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松田優作の情報 (まつだゆうさく)
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【6月18日】今日誕生日の芸能人・有名人

松田優作の情報(まつだゆうさく) 俳優 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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松田 優作さんについて調べます

■名前・氏名
松田 優作
(読み:まつだ ゆうさく)
■職業
俳優
■松田優作の誕生日・生年月日
1949年9月21日 (年齢40歳没)
丑年(うし年)、乙女座(おとめ座)
■出身地・都道府県
山口出身

(昭和24年)1949年生まれの人の年齢早見表

松田優作と同じ1949年生まれの有名人・芸能人

松田優作と同じ9月21日生まれの有名人・芸能人

松田優作と同じ出身地山口県生まれの有名人・芸能人


松田優作と関係のある人

竜雷太: 岡田晋吉が『太陽にほえろ!』で松田優作、勝野洋など多くの無名俳優を新人刑事として抜擢したのは、岡田が無名の新人だった竜を『これが青春だ』の主人公に抜擢して成功した経験による。


高瀬昌弘: その後『太陽にほえろ!』では松田優作の演じるジーパン刑事が初出演した「ジーパン刑事登場」を手がけ、これ以降同番組の中心的な監督として活躍。


太田光: 松田優作を敬愛しており、『蘇る金狼』など優作が出演した映画のセリフを暗記している。また、自身が監督したクソ野郎と美しき世界「光へ、航る」の草彅剛演じる工藤修という役名は『探偵物語』で松田優作が演じた工藤俊作と『傷だらけの天使』で萩原健一が演じた小暮修からとられている。


工藤栄一: 撮影中に松田優作の訃報が届き、長渕の反対を押し切って葬儀に参列したことをきっかけに、長渕と完全決別し降板した。


谷中敦: 『SOUL RED 松田優作』のメモリアルプロジェクトにも出演している。


宮迫博之: お笑いタレントではあるが、元々松田優作に憧れて俳優の仕事に興味があり、俳優になるための手段として、演技の勉強のためにお笑いをやっていた。


林邦史朗: 嵐が丘(1988年、製作:日本、監督:吉田喜重、出演:松田優作、田中裕子) - 鎌倉室町時代の日本が舞台


古尾谷雅人: 松田優作を敬愛、尊敬しており、松田自身からも目を掛けられていた。


千代の富士貢: 梢が結婚したのは、千代の富士の没後ではあるが、梢の夫の松田翔太の父親は俳優の松田優作、母親は松田美由紀、美由紀の姉(翔太の伯母)は熊谷真実であり、千代の富士とは親戚関係となる。


下川辰平: 松田優作演じるジーパン刑事の殉職時の台詞「なんじゃあ、こりゃあ!?」も、松田が下川から聞いた、意味不明の絶叫をして亡くなった入院患者のエピソードが元になっている。


吉川晃司: 常連客の一人である松田優作は生前に下北沢のジャズバー「レディジェーン」でライブを一度観た経験があるが、直接会ったことはなく、既に故人となっていた。


原田芳雄: 酒ではI.W.ハーパーやビールなどを好んで飲んでいたが、原田がバーボンを飲むようになったのは、元々愛飲していた松田優作の影響によるもの。


小島康志: 男、昔ありけり 松田優作 手書きの原稿(2007年)


菅田俊: その後、飲み屋で松田優作らが語っていたアクターズ・スタジオを見るために渡米し、帰国後は東映を離れて27歳で唐十郎率いる劇団・状況劇場に入団し、活動の中心を舞台に移す。


小滝みつる: 上記以外に作品制作に関与したアーティストは、メトロファルス、eX、宙也&De-LUX、LOVE DYNAMITES(w.いまみちともたか)、小泉今日子、泉谷しげる、松田優作、久宝留理子、夏木マリ、EXOTICS、筋肉少女帯、本木雅弘、DEAD-END、黒夢、金子マリ、森園勝敏などである。


アイ高野: さらに、松田優作の歌手活動(1981年)やエディ藩のソロ活動(1982年)をクリエーションのメンバーらと共にサポートした。


八神健: ハガキ職人時代はいわゆる美男子(20代後半の時点でさくまあきらに「松田優作似」と評される)としても有名であった。


一木ひろし: 物真似レパートリーには、五木の他に、森進一、松田優作、大滝秀治などがある。


小池要之助: 第19話の予告編のナレーションは、主演の松田優作が同郷出身ということで、本編の内容には一言も触れず小池の紹介に徹していた。


大藪春彦: 1979年 、角川映画『蘇える金狼』が松田優作主演で公開。1980年、角川映画『野獣死すべし』が松田優作主演で公開。


又野誠治: 松田優作とは交友があり、又野の事を可愛がっていた。


速水清司: 松田優作


松田美由紀: アナザーストーリーズ 運命の分岐点「松田優作 ブラック・レインに刻んだ命」(2022年11月11日 NHK総合テレビジョン)


クニ河内: 松田優作「Uターン」(曲)


大下英治: 『蘇える松田優作』リム出版(Lucky books)1991 のち広済堂文庫 


原田芳雄: 原田の仕種や台詞廻しに影響を受けた俳優も多く、松田優作は一時期その一挙手一投足を研究し、模倣したとも言われる。


ナンシー関: また、リリー・フランキーとは松田優作の『ヨコハマ・ホンキー・トンク・ブルース』の話で盛り上がったこともある。


西岡德馬: 刑事ドラマ『太陽にほえろ!』で、文学座の後輩にあたる松田優作が「ジーパン刑事」役になったのは西岡自身がきっかけだという。


原田美枝子: 美由紀の夫松田優作が亡くなった時には互いの家族も交えて、アメリカをキャンピングカーで横断した。


長島雄一: 当時は松田優作、中村雅俊、田中裕子といった文学座出身の俳優が一気にスターになっていたというミーハーな理由だったという。


松田優作の情報まとめ

もしもしロボ

松田 優作(まつだ ゆうさく)さんの誕生日は1949年9月21日です。山口出身の俳優のようです。

もしもしロボ

人物、家族などについてまとめました。現在、父親、兄弟、母親、離婚、卒業、ドラマ、映画、テレビ、事件、病気、家族、結婚に関する情報もありますね。去年の情報もありました。40歳で亡くなられているようです。

松田優作のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

松田 優作(まつだ ゆうさく、1949年〈昭和24年〉9月21日 - 1989年〈平成元年〉11月6日) は、山口県下関市出身の俳優、歌手。2020年現在、肖像権は死没時の所属先であるセントラル・アーツ(東映)、キャラクターライセンシングは1998年に設立されたオフィス作がそれぞれ管理している。身長183cm。空手は二段というプロフィールもあるが、実際には空手有段者ではなかった。

山口県下関市で、日本人の父と当時、質屋を営む韓国人(在日1世)の母との間に非嫡出子として生まれた。父親は長崎出身の保護司で当時39歳、郷里に妻子を持つ180センチメートル近い大柄な男性だった。父親は優作が生まれてすぐに死んだ。2人の異父兄がおり、兄弟仲は良かったが、次第に自身の出生の秘密に気付き始め、それが原因で孤独を感じるようになる。

1957年下関市立神田小学校へ入学。1963年下関市立文洋中学校へ入学。1966年山口県立下関第一高等学校(現・山口県立下関中等教育学校)へ入学。1967年11月、「米国へ行って弁護士になれ」との母親からの厳命により、不本意ながら山口県立下関第一高等学校を2年で中退し、叔母夫妻を頼って米国籍を得る為に渡米する。

カリフォルニア州モントレー郡シーサイド市のシーサイド高校に入学。しかしながら、叔母夫妻の離婚訴訟や言葉のギャップなどに悩み、1968年9月に母に無断でシーサイド高校を中退する。シーサイド大学の体育館で観たニューヨークのアングラ劇団「ラ・ママ」を観て、こんな世界があるのかと感銘を受け、芝居をやりたいと思い立ち帰国。長兄一家が居住する東京都豊島区のアパートに居候し、私立豊南高等学校夜間部普通科の4年生に途中編入。1970年に関東学院大学文学部に入学する。

1971年3月、劇団『文学座』の入所試験を受けるも一次の筆記試験で不合格。同年5月、金子信雄主宰の劇団「新演劇人クラブ・マールイ」に入団。ここで最初の妻美智子と知り合う。卒業式の場で主催者の金子から𠮟責を受け、退団する。

1972年4月、文学座付属演技研究所十二期生となり、文学座同期には阿川泰子、高橋洋子、山西道広、1期後輩に中村雅俊、1期先輩に桃井かおりがいた。役者に専念するために、6月には大学に退学届を出す。この頃、『突撃! ヒューマン!!』のヒューマン/岩城淳一郎役のオーディションを受けたという。また、1969年(昭和44年)頃の無名時代に新宿駅東口のトリスバー「ロック」でバーテンダーを務めていた際に、客として来ていたひし美ゆり子、原田大二郎、村野武範らと知り合い交友を結んでいる。村野は自身が出演していた『飛び出せ!青春』のプロデューサーである岡田晋吉が新人俳優を探していることを聞き、「自分の研究所にちょっと面白い男がいる。」と松田を推薦した。岡田が後で聞いた話によると、村野は優作を優秀な俳優として推薦したわけでなく、この前日麻雀に負けた時の約束で、仕方なく優作を岡田に紹介したということだった。岡田は文学座の稽古場に視察に行くと、芝居に対する体当たりの真剣さと、強引とも思える度胸の良さに驚く。テストでチョイ役に出演させると、迫真の演技にスタッフも度肝を抜かれた。これがきっかけで、1973年、刑事ドラマ『太陽にほえろ!』にジーパン刑事としてレギュラー出演、その活躍・殉職シーンが話題となる。また、志垣太郎主演の東宝『狼の紋章』にて映画初出演を果たした。

同時期、『太陽にほえろ!』出演を機に「現在は松田優作という通称名を使っているので番組の関係者にも知られていませんが、もし僕が在日韓国人であることがわかったら、みなさんが失望すると思います」という理由で法務省に帰化申請を行い、日本国籍を取得。これにより、通名だった松田優作が本名となった。

1974年には黒木和雄監督の時代劇映画『竜馬暗殺』で、主演の原田芳雄と共演し、時代劇初出演。松田優作は原田芳雄に心酔し、後に原田の隣の家に引っ越したという。続いて74年11月公開の澤田幸弘監督、日活制作のコメディ・青春映画『あばよダチ公』で映画初主演を果たす。映画評論家、樋口尚文は、同作品に高評価を与えている。

1976年1月31日、前年7月19日に行なわれた『俺たちの勲章』の鹿児島ロケ打ち上げの際、19歳の予備校生に対して共演者と共に暴力を振るい、全治3か月の重傷を負わせた容疑で警視庁新宿警察署に逮捕される。このため、毎日放送の4月新番組『隠し目付参上』をクランクイン寸前に降ろされ、1年間テレビドラマのレギュラー出演を自粛した。岡田晋吉は「鹿児島などの事件で芸能界が彼を半年間の謹慎処分にしたというのは噂だけです。真相は松田自身が"休みたい"と自分から相談を持ち掛けたからで、仕事をしないのはあくまで松田自身の自主規制です。私自身、スケジュールさえ合えばすぐに彼と仕事がしたいと思っています」と述べている。同年2月5日、東京地方検察庁は傷害容疑で松田を起訴、同年3月10日、東京地裁で懲役10月、執行猶予3年の有罪判決を受ける。

1976年、東映『暴力教室』 (岡本明久監督)により映画復帰を果たす。同作品では安西マリアらと共演した。また、同年に公開された時代劇『ひとごろし』では、臆病な侍という今までになかった役柄を演じ、時代劇初主演となる。同年7月25日にはアルバム『まつりうた』で歌手デビュー。1977年、刑事ドラマ『大都会 PARTII』でテレビに本格復帰した。

1979年には村川透監督角川映画『蘇える金狼』主演。この映画の前には、ハワイへ飛び、射撃場で実弾射撃演習をおこなった。同年、澤田幸弘監督のアクション映画『俺達に墓はない』主演。また、映画では推理・ミステリー映画『乱れからくり』 (泡坂妻夫原作、児玉進監督)。同年にはテレビドラマ『探偵物語』に主演。この頃多くのアクション映画に主演しているが、ボブ・ディランをもじった朴李蘭の名で、劇団の旗揚げも行う。

1980年に村川透監督の東映映画『野獣死すべし』では、撮影のために10kgの過酷な減量だけでは飽き足らず、奥歯を4本抜き、さらに山籠もりまでしたという。1981年、黒澤満を信頼し、熊谷美由紀と一緒に東映系のセントラル・アーツに移籍。この後、アクション映画からしばらく距離を置き、演技派俳優への道を模索する。また、70年代後半には、サングラスをかけて原田芳雄の模倣、その後、萩原健一の演技をマネするなど、好きな俳優の演技スタイルを取り入れてしまうことは、映画業界でよく知られていた。この時期には音楽活動にも熱中し、ドラマ「探偵物語」では自身の出演場面を減らした回もあった。行きつけの酒場「レディ・ジェーン」の店主、大木雄高によれば、ジャズ、フリー・ジャズや、ピアソラのタンゴなどを好んで聴いていたという。

1981年、泉鏡花原作の文学作品『陽炎座』、松田優作の楽曲が織り込まれ、かつ、主人公の少年愛的な場面を描いた工藤栄一監督の『ヨコハマBJブルース』に主演。それまでのイメージとは異なる役柄を演じた。また『新・事件 ドクターストップ』以降、『新・夢千代日記』『女殺油地獄』『追う男』とNHKドラマへの出演が続いた。また、82年の向田邦子ドラマ『春が来た』で桃井かおりと共演した際に、桃井から「ドラマをなめてる」と言われ、大げんかになったこともある。

1986年には映画『ア・ホーマンス』製作途中で、作品の方向性に関して意見が食い違ったため、監督の小池要之助が降板。松田自らがメガホンを取ることとなり、これが初めてで最後の監督作品となった。やくざ抗争とSFテイストを融合した異色の作品である。

1988年、深作欣二監督の時代映画『華の乱』では、国民的女優吉永小百合と共に主役を演じる。この撮影をしている頃から、松田は尿が出なくなり腹がパンパンに張っていたという。その後、遺作ともなったアメリカ映画『ブラック・レイン』に出演し、念願のハリウッドデビューを飾る。同映画の撮影時点で自身が癌に侵されている事を知るが、延命治療を拒み、撮影に挑んだ(妻の松田美由紀によると、癌の診断を信用せず次々に医師を変え、治療に進まなかったため知己の医師に「今は癌ではないが放置すると癌になる」と説得してくれるよう頼んでいたという)。なお、病気の事実を知る者は、撮影関係者では安岡力也のみであり、周囲にも堅く口止めがされていた。

1989年8月頃から腰が痛いと言い始め、10月6日、第3回東京国際映画祭で来日中の『ブラック・レイン』のリドリー・スコット監督に「どうしても挨拶したい」と出席したが、舞台挨拶を断り帰宅。これが公に見せた最後の姿だった。翌10月7日、東京都武蔵野市にある西窪病院 (現在の武蔵野陽和会病院)に入院。

1989年11月6日午後6時45分、入院中の西窪病院で膀胱癌の腰部転移により死去。40歳没。法名は、「天真院釋優道」。墓所は、東京都あきる野市の築地本願寺西多摩霊園。所属事務所の後輩で、松田が弟の様に可愛がっていた仲村トオルは松田の遺体の前で「優作さん! 起きてください! 早すぎるよ!!」と泣き叫んだ。葬儀には萩原健一、倍賞美津子らも参列した。萩原健一は妻の松田美由紀の手を取り、涙ながらに弔意を述べていた。

2000年の発表の『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の12位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」でも第12位になった。2014年発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本男優6位となっている。

日本郵便が2006年10月10日に発行した特殊切手「日本映画II」(現代の名作)(1980年 - 2000年代公開)は、代表的な日本映画10作品を選定しているが、その1本に松田主演の映画『蘇える金狼』が選ばれた。

人物

公称・身長185cmの長身(妻・美由紀証言では実身長183cm)と発表されていたが石原裕次郎が公称181cmとなっており、183cmでは身長差がないので185cmと発表したとプロデューサーが言っていた。1975年に本人に取材した記事では186cmと述べている。番組ではタフなキャラクター、抜群の運動神経と長い手足を生かしたその動きはそれまでの俳優にはない独自のものであり、基本的にアクション・スタント シーンにスタントマンを使うことはなかった(『探偵物語』のバイクジャンプシーンなど、度を越した危険なシーンなどではスタントマンを起用している)。萩原健一と並んで同時代を代表するスターである。

初期のプロフィールには空手2段と書かれていたが、国際空手道連盟・極真会館機関誌には1969年6月20日付、4級合格者として記録されている。同日付では第1回世界大会優勝者・佐藤勝昭と一緒であり最終的な昇級昇段は不明である。

デビュー前の大学生時代にTVドラマ「ワイルド7」にエキストラ出演しており、最終話「スパイダーの最後」でその姿を確認する事が出来る。ゴールド・サタン:山本麟一のボディーガード役で後ろに立っている。

デビュー時はアクションスターとして注目されたが、演出家に対して徹底して食いついて演出面にも追求(カップに注がれた消え物のコーヒーについて「なぜ湯気が立っているんだ!」「これは誰が飲むものなんだ!」など)するなど芝居に対して非常に勉強熱心で、個性派俳優として次第に役の幅を広げていった。強烈なカリスマ性をもつ俳優であり、松田の演じるキャラクターや、本人そのものをイメージした格好を真似る若者を産み、また同業者である後輩にも、彼のスタイルを踏襲した俳優(古尾谷雅人、又野誠治など)も登場した。

自分の仲間を非常に大事にし、金子正次、中村雅俊、丸山昇一、佐藤蛾次郎、萩原流行など優作と親交が深かった多数の友人が優作の伝記で彼の人となりを熱く語っている。佐藤は後年「優作ほど先輩を立てる役者はいなかった」と振り返っている。店で打ち上げをやっていた時に、同じ店に来ていた他の客がバカにしたような口調で佐藤に「蛾次郎ー」と、囃し立てると松田は激怒し本気でその客に殴りかかりそうになったというエピソードもある。

文学座の先輩の西岡徳馬によると、『太陽にほえろ!』で当人が「ジーパン刑事」役になったのは自分(西岡)がきっかけだという。親交のあった6代目市川染五郎(後の9代目松本幸四郎、現:2代目松本白鸚)一家とハワイ旅行に出掛けた時のショッピングで、当時まだ日本ではレアなものだったジージャンとジーパンに上下セットを見つけ、これを買って帰国して着ていたところ、文学座のマネージャーに「自分も欲しい」といった興味を示され、食い下がるマネージャーのために西岡も心当たりを探したがなかなか見つからず、それで他の店で似た物を見つけて購入し、松田はこれを着させられた。その後松田本人がジージャンとジーパンの上下のままで『太陽にほえろ!』のスタッフに会ったなどのことは不明だが、その後ジーパン刑事と名付けられて活躍することになる。

大都会シリーズで監督を務めた舛田利雄は、台本に無いセリフを連発したり、台本に無い演技をする松田について、「ああいう役者は好きな様にやらせておけばいい、そうでないと使う意味が無い。」と評した。

元妻の松田美智子の話によると、優作は遊郭の一角で生まれ育ったことや、韓国国籍であることを死活問題のように悩んでいたという。また、美智子は「ファンが語る優作は、どこか漫画的です。」と語っている。

麻雀が非常に強かったと関係者は語っている。また後の自身の主演映画『最も危険な遊戯』の冒頭の雀荘のシーンにて「その強さ」を自身の役柄である殺し屋・鳴海の口から語らせている。

『太陽にほえろ!』を降板する際、後任の勝野洋へなにかアドバイスをと求められて、「走る姿を研究しろよ」と答えたという。そもそも松田の前任だったマカロニ刑事役の萩原健一を番組出演へと説得する際に、監督の竹林進が言った「走ってる姿を撮りたい」を基本コンセプトに、「走る」事は同番組の代名詞として後々まで受け継がれた。

『大都会PARTII』の撮影中、ロケ現場ではしゃいでいる子供にからかわれた事があり、その際「考えると俺達って昼間からこんなおかしい事をやっているんだよな…」と自分が一般とは違う世界で生きているのに気づき、それを期に「よし、誰にも文句を言わせない作品を撮るぞ!」と決心し、それが後のモチベーションにつながった。

六月劇場の研修生だったころ、黒澤明監督の自宅を訪問し、3日間座り込んで弟子入りを迫った。しかし、3日経っても黒澤に会う事は出来ず追い返されてしまう。後に松田は、「俺は一生かかっても必ず有名になってみせる。だが有名になっても黒澤監督の映画にだけは決して出んからな」と語っていた。

下積み時代、「俺が売れないのは一重瞼だからだ」とコンプレックスをもらしており、後に瞼を二重に整形している。金銭面で困窮していた時期であったが何とか手術費用を捻出した。当時の二重瞼の手術の主流は切開法であり、術後約1週間で抜糸を行うが「費用がまた何万円もかかるのではないか…」と懸念した松田は抜糸予定日に病院へは行かず、自宅で鏡を見ながら裁縫用の小さなハサミを用いて抜糸をしたと語っている。その際、無理に糸を引き抜き、消毒も十分にしなかったため後々まで跡が残った。実際は抜糸までが手術費用に含まれており、再診でかかる費用はせいぜい消毒代と化膿止めの薬代、数千円程度であったと後に知り、後悔したと言う。

松田美由紀は松田を「普段のファッションには無頓着で、放っておいたら何を着だすか分からない程だった」と言う。近視で、普段掛けていた眼鏡も上部が黒縁のいわゆるオヤジ眼鏡だった。

『太陽にほえろ!』出演当時は運転免許を有していなかった為、車の運転場面は全て代役である。勝野洋や下川辰平も同様であった。後の『探偵物語』1979年(昭和54年)ではベスパに乗っているが、自動二輪免許は所有していた。さらに後には4輪免許も取得 (文学座時代から親しかった重松収によれば、普通自動車免許は、『ブラック・レイン』の撮影がすべて終わり、帰国したのと同時に取得。松田優作本人が自動車の運転をしている作品は、遺作「華麗なる追跡 THE CHASER」となる)。ドラマでベスパを使用することを助言したのは、友人の岩城滉一。当時の松田は中型自動二輪免許(現:普通二輪)を取得したばかりで、プライベートではホンダGL400に乗っていたが岩城の「それダサイよ」の一言で、ベスパを使う決心をしたと云われている。そのベスパは後に松田の私物になり、松田の没後も長年、自宅の地下室に安置されていた。2023年11月にベスパは、探偵物語の監督を務めた村川透の生家に開設された山形県村山市の私設多目的ホール「アクトザールM.」の展示室に移したことが妻の松田美由紀のインスタグラムにて報告されている。

角川春樹によれば、要領が良い反面、臆病な一面があり、映画『人間の証明』のニューヨークでのロケ撮影中に傷害沙汰を起こし、角川が示しをつけるためホテルに呼び出した際、入室直後に「何をされても結構です」と土下座を噛まし、タイミングの可笑しさで角川の怒りを治めてしまったが、その後の飲み会でダウンタウンに行った際、黒人しかいない店に入ると終始怯えた表情を取り、「怖いのか?」と角川が訊くと、「いえ」と強張りながら飲み続けていたという。また、角川とは毎年、赤坂のフグ料理屋で2人だけの忘年会を行い、最後の〆にフグ雑炊を松田が、自分の手で作るのが恒例だったという。

ロバート・デ・ニーロは映画『ブラック・レイン』での松田の演技を絶賛、共演したいと松田にオファーを出したが、亡くなった事を知り落胆したという話がある。

一日100本以上のヘビースモーカーであった。しかし、尊敬する渡哲也が「大都会PARTII」の撮影で出番以外禁煙を始めた事を受け、優作自身は禁煙まで行かなかったが一日15本まで減らしたという。

1980年(昭和55年)4月29日放送の『徹子の部屋』に出演した際は、飲酒、喫煙しながらトークをおこなった(もっとも、当時同番組において同様の例は他のゲストでも多く見られた)。

長らくCM出演を固辞していた松田初めてのCMは、1982年麒麟麦酒「キリンライトビール」が最初だが、1976年の『曽根崎心中』以降、役者付いていた宇崎竜童が原田芳雄と親しくなり、弟分の松田とも親しくなっていた1982年に大手広告代理店から、宇崎・原田・松田の3人が共演するCMを作りたいと依頼された。今でこそ知名度の高いタレントが複数登場するCMは当たり前だが、当時の業界の常識は、知名度が高いタレントが単独で登場するからこそインパクトが強いと考えられていて、複数の芸能人が共演することはなく、その常識を覆すCMであった。松田も原田芳雄もCM出演はそれまでなく、麒麟麦酒がアメリカではシェア50%以上を占める「ライトビール」がこれからは日本でも主流となるだろうと先読みし、思い切ったCMをやりたいと考案したものであった。しかし宇崎に送られて来た絵コンテを見ると『8時だョ!全員集合』のようなコントそのものの内容。演出サイドが意外性を狙い過ぎているのは分かったが、原田と松田がこれに同意するとは思えないし、まあ企画会議の席上で異を唱えればいいか、と宇崎は考えて、原田と松田には連絡しなかった。すると企画会議の前日(当日の)深夜2時過ぎに宇崎宅へ電話があり、松田が地の底から響くような声で「おい!殺すぞ!!」と宇崎に言った。激怒しているときの松田に取り付く島もないことを宇崎も承知しているため、言い分を聞くと、宇崎は絵コンテを承諾したと制作サイドに伝えられており、「明日の企画会議であんたを殺す。それがイヤだったら、屈強なボディガードを3人ほど用意しておくんだな!」と捨て台詞を残し一方的に電話を切った。企画会議では宇崎の無実が明らかになり、松田は何10枚も自分で書いてきた絵コンテを次々と繰り出し熱意のあるプレゼンを展開した。企画会議終了後に松田は宇崎に「オレの誤解でした。本当に失礼なことを言って申し訳ありませんでした」と深々と頭を下げて謝罪した。同CMは鈴木清順の演出で1982年夏にハワイロケが行われたが、タキシードの衣装が暑すぎて撮影の合間に冷房の効いたロケバスで休んでいた。すると隣のロケバスのカーテンの隙間から熟睡しているプロデューサーの姿が見えた。スタッフにも自分と同じ熱量を求める松田は「あの昼寝野郎…」と呟き怒りを露わにした。この時は何とか収まったが、CM本編の撮影が全て終了し、ポスター撮影の段階になった時、またまた松田が独自案を披露した。これが制作サイドとは正反対の内容で、一からロケハンをやり直さなければならないものだった。松田が熱く説明をしていると、先の昼寝プロデューサーが面倒くさそうに「分かりましたよ」と適当にあしらったことで松田は激怒し、テーブルを乗り越えて対面に座っていたプロデューサーを平手打ち、さらにカメラマンにも「あんたも同じだ!」と続けざまに平手打ちをした。完成したCMは好評を博し、続編の声も上がったが、平手打ちをされたカメラマンがこの後「暴行事件」として週刊誌に暴露し、続編はなくなった。

2009年(平成21年)、松田優作本人が穿いていたジーンズをイメージして作られた特製ジーンズ(股下38インチ、左フロントポケットはライターの定位置だったために四角形に色落ち)が20回忌となる11月6日にフルカウントより発売された。

吉田拓郎のファン。

家族

劇団仲間であり、後に『完全なる飼育』などの代表作を持つ作家・松田美智子と1975年(昭和50年)9月21日に結婚。長女が生まれるも、女優・熊谷美由紀(現・松田美由紀)との不倫が原因で1981年(昭和56年)12月24日に離婚。美由紀とは『探偵物語』の共演で出会い、「今まで見たことが無いエキセントリックな女だ」と衝撃を受け、「この女から離れられない」と感じたという。龍平出産後の1983年に結婚

美由紀との間に、順に長男・龍平、次男・翔太、長女・Yukiがいる。また、翔太の妻でモデルの秋元梢の父親は元大相撲力士で第58代横綱の千代の富士貢であり、優作と千代の富士が双方没後に翔太と梢は結婚しているが、千代の富士とは親戚関係である。

2024/06/17 18:20更新

matsuda yuusaku


松田優作と同じ誕生日9月21日生まれ、同じ山口出身の人

安倍 晋三(あべ しんぞう)
1954年9月21日生まれの有名人 山口出身

安倍 晋三(あべ しんぞう、1954年〈昭和29年〉9月21日 - 2022年〈令和4年〉7月8日)は、日本の政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。 内閣総理大臣(第90・96・97・98代)、内閣官…

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松田優作と近い名前の人

松田 ゆう姫(まつだ ゆうき)
1987年11月30日生まれの有名人 東京出身

松田 ゆう姫(まつだ ゆうき、1987年11月30日 - )は、日本の歌手、タレント。東京都出身。血液型はAB型。身長は164cm。 1987年、東京都にて俳優の松田優作と女優の松田美由紀の長女と…

松田 侑子(まつだ ゆうこ)
1992年5月3日生まれの有名人 千葉出身

松田 侑子(まつだ ゆうこ、1992年5月3日 - )は日本のタレント。千葉県出身。株式会社EBAプロダクション所属. 2004年、小学6年生の時から劇団に入り、最初はエキストラなどだけの出演…

松田 幸雄(まつだ ゆきお)
1927年3月25日生まれの有名人 千葉出身

松田 幸雄(まつだ ゆきお、1927年3月25日 - 2013年4月29日)は、日本の詩人、翻訳家。 千葉県生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。 三井物産に勤務。『荒地』『詩学』同人。1966年、…

松田 美智子_(作家)(まつだ みちこ)
1949年8月7日生まれの有名人 山口出身

松田 美智子(まつだ みちこ、1949年8月7日 -)は、日本の作家。本名は同じで、旧姓は熊本。松田 麻妙(まつだ まみ)、雨宮 早希(あめみや さき)の筆名でも執筆している。 山口県岩国市の出身…

松田 美智子_(料理研究家)(まつだ みちこ)
1955年9月25日生まれの有名人 神奈川出身

松田 美智子(まつだ みちこ、1955年9月25日 - )は、料理研究家でテーブルコーディネーター。 1955年9月25日、東京都生まれの神奈川県鎌倉市育ち。清泉小学校、清泉女学院中学校・高等学校…

松田 直樹_(俳優)(まつだ なおき)
1971年7月31日生まれの有名人 山梨出身

7月31日生まれwiki情報なし(2024/06/11 12:45時点)

松田 元太(まつだ げんた)
【Travis Japan】
1999年4月19日生まれの有名人 埼玉出身

松田 元太(まつだ げんた、1999年4月19日 - )は、日本の俳優、歌手、タレント。男性アイドルグループ・Travis Japanのメンバー。 埼玉県出身。STARTO ENTERTAINMEN…

松田 琉冬(まつだ りゅうと)
【MAGiC BOYZ】
2002年2月15日生まれの有名人 東京出身

松田 琉冬(まつだ りゅうと、2002年2月15日 - )は、日本のタレント、アーティストである。 東京都出身。 2014年からEBiDANのMAGiC BOYZ及びHONG¥O.JPのメンバーと…

松田 直樹(まつだ なおき)
1977年3月14日生まれの有名人 群馬出身

松田 直樹(まつだ なおき、1977年3月14日 - 2011年8月4日)は、群馬県桐生市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはディフェンダー。元日本代表。 2002 FIFAワールドカッ…

松田 杏咲(まつだ ももえ)
2002年5月18日生まれの有名人 東京出身

松田 杏咲(まつだ ももえ、2002年5月18日 - )は、日本のタレント、元子役。 特技は、ピアノ、水泳、鼻リコーダー、足漕ぎボート。 東京都出身。トゥインクル・コーポレーション所属。以前はセ…

松田 聖子(まつだ せいこ)
1962年3月10日生まれの有名人 福岡出身

松田 聖子(まつだ せいこ、1962年〈昭和37年〉3月10日 - )は、日本のアイドル・歌手・シンガーソングライター・女優。 所属事務所はfelicia club(フェリシアクラブ)。身長160c…

松田 小百合(まつだ さゆり)
1981年8月3日生まれの有名人 長崎出身

松田 小百合(まつだ さゆり、1981年8月3日 - )は、日本の女性タレント。 長崎県出身。長崎県立西陵高等学校、長崎国際大学卒業。 大学在学中の2002年、TBS『世界・ふしぎ発見!』のミス…

松田 園子(まつだ そのこ)
1984年9月25日生まれの有名人 北海道出身

松田 園子(まつだ そのこ、1984年9月25日 - )は、日本の女性ファッションモデル。ガンズマネージメント所属。 北海道室蘭市出身。北海道室蘭清水丘高等学校卒業。 14歳の時、モデルになるべ…

松田 聖菜(まつだ せいな)
2002年3月18日生まれの有名人 神奈川出身

松田 聖菜(まつだ せいな、2002年3月18日 - )は、日本の女性ファッションモデル、タレントである。『小悪魔ageha』の専属モデル、『egg』の元専属モデル。所属事務所は株式会社LOVERS[…

松田 千奈(まつだ せんな)
1977年1月29日生まれの有名人 東京出身

松田 千奈(まつだ せんな、1977年1月29日 - )は、日本で活動するファッションモデル、元グラビアアイドル、女優。所属事務所はディスカバリー・ネクスト。 東京都出身。15歳で芸能界デビュー。…

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