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武豊の情報 (たけゆたか)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

武豊の情報(たけゆたか) 競馬 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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もしもしロボ

武 豊さんについて調べます

■名前・氏名
武 豊
(読み:たけ ゆたか)
■職業
競馬騎手
■武豊の誕生日・生年月日
1969年3月15日 (年齢55歳)
酉年(とり年)、魚座(うお座)
■出身地・都道府県
滋賀出身

(昭和44年)1969年生まれの人の年齢早見表

武豊と同じ1969年生まれの有名人・芸能人

武豊と同じ3月15日生まれの有名人・芸能人

武豊と同じ出身地滋賀県生まれの有名人・芸能人


武豊と関係のある人

千田輝彦: 1991年には武豊が別馬に騎乗する時の代打としてスカーレットブーケに3度騎乗し、4歳牝馬特別(東)では単枠指定にされながら2着に破れて気持ちがへこんだが、エリザベス女王杯では岡が騎乗するリンデンリリーの3着、阪神牝馬特別でも3着と好走。


野口かおる: 「「犬夜叉」舞台化!犬夜叉役は金爆の喜矢武豊、かごめ役は乃木坂46若月佑美 - コミックナタリー」『コミックナタリー』ナターシャ、2017年2月6日。


安藤勝己: 11月17日には史上2位記録である騎乗機会6連勝を遂げるなど、年間勝利数では中央移籍後最多の136勝(全国3位)、地方・国外の成績を合わせた勝率では2割3分6厘7毛を記録し、過去5年間、JRA賞の騎手タイトルを独占していた武豊を抑え、最高勝率騎手となった。


森秀行: GIを制した管理馬の中でシーキングザパール、アグネスワールド、エアシャカールの主戦騎手を務めた武豊は、森について「『騎手よりも調教師のほうが上の立場』などと考える人ではありません。


塩原恒夫: 「今、残り400(m)の標識を過ぎて、直線コースにこれから向かってまいります!さあ、横に大きく広がってくる中、ここがディープの晴れ舞台となるか、早くも、ディープインパクトが先頭に立っている!マイネルレコルトも頑張っている!それからアドマイヤジャパンも来ている!一気に突き放すか、ディープインパクト先頭に立っている!それからシックスセンスがなんと、2番手に上がってきている!先頭はディープインパクト〜〜!武豊、三冠馬とのめぐり逢い!まずは皐月、第一関門突破です!そして2着にはなんと、シックスセンスが飛び込んできました!」(2005年皐月賞)


田原成貴: また、同時期に競馬学校を卒業した武豊は、兄弟子の河内洋と田原を最も参考にしたといい、「僕にとってのアイドルだった」と回想している。


河内洋: こうした活躍の一方で、1990年代以降は弟弟子の武豊がトップジョッキーの地位を占め、河内は関西の2、3番手(河内が3番手の場合は2番目には田原が入る)が定位置となっていく。


加賀武見: 最多賞金獲得:7回(1962年 - 1966年、1968年、1969年) ※7回は武豊・福永洋一に次ぐ歴代3位タイ、5年連続は武・福永に次ぐ歴代4位タイ。


福永祐一: 11月には1987年の武豊以来となる新人50勝を達成。


明治天皇: 3月29日午後3時に鉄道で名古屋を発した天皇は、午後4時に武豊駅に到着。八重山艦に搭乗し、その夜は武豊港内で宿泊。翌30日午前4時30分に発艦し、鳥羽港付近での海軍演習を統率後、武豊港へ戻り、午後5時20分に武豊駅を発車し、十数分で半田駅に到着。


クリストフ=ルメール: 8375戦目での達成は武豊の9189戦を上回る史上最少騎乗回数での達成。


浅見国一: 騎手がエアロフォームの勝負服を着用してレースに臨んだのは、武豊がヤマニングローバルに騎乗したときが最初であったが、同馬は2歳時に将来を嘱望されながら右前脚に致命的な骨折を生じ、一時は安楽死の措置さえ検討された。


近藤利一: その後、1月19日のデビュー戦では生前の意向により武豊が騎乗。


山口祥行: “金爆・喜矢武豊 Vシネ人気任侠シリーズ「日本統一」新レギュラー 「初のリーゼントで、拳銃も初めて」”. スポーツ報知 (2022年7月25日). 2022年12月16日閲覧。


クリストフ=ルメール: 2002年12月7日に武豊が阪神でマークしたJRA最多タイ記録に並んだ。


福永祐一: また12月6日と7日に行われた第22回ワールドスーパージョッキーズシリーズ(WSJS) に、負傷した武豊騎手に代わっての出場。


池添謙一: 武豊が2023年2月4日にJRA通算4400勝を小倉競馬場で達成した際には、当時落馬負傷で休業中であったにもかかわらず小倉まで足を運び、4400勝記念のプラカードを掲げて記念写真に収まった。


福永祐一: 鞍上には武豊を迎え、積極的に逃げるもゴール寸前でハナ差だけ交わされ2着。


横山典弘: 同年9月26日の中山競馬場第3競走で落馬負傷し頚髄損傷、頭蓋骨骨折の重傷を負い、当初は騎手生命の危機にさらされていたが、1か月後の10月27日には美浦トレーニングセンターに姿を現し、当日対面した武豊が自身のホームページで「ジャパンカップあたりでは馬に乗っていそう」と述べるほどの回復を見せ、11月13日に復帰を果たした。


松本好雄: ただし2007年、メイショウサムソンの凱旋門賞挑戦に際しては、敢えて騎手を石橋守から武豊に替えさせた。その後2010年代に入り武豊や、武幸四郎を本格的に自身の競走馬の主戦騎手に据えるようになった。


後藤浩輝: この突然の死は競馬ファンのみならず、地方競馬を含めた日本の競馬サークルにも大きな衝撃を与え、死去当日からJRA所属騎手の武豊や蛯名正義、福永祐一らのコメントの他にも、NAR所属騎手である達城龍次や安藤洋一らが自身のTwitterで哀悼の意を表明するなど、各方面から追悼コメントが各新聞や各ウェブサイトに掲載されるなどした。


稲嶺進: 現職の稲嶺は2010年、2014年の市長選に引き続き辺野古への移設反対を表明し、社民党・日本共産党・自由党・沖縄社会大衆党・民進党・立憲民主党の推薦を受け、再選を目指して出馬したが、新人の渡具知武豊に得票率9.2%の大差をつけられ落選。


家田荘子: 愛知県知多郡武豊町出身。


藤岡康太: 訃報に際し、日本中央競馬会理事長の吉田正義、日本騎手クラブ会長の武豊をはじめ、国内外の競馬関係者や芸能関係者などから追悼するメッセージが多く寄せられている。


安藤勝己: 勝己や福永洋一と親交をもった作家・プロ雀士の狩野洋一は、「天才騎手」の定義について、「豊富な技術の引き出しをもち、局面に応じて適切に選択できる者」とした上で、中央競馬史における「天才騎手」として福永洋一、武豊、勝己の三者を挙げた。武豊と福永洋一を足して2で割った安藤君は凄いと思う。また、武豊は「天才」について、「強いて言うなら僕とはアプローチの仕方が違う、理解を越えた騎乗で勝つ人」とし、「安藤さんは僕からしたら『えっ!』という乗り方で勝ってしまう。


杉本清: そうこうするうち勝負のゲン担ぎにこだわる武豊から「僕の馬に◎を打たないで欲しい(杉本に本命印を打たれると来なくなる)」と言われることとなった。


武幸四郎: 実兄は武豊


宮林康: 武豊TV!


クリストフ=ルメール: この勝利により、武豊、蛯名正義に続きJRA主催の牝馬限定戦GI(阪神ジュベナイルフィリーズ、桜花賞、優駿牝馬、秋華賞、ヴィクトリアマイル、エリザベス女王杯の6レース)の完全制覇を達成した。これ以降のGI勝ちはなかったが、先述の通り年間215勝という驚異的な記録を打ち立て、獲得賞金を46億6024万円として武豊が2005年に記録した44億1404万2000円を更新するなどの活躍等により同年の騎手部門を独占し、騎手大賞を獲得。


藤沢和雄: 1998年には管理馬タイキシャトルがフランスでジャック・ル・マロワ賞を岡部の騎乗により勝利する(なお7日前には森秀行管理のシーキングザパールが鞍上武豊でモーリス・ド・ゲスト賞を勝利している)。


武豊の情報まとめ

もしもしロボ

武 豊(たけ ゆたか)さんの誕生日は1969年3月15日です。滋賀出身の競馬騎手のようです。

もしもしロボ

エピソード・逸話、騎乗成績などについてまとめました。現在、卒業、テレビ、引退、事故、結婚、父親に関する情報もありますね。今年の情報もありました。武豊の現在の年齢は55歳のようです。

武豊のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

武 豊 (たけ ゆたか、1969年(昭和44年)3月15日 - )は、日本中央競馬会(JRA)の騎手。栗東トレーニングセンター所属で現在はフリー。日本騎手クラブ会長(2010年~)。父は元騎手・元調教師の武邦彦で、弟に元騎手で現調教師の武幸四郎がいる。

デビューの年に新人最多勝記録(当時)を更新し2年目の菊花賞でGIを制覇。3年目で全国リーディングを獲得。その後も活躍を続けJRA全国リーディングジョッキーは18回獲得(歴代最多)し、騎手大賞は9回獲得(歴代最多)。通算GI勝利数は地方、海外含めて100勝以上を記録(歴代最多)。その他にも通算4000勝を超えるJRA歴代最多勝記録、および歴代最多騎乗数記録、東京優駿最多の6勝を挙げるなど数々のJRA記録を更新、保持し「日本競馬界のレジェンド」と称されているほどの日本を代表する騎手である。

祖先は薩摩国出身の武家であり、薩摩藩士の園田家から武家へ養子に入った曽祖父の彦七は函館大経の門下生となる。祖父芳彦は馬主協会元会長。父邦彦は元騎手・元調教師であり、弟幸四郎もJRA所属の元騎手(1997年3月~2017年2月)・現調教師(2017年3月~)である。妻は元タレントの佐野量子。小中学校時代の同級生に調教師の池江泰寿がいる。

1969年、父邦彦、母洋子夫妻の三男として京都府に生まれた。翌1970年、武一家は現在の栗東市栗東トレーニングセンターに転居した。住まいのそばに厩舎があるため、厩舎にいる馬にニンジンを与えてから出かけるのが武の日課になっていた。物心つく前から身近な環境で馬と暮らしていたこと、また騎手だった父の姿を見ていたことが影響し、武は物心ついたころには「騎手になりたい」という思いが芽生えていたという。1975年、栗東町立金勝小学校に入学。このころから競馬が大好きで、同級生の池江泰寿と学校で競馬の話ばかりしていた。小学校2年生の時にはすでに東京優駿(日本ダービー)が特別な競走であることを理解しており、将来騎手となって日本ダービーを勝つことを夢見るようになっていた。1979年小学校5年生の時、栗東乗馬苑の少年団の一員となり、本格的に乗馬を習い始めた。当時指導員だった竹之下満義は武の騎乗について次のように回顧している。「すごくバランスが良くて馬上での据わりが普通の子と全く違った。とにかく動きが柔らかく、他の人が敬遠するような癖のある馬に乗っても全然バウンドしないしコースを綺麗に回ってくる。馬も彼が乗ると嫌がらないんです。馬が暴れても鞭を使わずになだめて御していました。将来絶対トップジョッキーになると思いました」。1981年春、卒業文集に「将来の夢は騎手」と記し、金勝小学校を卒業。そして栗東中学校に入学し、中学生になっても相変わらず乗馬苑に通い、乗馬を続けていた。1984年春、騎手課程第3期生としてJRA競馬学校に入学。同期には蛯名正義、塩村克己、芹沢純一などがいる。当時教官だった荻野忠二、真家眞らは武の馬乗りの技術は入学当初から高かったと話している。空き時間になると、撮影された自分や他生徒の騎乗映像をよく再生して研究していたという。またアメリカの競馬雑誌、ブラッドホースの写真を食い入るように見ていたり、クリス・マッキャロンやゲイリー・スティーヴンスといったアメリカの一流騎手が叩き合う映像を、ワクワクしながら何度もリピートしたりと、アメリカの競馬に憧れを抱くようになっていた。2年生の10月、騎手デビュー後に所属する栗東・武田作十郎厩舎の実習生となり、3年生の9月まで実習を行った。武は実技はもちろん馬学などの成績もよく、学年トップで競馬学校を卒業した。

1987年(昭和62年)2月17日、競馬学校を卒業。 栗東の武田作十郎厩舎所属となり念願の騎手デビューを果たす。武田作十郎厩舎に所属したことにより、武は河内洋の弟弟子となった。3月1日阪神4レースにアグネスディクターで初騎乗。同3月7日、阪神3レースでダイナビショップに騎乗し初勝利。9月12日、ケイアモールで42勝目を挙げ、小屋敷昭が持っていた関西新人最多勝記録を更新した。10月11日、京都大賞典でトウカイローマンに騎乗し、重賞初制覇を果たす。11月14日、リードトライデントで59勝目を挙げ、加賀武見が保持していた新人最多勝記録を27年ぶりに更新した。最終的には69勝を挙げ、JRA賞最多勝利新人騎手を受賞した。

1988年(昭和63年)菊花賞でスーパークリークに騎乗。最後の直線入口で、以前自身が騎乗経験のあるカツトクシンに前を塞がれていたが、カツトクシンが外に膨れる癖を知っていた武は慌てず、内が開くまで動かずに待機。思惑通り開けた内を通り、最後は2着に5馬身突き放して勝利。GI競走初勝利を飾り、19歳8か月でJRA史上最年少クラシック制覇を達成した。そしてこの冷静で頭脳的な騎乗を周囲から絶賛され、「天才」として脚光を浴びるようになった。さらに武はこの年113勝を挙げ、史上最年少で関西リーディングを獲得。競馬サークルの内外に強烈なインパクトを与えた。

1989年(昭和64年、平成元年)シャダイカグラ、イナリワン、スーパークリークでGIを4勝、年間133勝を挙げ、デビュー3年目にして初のJRA全国リーディングジョッキーを獲得。 武の活躍はスポーツ紙や競馬雑誌以外の紙媒体やテレビでも度々取り上げられるようになり、『武豊』という名前と顔が日本中に知られるようになった。武はデビュー当時、競馬関係者や競馬ファンから「タケクニさんの息子」と認識されていたが、このころには父である邦彦が競馬ファンから「タケパパ」と呼ばれるようになり、認識度の上ではすでに父を逆転していた。折しも日本はバブル景気による空前の好景気であり、その波に乗って日本中央競馬会がCI戦略を含む一連のキャンペーンを成功させたことなどにより、日本に第二次競馬ブームが巻き起こり、同時期に頭角を現した武はこの競馬ブームの主役となった。

1990年(平成2年)武と共に競馬ブームの主役となっていたオグリキャップとコンビを組み、安田記念、有馬記念を制した。とりわけすでに「燃え尽きた怪物」と言われていたオグリキャップを、引退レースで復活勝利に導いた有馬記念は「奇跡のラストラン」として語り継がれるレースとなった。武とオグリキャップの活躍により、日本中央競馬会の売上げは爆発的に伸び、競馬ブームの盛り上がりはピークに達した。武は平成三強と呼ばれたスーパークリーク、イナリワン、オグリキャップの全てに騎乗した唯一の騎手となった。

武は競馬関係以外のメディアから脚光を浴びるようになると、時間の許す限り各方面のメディアの取材に積極的に応じていった。その理由について武は、「競馬サークルが世間一般から偏見の目で見られているのを子供の時から感じていたんです。競馬サークル外に自分が積極的に出ることで、こうした偏見を無くしたいと思ったんです」と語っている。武はこうした競馬界そのものを変革したいという意思を持って競馬サークルの外へ積極的に飛び出していき、若い女性を中心とした競馬を知らなかった層の目を引き付け、競馬に付きまとっていた暗い賭博のイメージを明るいスポーツのイメージに変革させることに貢献し、競馬界の主役的役割を担うようになっていった。

武は競馬界における自分の立場、自分の使命について、「競馬の世界では自分が発信力のある立場であることは感じている。例え自分が気が進まなくても、『武豊』が競馬界のためにやらなければならないと思うからこそやることもある。『武豊』というキャラクター的な存在を感じている部分はある」と、自分が発信力のある立場であることを自覚しつつ、自分とは別に『武豊』というキャラクターの存在を意識して行動することを心掛けているという。

競馬の祭典と呼称され、全てのホースマンの夢舞台といわれる東京優駿(日本ダービー)。 武はその日本ダービーについて、「子供のころ、騎手になりたいと思って将来の自分を思い描いた時、浮かんでくるのは日本ダービーを勝つ姿であった」と述べており、子供のころからダービージョッキーに憧れを抱いていた。そんな武の初めての日本ダービー騎乗はデビュー2年目の1988年(昭和63年)、コスモアンバーに騎乗し16着。武本人曰く、「何もできずに終わった」日本ダービー初騎乗であった。以後、1989年にタニノジュリアス(10着)、1990年にハクタイセイ(5着)、1991年にシンホリスキー(19着)、1993年にナリタタイシン(3着)、1994年にフジノマッケンオー(4着)、1995年にオースミベスト(8着)、1996年にダンスインザダーク(2着)、1997年にランニングゲイル(5着)。計9回の挑戦を繰り返すも勝利することはできなかった。武はすでに日本ダービー以外の八大競走をすべて勝利しており、日本ダービーのみ勝利を逃し続けるうちにいつしか競馬サークルでは、「武豊は日本ダービーだけは勝てない」というジンクスが囁かれるようになっていた。武自身は感情に流されずコントロールするのもプロフェッショナルとして必要な素養であると考えていたため、マスコミの取材で日本ダービーへの思いについて聞かれた時には、「日本ダービーは特別なレースじゃない」、「他のGIと価値は一緒」、「いつか獲れると思うから焦っていない」、というように努めて冷静に受け答えしていた。しかしこれらは表向きのコメントであり、本心では次のように思っていたと語っている。

「自分の今まで積み重ねた勝利全てと引き換えにしてもいいと思うほど、ダービージョッキーの称号が欲しくて欲しくてたまらなかった」

そして1998年、第65回日本ダービーでスペシャルウィークに騎乗し優勝。10度目の挑戦でついに悲願を達成した。武は事前に、「勝った時はガッツポーズはやめよう。あくまでもクールに決めよう」と考えていたが、実際の勝利時は体中から湧き上がってくる喜びを抑えきれず、武自身が後にビデオで見た時に恥ずかしくなるほど夢中で何度もガッツポーズを繰り返していた。17万人の観衆によって埋め尽くされた東京競馬場では「ユタカ」コールが沸き起こり、武はこの瞬間を「それまでの人生で、最大、最高の瞬間」と振り返っている。

翌年の1999年もアドマイヤベガで勝利し、史上初の日本ダービー連覇を達成(当時のダービー最多勝利タイ記録・11人目となる2勝ジョッキーでもあった)。そして2002年のタニノギムレットで三度勝利し、史上初めて日本ダービーを3勝した騎手となった。その後も2005年にディープインパクトで4度目の勝利。2013年にはそのディープインパクトの子であるキズナで勝利し、日本ダービー最多勝利記録を「5」に更新した。なお競走馬の親子2代日本ダービー制覇は数組あるが、その中で同一騎手が親子それぞれの馬に騎乗して日本ダービーを優勝したのは武のみである。また2022年にはドウデュースで勝利を収め,日本ダービー最多勝利記録を「6」に更新した。

武は日本ダービー制覇への思いについて以下のように語っている。

武は、1993年より2009年までの17年連続で日本ダービーの連続騎乗を記録しているが、これは1961年より1979年まで19年連続して皐月賞に騎乗していた加賀武見の同一クラシック最多連続騎乗記録に及ばなかったものの、同一クラシック最多連続出場記録としては、2023年時点でも第2位の記録である。

武は海外でも早くから活躍し、日本人騎手による史上初の海外G1制覇、日本人として前人未到の海外通算100勝など様々な記録を達成している。

武の海外初騎乗はデビュー3年目の1989年の夏、イナリワンのオーナーがアメリカに馬を持っており、その馬の騎乗を依頼されたことがきっかけである。同年9月2日、アーリントンパーク競馬場でグランマジーに騎乗し勝利。海外デビュー2戦目で海外初勝利を挙げた。以降は年末年始や夏はほぼ毎年海外へ渡航し、アメリカ、フランス、オーストラリア、ドイツ、イギリス、UAE、香港、韓国、サウジアラビアの9か国で勝利を挙げている。

1991年8月、サラトガ競馬場で行われる芝2600mのG3セネカハンデキャップでエルセニョールの手綱を取ることになり、3年目のアメリカ参戦で初めて重賞競走に騎乗することが決定した。しかし当時はまだ日本の競馬が世界水準の評価を得ていなかった時代であり、アメリカの競馬専門紙には「22歳の日本人がトリッキーなサラトガを乗りこなせると思っているのか」などと、競馬後進国の若輩者に対する批判的な記事が多く掲載され、「もしユタカ・タケが勝ったら私は裸踊りをする」と書いたハンデキャッパーすらいた。さらに管理調教師であるウィリアムズ・ライトですら、メディアに対して武のことを「ビギナー」と侮辱的な言葉を発した。そして武自身もサラトガ競馬場の芝コースは騎乗経験が無く、さらにライトは、武にエルセニョールの調教に乗る機会を与えなかったため、ぶっつけ本番で挑むこととなった。そんなマイナス材料が多く揃った中、迎えた本番ではライトが「パーフェクト」と言うほどの理想的な騎乗でエルセニョールを勝利に導き、日本人騎手による海外重賞初制覇を達成した。武は勝利後、現地の騎手達に馬上から祝福の握手を求められ、一生の思い出になったという。

1992年9月、セクレタリアトステークスでワールドクラススプラッシュに騎乗し、海外G1初騎乗を果たす。

1994年、この年は例年にもまして各国を飛び回り、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス、凱旋門賞、ブリーダーズカップ・マイルなど世界のビッグレースに騎乗。同年9月4日にはスキーパラダイスに騎乗してムーラン・ド・ロンシャン賞を制し、JRAの日本人騎手として史上初の海外G1制覇を達成した。

2000年6月、武はアメリカに長期滞在し、騎乗拠点をアメリカ西海岸に移すことを表明した。アメリカ西海岸を選択した理由について、「世界を代表するトップジョッキーが集うアメリカ西海岸の競馬で自分の腕を試してみたかった」と語っている。同月のハリウッドパーク開催から本格参戦し、夏のデルマー開催では人気薄の馬で勝利を重ね、当地のメディアに「穴ジョッキー」と紹介されるようになり、存在感を示した。しかし、11月のハリウッドパーク開催では騎乗数が激減。1日1鞍を確保するのがやっとであり、騎乗馬を確保するために厩舎を挨拶回りする毎日であった。結局このアメリカ長期滞在は最後まで満足な結果を得ることなく終了した。しかし武はアメリカ長期滞在を決断したことについて、「ほんの1ミリも後悔していません。悔しさとか、もどかしさとか、勝てない、乗れないというジレンマも含めてすべてがいい経験です」と前向きにとらえている。

2001年1月、フランスの調教師ジョン・ハモンド (競馬)(英語版)から「主戦騎手としてフランスに来ないか?」と正式なオファーを受け、これを承諾。フランスに長期滞在し、騎乗拠点をフランスに移すことを発表した。同年3月のロンシャン開催から本格参戦し、4月15日にはG3のグロット賞(英語版)を勝ち、同年初のフランス重賞初制覇を達成した。10月7日の凱旋門賞ウィークエンドではアベイ・ド・ロンシャン賞にインペリアルビューティーで勝利し、同年初のフランスG1制覇を達成。同じ日の凱旋門賞ではサガシティに騎乗し、3着に入る健闘を見せた。武は「2001年のフランス滞在で最も印象に残ったレースは?」と質問されたら迷うことなくこの凱旋門賞と答えるという。フランス長期滞在中、落馬骨折による1か月半のブランクがあったが、最終的にはフランスでG1勝ちを含む35勝を挙げ、武本人曰く「まずまずの成績」を残した。翌2002年も長期滞在を継続し、フランスで重賞4勝を挙げている。

2003年には地方競馬の交流GI全レースで騎乗し中央・地方における全GIレースに出場。東京大賞典(連覇)を含む交流GI・3勝を挙げる。

2004年12月、香港ハッピーバレー競馬場で勝利し、海外通算100勝を達成した。

武は自身の様々な海外での騎乗経験を踏まえ、若い騎手達の海外への積極的な挑戦に期待を寄せ、次のようなメッセージを送っている。「海外で騎乗するチャンスがあるなら日本で経験を積んでからなんて考えずにどんどん挑戦した方がいい。長く日本を留守にして騎乗馬がいなくなることを恐れていたら何もできない。チャレンジする騎手が登場するのを楽しみに待っています」。

2010年3月27日、阪神競馬場で行われた毎日杯でザタイキに騎乗。最後の1ハロンに差しかかった時、ザタイキが故障発症(左中手骨開放骨折=予後不良)し転倒。武は頭からコースに叩きつけられるように落馬した。この落馬事故により、武は左鎖骨遠位端骨折、腰椎横突起骨折、右前腕裂創の重傷を負い、全治半年と診断された。特に左鎖骨遠位端骨折の症状が重く、鎖骨を骨折したというより肩関節が破壊されたような負傷であった。3月30日、左肩にプレートを入れる手術を受け、4月2日には退院してすぐに歩けるようにはなった。しかし左肩は全く動かすことができず、しばらくは患部をプレートで固定して治癒するのを待つしかなかった。武は当初、5月に復帰する計画を立てていたが、5月1日の時点でまだ左肩の可動域が極度に小さく、ジャケットを羽織るのにも他人の手を借りねばならない状態であり、さらには医師からリハビリの許可も出ていなかった。ゴールデンウィーク明けにようやくリハビリの許可が下り、日本ダービー前の復帰を目指し、左肩の可動域を広げるためのリハビリを続けたがすぐには症状は好転せず、5月16日、ヴィクトワールピサでの日本ダービーの騎乗を断念した。これにより、同一クラシック最多騎乗記録更新まであと3回と迫っていたものの、17年連続でストップし、その記録の更新も叶わなくなったが、当面はリハビリに専念することを発表した。武は馬に乗れないと何もすることがなく「俺は競馬で乗ることしかできない人間なんだな」と改めて痛感させられたという。6月中旬、左肩のプレートを除去する手術を受け、リハビリのピッチが上がった。7月に入ると左肩の可動域が広がり、回復の兆しを見せた。7月22日、栗東トレセンで約4か月ぶりに馬に騎乗。小学校5年生の時に乗馬を始めてからこれほど長い間馬に乗らなかったのは初めてだったという。8月1日、小倉競馬場で127日ぶりに実戦復帰した。復帰後初めてパドックに姿を現すと、復帰を待ち望んでいたファンから拍手と歓声が沸き起こった。しかし後に武は、「あの時はまだ左肩の状況が悪く、誤魔化しながら乗っていたところがあったかもしれません」と、怪我を抱えたまま無理して復帰したことを告白している。その影響からか、復帰後は思うように勝てない日々が続き、2010年は年間69勝。2011年はデビュー以来最低の年間64勝。2012年はその前年をさらに下回り、年間56勝に終わった。武はこの時期の成績低迷について、「年間200勝していたのが数年後に年間50勝になるのは正直きつかった。『武豊』でも結果が出ないとこういう状況になる。シビアな世界だからしょうがないんですが、2011年、2012年あたりは競馬が楽しくなかった気がします」と当時の苦しかった心境を回顧している。しかしその苦境の真っ只中にいながらも、「『武豊』の真価が今問われているんだぞ」と自分を叱咤激励し続けていたという。

2013年3月、キズナで毎日杯を勝利。武はこの勝利により、3年前の同レースで落馬した時から抱いていた嫌なイメージを払拭し、吹っ切れたという。同馬は次の京都新聞杯も勝利し、日本ダービーの有力候補となった。そして迎えた5月26日の第80回日本ダービーでは、1番人気に応えてキズナをダービー馬に導き、武自身の持つ日本ダービー最多勝記録を「5」に更新した。14万人近いファンの「ユタカコール」につつまれて勝利騎手インタビューでスタンド前に立った武に対し、多くのファンから「お帰り」の声がかけられた。武はその声に「僕は帰ってきました!」と力強く応えた。この言葉は事前に用意していた言葉ではなく、ファンの「お帰り」の声が胸に響いて自ずから出た言葉だったという。武は苦境の中で掴んだこの5度目の日本ダービー勝利について、「キズナで日本ダービーを勝てたことは僕のジョッキー生活において分岐点となっています。それぐらい大きい勝利でした」と後に語っている。武はこの年、GI2勝、重賞11勝、年間勝利数97勝と前年から大幅に成績を向上させ、低迷期を脱した。2015年、年間106勝を挙げて6年ぶりに年間100勝を達成。2016年と2017年はキタサンブラックとコンビを組んで計GI6勝を挙げ、同馬を2年連続年度代表馬に導くなど大舞台で存在感を示した。2018年9月29日、阪神競馬場で行われた芦屋川特別でメイショウカズヒメに騎乗して勝利し、JRA通算21235回目の騎乗で前人未踏のJRA通算4000勝を達成した。次なる目標を問われた武は、「明日のレースです。早く4001勝をしたいです」と笑顔で答えた。

2019年3月15日、50歳の誕生日を迎え、50代に突入。10月20日、ワールドプレミアで菊花賞を勝利し、50歳7カ月6日での史上最年長菊花賞制覇を達成。史上最年少と史上最年長で菊花賞を勝利した騎手となった。また、この勝利で、昭和・平成・令和の3元号に跨いでGI競走を優勝した史上初の騎手となる。11月23日、4年ぶり通算22度目となる年間100勝を達成、50代では増沢末夫、岡部幸雄に次ぐ史上3人目の記録となった。11月30日、JRA年間勝利数を104とし、岡部幸雄が保持していた50代騎手の年間最多勝記録を更新。最終的に年間111勝まで記録を伸ばし、騎手リーディング3位に入る活躍を見せた。2020年11月15日、2年連続・通算23度目となるJRA年間100勝を達成。12月12日、JRA年間勝利数を112とし、前年に自身が記録した50代での年間最多勝記録を更新。最終的には直近10年で最多の勝ち数となる115勝まで記録を伸ばした。

2022年5月29日、第89回東京優駿をドウデュースで制し自身の所有していた日本ダービー最多記録を「6」に更新した。同レースでドウデュースの走破タイムは2:21.9のダービーレコードでの勝利になる。 今回の勝利をもって20代、30代、40代、50代の4代に渡って日本ダービーを勝利した事になる。53歳2か月15日での日本ダービー勝利はそれまでの増沢末夫の48歳7か月6日を塗り替えて史上最年長記録である。

2023年2月4日、小倉1Rの3歳未勝利戦をスマートアイで制し前人未到のJRA通算4400勝を達成。この日は福永祐一の現役騎手として最後の小倉競馬場での騎乗日であった。

同年4月2日(54歳0ヶ月19日)にはジャックドールで大阪杯を制覇。これにより岡部の持っていた最年長GI勝利記録(53歳11ヶ月28日)を更新した。

同年10月29日、東京競馬第5競走騎乗後の装鞍所で腹帯を外そうとした際に騎乗馬に蹴られて右脚を負傷し、以降の騎乗をキャンセルした。これにより第168回天皇賞(秋)はドウデュースに騎乗予定であったが乗り替わりとなった。同年12月16日に復帰すると、翌週12月24日、ドウデュースで第68回有馬記念に騎乗し1着となった。これにより池添謙一に並ぶ有馬記念最多タイの4勝目であり、同時に20代、30代、40代、50代の有馬記念制覇者となる。

エピソード・逸話

競馬に関して

子供のころの憧れの騎手は福永洋一であった。洋一と邦彦に多年の親交があった事、また福永家と武家は家が斜向かいであった事もあり、毎年正月には洋一から多額のお年玉をもらっていた事も語っている。

20歳の時、自身が初めてアメリカに遠征した時、朝の調教で最初に騎乗したのが、1990年のケンタッキーダービー馬のアンブライドルドだった。初めて跨った時には「古馬かと思った」と語っており、調教後スタッフに「この馬は何勝しているのか」と聞いたところ「まだデビュー前だ」と言われて驚いたという。

天皇賞は春秋合わせて前人未到の通算14勝を挙げており、春が8勝秋が6勝である。天皇賞(春)では1989年から1992年までの4連覇を達成し『平成の盾男』と呼ばれている。

デビュー戦で騎乗したアグネスディクターは本来前開催で出走させるローテーションであったが、師であった武田作十郎が武のデビュー戦に合わせ出走させたという。コースを回ってくるだけで勝てる程に馬体は仕上がっていたが、4コーナーで少しインへ切り込んだと同時に後方で南井克巳が落馬し審議ランプが点灯した。武はそれに動揺して馬体をアウトへ膨らませてしまい、追い出すタイミングが微妙に遅れ、勝利を逃した。レース後に南井の落馬は武のコース取りとは関係無いと判明したが、武は一生に一度しか存在しない「初騎乗初勝利」を逃した事が心残りであると悔やみ、もしもやり直しが出来るレースがあればこのデビュー戦が間違いなくやり直したいレースの一つであると語っている。

1998年、サイレンススズカに騎乗して臨んだ第118回天皇賞(秋)で、レース中に故障したサイレンススズカを安楽死で喪った。レース終了後のインタビューでは「予兆が全くなかった。突然来た。可哀想でならない。」と寂しそうにコメントした。レース後の落胆ぶりは相当なもので、普段から酒に酔わないことで知られていた武はこの日、泣きながらワインを痛飲して泥酔し、その姿を目撃していた複数の一般人がいた。武本人も後に「泥酔したの、あの時が生まれて初めて」と振り返っており、同レースでテイエムオオアラシに騎乗していた福永祐一も当時について「あんな落ち込んだ豊さんを今まで見たことがなかった」と証言しているほどだった。サイレンススズカは武に強烈な印象を残した馬の一頭であると言え、後年インタビューにて「ディープインパクトに騎乗した武豊に挑むとしたら?」との問いに「サイレンススズカで挑む」と答えたという。

2007年12月23日、3歳以上500万下でタイガーマスクに騎乗し勝利、終了後の口取り撮影でタイガーマスクを装着した。

2011年にJRAでのGI連続勝利記録は途絶えてしまうがスマートファルコンで地方GI制覇は達成していた。しかし2018年、JRAでも地方でもGI勝利を挙げることは叶わず、ついにGI連続勝利記録が30でストップすることとなった。2020年もGI未勝利に終わっている。ただし連続重賞勝利記録は現在も更新中である。

2019年ダービー前のインタビューで一番好きな馬はシンボリルドルフで大ファンだったと明かしている。ルドルフの三冠レースは全部生で見ており、引退式も中山競馬場で観戦した。また、岡部が一冠、二冠、三冠と指を立てていくポーズはいつか自分もやりたいと憧れていたという(後年、ディープインパクトで実現)。ルドルフ三冠時の岡部の年齢が36歳で自身のディープでの三冠も36歳であったことも語っている。

2019年7月30日に逝去したディープインパクトへ向けて、「ジョッキーを続けていくのがディープインパクトへの恩返し。あと10年は引退しません」と語っている。

2020年1月自身のコラムの中で「心が震えたのは、ともに時代を駆け抜けた最大の友・ディープインパクトの死です。日本の競馬史上、最強馬と呼べる馬は、何頭かいると思いますが、僕にとっては、ディープインパクトが最大で最強、最速の名馬でした」と自身の思う最強馬について触れている。また10月にはドラえもんのひみつ道具を1つもらえるなら「“タイムマシン”です。 (中略) 使うのは未来ではなく過去。それも、一度だけでいい。 (中略) 2006年10月1日。ディープインパクトが出走した、凱旋門賞の日付です。 (中略) なぜ、勝たせてあげられなかったのか――今でも夢で見るほど、悔しさだけが残っています」と語っている。同馬については他にも「僕はずっとこういう馬を探していた気がする。すごくシンプルに、走るのが速い馬。スピードがあるとか持久力があるとか、全てを通り越して、圧倒的に足の速い馬が現れるのを待っていた。」「強くて、速くて、かっこいい。どんな距離でも、どんな条件でも、どんな状況になっても勝ち切る。こんな馬が本当にいたらいいのになぁ。彼は、そんな思いを体現して僕の前に現れたヒーローでした。」「キズナの日本ダービー勝利は、結果が出せず苦しんでいた僕へのディープインパクトからのプレゼントだと感じた」「ディープインパクト、キズナ、その孫の三代で日本ダービーを制す事、ディープインパクト産駒で凱旋門賞を勝利する事は夢」とも語っている。同馬が種牡馬生活をスタートさせると「普段乗っていた馬には会いに行かないがディープインパクトは毎年夏に会いに行っていた」とその後の交流にも触れた。2006年 第51回有馬記念ラストラン後は「僕は今でも世界一強い馬だと信じています。だってディープの一番のファンは僕ですから」「一言で言い表すのは難しいですが、本当に特別な馬でした」と想いを語り、ディープインパクトに何度もキスをするという彼自身の公の場に於いては非常に珍しい光景も観られた。

騎乗時に装着するジョッキーブーツは荒川靴店のもの。父・邦彦も荒川靴店が製作したブーツを使用しており、親子2代の付き合いとなる。

8種類全ての毛色の馬(鹿毛、黒鹿毛、青鹿毛、青毛、栗毛、栃栗毛、芦毛、白毛)で重賞レースを勝利している唯一の騎手である。

その他

仲がいいオリビエ・ペリエとの対談で、武は「飛行機や新幹線で寝るようになった」と話している。とある日搭乗した飛行機のトラブルで出発時間が約3時間遅れていることに気がつかず、寝ていて起きた武が「もう着いた?」と聞くと同乗者が「まだ飛んでないよ笑」と返したと言う。

妻の佐野量子との結婚式は1995年(平成7年)6月5日に京都の教会で伊集院静・篠ひろ子夫妻を立会人に行われた。結婚披露宴は1995年11月20日に京都府の都ホテルで行われたが、これは「1000勝祝賀会」も兼ねたものだった。この結婚式のために、SING LIKE TALKINGは「Spirit Of Love」を作曲した。佐野との間に子供はいない。

近所のゴルフコースへ父親のゴルフクラブを用いてラウンドしたことがあり、公にコースへ出て腕前を披露した際、優に100を切るスコアを叩き出し周囲を驚かせた。

競輪選手の村上義弘とは親交が深く、村上が2012年の「KEIRINグランプリ」を制覇した後に「2人でダービーとってお祝いしましょう」とお互いに約束を交わし、武・村上ともに2013年の「ダービー」を制覇して約束は現実のものとなった。武自身も競輪に詳しく、毎年のように「KEIRINグランプリ」を競輪場の現地で観戦していると武は語る(実際はKEIRINグランプリ中継でのスタジオでのゲスト出演がほとんど)。

2013年に起きた競輪選手の移籍騒動(SS11騒動)について「同じ公営競技に関わる者として五輪種目でもある競輪は誇り。レースに人間模様がにじみ、大人が真剣に自転車をこぐ姿が好きだ。今回の騒動はいったい誰が得をしたのか。選手にペナルティーを科すのもおかしい」と一競輪ファンとして苦言を呈した。

阪神タイガースのファンであり、少年時代は野球をやっていた。阪神の選手との親交も深い。2006年と2023年には阪神甲子園球場で阪神-巨人戦の始球式を務めた(2006年の際はディープインパクトの主戦騎手だったため金子真人ホールディングスの勝負服で登場、打者は二岡智宏)ほか、試合のテレビ中継のゲストとして出演した経験もある。

MLB・シアトル・マリナーズ会長付き特別補佐兼インストラクターのイチローとは1995年にラジオ番組で知り合ってから、自主トレを共にするなど約20年の付き合いがある。イチロー現役最後の試合となった2019年3月21日のオークランド・アスレチックス戦(東京ドーム)にも現地で観戦していた。他にも東北楽天ゴールデンイーグルスの田中将大や、ニューヨーク・メッツの藤浪晋太郎とも親交がある。

2017年、TBSテレビの『炎の体育会TV』に出演(この時はキタサンブラックの主戦騎手だったため有限会社大野商事の勝負服で登場)。成功すれば夢を叶えられる「プレッシャースプーン」に挑戦するにあたり「叶えたい夢は何か?」と問われ、「吉野家の牛丼を食べること」と答えた。ゲームは1発で成功させ、後に番組内で吉野家に入店した際、初めて訪れたため注文システムが分からず勝俣州和に助けを求める場面があったが、牛丼(アタマの大盛り)を頬張り「これか!吉野家って!」という感想を残した。

2005年(平成17年)、「ベストスマイル・オブ・ザ・イヤー2005」受賞。

2005年(平成17年)、雑誌「Sports Graphic Number」が選ぶ2005年度のMVPを受賞した。

愛知県知多郡にある武豊町 (たけとよちょう)から、「同姓同名」の縁ということで1989年に一日町長を要請されたことがある。1999年にも武豊町から招かれトークショーが企画された。また、JR武豊駅に一時期、武のサイン色紙が掲示されていたことがある。

2020年(令和2年)、しがスポーツ大使に就任。

ハローキティのファンであり、ヘルメットの後ろに「隠しアイテム」を着けて騎乗することもある。

車好きであり、愛車はメルセデス・ベンツ・Sクラスクーペとメルセデス・ベンツ・EQCである。

嫌いな食べ物はニンジン。理由は幼少の頃から馬と生活しており、ニンジンは馬のエサという感覚ができたため子供の頃から嫌いになっている。他にもうずらの卵(特に黄身)が嫌いである。

騎乗成績

年表

※なおこの年表には騎乗成績以外の事柄も記述していく。

武豊騎手2600勝ジョッキーに (2005年7月18日)

take yutaka


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