ゆきまさ)さんの誕生日は1938年2月16日です。富山出身の経営者のようです。

もしもしロボ

歴史、沿革などについてまとめました。現在、映画、解散、テレビ、引退に関する情報もありますね。杉浦幸昌の現在の年齢は86歳のようです。

杉浦幸昌のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

株式会社バンダイ(英: BANDAI CO., LTD.)は、子供向け玩具、模型、既製服(アパレル)、生活用品等の企画・開発・製造・販売を行う日本の企業。株式会社バンダイナムコホールディングスの完全子会社。コーポレート・メッセージは「夢・クリエイション~楽しいときを創る企業~」。「変身」や「妖怪」を商標登録している。

かつては三和グループのメンバーであり三和系企業で設立されたみどり会のメンバーだったが、2005年のナムコ(現・バンダイナムコエンターテインメント)との経営統合後にみどり会を退会した。

バンダイグループは、日本国外において、現地の人気キャラクターを盛んに玩具化し、「新 キャプテン・スカーレット」や「バットマン」、「ベン10」などの玩具が現地の子会社を通じて発売されている。

1990年代にスーパー戦隊シリーズを日本国外向けにした作品である「マイティ・モーフィン・パワーレンジャー」の玩具をアメリカを始めとする日本国外で発売し、大成功を収めた。以後、『ニンジャスティール』までのパワーレンジャーシリーズの玩具を毎年、発売していたが、2019年4月1日をもってサバン・ブランドとの契約終了により『ビーストモーファーズ』以降の同シリーズの玩具販売はハズブロへ移行した。

2000年代以後はそれらに加えて、現地のキャラクターをアニメ化して展開している。アメリカではアメリカングリーティング社が開発したグリーティングカードのキャラクターである「ストロベリーショートケーキ」を、ヨーロッパではフランスの絵本を題材とした「ベルフラワーバニーズ」などをアニメ化している。

2010年代はアジアでのメディアミックス戦略にも力を入れ、インドネシア向けに石森プロと共同開発した等身大特撮ヒーロー「ガルーダの戦士ビマ」を展開している。これを受け2014年には現地法人BANDAI NAMCO INDONESIAを設立した。この他「アイカツ!」も韓国や台湾、香港、インドネシアでアニメと関連玩具を展開している。

「マイティ・モーフィン・パワーレンジャー」の成功に合わせて、ガンダムシリーズなどの日本のキャラクターの玩具も日本国外で発売を行っている。

歴史

1950年代

創業者、山科直治の義兄久々津一夫が経営する繊維会社「萬代産業」の玩具部門を譲り受け玩具問屋「萬代屋」として浅草にて創業。「萬代」(万代)とは武経七書の一つに数えられる兵法書「六韜」に登場する語の「萬代不易」(永久不変の意)に由来し、創業者の山科直治が「いつの世も人の心を満たす物を作り、絶えない企業の発展を願う」という意味だとしている。

当初は萬代産業の余りの布切れで作った人形を販売。その後、1950年初の自社製品のゴムまり「リズムボール」発売、「B26ナイトプレイン」が50万個以上のヒットになり、これ以降、金属玩具を主力とするようになる。輸出が中心で国内には輸出の余りを販売しており、玩具業界では評判が悪かったが、国内向けの玩具開発も手がけるようになる。創業から1960年代当時は「教育のバンダイ」と呼ばれた。

1960年代

1961年、社名を萬代屋からバンダイに変更する。玩具メーカーとしては後発であり旧来の玩具業界から反発が強かったため、同じく後発のタカラ(現・タカラトミー)とエポック社と組んで1961年に「玩具三社会」を設立。三社共同の玩具見本市を開催したり、新入社員の研修を合同で行うようになる。後にトミー(現・タカラトミー)とニチガンと学習研究社(現・学研ホールディングス)が加わり「玩具六社会」になる。

1960年代半ばより「クレイジーフォーム」「わんぱくフリッパー」「サンダーバード」などのヒットにより大手に成長する。しかし1968年に提唱した「無返品取引」が「バンダイは返品負担を問屋に押しつける」と玩具流通業界からの反発に遭う。さらに「キャプテンスカーレット」の失敗により「バンダイ倒産近し」という「黒い噂」が生まれる。それと共にバンダイ不買運動が起こる。こうした騒動は「無返品取引」を撤回し、さらに「キャプテンスカーレット」の売上不振で倒産した今井科学(イマイ)の業務をバンダイが引き継ぐことで終息した。

1970年代

1960年代の版権違反問題で大失敗し版権協会から追放され、業績が落ち込んでいたところ、東映の渡邊亮徳が『仮面ライダー』を作る際にバンダイの救済も兼ねる形で、バンダイに子会社を設立させた。それが1971年発足のポピーである。以後ポピーがキャラクター玩具を担う形となり、東映と関係を深めて行きキャラクタービジネスを主軸としたマーチャンダイジングを推進していった。1970年代にポピーは急成長し、売上でバンダイ本社を抜くようになり、ポピー社員はバンダイ社員の羨望をうけることになる。ポピーがバンダイ本社に合併されるまではバンダイ本社はほとんどキャラクター玩具を扱っていなかったため、現在のバンダイのキャラクター玩具はポピーが基盤となっている。

1967年に経営破綻した模型メーカーのコグレのプラモデルの金型を買い取ったことから本社内に模型部を発足。前述の今井科学の静岡工場と金型と社員を買収して、1971年に子会社のバンダイ模型を設立。静岡県の清水工場を拠点にバンダイ模型が企画開発と生産を行い、本社の模型部が営業と販売を行う体制となる。

旧今井製品の再版を土台にスタートしたため「バンダイは倒産した会社の金型を使っている」と業界内での評価は悪く、新製品の開発が急がれミリタリーや自動車の模型などを開発する。特に1/48機甲師団シリーズは手頃な価格と内部構造の再現で、1970年代前半は田宮模型の1/35ミリタリーミニチュアシリーズと並ぶ人気商品となる。また1970年代中頃の一時期、米国モノグラム社の販売代理店となり、同社の優れた1/48航空機キットを全国に低価格で供給した。同じ頃東映の大ヒット映画「トラック野郎」の版権を取得し、主人公の乗った11tトラック「一番星」をモデル化。当初得意の1/48スケールの販売だけだったが、後に全長55センチの超大型1/20スケールのものを発売、25年以上経った現在も販売を継続している。

1977年冬に発売した宇宙戦艦ヤマトでは1/500、1/700等キャラクター系キットに対する初のスケール表示の導入や、艦首を広げたディフォルメモデル、主役メカだけでなく脇役メカや悪役側メカもシリーズに加えるなどの商品展開のディスプレイキットが大ヒットした。それまではゼンマイやモーター駆動による「玩具」色が強かったキャラクター系キットがディスプレイキット主体に転換される結果となった。その商品展開は機動戦士ガンダム関連キット(通称「ガンプラ」)に継承されて1980年代以降の爆発的ヒットにつながり、プラモデルの取扱はキャラクター系キットに特化され、数多くのヒット商品を産み出した。

1978年には、宇宙戦艦ヤマトと超合金ブームの人気を受け、ブルマァクの倒産により商品ライセンスを失った円谷プロダクションのウルトラシリーズ商品ライセンスを獲得する。以後、バンダイのウルトラシリーズは大ヒットしていった。

ポピーは東宝のゴジラシリーズ等の特撮怪獣映画、ウルトラシリーズ等の円谷プロの特撮、そして仮面ライダーシリーズ・スーパー戦隊シリーズ・80年代に始まるメタルヒーローシリーズ等の東映の特撮・アニメをはじめとした、作品の世界観やキャラクターを使用した玩具・雑貨・既製服などを商品化する「キャラクターマーチャンダイジング」ビジネスを得意としていた。仮面ライダーとスーパー戦隊とメタルヒーローでは当初から玩具を手がけていた。

番組企画当初より登場キャラクターのデザイン等への参加および介入することでおよそ1年間の商品販売計画を策定しており、現在のキャラクター玩具ビジネスの基本ラインは、同社のスタイルを踏襲したものが多い。

1980年代

1980年に山科直治は35歳の長男・山科誠に社長職を譲り会長職に退いた。この時期、バンダイグループは玩具業界一位にまで成長しており、山科直治は「勝負はついた」という趣旨の発言をしている。

山科誠は出版社の編集者を志望していたが、その志望が叶えられなかったことと前述の「黒い噂」の払拭に努めていた時期の山科直治の「長男を入社させるくらいだからバンダイは大丈夫なんだ」というアピールとしてバンダイに入社した。このため玩具事業には興味を持たず、文房具、アパレル、菓子、映像、音楽、パソコン、アミューズメントなど事業の多角化に進むことになる。これは表面上は少子化で玩具事業の成長が見込めないためとされたが、山科誠が玩具事業にいる古参社員を煙たがったためともされている。

一方、1980年代の玩具業界は成長が頭打ちになり、限られたパイを巡って競争が激化、玩具メーカーの倒産も相次ぎ、前述の「玩具六社会」は1984年に解散した。その中でゲーム会社は急成長し任天堂やセガはバンダイの売上を追い抜いた。

この流れに対応し1980年代中盤には独自のテレビゲーム機の販売を行うもファミリーコンピュータ(ファミコン)をはじめとする他社ハードのサードパーティーとしてソフトの製造・販売を手がけるようになる。「なぜ、ファミコンをするのか?」と言われたものの、ファミコン参入第1弾「キン肉マン マッスルタッグマッチ」のヒットで軌道に乗った。

1982年にガンプラの販売において「ヤミ再販」(メーカーが価格を決め、流通業者にそれを守らせること)と「抱き合わせ販売」(ガンダム以外の商品も買わないとガンダムを売らない)を行い守らなかった場合には出荷停止を行ったことが独占禁止法違反にあたるとしてバンダイとポピーは公正取引委員会の立入検査を受けた。1983年に公正取引委員会のヤミ再販排除の勧告を受諾する。しかしもう一つの問題である「抱き合わせ販売」については不問となった。

1983年に株式上場に向けバンダイ本社を存続会社としてグループ8社の合併を行った。

1986年に玩具メーカーとして初めて東証2部上場を果たした。これにより社員たちの中にあった「所詮、俺たちは下町のおもちゃメーカーじゃないか」という卑下する気持ちが払拭できたとある。

なお山科直治は第二次世界大戦で中国に出征しており、「戦時中の贖罪」として1985年に中国福建省に日中合弁会社・中国福萬(福建)玩具有限公司を設立。ビジネス上の狙いとしては、円高で日本国内での玩具製造のコストが上がったため、円高の影響がない中国で製造しようということである。これ以降、バンダイは海外生産の比率を上げていくことになり、現在では9割が海外生産である。

1989年の第39回創立記念式典で山科誠は「バンダイランド」の構想を語った。これは、ディズニーを手本としたレジャー施設の構想である。また多角化を一層押し進め、玩具会社から脱皮し、ディズニーのような総合エンタテインメント企業を目指すことも語られた。この「日本のディズニー」という目標は現在のバンダイでも継承されている。同年、提携していたコアランドテクノロジー株式会社を子会社化し、商号を株式会社「バンプレスト」に変更、杉浦幸昌が初代社長になった。ただしこの際に、人的に相当な流出入の変化があったため、バンプレストとコアランドテクノロジーの関係は法人格を引き継いだだけの関係にすぎないと捉える向きもある。

1990年代

海外では1993年にアメリカ版スーパー戦隊のパワーレンジャーが大ヒットをとばす。しかし前述のようにゲーム機で任天堂やセガに後れをとったと考えたバンダイは1994年に「プレイディア」、1996年に「ピピンアットマーク」を販売するも失敗。これに加え、同時期の玩具事業の不振、スーパーファミコン用ソフトの不振により1997年3月期の連結決算は上場以来初の赤字となる見通しになった。

こうした経営不振から1997年、セガとの間で「セガバンダイ」として合併を行うと発表された。これに関してセガの中山社長は「ピピンが成功していたら合併はなかったろう」としている。逆にセガが弱い低年齢向けのキャラクターで強みがあるバンダイとの合併はセガにとってはメリットがあった。また当時、セガはライバルのSCEにゲーム機戦争で負けつつあり、この合併は「敗者連合」とされた。

しかしバンダイのたまごっちの大ヒットや、バンダイ社内からの反発も強く構想は破談になった。ただこの2要素が破談の「決定的要因ではない」としている。

セガの方が企業規模が大きいうえに「社風が米国流でドライ」であったため、合理化の名の下にリストラ(解雇)の懸念があったのである。またバンダイ系列の問屋を統合して誕生したハピネットでは存続会社のトウショウ社員ばかりが優遇されていた「ハピネットの悪夢」も強く想起され、合併の存続会社がセガである以上、リストラされなかったとしてもバンダイ社員は不遇になるものと思われた。さらに、かつてのバンダイでは考えられなかったが、一流上場企業の社員としての誇りが「セガバンダイ」の名前に強く反発した。また合併反対派が山科直治を取り込んだことも影響した。

この時の責任を取り、山科誠は社長職を辞任して会長に退くも後任の茂木隆は山科誠派で、「山科体制」は維持された。

セガとは合併破談後も業務提携が続けられ、バンダイはしばらくの間、セガのゲーム機向けのソフトを優先的に開発することとなる。

ピピンの事業はその後も続けられたが1998年に撤退、同事業をてがけていたBDE(バンダイ・デジタル・エンタテインメント)は解散する。これに伴って特別損失270億円を計上。このためたまごっちのヒットにより1998年3月期の連結決算は2882億円と過去最高であったにもかかわらず、単独決算では赤字に転落した。

さらにたまごっちの大ブームの終息を見極められず、大量の在庫を抱えてしまい、1999年3月期では単独決算、連結決算ともに赤字になる。単独決算は2期連続の赤字である。この責任を取り、茂木隆は退職。山科誠も名誉会長職に退き、「山科体制」は崩壊した。

1999年に山科誠が推進した多角化を放棄し、赤字事業を清算するためにバンダイ入社三年目の高須武男が社長に就任。高須が「泥をかぶった」形で事業の整理が始まる。彼の就任中に音楽、映像、海外販社などの事業は撤退ないし縮小することになる。玩具事業に不慣れな高須武男を山科直治時代からの「大番頭」である杉浦幸昌が会長職から支援した。

同年には携帯ゲーム機市場における任天堂の一強体制を打破すべく、携帯ゲーム機「ワンダースワン」を投入して、一定の成功を収める。

2000年代以降

2002年に長さ方向の寸法を短縮した鉄道車両のショーティーモデルの塗装済みキットである「Bトレインショーティー」を発売。同様の鉄道模型に近い商品としてNゲージと同じ縮尺で先頭車両をリアルに模型化した食玩「スタートレイン」やレール幅がZゲージより小さい電池駆動のスケールモデル「ZZ TRAIN」も「Bトレインショーティー」と前後して発売されている。

2003年3月期の連結決算で営業利益と経常利益が過去最高を達成。本物のドラえもんを作る「リアル・ドリーム・ドラえもん・プロジェクト」を開始。一方、2000年に「ワンダースワン」の後継機として登場した「ワンダースワンカラー」は「ファイナルファンタジーシリーズ」が携帯ゲーム機で初めての投入もあってそこそこの人気を得るも、人気ソフトの不足や、任天堂の「ゲームボーイアドバンス」による攻勢によってジリ貧に陥り、2003年に携帯ゲーム機のハード開発から事実上の撤退を表明している。

杉浦幸昌は定年65歳の内規に従い会長職を辞した。彼の引退を記念して以前社長を務めたバンプレストの本社があった千葉県松戸市にあるビルを改装し、バンダイミュージアムとして開館。前述の「バンダイランド」の構想を持っていた同社としては不満の残るものだったものの、特撮ヒーロー関連の展示やガンダムの世界観に基づいた博物館とバーを運営するなどした。2006年8月31日に閉館。2007年4月28日、栃木県壬生町におもちゃのまちバンダイミュージアムとして装いも新たに開館。

また文化事業にも熱心な所を見せ、バブル崩壊後各社が活動を縮小する中で、世界有数のトイ・コレクションを藤田文化財団から譲り受け、軽井沢ワールドトイミュージアム(現在閉館)と栃木県壬生町の新バンダイミュージアムで公開している。同ミュージアムでは19世紀の蒸気機関模型や20世紀初頭の炭鉱模型が展示されている。また、バンダイミュージアムでは玩具だけでなく、エジソンの発明品が一堂に展示されている。

2004年4月、本社ビルを現在の場所へ移転する。この新社屋のエレベーターは4基あり、それぞれバンダイが商品化しているキャラクターの声(まめっち、仮面ライダー1号、アンパンマン、アムロ・レイ)がアナウンスするというユニークな作りになっている。

2005年9月、それまで業務提携などを行ってきたナムコと共同で持株会社を設立し経営統合。前述の高須武男の手腕により「経営は万全」とした上での統合である。持株会社・バンダイナムコホールディングスの子会社となった。この経営統合で誕生した総合アミューズメント(AM)事業グループのバンダイナムコグループは、現在ゲーム業界ではソニー、任天堂に次ぐ第3位の事業規模を誇り日本のゲームソフトメーカーでは国内最大手となるまでに成長している。この時は「セガバンダイ」の時と違い、「バンダイナムコ」の名前に対する反発はほとんどなかった。

2006年3月1日、旧イマイ時代からプラモデルを生産していた静岡市清水区の静岡ワークスから静岡市葵区の新工場に移転し、「バンダイホビーセンター」として稼動を開始。開発・設計・金型・生産という、ガンプラに関わる営業とプロモーション以外の分野をまとめて担当し、開発から生産までを施設内に一括することで生産効率と品質の向上が図られている。3月31日、バンダイナムコグループの事業再編の一環として、家庭用ビデオゲーム事業部門をナムコを母体としたゲーム事業部門「バンダイナムコゲームス」へ統合(旧・バンダイゲーム事業部門が手がけるゲームは、2014年まで「バンダイ」レーベルで発売していた)。ちなみに、「アドバンスピコ・ビーナ」(セガトイズ)のサードパーティに関しては、電子玩具としているため、引き続き当社が担当している。それ以降、バンダイは主にトイホビー事業専門の会社組織となった。6月、ウィルコムのW-SIMを使い、子供向けPHS、「キッズケータイpapipo!」を発売した。1997年発売の「たまぴっち」以来のPHS端末の発売であり、これまで発売してきた「メルプチ」の発展版になる。

2008年4月1日、バンダイナムコゲームスがバンプレストを吸収合併しゲームソフト事業とアミューズメント機器事業を継承、プライズ事業(UFOキャッチャーなどの景品の開発・販売)は新会社バンプレストを設立し継承。

2009年4月1日、当社運営のバンダイレーベル専用サイトは、バンダイナムコゲームス公式サイトに統合され、統合前に発売されたゲームタイトルだけは知的財産権も自社で管理していたが、それと同時にバンダイナムコゲームスに引き継がれた。また、バンダイレーベルのゲームタイトルのCMは企業としてのバンダイのCMで製作されていたが、それ以降からバンダイレーベルもバンダイナムコゲームスの自社CMに移行したため、ゲーム事業を完全にバンダイナムコに統合した。4月20日、公式ショッピングサイト「プレミアムバンダイ」を開設。一般流通では販売しづらい商品や大人用アパレル商品などを中心にさまざまな商品展開を実施している。

2018年2月9日、バンダイナムコグループの再編が発表され、ホビー事業部並びにコレクターズ事業部が手がけているハイターゲット向けの玩具、プラモデルの企画・開発・製造・販売などの事業を同年4月1日付で新会社BANDAI SPIRITSへ移管したため、バンダイはトイ事業カンパニー(トイ戦略室、ボーイズ事業部、ガールズ事業部、プリスクール事業部)、ベンディング事業カンパニー(ベンダー事業部、カード事業部)、ライフ事業カンパニー(キャンディ事業部、アパレル事業部、ライフ事業部)の社内カンパニー制を導入した。これにより、コーポレートロゴに関しても差別化が図られ、BANDAI SPIRITSは青色を模ったバンダイロゴ(通称、青バンダイ)を採用した。

沿革

1950年 - 山科直治が株式会社萬代屋を設立し、社長に就く。

1961年 - 商号を株式会社バンダイに変更。バンダイ、タカラ、エポック社で「玩具三社会」設立。1965年まで「三社会見本展示会」を東京都内で開催。

1963年 - バンダイ運輸を設立。玩具三社会にトミー工業と日本玩具株式会社(ニチガン)が加わり、「玩具五社会」になる。運輸部がバンダイ運輸(後のバンダイロジパル)として分社化。バンダイ初のテレビキャラクター商品鉄腕アトムを発売。

1965年 - バンダイ創立15周年。会社創立時の「B」ロゴから祝意をモチーフにした『バンザイ』ロゴを導入。

1967年 - 経営破綻した模型メーカーのコグレの製品金型を買い取って模型市場へ参入。玩具五社会に学習研究社が加わり「玩具六社会」になる。

1969年 - 経営不振に陥った模型メーカーの今井科学の工場と金型を譲り受ける。

1970年 - バンダイ創立20周年。ジャパン・トンカ設立。

1971年 - ポピー(ボーイズトイ事業部およびコレクターズ事業部の源流)、バンダイ模型(ホビー事業部の源流)を設立。仮面ライダー『変身ベルト』発売。この変身ベルトは、現在以降も継続されている。

1972年 - 『超合金マジンガーZ』発売。

1975年 - バンダイ創立25周年。

1976年 - 「うごく絵本」で出版事業に進出。

1977年 - 『ガシャポン』発売(カプセル玩具自販機に参入)

1978年 - バンダイ出版設立。『ウルトラシリーズ』の商品ライセンスを獲得。玩具自動販売機事業に進出。

1980年 - バンダイ創立30周年。山科直治が会長に退き、長男の山科誠(現:日本BS放送社長)が社長に就任。プラスチック製のガンダムプラモデル(ガンプラ)を発売し大ブームになる。ジャパン・トンカをマミートに名称変更。

1981年 - 玩具菓子事業に進出。

1981年〜1982年 - 世界各国に相次いで支社を設立する。

1982年 - 乗り物変形ロボット玩具シリーズ『マシンロボ』発売。エモーション ビデオ課設立(後のバンダイビジュアル)。

1983年 - バンダイを存続会社として、ポピー、バンダイ模型、バンダイ工業、バンダイオーバーシーズ、マミート、セレンテ、バンダイ出版の7社を吸収合併した新生バンダイがスタートする。これをきっかけにしてCIと、キャッチコピー「夢・クリエイション 楽しいときを創る企業(2018年3月末までメインスポンサーにおける提供時の読み)」を掲げる。映像ソフト販売子会社としてAE企画(Account Executive Planning、後のバンダイビジュアル)設立。アパレル事業部を設立。

1984年 - 『タマゴラス』が発売。ビデオ課がネットワーク フロンティア事業部として分社化。玩具六社会が解散

1985年 - バンダイ創立35周年。ファミコンソフト『キン肉マン マッスルタッグマッチ』がミリオンセラーを記録。中国福建省に日中合弁会社・中国福萬(福建)玩具有限公司を設立。中国市場に進出。

1986年 - 東証2部に上場。資本金107億9600万円。ファミリートレーナーを発売。『子象物語 地上に降りた天使』で映画分野に進出。米玩具大手マテル社との共同出資でマーバ・コーポレーションを設立。バービーを販売。

1987年 - ウォルト・ディズニー・カンパニーと映像ソフト販売契約を結ぶ(1989年に契約終了)。『聖闘士星矢』聖闘士聖衣大系(セイントクロスシリーズ)がヒットする。タイに合併会社 BANDAI AND K.C. CO., LTD.を設立。ミサワホーム、日本公文教育研究会と共同で小型コンピューターの開発会社「コンピュータープレゼンス」を設立。

1988年 - 東証1部に上場。ネットワーク フロンティア事業部を吸収し、メディア事業部が発足。「森は生きている/12カ月のニーナ」でミュージカル事業に進出。

1989年 - AE企画がバンダイビジュアル販売と社名を変更。北野武監督のデビュー作『その男、凶暴につき』を制作。

1990年 - バンダイ創立40周年。文化放送からレコード会社、アポロン音楽工業を譲受し『株式会社アポロン』に社名変更

1991年 - バンダイビジュアル販売がバンダイビジュアルと社名を変更。バンダイ系列の玩具卸3社(トウショウ、セイコー、ダイリン)が合併、トウショウを存続会社にしハピネットに社名変更。

1992年 - メディア事業部の映像ソフト事業をバンダイビジュアルに統合。バンダイ運輸をバンダイロジパルに社名変更。クリスマスおもちゃプレゼント大賞が12月24日に毎年開催される。

1993年 - アメリカで『パワーレンジャー』関連商品が大ヒット。

1994年 - サンライズがグループ企業となる。プレイディアを発売。バンダイキャラネットTVを配信。

1995年 - バンダイ創立45周年。アメリカに慈善事業であるThe Bandai Foundationを設立。

1996年 - 公式サイトを開設。ピピンアットマーク、『たまごっち』発売。バンダイ・シンガポール設立。株式会社アポロンをバンダイ・ミュージックエンタテインメントに社名変更(その後2000年に解散、音源はエモーションミュージックに承継し、現在はバンダイナムコミュージックライブが管理)

1997年 - ハイパーヨーヨー、デジタルモンスターを発売。たまごっちの爆発的ヒットにより多くの人々の労働時間を空費させることができたことに対して、企画・開発元のウィズと共同でイグノーベル賞の経済学賞を受賞。

1998年 - たまごっちが社会現象にまでなり売上高を大幅に伸ばしたが、機を逸した大増産で供給過多に陥り、ピピンアットマークの販売不振も重なったことで126億円に上る損失を計上し上場以来初の赤字となる。大人向けフィギュアS.I.C.発売。

1999年 - 高須武男(三和銀行・現三菱UFJ銀行出身)が社長に就任。携帯ゲーム機ワンダースワンを発売。

2000年 - バンダイ創立50周年。ワンダースワンカラーを発売。キャラクター研究所を設立。セイカノート(現・サンスター文具)がグループ会社になる。

2001年 - 葦プロダクションがグループ企業となる。※現在は資本関係を解消。

2002年 - ツクダオリジナル(後のパルボックス、現在はメガハウスに統合)がグループ企業に、『出撃!マシンロボレスキュー』としてマシンロボ復活。ガンダムコレクション(1/400スケール完成品フィギュア)発売。キャラクター研究所が開発した第1号キャラクター『くまのがっこう』の絵本がブロンズ新社から出版される。同年6月には、iモード開発者の松永真理を社外取締役に迎える。

2003年 - バンダイ初の企業博物館『バンダイミュージアム』を千葉県松戸市に開業(2007年に栃木県下都賀郡壬生町に移転)

2004年 - 新本社ビルに移転する。旧本社はバンダイ第2ビルに改称。「ドラえもん・ザ・ロボット」を発売。子会社のバンプレストが遊園地「浅草花やしき」を当時の運営会社トーゴから譲受。

2005年 - バンダイ創立55周年。社長に上野和典が就任。ピープルが株式公開(JASDAQ証券取引所に株式上場)を契機に、資本提携を行いグループ会社入りへ。ナムコと共同持株会社バンダイナムコホールディングスを設立、経営統合。データカードダス第1号『データカードダス ドラゴンボールZ』稼働。『神羅万象チョコ』発売。

2006年 - ビデオゲーム事業部をバンダイナムコゲームスへ移管。ウルトラシリーズ40周年、たまごっち10周年。

2007年 - データカードダス『大怪獣バトル ULTRA MONSTERS』稼働。

2008年 - TYOから円谷プロダクションの株式33.4%を取得。翌2009年には同社から株式15.6%を追加取得、持ち株比率49.0%になる。大人向けアクションフィギュア『S.H.Figuarts』発売。

2010年 - バンダイ創立60周年。変身するミニカー『ブーブ』発売。ネットカードダス第1号『プロ野球オーナーズリーグ』発売。子供向けキャラクターTシャツ『TPETS!』発売。

2011年 - 東日本大震災により、仙台工場が一時閉鎖。

2012年 - 新筐体「データカードダスNEO」をリリースし、同年にこの筐体を使用した『百獣大戦グレートアニマルカイザー』『アイカツ!』が稼働。『アイカツ!』はメディアミックスを展開し、人気コンテンツとなる。

2013年 - カード事業部、ベンダー事業部、ライフ事業部の3部門が東京スカイツリーイーストタワーに移転。

2014年 - レベルファイブ開発のゲーム『妖怪ウォッチ』関連商品を発売し、大ヒットする。

2015年 - バンダイ創立65周年。社長に川口勝が就任。

2018年 - 社内カンパニー制を導入。同時にフィギュア・プラモデル等のハイターゲット向け事業を分割し、BANDAI SPIRITSに事業譲渡。

2020年 - バンダイ創立70周年。

2021年 - 社長に竹中一博が就任。カンパニー制を廃止しディビジョン制に移行。

2025年 - バンダイ創立75周年(予定)。

2024/06/23 23:05更新

sugiura yukimasa


杉浦幸昌と同じ誕生日2月16日生まれ、同じ富山出身の人

舛方 勝宏(ますかた かつひろ)
1943年2月16日生まれの有名人 富山出身

舛方 勝宏(ますかた かつひろ、1943年2月16日 - )は、日本のアナウンサー、実業家。日本テレビ放送網(NTV)でアナウンサーを皮切りに、グループ各社で管理職や役員職を歴任した。富山県魚津市出身…


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杉浦幸昌と近い名前の人

杉浦 滋男(すぎうら しげお)
1935年12月15日生まれの有名人 東京出身

杉浦 滋男(すぎうら しげお、1935年12月15日 - 1997年12月6日)は、日本の男性アナウンサー。 東京都出身・日本大学法学部卒業だが、北海道に憧れていたことから、北海道放送にアナウンサ…

杉浦 友紀(すぎうら ゆき)
1983年5月14日生まれの有名人 愛知出身

杉浦 友紀(すぎうら ゆき、1983年5月14日 - )は、NHKのアナウンサー。 愛知県名古屋市生まれ、岡崎市育ち。父親の仕事の関係で1歳半から5歳までアメリカ・サンフランシスコに住み、帰国後岡…

杉浦 加奈(すぎうら かな)
1988年11月10日生まれの有名人 北海道出身

杉浦 加奈(すぎうら かな、1988年11月10日 - )は、日本のファッションモデル、タレント。北海道出身。アミューズ、オスカープロモーション所属を経て、現在はクリエートジャパンエージェンシー所属。…

杉浦 幸(すぎうら みゆき)
1969年4月5日生まれの有名人 東京出身

杉浦 幸(すぎうら みゆき、1969年4月5日 - )は、日本の女優、女流雀士、元アイドル歌手。 デビュー当時は、株式会社ホリプロに所属していたが1990年に退社。2011年2月をもって株式会社ファ…

杉浦 亜衣(すぎうら あい)
1990年8月22日生まれの有名人 愛知出身

杉浦 亜衣(すぎうら あい、1990年8月22日 - )は、日本のタレント、モデル、女優である。愛知県安城市出身。プラチナムプロダクション所属。 2007年、「ミスセブンティーン」オーディションに…

杉浦 未幸(すぎうら みゆき)
1971年10月14日生まれの有名人 愛知出身

杉浦 未幸(すぎうら みゆき、旧芸名及び本名:杉浦 美雪(読み同じ)、1971年(昭和46年)10月14日 - )は、日本の女性モデル、タレント。元アイドルである。独身。 1971年(昭和46年)…

杉浦 舞(すぎうら まい)
1979年3月1日生まれの有名人 愛知出身

杉浦 舞(すぎうら まい、1979年3月1日 - )は、TBSスパークル(旧:キャスト・プラス)所属のフリーアナウンサー。 愛知県碧南市出身。血液型はO型。既婚。 早稲田大学第一文学部哲学科教育学…

杉浦 里穂(すぎうら りほ)
1992年2月3日生まれの有名人 愛知出身

杉浦 里穂(すぎうら りほ、1992年2月3日 - )は、日本の女性ファッションモデル、アイドル。血液型O型。スペースクラフト所属。愛知県半田市出身。 2001年12月16日、バンダイ「Jewel…

杉浦 圭子(すぎうら けいこ)
1958年11月20日生まれの有名人 広島出身

杉浦 圭子(すぎうら けいこ、旧姓・清水、1958年11月20日 - )は、日本のフリーアナウンサー。元日本放送協会アナウンサー。 広島県広島市安佐南区出身。広島市立八木小学校、広島女学院中学校・…

ピーコ(本名:杉浦 克昭)
1945年1月18日生まれの有名人 神奈川出身

ピーコ(1945年〈昭和20年〉1月18日 - )は、日本のタレント、ファッション評論家・ジャーナリスト、シャンソン歌手である。本名は杉浦 克昭(すぎうら かつあき)。 映画評論家のおすぎは一卵性双生…

おすぎ(本名:杉浦 孝昭〈すぎうら たかあき〉)
1945年1月18日生まれの有名人 神奈川出身

おすぎ(1945年〈昭和20年〉1月18日 - )は、日本のタレント、映画評論家である。横浜市立桜丘高等学校、阿佐ヶ谷美術専門学校卒業。プラムクリークス所属。本名は杉浦 孝昭(すぎうら たかあき)。フ…

杉浦 慶子(すぎうら けいこ)
1987年9月2日生まれの有名人 東京出身

杉浦 慶子(すぎうら けいこ、1987年9月2日 - )は、日本の声優、舞台女優。東京都出身。演劇集団 円、円企画所属。東京アナウンス学院卒業。 太字はメインキャラクター。 ポムカンパニー 広島…

杉浦 宏策(すぎうら こうさく)
1926年9月15日生まれの有名人 出身

杉浦 宏策(すぎうら こうさく、1926年9月15日 - )は、日本の俳優、声優。旧芸名:杉浦 宏(すぎうら ひろし)。東京府出身。 1942年、劇団かもしか座の舞台で俳優デビュー。ムーランルージ…

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