保田隆芳の情報(やすだたかよし) 競馬 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
保田 隆芳さんについて調べます
■名前・氏名 |
保田隆芳と関係のある人
蛯名武五郎: 戦前から名騎手として鳴らし、二歳下の保田隆芳と共に長く関東の二大騎手であった。 吉永正人: 当時の松山厩舎は保田隆芳・野平祐二といった大騎手へ多くの騎乗依頼を行っていたため、吉永の騎乗数は伸びず、成績的には目立たなかった。 野平祐二: 日本にモンキー乗りを普及させたのは保田隆芳であるが、野平は保田に先んじてモンキー乗りを独自に研究し、レースで実践していた。 河合紗希子: 祖父は日本中央競馬会(JRA)元騎手、元調教師の保田隆芳(騎手顕彰者)。 武邦彦: 邦彦自身の回顧によれば、1965年頃に東京競馬場へ出張した際、当時トップジョッキーであった保田隆芳、野平祐二の騎乗に触れ、「乗り方がどんどん変わっていった」という。 保田一隆: 父は保田隆芳元調教師。 尾形藤吉: 騎手部門では保田隆芳と野平祐二の2名も福永洋一と共に同時選出された。 大久保房松: 騎手として88勝は当時としても多い数字ではないが、郷原によれば入門時60歳近かったにもかかわらず、「それは上手かった」といい、日本初の1000勝騎手・保田隆芳も「やわらかい乗り方をする」と感心していたという。 保田一隆: 1979年4月、父の厩舎である美浦・保田隆芳厩舎の調教助手となる。 池江泰郎: 同馬とのコンビでは重賞4勝を挙げたが、桜花賞で単勝支持率59%という圧倒的1番人気に推されながら、逃げ馬の同馬を逃げさせられず、馬群の中に置かれたまま大敗(12着)を喫したことで、オークスのみ保田隆芳が騎乗していた。 尾形藤吉: 保田隆芳は「あぶみが長く、ハミあたりがやわらかく、しかも剛毅に乗る」ことが一門の特徴だったと述べている。 加賀武見: 1年目に平地37勝、障害21勝で計58勝を挙げて、保田隆芳・野平祐二に次ぐ全国リーディング3位の成績を収め、当時の新人騎手最多勝利記録を達成。 松山吉三郎: しかし大久保亀吉、保田隆芳ら名騎手を数多く抱えていた尾形厩舎の中にあって騎乗機会に恵まれず、また肺結核を患ったこともあって騎手としては目が出ず、専ら尾形のもとで厩舎の実務を取り仕切る現場責任者の役割を果たした。 岡部幸雄: これにより、保田隆芳の114勝を更新。 郷原洋行: 同年の京王杯SHではクリライトに騎乗し、保田隆芳・高松三太・古山良司らベテランとの競り合いの末、4着まで同タイムの激戦を制して重賞初勝利。 武邦彦: 1978年にはインターグシケンで、当時保田隆芳に並ぶ最多タイ記録となる菊花賞3勝目を挙げ、1980年1月7日には、史上5人目・関西所属騎手では初の記録となる通算1000勝を達成した。 尾形藤吉: 保田隆芳によると、彼が入門した1934年ごろには長距離を乗るイギリス式の調教が競馬界全体の主流で、尾形厩舎の場合、馬は外厩を出て東京競馬場まで10~15分ほど歩き、東京競馬場に入ってから30分ほど動かし、コース(1周2000メートル)に入ってからは速歩で1周、駈歩で2周半の計7000メートルが通常メニューであり、追い切りでもコース1周を追うことが普通だった。 武邦彦: 邦彦はレースにおける駆け引きや「良い意味でのズルさ」を教わった騎手として清田十一と浅見国一の名を挙げており、保田隆芳や野平祐二の影響を受ける以前の騎乗フォームはこの二人の流儀であったとも述べている。 前田長吉: その騎乗技術、センス、人柄については師である尾形は没後も高評価を与えており「もしも戦争がなければ、(尾形門下の弟子であった)保田隆芳や野平祐二と肩を並べる騎手になったかもしれない」とその才能を惜しみ、長吉と同時期に騎乗していたある元騎手も「もし生きていれば、尾形厩舎のいい馬にどんどん乗って、大変な(=優秀な)騎手になっていたはず」と語っているように、無事に戦地から復員が叶い競馬界に復帰出来ていたならば戦後日本競馬の三大騎手と称される保田、蛯名武五郎、野平と覇を競うだけの実力のある騎手になっていた可能性があり、この若きダービージョッキーの夭逝は戦争により日本競馬界が被った喪失として軍馬に徴用されたダービー馬カイソウと並んで真っ先に挙げられるものである。 尾形藤吉: しかし1956年から1957年にかけて日本ダービー、天皇賞(秋)、有馬記念を制したハクチカラが1958年から改めてアメリカ遠征を行うことになり、保田隆芳を伴って渡米。 福永洋一: 2004年1月にはJRA50周年記念事業の一環として調教師・騎手を顕彰してその功績を称えることとなり、洋一は「騎手として通算983勝を挙げたほか、9年連続して年間最多勝を記録、さらに3歳クラシック競走並びに天皇賞の各競走において通算で6勝を挙げるなど顕著な成績を収め、中央競馬の発展に多大な貢献があった」として、騎手としては野平祐二、保田隆芳と共に顕彰された。 野平祐二: 騎手として、初めて八大競走完全制覇を成し遂げた保田隆芳に勝るとも劣らない戦績を残したが、牡馬クラシック制覇は最後まで叶うことがなかった(牝馬クラシックと天皇賞(春)・有馬記念は優勝している)。 尾形藤吉: また、同年はコレヒサで天皇賞(春)も制しているほか、保田隆芳が史上初の通算1000勝という記録を達成した。 尾形藤吉: 保田隆芳は「厳格で無口。 尾形藤吉: 藤吉は新たに厩舎に入った内藤潔、松山吉三郎、保田隆芳、八木沢勝美といった多くの弟子が成長しつつあることに鑑み、11月23日の目黒記念でアカイシダケに騎乗して4着となったのを最後に騎手を引退し、以後調教師専業となった。 尾形藤吉: さらに門下からはそれぞれJRA騎手顕彰者の保田隆芳、野平祐二、同調教師顕彰者の松山吉三郎ら数々の人材を輩出した。 野平祐二: 翌1987年にシンボリルドルフは殿堂入りするが、騎手として後の顕彰馬に騎乗して八大競走勝利、かつ調教師としても後の顕彰馬を管理したホースマンとなったのは保田隆芳に次いで史上2人目である。 |
保田隆芳の情報まとめ
保田 隆芳(やすだ たかよし)さんの誕生日は1920年3月18日です。東京出身の競馬騎手のようです。
成績、賞詞などについてまとめました。引退、父親、兄弟に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
保田隆芳のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)保田 隆芳(やすだ たかよし、1920年3月18日 - 2009年7月1日)は日本の騎手(東京競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会〈JRA〉)、調教師(日本中央競馬会)。 1936年に騎手デビュー。10代の頃から名門・尾形藤吉厩舎の主戦騎手として頭角を現し、数々の大競走を制する。1958年、アメリカ遠征を機に、従来の日本では見られなかったアメリカ式のモンキー乗りを習得し、日本における騎手の騎乗フォームに大きな変革をもたらしたことから、モンキー乗りの先駆者とされている。1959~1961年、中央競馬全国リーディングジョッキー(年間最多勝利騎手)。1963年、中央競馬史上初の通算1000勝を達成。1968年には史上初の八大競走完全制覇を達成した。なかでも天皇賞10勝という記録から特に「天皇賞男(または盾男)」とも称された。通算1295勝は引退時点の中央競馬記録。 1970年3月より調教師に転身し、八大競走2勝を挙げ「天馬」の異名を取ったトウショウボーイ(JRA顕彰馬)、天皇賞(秋)優勝馬メジロアサマなどを手掛けた。1990-1995年、日本調教師会々長。1995年、勲四等瑞宝章受章。1997年、定年引退。2004年、騎手顕彰者に選出され中央競馬の殿堂入りした。 1920年3月18日、東京府東京市神田区小川町の果物問屋「ヱ印」に、保田永次・幸子夫妻の次男として生まれる。「ヱ印」は当時高級果物だったバナナの輸入と卸を行っており、実家は裕福だった。幼稚園時分から花月園遊園地でロバに跨ることを楽しみとしていた。小学校4年生のとき、中学受験の準備のため軽井沢の別荘にこもることになった兄に同伴し、この滞在中に乗馬を覚える。帰京後、両親の許可を得て下谷区根岸にあった石田乗馬倶楽部に通い始め、日本大学中学校に進学してからは週3日ほどの頻度で通うようになった。騎手への憧れを募らせた保田は2年生になると父親を説得し、乗馬倶楽部の主・石田馬心の紹介で、東京競馬倶楽部(目黒競馬場)に所属する尾形景造(尾形藤吉)のもとに14歳で入門した。 入門後、官営の下総御料牧場へ修行に出された保田は、1年先に働いていた野平好男、後から入ってきた二本柳俊夫、勝又忠らと下積み生活を送った。3歳馬とデビュー前の4歳馬の育成に当たりながら騎乗を覚え、調教師から認められるまでは何年でも居続けなければならないものだったが、保田は8カ月目の11月に東京に帰され、尾形厩舎での生活を始めた。厩舎での同室は後に調教師顕彰者として殿堂入りする松山吉三郎であった。 当時の日本競馬界では騎乗法は各厩舎ごとに異なり、調教の騎乗フォームでどこの厩舎の者かが一目瞭然というほどであった。とくに「尾形流」は長鐙のフォームで、後方から追い込む戦法を身上としていた。保田もこれを身につけるべく、兄弟子のうち特に伊藤正四郎の技術を真似ようと努めた。 1936年11月21日、東京競馬場の秋季開催で騎手としてデビュー。初戦は17頭立ての15着で、当年は4戦0勝に終わった。当時は若手に多くの機会が与えられるものではなく、初勝利は翌1937年10月のことであった。しかし翌月には騎乗馬リプルスで、主要競走のひとつであった五歳馬特別(東京)を制している。3年目の1938年からは急速に成績を上向かせ、5月28日には牝馬アステリモアで東京優駿(日本ダービー)に初騎乗し、3着。秋には同馬と、当年より創設されたクラシック競走・阪神優駿牝馬に臨み、優勝を果たした。18歳8カ月でのクラシック制覇は史上最年少記録として保持されている。1939年11月には、テツモンで当時の最高格競走であった帝室御賞典(後の天皇賞)を制覇し、通算10勝への端緒をひらいた。1939年にはタイレイで中山四歳牝馬特別(後の桜花賞)を制した。当時、保田と同年代の騎手には、尾形厩舎で双璧と称されるようになる八木沢勝美ほか、高橋英夫、佐藤勇、仲住芳雄といった面々がいたが、その中でも保田の活躍は際立つものだった。同い年の境勝太郎は、名門・尾形厩舎の看板を背負い華々しく活躍する保田に感心し、刺激を受け、また羨んでもいたと述べている。 1941年より保田は兵役に就き、しばし競馬を離れることになる。ここまでで通算89勝、うち特別競走で21勝を挙げていた。二本柳俊夫、富田六郎と同時に入営の途についた保田は歩兵第3連隊に入り、北支(中国北部)に派遣された。歩兵隊の蹄鉄工兵を経て機関銃隊に入った保田は、軍務のかたわら隊長の命令で現地の競馬にも参加し、勝利を挙げたという。周囲は保田が騎手であることは知っていたが、帝室御賞典などに優勝した名手であることは知らなかったとされる。同じ部隊に所属していた男性が後年執筆したエッセイ「陸軍上等兵 保田隆芳殿」によれば、保田は中隊長の乗馬の調整も担当していた。 1945年8月、太平洋戦争が終結すると間もなく帰国が叶い、日本競馬会が各地に人馬の疎開先として設けた支所のひとつ・盛岡育成場で保護されていた馬たちの調整にあたった。そして翌1946年に競馬の再開が決定すると、それらの馬と共に帰京した。 1946年10月より正規の競馬が再開されると保田は騎手として復帰。しかし日本では5年以上のブランクもあり、しばらくは芳しい成績が挙がらなかった。この頃は賞金も安かったため保田に限らずみな生活は苦しく、松山吉三郎、八木沢勝美と賞金を一括した上で互いに分け合っていた。1949年秋、武田文吾の騎手引退に伴い関西の小川佐助厩舎から菊花賞優勝馬ニューフォードの騎乗を依頼され、同馬と天皇賞(秋)を制し、戦後の八大競走初優勝を遂げた。さらに翌1950年にはヤシマドオター、1951年にはハタカゼと、天皇賞(秋)三連覇を達成。尾形厩舎の主戦騎手として、他にも数々の大競走を制していった。1953年と1954年には、自身が後年「私が乗ったのでは最強馬」と評するハクリョウで菊花賞と天皇賞(春)を制覇。同馬はアメリカのローレルパーク競馬場から国際競走ワシントンD.C.インターナショナルへ招待されたが、輸送上の問題から渡米はかなわなかった。 1956年、ハクチカラで東京優駿(日本ダービー)を制し、ダービージョッキーとなる。同馬は翌1957年に天皇賞(秋)と有馬記念を制したのち、1958年より長期のアメリカ遠征に入り、保田もこれに同行した。現地のジョッキーライセンスを取得した保田はハクチカラの渡米初戦から騎乗したが、勝利を挙げることはできなかった。5戦を消化したところで尾形から帰国を促され、ハクチカラを残して先に離米。以後ハクチカラはアメリカの騎手を乗せて出走を続け、渡米後11戦目のワシントンバースデイハンデキャップ(レイ・ヨーク騎乗)を制し、日本の競走馬による米重賞初勝利を挙げた。 アメリカで先行して差すレースの勝率が高いことを体感した保田は帰国後、「尾形流」のフォームを一変、滞在中に習得した鐙を短く詰めるモンキー乗りで騎乗を始め、逃げ、先行策からも数々の勝利を挙げるようになる。40歳を前にしての大幅なフォーム改造は、感嘆の声とともに迎えられた。翌1959年、保田は自己最高の89勝を挙げて初のリーディングジョッキーのタイトルを獲得。さらに1960年、1961年と3年連続でその座に就いた。従来、日本ではごく一部にモンキー乗り、あるいは「半モンキー」程度のフォームで騎乗する者もあったが、多くの者は長鐙長手綱で、モンキー乗りに対しては「あんな格好で馬が御せるものか、馬が追えるわけがない」という非難の声もあった。ある時には天神乗りの名手として知られたベテラン騎手が酒席で「アメリカのやつらのサルまねをしやがって」などと保田のモンキー乗りに難癖をつけ、それに対し保田は「理に適っているから取り入れただけです。慣れればちゃんと追えます」と応じたところ、そのベテラン騎手が殴り掛かってきて取っ組み合いの喧嘩になったこともあった。しかし第一人者の保田によるフォーム改造とその後の活躍は他の騎手にも大いに影響を与え、以後モンキー乗りは日本競馬界でも広く普及し主流の騎乗法となった。保田自身は、フォームの改造について次のように語っている。 保田がもたらしたものはモンキー乗りに留まらず、アメリカで見た騎手の休養のためのジョッキールーム設置を競馬会に進言したことで、中央競馬にも「調整ルーム」が設けられることになった。ほかアメリカで使われている馬具や鞭なども日本に紹介した。武田文吾は「保田くんがアメリカへ遠征して、いろいろなことを持ち帰ってくれたおかげで、日本の競馬の発展は10年早まった」と評したという。またアメリカ滞在は保田自身の意識も変え、アメリカの騎手たちの姿に倣い、より厳しい生活管理を自己に課すようになった。弟弟子の野平祐二は「保田さんがすごかったのは、大きなレースをいくつ勝ったとかいうことじゃなくて、あの時代に何を考えて何をしたかっていうことだと思う」と、その進取の精神を称えている。 1961年9月17日に通算865勝目を挙げ、蛯名武五郎の記録を抜き通算最多勝利騎手となる。そして1963年6月30日、騎乗馬スズカンゲツで史上初の通算1000勝を達成した。NHKにインタビューを受けた保田は「日本でも戦後は鞍数も増えているので、若い人たちが大いに頑張って、私の記録を越していってもらいたいものです。もちろん、私も頑張ります。あと何勝ということではなく、乗れるだけ乗り続けたいと思っています」と語った。9月29日には関係者や特別招待のファン合わせて600人を集め、東京競馬場で祝賀パーティーも開かれた。以後も数々の活躍馬に騎乗、1966年秋にはコレヒデで天皇賞通算10勝を達成。1968年にはマーチスに騎乗して皐月賞に優勝し、史上初の八大競走完全制覇を達成した。この記録は1998年に武豊が2人目の達成者となるまでの30年間、保田のみが持つものであった。 1970年、50歳を目前に控えていた保田は、年齢による限界を感じ引退を決意。2月22日に最終日を迎えた。最後の競走は重賞の京王杯スプリングハンデキャップで、尾形厩舎のミノルに騎乗。ミノルは必ずしも好調ではなかったにもかかわらず、1番人気に支持された。レースでは後方待機から、最終コーナーで内を衝いて追い込み先頭に立つと、野平祐二が騎乗するメイジアスターの急追をクビ差凌いで優勝。通算1295勝目で引退を飾った。3月1日には東京競馬場で引退式が行われた。通算6143戦1295勝、うち八大競走22勝を含む重賞114勝。 師の尾形から10馬房を割譲され開業。3月8日には初出走を迎え、同日中に管理馬ケンポウで初勝利を挙げた。譲られた管理馬にはミノルの同期で当時すでにオープン馬だったメジロアサマがおり、5月には同馬が安田記念を制して調教師として重賞初勝利。11月には天皇賞(秋)を制して八大競走初勝利も挙げた。メジロアサマは1972年末の引退までに保田厩舎で重賞6勝を挙げた。 メジロアサマの引退後、保田は友人の森末之助を通じて、それまで付き合いがなかった藤正牧場の幼駒を紹介され、森の兄弟子である茂木為二郎から管理を譲られた。トウショウボーイと命名された同馬には後躯の踏ん張りが甘いという欠点があったが、1976年にデビューすると関東所属馬の筆頭格として台頭し、同年皐月賞と有馬記念を制して年度代表馬に選出されるなど、翌1977年末の引退までに15戦10勝という成績を残した。その卓越したスピードから「天馬」と称され、同期馬テンポイント、グリーングラスと共に「TTG」と並び称されたライバル関係は後々まで語り継がれるものとなった。なお、トウショウボーイは後に殿堂入りしているが、騎手として後の顕彰馬に乗って八大競走で勝利、かつ調教師として後の顕彰馬を管理したホースマンは保田が初めてである。 1988年からは田中朋次郎の後を継いで第7代の日本調教師会々長に就任し、1994年2月まで務めた。退任後、長年の競馬に対する功績が認められ、調教師としては初の勲等となる勲四等瑞宝章を受章。1997年2月28日、定年により調教師を引退。調教師としての通算成績は3485戦334勝、うち八大競走3勝を含む重賞17勝であった。厩舎は長男の一隆に引き継がれた。 2004年、日本中央競馬会創立50周年を記念して調教師・騎手顕彰者制度が発足し、保田は野平祐二、福永洋一と共に騎手部門で顕彰され殿堂入りした。 2009年7月1日、食道癌のため89歳で死去。「日本競馬界の至宝」、「戦後の競馬界を牽引した巨星」などと様々に報じられた。通算2943勝を挙げ、国際派として知られた岡部幸雄は「騎手として一緒に騎乗していた期間は長くはありませんでしたが、言葉数が少なくとてもまじめな方だったことが印象に残っています。日本から世界への第1歩を踏み出し、近代競馬の礎を築かれた方。ハクチカラで米国に遠征され、帰国して本場のモンキー乗りを広めたり、その活躍がなかったら、今の日本の競馬の繁栄はなかったと思います」と語った。 成績騎手成績※勝利数が太字になっている年は全国リーディングジョッキー。太字の競走名は八大競走を指す。 タイトル最多勝利:3回(1959年 - 1961年) ※3回は歴代5位タイ。JRAでは1987年より表彰 最高勝率:2回(1960年、1961年) ※JRAでは1987年より表彰 最多賞金獲得:3回(1959年 - 1961年) ※JRAでは1987年より表彰 騎手大賞:2回(1960年、1961年) ※2回は武豊・福永洋一・加賀武見に次ぐ歴代4位タイ、2年連続は武・福永に次ぐ歴代4位。JRAでは1987年より表彰 騎手顕彰(2004年) 調教師成績通算3485戦334勝 ※括弧内は保田管理下における優勝重賞競走。太字は八大競走。 メジロアサマ(1970年天皇賞・秋、安田記念、函館記念 1971年アルゼンチンジョッキークラブカップ、ハリウッドターフクラブ賞 1972年アメリカジョッキークラブカップ) アイアンハート(1974年カブトヤマ記念) トウショウボーイ(1976年皐月賞、有馬記念、神戸新聞杯、京都新聞杯 1977年宝塚記念、高松宮杯) シンボリヨーク(1984年東京新聞杯) トウショウドリーム(1987年東京障害特別・春、東京障害特別・秋) ユーワフォルテ(1990年新潟大賞典) 調教技術賞(関東)(1974年) 賞詞スポーツ功労者 文部科学大臣顕彰(1991年度) 勲四等瑞宝章(1995年) 競馬の殿堂 顕彰(2004年) 2024/06/07 07:22更新
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yasuda takayoshi
保田隆芳と同じ誕生日3月18日生まれ、同じ東京出身の人
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