正力松太郎の情報(しょうりきまつたろう) 政治家、実業家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
正力 松太郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
正力松太郎と関係のある人
正力亨: 父:正力松太郎(讀賣新聞社主) 栗山英樹: 正力松太郎賞:2回(2016年、特別賞:2023年) 中村梅吉: 正力松太郎 渡邉恒雄: また、鳩山一郎の次の自民党総裁、総理大臣を狙っていた正力松太郎が、中曽根康弘を参謀格に自分の派閥を結成して総裁選出馬準備を進めていた際、正力から中曽根との連絡役を命じられて付き合いが始まり、大野の死後は中曽根と親密になった。 伊原宇三郎: この頃正力松太郎、三木武吉、石橋正二郎等のアトリエでの肖像画の制作のほか千葉、浜離宮、軽井沢、日光、京都等の写生旅行にも出かける。 松原泰道: 南無の会は1984年に正力松太郎賞を受賞した。 小里貞利: 正力松太郎 山崎平八郎: 正力松太郎 デニス=サファテ: また、外国出身の選手として初となる正力松太郎賞に選出された。 杉浦忠: 門田が本塁打44本、打点125で二冠、打率.311、長打率、出塁率、四死球でもリーグでダントツ、MVP、正力松太郎賞も授与されている。 稲尾和久: この日は稲尾が委員を務めていた正力松太郎賞選考委員会が開かれ、愛弟子の落合博満が選出された日でもあった。 竹山祐太郎: 正力松太郎 熊谷太三郎: 正力松太郎 奥田幹生: 正力松太郎 野津謙: 野津はプロ野球経営で実績のある読売新聞社を訪れ、読売新聞社主の正力松太郎にプロサッカーチームの設立を依頼した。 秋山幸二: これらの活躍が評価され、正力松太郎賞を初受賞し、推定年俸は1億4,000万円と大幅アップした。 中村寅吉: この試合の模様は日本で初めてテレビ中継され、日本テレビ放送網初代社長の正力松太郎も優勝を祝った。 落合博満: 落合が正力松太郎賞を受賞した2007年11月13日は奇しくも稲尾の命日でもあり、受賞後の会見で稲尾について「監督と選手の立場を超えて野球を語り合った。 前田正男: 正力松太郎 小林與三次: 正力松太郎は岳父。 務台光雄: 販売局長を務めた後、1929年、読売新聞社社長の正力松太郎に見出され、読売新聞社に移籍し販売局に勤務。 江藤省三: 川上の話の数々は、今の指導にも使えることが沢山あり、正力松太郎の言葉を引用しながら「大リーグに追いつき、追い越せ」、「野球は理屈ではない。 原辰徳: 11月12日にはWBC及び日本シリーズの優勝が評価され、2度目の正力松太郎賞を受賞。 石川一郎: 正力松太郎委員長(国務大臣・科学技術庁長官)のもと、委員には石川のほか、湯川秀樹、藤岡由夫、有澤廣巳らが選ばれ、石川は委員長代理となった。 鈴木惣太郎: 波多野勝 『日米野球の架け橋 鈴木惣太郎の人生と正力松太郎』芙蓉書房出版、2013年 落合博満: これらの功績が認められ、自身にとって、また中日の監督・選手として初となる正力松太郎賞を受賞した。 天野光晴: 正力松太郎 岡野清豪: 正力松太郎 永田雅一: しかしその後、東京球場はチームの不調も重なり不入りで不採算が続き、読売ジャイアンツ(巨人、セントラル・リーグ所属の球団)のオーナー・正力松太郎がこの事態を見かねて「巨人にも東京スタジアムを使わせてほしい」と救いの手を差し伸べたものの、永田は「セ・リーグ、とりわけ巨人の世話になるのは御免だ」と、これを頑なに拒んだ(開場以来、東京近辺に本拠地を置くセ・リーグ球団のうち国鉄スワローズと大洋(本拠地は川崎市)には東京スタジアムでの主催試合の開催を許可していたが、巨人には最後まで許可を出さなかった)。 市岡忠男: そこで市岡、浅沼誉夫、三宅大輔、鈴木惣太郎の4人は、野球統制令対策として職業野球チームを結成することを正力松太郎社長に働きかけた。 |
正力松太郎の情報まとめ
正力 松太郎(しょうりき まつたろう)さんの誕生日は1885年4月11日です。富山出身の政治家、実業家のようです。
テレビ、現在、卒業、事件、父親、家族、結婚、映画、解散に関する情報もありますね。1969年に亡くなられているようです。
正力松太郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年〈明治18年〉4月11日 - 1969年〈昭和44年〉10月9日)は、日本の実業家、政治家。読売新聞社社主、日本テレビ放送網代表取締役社長、讀賣テレビ放送会長、日本武道館会長などを歴任した。 読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、「読売中興の祖」として大正力(だいしょうりき)と呼ばれる。 読売ジャイアンツ(巨人)の初代オーナーとして、戦後の日本のプロ野球の発展に貢献したために「プロ野球の父」と呼ばれる。日本テレビを創立し、テレビの普及や発展に貢献したために「テレビ放送の父」と呼ばれる。また、原子力発電の推進にも貢献したために「原子力の父」とも呼ばれる。 1955年(昭和30年)から1969年(昭和44年)まで衆議院議員(自民党に所属)を務めた。政界でも一定の影響力があった。 駒澤大学が上祖師谷グラウンド(野球部合宿所、駒澤大学球場)を購入する際に尽力したことを顕彰して、駒澤大学の開校80周年(1962年)の式典において、最初の名誉博士号が授与された。 1885年(明治18年)に富山県射水郡枇杷首村(現在の射水市)生まれ。1911年に東京帝国大学(法学部)卒業で旧内務省に入省。1923年12月に虎ノ門事件が発生、当時警視庁警務部長であった正力は警視総監の湯浅倉平とともに引責辞職。翌1924年2月、後藤新平の助力のもと経営難で不振の読売新聞を買い受けて第7代社長に就任し、新聞界に転じる。意表をつく新企画の連発と積極経営により社勢を拡大。当初二流紙扱いであった読売は、1941年に発行部数で朝日新聞・毎日新聞を抜いて東日本最大の新聞となる。同年秋には、戦時新聞統合を企図する政府の全国新聞一元会社案に反対し、撤回させた。1940年の開戦時は大政翼賛会総務であったために、1945年12月2日、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し正力を逮捕するよう命令を出した(第三次逮捕者59名中の1人)。A級戦犯の容疑で巣鴨拘置所に勾留され、後に不起訴となったが公職追放処分を受けた。戦後は、MLB選手を日本に招聘して日米野球を興行するなど野球界で尽力したが、一方で長期にわたる中央情報局(CIA)への協力(非公式の工作活動)を行っていたことが、アメリカ合衆国で保管されている公文書により判明している。また、1960年代に衆議院議員(自民党に所属)になり自由民主党総裁の座も狙っていた。読売新聞社の部下だった渡邉恒雄を中曽根康弘(当時、自民党の衆議院議員)との連絡役にしていた。CIAエージェントとしてのコードネームはPODAM。 1885年(明治18年)
雄神小学校から高岡中学(後の富山県立高岡高等学校)に進んだ正力は、「勉強よりは体を鍛えろ」という父親の教えに従って、寄宿舎には入らず、8キロメートルの道のりを地下足袋姿で通った。 第四高等学校入学。 1906年(明治39年) - 三高との高専柔道の対校戦に優勝。 1907年(明治40年)
1911年(明治44年)
1912年(明治45年/大正元年)
1913年(大正2年)
1914年(大正3年)
1917年(大正6年)
9月 - 警視庁第一方面監察官。早稲田騒動を鎮圧。 1918年(大正7年)
1919年(大正8年)
1921年(大正10年)
7月 - 正六位に叙せられる。 1923年(大正12年)
10月 - 警視庁警務部長 虎ノ門事件 1924年(大正13年)
1928年(昭和3年)
1934年(昭和9年)
1935年(昭和10年)
1940年(昭和15年)
1943年(昭和18年)
6月 - 内閣情報局参与に就任。 1944年(昭和19年)
10月 - 小磯内閣顧問に就任。 1945年(昭和20年)
12月 - A級戦犯に指定され、巣鴨拘置所に収容される。 1946年(昭和21年)
1947年(昭和22年)
1950年(昭和25年)
1952年(昭和27年)
1953年(昭和28年)
1955年(昭和30年)
2月 - 第27回衆議院議員総選挙に富山2区から出馬、当選し衆議院議員(自民党に所属)になる。 11月 - 第3次鳩山内閣で北海道開発庁長官 1956年(昭和31年)
5月 - 初代科学技術庁長官に就任。 1957年(昭和32年)
1958年(昭和33年)
8月 - 讀賣テレビ放送会長に就任。 1961年(昭和36年)
1962年(昭和37年) - 財団法人日本武道館初代会長 駒澤大学より名誉博士号を授与される。 1964年(昭和39年)
1965年(昭和40年)
1967年(昭和42年)
1969年(昭和44年)
2018年(平成30年)
警視庁官房主事として1923年(大正12年)6月の日本共産党に対する大規模な一斉取締り(第1次)や、特別高等警察などにも関わり、同年9月に発生した関東大震災の際、社会主義者の扇動による暴動に備えるための警戒・取締りを指揮した。その際、朝鮮人の暴動説を新聞記者を通じて流布させ、関東大震災朝鮮人虐殺事件の一因を作った。直後、警務部長となるが、摂政宮狙撃事件(虎ノ門事件)の責任を問われ、懲戒免官となる。恩赦により懲戒処分を取り消されたものの、官界への復帰は志さなかった。 刑事畑においては、島倉事件(のちに甲賀三郎が『支倉事件』の題名で小説化した)の捜査にあたり、東大同窓生が犯した鈴弁殺し事件においては自首を仲介した。 1924年(大正13年)、番町会グループである郷誠之助、藤原銀次郎ら財界人の斡旋と、帝都復興院総裁だった後藤新平の資金援助により、経営不振であった読売新聞社(後の読売新聞東京本社)の経営権を買収し、社長に就任した。正力は、自社主催のイベントや、ラジオ面、地域版の創設や、日曜日の夕刊発行などにより部数を伸ばした。 戦前は報知新聞社の販売局長だった務臺光雄を正力が誘って読売へ移籍させ、大阪資本の東京朝日新聞・東京日日新聞などと販売競争で競い合った。そして、読売新聞の全国進出を狙って九州日報など日本各地の地方紙を買収して経営参加に成功するも、新聞統制によって計画は頓挫した。 戦後、読売新聞の全国紙計画が本格化し、1952年(昭和27年)に大阪讀賣新聞社(後の読売新聞大阪本社)を設立、念願の西日本進出を果たした。以後、札幌と正力のお膝元である高岡市にも東京直轄による発行支社を設置し、1964年(昭和39年)、正力の長年の懸案だった九州に読売新聞西部本社を設立、1ブロック紙に過ぎなかった読売新聞を務臺との二人三脚で朝日・毎日と肩を並べる全国紙に発展させた。 1934年(昭和9年)、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらが参加した大リーグ選抜チームを招聘した。大リーグ選抜チームは、日本で17試合を戦い、一試合当たりの観客数が6万5000人(大リーグでの平均動員数に匹敵)に達することも多かった。当時アマチュア野球しか存在しなかった日本側でも、全日本チームが結成された。後に同チームを基礎として大日本東京野球倶楽部(後の読売ジャイアンツ)が創設され、1936年(昭和11年)の第1回職業野球日本リーグに参加した。正力は、京都商業から慶應義塾大学への進学が決まっていた沢村栄治を「一生面倒見る」と説き伏せて入団させたが、実際には二度の応召(徴兵も、沢村が中学卒であったことが要因)で肩を壊した沢村を解雇している。 また、沢村を中退させたのと同様の手口でヴィクトル・スタルヒンを退学させてチーム(後の読売巨人軍)に入れるため、旭川にスカウトを送るものの、地元のスターを引き抜かれることに旭川市民と学校側は抵抗した。 旭川中学校を甲子園へ出場させるという願いを持っていたスタルヒン本人にとっては苦渋の決断であったが、家庭の経済事情に加え、さらには亡命者であるだけに断れば家族全員国外追放、即ちソビエト連邦への強制送還とする可能性をほのめかされたという事情もあり、断るわけにもいかず、旭川中を中退。後ろ髪を引かれる思いで母と共に上京した。クラスメートには一切事情を知らせないまま夜逃げをするように列車に乗ったという。汽笛が「行くなぁ!」という仲間達の叫びに聞こえた、と後年妻に語っている。 中学中退と全日本チーム、そして巨人入団への背後には日米戦を主催していた読売新聞オーナー・正力松太郎の意思があり、スタルヒンがこれに従わねばならなかったのは、「読売買収以前は警視庁の実力者だった正力が、父の犯罪歴をたてに日本国籍のないスタルヒン一家を恫喝したからである」と作家の佐野眞一は著書 の中で断言している。 正力は最初期と戦後の一時期を除いて読売ジャイアンツのオーナーを務め、また、巣鴨プリズンから釈放後の一時期、職業野球連盟の総裁(今で言うコミッショナー)に就任した。このような正力の業績を称え1959年野球殿堂入り。また日本プロ野球界に貢献した関係者を対象に、毎年正力松太郎賞が贈られている。 戦後、読売新聞を離れていた時期には毎日新聞と接触して、毎日のプロ野球参加と将来の2リーグ制移行を画策した。このとき読売側は毎日の加入に反対し、最終的にセ・リーグとパ・リーグに分かれることになる。ちなみに正力自身としては、当面1リーグ10球団で運営し、その後2球団を追加してから読売・毎日がそれぞれ所属するリーグを立ち上げる構想であったが、日本プロ野球が実際に2リーグに分かれた際、読売(読売ジャイアンツ)はセ・リーグ、毎日(毎日オリオンズ)はパ・リーグの所属となった。 1935年(昭和10年)2月22日、本社玄関前で暴漢に左頸部を斬りつけられた。傷は浅く頸動脈は外れており命に別状はなかったが、出血ははなはだしく輸血が行われた。直接の実行犯の長崎勝助は武神会の構成員(元、警視庁巡査)。取調べに対して、犯行に及んだ理由として、読売新聞が天皇機関説を支持したこと、正力が大リーグを招聘して多額の利益を与えたこと、神宮球場を使用し「神域を穢した」ことなどを挙げた。だが、捜査・公判の進行により、競合他社東京日日新聞の幹部による指示があったとされた。襲撃の報を受けたベーブ・ルースは見舞いの電報を正力に送っている。 襲撃犯は懲役5年の求刑を受けたが、1935年(昭和10年)6月12日、東京刑事地方裁判所は「殺意は認められなかった」として殺人未遂を傷害罪に更訂、懲役3年の判決を言い渡した。 ラジオ民間放送で出遅れていた反省もあり、正力はテレビ放送では最初に動いた。電通の吉田秀雄のもとへテレビ放送について相談に行ったが、吉田は聞き役に回り、積極的な動きを示さなかったという。1951年(昭和26年)10月、正力は電波監理委員会へ「日本テレビ」の免許を申請する。翌1952年(昭和27年)7月31日、免許出願していた日本テレビ放送網(以下、日テレ)に、日本のテレビジョン放送局としては初となる予備免許が交付された。 日テレは当初、東京を本部として札幌市から鹿児島市まで日本各地に支局を置き、日本全国をカバーする構想だった。しかし、「単一資本による複数県にまたがる放送は、メディアの寡占となり好ましくない」という郵政省(当時)の見解により、やむなく関東地方のローカル局として開局せざるを得なくなることとなった。 当時の日テレの放送機材はアメリカ合衆国からの輸入に頼っており、機材の搬入が予定より大幅に遅れた。一方、日本放送協会(NHK)は、日テレより後に予備免許が下りたものの、ほとんどの機材を国産品としたため、1953年(昭和28年)2月1日に東京で日本初のテレビジョン放送(のちのNHK総合テレビジョン)を開始することになった。 同年5月15日、ワシントンのショーラム・ホテルへ日本の政府・議会・軍・航空の関係者を集め、正力を事業主とする「テレビを含む国際通信のためのユニテル・リレー網計画」の説明会が行われた。ユニテル・リレー網はテレビに留まらないマルチメディア事業であり、正力の懐刀柴田秀利も、日テレ代表として列席した。説明会を企画した人物の出身は大別して、元OSS(米軍戦略諜報局)局員か、アメリカ中央情報局(CIA)スタッフか、ジャパン・ロビーかであった。 そして、NHKより半年遅れの8月28日に日テレは日本初の民間放送によるテレビジョン放送を開始、正力は日テレの初代社長に就任した。日テレは民間放送であることから、コマーシャルを収入源としている。テレビジョン放送開始当時のテレビ受像機は庶民にとって“高嶺の花”だったことから、正力はテレビ受像機の普及促進と各企業からのスポンサー獲得のため、東京都内を中心とした繁華街、主要鉄道駅、百貨店、公園など人の集まる場所に街頭テレビを常設し、一般家庭へのテレビの普及に全力を注いだ。その結果、力道山などが活躍したプロレスを始めとしたスポーツ中継では街頭テレビの観衆が殺到し、スポンサーの説得も功を奏して日テレは開局から半年たって黒字化を達成した。 1958年(昭和33年)10月、東京のテレビ電波塔「東京タワー」が完成し、NHKや在京キー局各局は東京タワーに基幹送信所を置いたが、正力は日テレのみ東京タワーへの送信所移転を拒否し、麹町本社鉄塔からの送信を続けた。そして、東京・新宿に高さ550mの電波塔「正力タワー」の建設を構想、1968年(昭和43年)に起工式が行われるも、正力の死で実現しなかった。そして、正力の死後の1970年(昭和45年)11月10日に日テレも基幹送信所を東京タワーに移転した。「正力タワー」の建設予定地だった場所には日テレの子会社である日本テレビサービスが日本テレビゴルフガーデンを建設したが、1997年(平成9年)12月、社有地が売却され、2012年(平成24年)4月に新宿イーストサイドスクエアが建築されている。 1952年10月28日 - 日本テレビ放送網設立、代表取締役社長に就任。 1955年2月28日 - 第27回衆議院議員総選挙に富山2区から出馬、当選し衆議院議員になる。 1955年11月22日 - 第3次鳩山一郎内閣で北海道開発庁長官に就任。日本テレビを離脱(社長辞任)。 1956年5月19日 - 科学技術庁長官に就任。 1956年12月23日 - 北海道開発庁長官および科学技術庁長官を辞任。 1957年1月28日 - 日本テレビ放送網取締役に選任、日本テレビに復帰。 1957年2月6日 - 日本テレビ放送網取締役会長に選任。 1957年7月10日 - 第1次岸改造内閣で国務大臣に就任。日本テレビを離脱(会長辞任)。 1958年6月12日 - 国務大臣を辞任。 1958年7月10日 - 日本テレビ放送網取締役会長に選任、日本テレビに復帰(以後、死去まで役職固定)。 早稲田大学教授の有馬哲夫が、週刊新潮2006年2月16日号で、正力が戦犯不起訴で巣鴨プリズン出獄後にアメリカ中央情報局(CIA)の非公然の工作に協力していたことをアメリカ国立公文書記録管理局によって公開された外交文書(メリーランド州の同局新館に保管されている)を基に明らかにし、反響を呼んだ。有馬は日テレとCIAの関連年表も作成しており、その中でアメリカ対日協議会の面々を登場させ、日テレとの密接な関係を抉り出している。 米国中央情報局は、旧ソ連との冷戦体制のなか、日本に原子力を輸出するために作戦名‘KMCASHIR’という心理戦を繰り広げ、日本国民の原子力に対する恐怖心を取り除くよう、読売新聞率いる正力のメディア力を利用した。アメリカ政府はCIA諜報部員ダニエル・スタンレー・ワトソン(Daniel Stanley Watson, のちに服部智恵子の娘・繁子と結婚し、東南アジア、メキシコでスパイ任務にあたった)を日本へ派遣し、米国のプロパガンダである「平和のための原子力」を大衆に浸透させるために、まずは正力と親しい柴田秀利と接触した。 日本へのテレビ放送の導入と原子力発電の導入について、正力はCIAと利害が一致していたので協力し合うことになった。その結果、正力の個人コードネームとして「PODAM」(ロシア語などで「我、通報す」の意)及び「POJACPOT-1」が与えられ、組織としての読売新聞社、そして日本テレビ放送網を示すコードネームは「PODALTON」と付けられ、この二者を通じて日本政界に介入する計画が「Operation Podalton」と呼ばれた。これらの件に関する大量のファイルがアメリカ国立第二公文書館に残ることになった(アメリカ国立公文書 Records Relating to the Psychological Strategy Board Working Files 1951-53)。正力と共に日本のテレビ放送導入に関わった柴田秀利は「POHALT」というコードネームを与えられた。 ベンジャミン・フルフォードの主張によると、正力をCIAに推薦したのは上院議員カール・ムントであったという。なお、CIAは「正力は思いのままに操れるような人間ではなく、気をつけないと、知らないうちに自分たちを利用しかねない人間だった」と評価しているとされる。 正力は読売ジャイアンツに対して、巨人軍憲章とも呼ばれる遺訓を残している。遺訓は以下の3つ。 巨人軍は常に紳士たれ 巨人軍は常に強くあれ 巨人軍はアメリカ野球に追いつき、そして追い越せ 正力松太郎が1931年から1969年に死去するまで居住していた神奈川県逗子市の邸宅。1939年に増築、1961年に大規模増改築。延床面積254.48平方メートル(蔵除く)。 1965年1月2日に逗子邸宅で新年会が行われ、記念撮影された写真を日刊スポーツ / アフロが所有している。参加者は正力松太郎、正力亨、清水与七郎、川上哲治、柴田勲、広岡達朗、関根潤三、王貞治、金田正一、長嶋茂雄。 正力松太郎の長女梅子(小林與三次)の邸宅が隣接しており、正力の死後、空き家を小林夫妻が管理していたが、2013年に小林梅子が死去。小林梅子の孫で、正力松太郎の曽孫の塚越暁が旧正力邸の管理人兼居住者として名乗りを上げ、2016年に大規模改修。同時期に小林梅子邸は解体されたが、建具や建材は旧正力邸に再利用されている。 2018年9月から、逗子旧邸(応接間16帖、和室10帖、縁側2帖半、庭園)を会議室、イベント、写真撮影の古民家レンタルスペースとして開放している。 2022年2月17日に国の登録有形文化財に登録された。 旧正力家別邸主屋 - 文化遺産オンライン(文化庁) 旧正力家別邸蔵 - 文化遺産オンライン(文化庁) 旧正力家別邸表門 - 文化遺産オンライン(文化庁) 旧正力家別邸主屋 - 国指定文化財等データベース(文化庁) 旧正力家別邸蔵 - 国指定文化財等データベース(文化庁) 旧正力家別邸表門 - 国指定文化財等データベース(文化庁) 【逗子海岸まで徒歩5分】築80年の古民家。庭も利用可。会議利用、展示会、写真撮影に! - スペースマーケット 元々一介の庶民の出だった正力家が富山県射水市屈指の名家として名を成したのは、松太郎の祖父の庄助が、この地に度々災厄をもたらした庄川の氾濫を防いだ功による。江戸嘉永年間(1848年 - 1854年)に庄助の発案になる鉄の金輪(かなわ)は、河川の氾濫で流れた古橋の抗を抜くための道具として卓効を発した。この功により、庄助は奉行から苗字帯刀を許された。正力という姓は、この金輪(かなわ)に命名された正力輪から始まっている。正力家が土建請負業として大をなしたのはそれからだった。 祖父・庄助 父・庄次郎(土建請負業) 母・きよ 前妻・布久子 後妻・波満 長男・亨 … 波満との子 長男嫁・峰子 孫・源一郎 孫・美緒 長女・梅子 … 後妻との間の子 長女婿・小林與三次 孫・塚越陽子 曽孫・塚越暁 二女・利子 … 後妻との間の子 二女婿・関根長三郎 孫・関根達雄 二男・武 … 柳橋の元芸者中村すゞとの間の子 愛人・中村すゞ 津川雅彦『日本プロ野球を作った男たち』(2002年、テレビ東京) 大森立嗣『菊とギロチン』(2018年、映画) 長尾和郎『正力松太郎の昭和史』実業之日本社、1982年 波多野勝『日米野球の架け橋 鈴木惣太郎の人生と正力松太郎』芙蓉書房出版、2013年 読売新聞グループ本社 よみうり(かつて読売ジャイアンツを運営していた企業) スポーツ報知 ウォルト・ディズニー・カンパニー クラブ33 日本の原子力発電所 田邊宗英 真鍋八千代 松本滝蔵 キャピー原田 萩山教嚴 - 正力の議員秘書だった。 務臺光雄 - 正力の大番頭と呼ばれた。 正力松太郎杯国際学生柔道大会 おはよう!こどもショー - 正力が日本テレビ会長時代に放送を開始した子供向け番組で、正力の没後も1980年9月まで続いた(なお、平日版の後を襲ったのは2001年まで続いた『ズームイン!!朝!』である)。 正力松太郎賞 - 日本のプロ野球の発展に大きく貢献した人物に贈られる賞。 日本テレビ放送網 讀賣テレビ放送 北日本放送 ^ 同級生に河合良成(小松製作所会長)、品川主計(読売ジャイアンツ代表)など ^ この時、団体戦で四高は三高に押されて負けムードが漂っていたが、大将である正力が巴投で二段の相手から逆転の一本勝ちをし、四高は優勝した。なお、この時正力自身は白帯だった ^ 巴投げを防がれた所からの送襟絞とする説あり。 ^ 河合、品川のほか、重光葵(外相)、芦田均(首相・外相)、石坂泰三(経団連初代会長)などが同級。柔道と参禅に打ち込んだ。学業の方はまったく振るわず、試験前になると級友のノートを借りるのが東大時代の正力のならわしとなっていた。品川をはじめとする級友たちの間では、「正力があんなにノートを借りまくるのは、自分が勉強するためではなく、ノートを貸した人間の成績を下げるためなのではないか」という悪評が広がった ^ 巣鴨の正力は、娑婆にいる時と変わらぬ傍若無人ぶりで、同房者や収監者たちを閉口させていた。同房者を迷惑がらせたのは、まず正力の大イビキだった。そのイビキは雷鳴以上で、たまりかねた同房者が下駄で正力の枕下の床板を叩いても一向にやむことはなかった ^ 『支倉事件』は、甲賀が正力の新社長就任に際して1927年に『読売新聞』に連載したもの。なお、登場人物名は仮名となっており、正力は「庄司利喜太郎」、また、被告人の弁護にあたった布施辰治は「能勢弁護士」となっている。 ^ OSS出身で説明会と最も深く関わったのは、X-2部長の ジェイムズ・マーフィ である。1000万ドル借款をアメリカ政府から取り付けるための交渉など全般を担当する弁護士として、日テレに雇われていた。説明会にも主催者として直接関わり、出席もしていた。 ^ 日テレで初の地方完全系列局で、務臺光雄が設立に関わった讀賣テレビ放送(読売テレビ。大阪市)の初代会長も務めた。 ^ 2013年5月31日に地上デジタル放送の完全移行に伴い、NHKと他の在京キー局の基幹送信所は東京スカイツリーに再移転した。なお東京タワーは予備送信所としての機能に移行している。 ^ カール・ムント米上院議員は、「VOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)」構想を打ちたて、世界中で広まりつつあった共産主義の撲滅に乗り出した「プロパガンダの雄」である。1951年(昭和26年)8月13日、ムントは「日本全土に総合通信網を民間資本で建設する」と発表した。その翌年、正力はテレビ放送免許を取得、1953年(昭和28年)8月28日、日本テレビが開局した。 ^ 時事通信社 1920. ^ 『官報』第5781号、昭和21年4月25日。 ^ . 読売巨人軍公式サイト. https://www.giants.jp/record/g-history/1/+2020年4月6日閲覧。 ^ “コトバンク「正力松太郎」”. https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A3%E5%8A%9B%E6%9D%BE%E5%A4%AA%E9%83%8E-79962 ^ “正力松太郎(しょうりきまつたろう)とは”. コトバンク. 2020年1月1日閲覧。 ^ 梨本宮・平沼・平田ら五十九人に逮捕命令(昭和20年12月4日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p341-p342 毎日コミュニケーションズ刊 1994年 ^ CIA Records - Name Files ^ Research Aid: Cryptonyms and Terms in Declassified CIA Files Nazi War Crimes and Japanese Imperial Government Records Disclosure Acts ^ ティム・ワイナー「CIA秘録」文藝春秋 ^ 角間隆 (1979). ドキュメント日商岩井. 徳間書店 ^ 川端治 (1963). 自民党 その表と裹. 新日本出版社 ^ 杉山隆男『メディアの興亡』(文藝春秋、1986年)349ー350頁。 ^ 佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』19頁 ^ 佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』23頁 ^ 嘉納治五郎師範の教え、講道館の殿堂、正力松太郎、講道館HP、閲覧2017年11月14日 ^ 佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』25頁 ^ 記憶を刻む: 正力松太郎(震災当時・警視庁官房主事、後に読売新聞社主) ^ 激動の昭和 1989, p. 28. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、52頁。 ^ 『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』517-518頁 ^ CIA Operative Daniel Stanley Watson and CIA Informant Hidetoshi Shibata Richard Krooth, Morris Edelson, Hiroshi Fukurai共著"Nuclear Tsunami: The Japanese Government and America's Role in the Fukushima Disaster" Lexington Books, 2011年, p18- ^ 日本 原発災害はCIA冷戦戦略から始まった ハンギョレ新聞、2011.10.01 ^ 後藤田正晴 (1998). 情と理<上>. 講談社. pp. 156-157 ^ “名誉市民”. 高岡市. 2022年8月14日閲覧。 ^ “射水市の名誉市民”. 射水市. 2022年8月14日閲覧。 ^ 日本テレビ放送網株式会社社史編纂室 編『大衆とともに25年 沿革史』日本テレビ放送網、1978年8月28日、195頁。NDLJP:11954641/110。 「第3章 激動期の日本テレビ放送網 9.正力会長の急逝」 ^ 読売サッカークラブ~東京ヴェルディ40周年記念誌発行委員会 編『クラブサッカーの始祖鳥 読売クラブ~ヴェルディの40年』東京ヴェルディ1969フットボールクラブ、2010年、3,8-12,15,31,54,55頁。 ^ 成田十次郎『サッカーと郷愁と 戦後少年のスポーツと学問の軌跡』不昧堂出版、2010年、105-107頁。ISBN 978-4-8293-0481-5。 ^ 高校サッカーと民放テレビ - サロン2002オフィシャルサイト-7頁、3月例会報告 -「サロン2002in岡山」 - サロン2002オフィシャルサイト(archive) ^ スポーツナビ|サッカー|トヨタカップを呼んだ男たち 第2回 坂田信久(archive) ^ 正力松太郎が囲碁殿堂入り―第15回囲碁殿堂表彰委員会で選出― 日本棋院 ^ 木村愛二. “(8-2)「朝鮮人暴動説」を新聞記者を通じて意図的に流していた正力”. https://www.jca.apc.org/jca-net/ja. 2019年7月31日閲覧。 ^ ナターシャ・スタルヒン著「ロシアから来たエース」(PHP文庫) ^ NHK「こだわり人物伝」 ^ 『巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀』(文藝春秋、1994年) ^ 読売新聞社長、暴漢に襲われ重傷『中外商業新報』昭和10年2月23日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p287 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ 襲撃犯人に懲役3年の判決『中外商業新報』昭和10年6月13日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p288) ^ 有馬哲夫 『日本テレビとCIA-発掘された「正力ファイル」』 新潮社 2006年10月 pp.14-31. ^ http://www.f.waseda.jp/tarima/NTV%20and%20CIA.htm ^ Truman Library - Truman Papers: Psychological Strategy Board Files ^ Foreign Relations of the United States, 1964–1968, Volume XXIX, Part 2, Japan - Historical Documents - Office of the Historian ^ ベンジャミン・フルフォード『ステルス・ウォー』 講談社 2010年3月 ISBN 9784062161244, Page238 ^ 有馬哲夫『日本テレビとCIA』、新潮社、2006年 ^ 佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』21頁 ^ 佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』27頁 ^ 佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』175頁 ^ 佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』447頁 ^ 佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』445頁 ^ 関根利子さん死去 よみうりランド社長関根達雄氏の母 共同通信47News 2007年9月25日閲覧 ^ 佐野眞一著『巨怪伝 下 正力松太郎と影武者たちの一世紀』394頁 自伝 『正力松太郎 悪戦苦闘』〈人間の記録〉日本図書センター、1999年(復刻新版) 佐野眞一 『巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀』 文藝春秋、1994年、文春文庫(上・下)、2000年 柴田秀利 『戦後マスコミ回遊記』 中央公論社、1985年、中公文庫(上・下)、1995年 春名幹男 『秘密のファイル CIAの対日工作』(上・下) 共同通信社、2000年、新潮文庫、2003年 神松一三 『「日本テレビ放送網構想」と正力松太郎』 三重大学出版会、2005年 有馬哲夫 『日本テレビとCIA 発掘された「正力ファイル」』 新潮社、2006年、宝島社・文庫、2011年 有馬哲夫 『原発・正力・CIA 機密文書で読む昭和裏面史』 新潮新書、2008年 有馬哲夫 『昭和史を動かしたアメリカ情報機関』 平凡社新書、2008年 有馬哲夫 『CIAと戦後日本』 平凡社新書、2010年 Richard Krooth, Morris Edelson, 福来寛(カリフォルニア大学サンタクルーズ校教授)共著"Nuclear Tsunami: The Japanese Government and America's Role in the Fukushima Disaster" Lexington Books, 2011年 『ニューズウィーク日本版別冊 激動の昭和』TBSブリタニカ、1989年。 時事通信社『時事年鑑』《大正9年版》時事通信社、1920年。https://dl.ndl.go.jp/pid/3018570/1/394。 正力松太郎 略歴 高岡市秘書課 名誉市民 正力松太郎 肖像 濱田信夫、新聞経営の革新と大衆文化の演出 : 正力松太郎の企業家活動をめぐって」 『紀要visio : research reports』 2005年 32巻 p. 23-34, doi:10.15005/00000130, 九州ルーテル学院大学 表 話 編 歴 正力松太郎1952.10-1955.11 清水与七郎1955.11-1967.7 福井近夫1967.7-1970.5 小林與三次1970.5-1981.6 高木盛久1982.6-1989.5 佐々木芳雄1989.6-1992.11 氏家齊一郎1992.11-2001.6 萩原敏雄2001.6-2003.11 間部耕苹2003.11-2005.6 久保伸太郎2005.6-2009.3 細川知正2009.3-2011.6 大久保好男2011.6-2019.6 小杉善信2019.6-2021.6 杉山美邦2021.6-2022.6 石澤顕2022.6- 正力松太郎1957.2-1957.7 正力松太郎1958.7-1969.10 小林與三次1981.6-1999.12 氏家齊一郎2001.6-2005.6 氏家齊一郎2009.3-2011.3 細川知正2011.6-2012.6 大久保好男2019.6-2022.6 杉山美邦2022.6- 大久保好男2012.10-2019.6 小杉善信2019.6-2020.6 杉山美邦2020.6-2022.6 石澤顕2022.6- 表 話 編 歴 務臺光雄1957.2-1958.2 新田宇一郎1958.2-1963.5 岡野敏成1970.7-1972.5 八反田角一郎1972.5-1979.12 橘英雄1980.5-1982.12 青山行雄1983.1-1993.9 中野達雄1993.9-1996.6 土井共成1996.6-2002.6 泉巌夫2002.6-2003.10 土井共成2003.10-2005.6 高田孝治2005.6-2009.6 越智常雄2009.6-2011.6 望月規夫2011.6-2016.6 伝川幹2016.6-2019.6 大橋善光2019.6-2024.6 松田陽三2024.6-現在 正力松太郎1958.8-1969.10 務臺光雄19??.??-19??.?? 青山行雄1993.9-1996.6 中野達雄1996.6-2000.6 土井共成2002.6-2009.6 高田孝治2009.6-2011.6 越智常雄2011.6-2016.6 望月規夫2016.6-2019.6 伝川幹2019.6-2020.6 大橋善光2024.6-現在 表 話 編 歴 正力松太郎 1934 - 1964.5 正力亨 1964.5 - 1996.12 渡邉恒雄 1996.12 - 2004.8 滝鼻卓雄 2004.8 - 2011.6 桃井恒和 2011.6 - 2011.11 白石興二郎 2011.11 - 2016.3 老川祥一 2016.3 - 2018.7 山口寿一 2018.7 - 表 話 編 歴 東京本社(東京都千代田区) 大阪本社(大阪府大阪市北区) 西部本社(福岡県福岡市中央区) 中部支社(愛知県名古屋市中区) 北海道支社(北海道札幌市中央区) 北陸支社(富山県高岡市) 読売新聞 ジャパン・ニューズ 読売新聞縮刷版 読売新聞国際版 読売KODOMO新聞 読売中高生新聞 中央公論 婦人公論 月刊ジャイアンツ 読売ウイークリー 大相撲 報知新聞社 / スポーツ報知西部本社(スポーツ報知) 福島民友新聞社 中央公論新社 旅行読売出版社 日本テレビホールディングス
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2010年3月31日解散。業務は読売エージェンシーへ移管。 作品がテレビ放映される場合は日本テレビと系列局のみにネットされる。 表 話 編 歴 大木喬任 木戸孝允 西郷従道 寺島宗則 河野敏鎌 福岡孝弟 大木喬任 森有礼 榎本武揚 芳川顕正 大木喬任 河野敏鎌 井上毅 西園寺公望 蜂須賀茂韶 濱尾新 外山正一 尾崎行雄 犬養毅 樺山資紀 松田正久 菊池大麓 児玉源太郎 久保田譲 桂太郎 牧野伸顕 小松原英太郎 長谷場純孝 柴田家門 奥田義人 大岡育造 一木喜徳郎 高田早苗 岡田良平 中橋徳五郎 鎌田栄吉 犬養毅 岡野敬次郎 江木千之 岡田良平 三土忠造 水野錬太郎 勝田主計 小橋一太 田中隆三 鳩山一郎 斎藤実 松田源治 川崎卓吉 潮恵之輔 平生釟三郎 林銑十郎 安井英二 木戸幸一 荒木貞夫 河原田稼吉 松浦鎮次郎 橋田邦彦 東條英機 岡部長景 二宮治重 兒玉秀雄 太田耕造 松村謙三 前田多門 安倍能成 田中耕太郎 高橋誠一郎 森戸辰男 下条康麿 高瀬荘太郎 天野貞祐 岡野清豪 大達茂雄 安藤正純 松村謙三 清瀬一郎 灘尾弘吉 松永東 灘尾弘吉 橋本龍伍 松田竹千代 荒木万寿夫 愛知揆一 中村梅吉 有田喜一 剱木亨弘 灘尾弘吉 坂田道太 高見三郎 稲葉修 奥野誠亮 三原朝雄 永井道雄 海部俊樹 砂田重民 内藤誉三郎 谷垣専一 田中龍夫 小川平二 瀬戸山三男 森喜朗 松永光 藤尾正行 塩川正十郎 中島源太郎 西岡武夫 石橋一弥 保利耕輔 井上裕 鳩山邦夫 森山眞弓 赤松良子 与謝野馨 島村宜伸 奥田幹生 小杉隆 町村信孝 有馬朗人 中曽根弘文 大島理森 町村信孝 正力松太郎 宇田耕一 正力松太郎 三木武夫 高碕達之助 中曽根康弘 荒木万寿夫 池田正之輔 近藤鶴代 佐藤栄作 愛知揆一 上原正吉 有田喜一 二階堂進 鍋島直紹 木内四郎 西田信一 平泉渉 木内四郎 前田佳都男 森山欽司 足立篤郎 佐々木義武 前田正男 宇野宗佑 熊谷太三郎 金子岩三 長田裕二 中川一郎 安田隆明 岩動道行 竹内黎一 河野洋平 三ッ林弥太郎 伊藤宗一郎 宮崎茂一 中村喜四郎 斎藤栄三郎 大島友治 山東昭子 谷川寛三 中島衛 渡辺省一 江田五月 近江巳記夫 田中眞紀子 浦野烋興 中川秀直 近岡理一郎 谷垣禎一 竹山裕 有馬朗人 中曽根弘文 大島理森 町村信孝 町村信孝 遠山敦子 河村建夫 中山成彬 小坂憲次 伊吹文明 渡海紀三朗 鈴木恒夫 塩谷立 川端達夫 高木義明 中川正春 平野博文 田中眞紀子 下村博文 馳浩 松野博一 林芳正 柴山昌彦 萩生田光一 末松信介 永岡桂子 盛山正仁 阿部俊子 省庁再編により、文部大臣と科学技術庁長官は文部科学大臣に統合された。テンプレート中の科学技術庁長官は国務大臣としてのもの。 カテゴリ 表 話 編 歴 正力松太郎 宇田耕一 正力松太郎 三木武夫 高碕達之助 中曽根康弘 荒木万寿夫 池田正之輔 三木武夫 近藤鶴代 佐藤栄作 愛知揆一 上原正吉 有田喜一 二階堂進 鍋島直紹 木内四郎 西田信一 平泉渉 木内四郎 中曽根康弘 前田佳都男 森山欽司 足立篤郎 佐々木義武 前田正男 宇野宗佑 熊谷太三郎 金子岩三 長田裕二 中川一郎 安田隆明 岩動道行 竹内黎一 河野洋平 三ッ林弥太郎 伊藤宗一郎 宮崎茂一 中村喜四郎 斎藤栄三郎 大島友治 山東昭子 谷川寛三 中島衛 渡辺省一 江田五月 近江巳記夫 田中眞紀子 浦野烋興 中川秀直 近岡理一郎 谷垣禎一 竹山裕 有馬朗人 中曽根弘文 大島理森 町村信孝 内閣府に編入 表 話 編 歴 辻二郎 青木均一 小坂善太郎 小原直 大麻唯男 大久保留次郎 正力松太郎 青木正 石原幹市郎 山崎巌 周東英雄 安井謙 篠田弘作 早川崇 赤沢正道 吉武恵市 永山忠則 塩見俊二 藤枝泉介 赤沢正道 荒木万寿夫 中村寅太 木村武雄 江﨑真澄 町村金五 福田一 天野公義 小川平二 加藤武徳 渋谷直蔵 後藤田正晴 石破二朗 安孫子藤吉 世耕政隆 山本幸雄 田川誠一 古屋亨 小沢一郎 葉梨信行 梶山静六 坂野重信 渡部恒三 奥田敬和 吹田愰 塩川正十郎 村田敬次郎 佐藤観樹 石井一 野中広務 深谷隆司 倉田寛之 白川勝彦 上杉光弘 西田司 野田毅 保利耕輔 西田司 伊吹文明 村井仁 谷垣禎一 小野清子 村田吉隆 沓掛哲男 溝手顕正 泉信也 林幹雄 佐藤勉 林幹雄 中井洽 岡崎トミ子 中野寛成 山岡賢次 松原仁 小平忠正 古屋圭司 山谷えり子 河野太郎 松本純 小此木八郎 山本順三 武田良太 小此木八郎 棚橋泰文 二之湯智 谷公一 松村祥史 坂井学 表 話 編 歴 小日山直登 田中武雄 三土忠造 村上義一 平塚常次郎 増田甲子七 苫米地義三 北村徳太郎 岡田勢一 小沢佐重喜 大屋晋三 山崎猛 石井光次郎 三木武夫 吉野信次 宮沢胤勇 中村三之丞 永野護 重宗雄三 楢橋渡 南好雄 木暮武太夫 斎藤昇 綾部健太郎 松浦周太郎 中村寅太 荒舩清十郎 藤枝泉介 大橋武夫 中曽根康弘 原田憲 橋本登美三郎 丹羽喬四郎 佐々木秀世 新谷寅三郎 徳永正利 江藤智 木村睦男 石田博英 田村元 福永健司 森山欽司 地崎宇三郎 塩川正十郎 小坂徳三郎 長谷川峻 細田吉蔵 山下徳夫 三塚博 橋本龍太郎 石原慎太郎 佐藤信二 山村新治郎 江藤隆美 大野明 村岡兼造 奥田敬和 越智伊平 伊藤茂 二見伸明 亀井静香 平沼赳夫 亀井善之 古賀誠 藤井孝男 川崎二郎 二階俊博 森田一 扇千景 木村小左衛門 一松定吉 一松定吉 益谷秀次 増田甲子七 周東英雄 野田卯一 佐藤栄作 戸塚九一郎 小沢佐重喜 竹山祐太郎 馬場元治 南条徳男 根本龍太郎 遠藤三郎 村上勇 橋本登美三郎 中村梅吉 河野一郎 小山長規 瀬戸山三男 橋本登美三郎 西村英一 保利茂 坪川信三 根本龍太郎 西村英一 木村武雄 金丸信 亀岡高夫 小沢辰男 仮谷忠男 竹下登 中馬辰猪 長谷川四郎 櫻内義雄 渡海元三郎 渡辺栄一 斉藤滋与史 始関伊平 内海英男 水野清 木部佳昭 江藤隆美 天野光晴 越智伊平 小此木彦三郎 野田毅 原田昇左右 綿貫民輔 大塚雄司 山崎拓 中村喜四郎 五十嵐広三 森本晃司 野坂浩賢 森喜朗 中尾栄一 亀井静香 瓦力 関谷勝嗣 中山正暉 扇千景 増田甲子七 周東英雄 野田卯一 佐藤栄作 戸塚九一郎 大野伴睦 緒方竹虎 三好英之 大久保留次郎 正力松太郎 川村松助 鹿島守之助 石井光次郎 山口喜久一郎 村上勇 西川甚五郎 小沢佐重喜 川島正次郎 佐藤栄作 増原惠吉 福田篤泰 前尾繁三郎 二階堂進 木村武雄 野田武夫 西田信一 渡海元三郎 福田一 江﨑真澄 町村金五 福田一 天野公義 小川平二 加藤武徳 渋谷直蔵 後藤田正晴 原健三郎 松野幸泰 加藤六月 稲村佐近四郎 河本嘉久蔵 古賀雷四郎 綿貫民輔 粕谷茂 坂元親男 井上吉夫 阿部文男 砂田重民 木部佳昭 谷洋一 伊江朝雄 北修二 上原康助 佐藤守良 小里貞利 小沢潔 高木正明 岡部三郎 稲垣実男 鈴木宗男 井上吉夫 川崎二郎 二階俊博 森田一 扇千景 西村英一 丹羽兵助 金丸信 天野光晴 田沢吉郎 櫻内義雄 中野四郎 園田清充 原健三郎 松野幸泰 加藤六月 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佐村嘉一郎 - 田畑昇太郎 - 岡野好太郎 - 正力松太郎 - 中野正三 - 栗原民雄 - 小谷澄之 - 醍醐敏郎 - 安部一郎 - 大沢慶己 アントン・ヘーシンク - チャールズ・パーマー - ジョージ・カー 表 話 編 歴 04 徳川家康、本因坊算砂、本因坊道策、本因坊秀策 05 本因坊丈和 06 大倉喜七郎、本因坊秀和 07 本因坊秀甫 08 本因坊秀栄、本因坊秀哉 09 瀬越憲作 10 木谷実 11 岩本薫 12 二世安井算哲、陳毅 13 喜多文子 14 橋本宇太郎 15 呉清源 16 寛蓮、井上幻庵因碩 17 正岡子規 18 正力松太郎 19 本因坊栄寿、趙南哲 20 藤沢秀行 21 本因坊秀格 FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ イスラエル アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research SNAC 正力松太郎 20世紀日本の実業家 日本の内務官僚 日本の警察官 日本の警察官僚 貴族院勅選議員 昭和時代の貴族院議員 日本民主党の衆議院議員 自由民主党の衆議院議員 富山県選出の衆議院議員 昭和時代戦後の衆議院議員 在職中に死去した衆議院議員 昭和時代戦後の閣僚 日本の国家公安委員会委員長 北海道開発庁長官 科学技術庁長官 日本の野球殿堂表彰者 囲碁殿堂表彰者 日本野球機構の人物 A級戦犯容疑者 日本の反共主義者 アメリカ中央情報局の人物 日本の原子力関連人物 公職追放者 戦前の読売新聞社の人物 読売新聞グループの人物 読売ジャイアンツ関連人物 日本テレビの人物 プロ野球のオーナー 京成電鉄 日本の企業創立者 大日本武徳会の武道家 講道館柔道殿堂 プロレスの関係者 力道山 日本のボクシングに関する人物 従二位受位者 勲一等旭日大綬章受章者 勲一等旭日桐花大綬章受章者 旧制第四高等学校出身の人物 東京大学出身の人物 富山県出身の人物 1885年生 1969年没 ISBNマジックリンクを使用しているページ プロジェクト人物伝項目 座標が指定されていない記事 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 J9U識別子が指定されている記事 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2024/11/19 23:19更新
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syouriki matsutarou
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