河野広中の情報(こうのひろなか) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
河野 広中さんについて調べます
■名前・氏名 |
河野広中と関係のある人
倉富勇三郎: 1879年(明治12年)に司法省法学校を卒業後司法省に入省し、民刑局長をへて1904年(明治37年)に東京控訴院検事長に就任して、1907年(明治40年)には法学博士を授与されるが、先に発生した日比谷焼打事件で河野広中らを起訴した事が世論の反感を買い、後にその責任を取らされて韓国法部次官(司法次官、当時第三次日韓協約によって各省次官には日本人がつくことになっていた)に左遷された。 花井卓蔵: またこの間の明治35年(1902年)には河野広中、中村弥六らとともに「何ぞ独り参政の権利を10円以上の納税者のみに制限するの理あらんや…」との理由を付したわが国はじめての普通選挙法案を衆議院に提出した(否決)。 松田正久: 当時、河野広中・西郷従道と並んで「不得要領」、「狸親父」とも評されながらも温厚篤実な人柄で人望を集め、西園寺や星、原など同志を前面にたてて自身は裏方に徹した。 三島通庸: 福島県議会議長だった自由党の首領・河野広中は激発を戒めたが、明治15年3月に三島は町野主水らと帝政党を作り、自由党が発行する福島自由新聞に対して官製の福島新聞を作るなど、自由党に対抗した。 板垣退助: 明治23年(1890年)の帝国議会開設後には河野広中や大井憲太郎らとともに旧自由党各派(愛国公党、自由党、大同倶楽部、九州同志会)を統合して立憲自由党を再興した。 尾崎行雄: 西園寺公望が桂太郎の反撃を受けて総辞職し、第2次桂内閣が発足すると、明治41年(1908年)12月21日、尾崎は猶興会を改組して紅葉館で河野広中らと又新会を成立させるが、自身は総裁・西園寺の下で再び政友会に復帰する。 片岡健吉: 明治13年(1880年)、第4回愛国社大会の議長を務め、その後河野広中と共に国会期成同盟代表として国会開設の請願書を元老院に提出するが、またもや不受理となる。 頭山満: 7月初めには東北地方に行脚の旅に出て、福島の河野広中はじめ多くの民権運動家と出会った。 大高正人: 祖父が三春藩士で河野広中をリーダーに自由民権運動の激しい戦いに身を投じ、苦難の境涯に屈することはなかったが、運動はもはやこれまでと自ら命を絶ったとされ、大高の父は、これを隠して弾圧を逃れる生活を送り、大高の生後間もなく福島市近郊に移った。 |
河野広中の情報まとめ
河野 広中(こうの ひろなか)さんの誕生日は1849年8月24日です。福島出身の政治家のようです。
事件、解散に関する情報もありますね。1923年に亡くなられているようです。
河野広中のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)河野 広中(こうの ひろなか、1849年8月24日(嘉永2年7月7日) - 1923年(大正12年)12月29日)は、日本の武士(三春藩士)、政治家。第11代衆議院議長。磐州と号した。福島県庁前に「河野磐州翁」の銅像が立っている。 嘉永2年7月7日(1849年8月24日)、陸奥国三春藩郷士・河野広可と妻・リヨ子の三男として生まれる。河野家は100石を給せられる他、呉服商・酒造業・魚問屋などを手広く営んでいた。川前紫渓に儒学を学び、その影響で尊皇攘夷論を唱えるようになった。 戊辰戦争にあたっては、三春藩は当初、奥羽越列藩同盟に加担していたが、尊皇を奉じる河野らはこれに反対。兄・河野広胖らと共に明治政府への帰順を思案し、美正貫一郎の仲介を経て東山道総督府軍先鋒の参謀であった板垣退助に決死の覚悟で会見した。三春藩の帰順が認められ、晴れて土佐藩・迅衝隊に合流し、二本松藩攻略と会津戦争に参加する事が出来た。 明治維新後は、地元で若松県権少属、戸長、区長などを歴任した。明治6年(1873年)2月には磐前県第14区(のちの福島県常葉町・現田村市)副戸長に任命されるが、この頃ジョン・スチュアート・ミルの『自由乃理』(中村正直の訳)を読み、自由民権運動に開眼する。10月には戸長になり、河野は地元で全国に率先して民会を興し、区内の民政について審議せしめた。 明治8年(1875年)に石川(のちの福島県石川町)の区長に転じた河野は地方官会議を傍聴するために上京。国会開設の建白をしたが政府の容れるところではなかった。郷里に戻り、任地である福島県石川町で石陽社を設立し、東北地方の自由民権運動のさきがけとなった。明治10年(1877年)、西南戦争が勃発すると、高知に板垣退助を訪ね、国会開設運動の母体として愛国社の再結成を協議した。帰郷後、三春に三師社を結成(明治11年)し、同時に福島県で民会規則の起草、県会開会の準備にあたるとともに、学塾正道館を創設(明治14年)して多くの自由民権活動家を育てた。 明治11年(1878年)、福島県庁に辞表を提出し、東北地方での民権運動に力を注ぐことになる。明治12年(1879年)、大阪で開かれた第3回愛国社大会に参加。明治13年(1880年)4月の第4回愛国社大会では国会開設を政府に訴えることを決議し、片岡健吉とともに、全国から集まった8万7,000名余りの署名を代表して太政官と元老院に国会開設の請願を提出したが、却下される。明治14年(1881年)10月、自由党結成に参加。自由党幹部として、中央政界の傍ら福島県会議員、県会議長として県議会においても指導的立場にあった。 しかし、明治15年(1882年)に福島県令・三島通庸の圧政に対して福島事件がおきる。河野は、同志の田母野秀顕らと藩閥専制政府に対抗する連判状を取り交わしていたため、内乱陰謀の容疑で12月に検挙され、明治16年(1883年)に高等法院において軽禁獄7年の刑を宣告された。明治22年(1889年)の大日本帝国憲法発布に伴う恩赦によって出獄を許された。牢から出た河野は、後藤象二郎の自由民権派を糾合する大同団結運動に参加し、大同倶楽部結成に参画する。 明治23年(1890年)第1回衆議院議員総選挙に出馬、初当選を飾る。以後、大正9年(1920年)の第14回衆議院議員総選挙まで連続当選した。河野は当初、自由党に所属し、東北派の領袖として党内に一大勢力を築いた。第四議会では、院内総理として自由党を指導し、予算をめぐり、第2次伊藤博文内閣と対立した。しかし、次第に伊藤内閣とは協調路線をとるようになり党内で星亨や竹内綱ら土佐派と対立するようになっていった。その結果、明治30年(1897年)自由党を脱党した。 明治31年(1898年)6月、自由党と立憲改進党の後身である進歩党の合同に尽力、憲政党の結成を見た。しかし、すぐに憲政党は分裂し河野は古巣の旧自由党系憲政党ではなく、大隈重信ら旧改進党系の憲政本党結成に参加した。その後も、藩閥政府を批判し普通選挙運動と対露強硬外交を主張した。 明治36年(1903年)、第11代衆議院議長に選ばれたが、12月の第19議会開院式で、対露強硬派の立場から勅語奉答文で、桂内閣弾劾を朗読し、政府はこれに反発し衆議院解散に至った(奉答文事件)。明治38年(1905年)、ポーツマス条約に反対し、9月に日比谷公園で講和条約反対を目的に開かれた国民大会の議長として日比谷焼打事件を扇動する。のちに建築家、新宿末廣亭席亭となる当時14歳の北村銀太郎は、四谷で暴徒を扇動する姿を目撃している。 事件ののち兇徒聚衆罪に問われたが、明治39年(1906年)に無罪判決が出された。 明治42年(1909年)には、アジア主義団体「亜細亜義会」に犬養毅、頭山満らと共に設立発起人として参加。このあとは、反立憲政友会陣営の雄として、衆議院小会派をいくつか渡り歩いた後、立憲国民党の結成に参加。次いで桂新党運動に参加・立憲同志会を結成。さらに憲政会に所属した。大正4年(1915年)第2次大隈重信内閣の農商務大臣に就任した。 大正12年(1923年)12月29日、肝臓癌のため74歳にて死去。墓は東京都文京区大塚の護国寺にある。 1915年(大正4年)1月11日 - 正四位 1923年(大正12年)12月30日 - 従三位 1914年(大正3年)6月18日 - 勲三等瑞宝章 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章 1916年(大正5年)7月14日 - 勲一等旭日大綬章 ^ 衆議院; 参議院 編『議会制度七十年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1962年、200頁。 ^ 三春町自由民権運動顕彰会・三春町自由民権記念碑建立実行委員会 「自由民権発祥の地」碑文、福島県田村郡三春町桜谷、2006年。 ^ 『官報』第1699号、明治22年3月2日、p.18 ^ 『官報』第6130号、明治36年12月7日、p.185 ^ 冨田均『聞書き・寄席末広亭一代』少年社、1981年、37頁。 ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)11頁 ^ 『官報』第731号「叙任及辞令」1915年1月12日。 ^ 『官報』第3411号「叙任及辞令」1924年1月9日。 ^ 『官報』第565号「叙任及辞令」1914年6月19日。 ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。 ^ 『官報』第1187号「叙任及辞令」1916年7月15日。 自由民権運動 中通り 三春藩 三島通庸:政敵。 国立国会図書館 憲政資料室 河野広中関係文書 表 話 編 歴 中島信行 星亨 楠本正隆 鳩山和夫 片岡健吉 河野広中 松田正久 杉田定一 長谷場純孝 大岡育造 長谷場純孝 奥繁三郎 島田三郎 大岡育造 奥繁三郎 粕谷義三 森田茂 元田肇 川原茂輔 堀切善兵衛 藤沢幾之輔 中村啓次郎 秋田清 浜田国松 富田幸次郎 小山松寿 田子一民 岡田忠彦 島田俊雄 樋貝詮三 山崎猛 松岡駒吉 幣原喜重郎 林讓治 大野伴睦 堤康次郎 松永東 益谷秀次 星島二郎 加藤鐐五郎 清瀬一郎 船田中 山口喜久一郎 綾部健太郎 石井光次郎 松田竹千代 船田中 中村梅吉 前尾繁三郎 保利茂 灘尾弘吉 福田一 福永健司 坂田道太 原健三郎 田村元 櫻内義雄 土井たか子 伊藤宗一郎 綿貫民輔 河野洋平 横路孝弘 伊吹文明 町村信孝 大島理森 細田博之 額賀福志郎 議院 衆議院 貴族院 参議院 表 話 編 歴 大江卓 松田正久 佐藤昌蔵 河野広中 箕浦勝人(代理) 石田貫之助 中野武営 阿部興人 武富時敏 星亨 元田肇 江原素六 栗原亮一 石田貫之助 原敬 栗原亮一 大岡育造 栗原亮一 大岡育造 栗原亮一 鳩山和夫 原敬 野田卯太郎 元田肇 井上角五郎 奥繁三郎 改野耕三 井上角五郎 大岡育造 片岡直温 山本悌二郎 小川平吉 斎藤珪次 中村啓次郎 吉植庄一郎 武藤金吉 田辺熊一 東武 山本悌二郎 野田卯太郎 片岡直温 町田忠治 藤沢幾之輔 川原茂輔 頼母木桂吉 武内作平 川原茂輔 堀切善兵衛 井上孝哉 森田茂 武内作平 川崎克 山崎達之輔 大口喜六 岡田忠彦 山崎達之輔 前田米蔵 島田俊雄 砂田重政 若宮貞夫 川崎克 小山松寿 熊谷直太 勝正憲 若宮貞夫 田子一民 桜井兵五郎 三土忠造 増田義一 東郷実 松村謙三 大口喜六 金光庸夫 小川郷太郎 島田俊雄 勝田永吉 太田正孝 中島弥団次 矢野庄太郎 竹田儀一 鈴木茂三郎 上林山榮吉 植原悦二郎 小坂善太郎 塚田十一郎 太田正孝 尾崎末吉 倉石忠雄 山口喜久一郎 牧野良三 三浦一雄 山崎巌 江﨑真澄 楢橋渡 小川半次 西村直己 船田中 山村新治郎 塚原俊郎 荒舩清十郎 青木正 福田一 植木庚子郎 井出一太郎 荒舩清十郎 中野四郎 瀬戸山三男 坪川信三 根本龍太郎 荒舩清十郎 白浜仁吉 坪川信三 田中正巳 中野四郎 小此木彦三郎(代理) 竹下登 田村元 小山長規 栗原祐幸 久野忠治 倉成正 天野光晴 小渕恵三 砂田重民 浜田幸一 奥田敬和 大野明 中尾栄一 越智伊平 渡部恒三 山村新治郎 高鳥修 粕谷茂 山口鶴男 佐藤観樹 上原康助 深谷隆司 松永光 越智通雄 中山正暉 島村宜伸 原田昇左右 野呂田芳成 津島雄二 藤井孝男 笹川堯 甘利明 大島理森 金子一義 逢沢一郎 衛藤征士郎 鹿野道彦 松原仁(代理) 中井洽 山本有二 二階俊博 大島理森 河村建夫 竹下亘 浜田靖一 河村建夫 野田聖子 棚橋泰文 金田勝年 根本匠 小野寺五典 伊藤達也 安住淳 表 話 編 歴 河野敏鎌 西郷従道 谷干城 西郷従道 山縣有朋 土方久元 黒田清隆 榎本武揚 井上馨 岩村通俊 陸奥宗光 河野敏鎌 佐野常民 後藤象二郎 榎本武揚 大隈重信 山田信道 伊東巳代治 金子堅太郎 大石正巳 曾禰荒助 林有造 平田東助 清浦奎吾 松岡康毅 大浦兼武 小松原英太郎 牧野伸顕 仲小路廉 山本達雄 大浦兼武 河野広中 仲小路廉 山本達雄 荒井賢太郎 田健治郎 岡野敬次郎 前田利定 高橋是清 山崎達之輔 内田信也 島田俊雄 石黒忠篤 千石興太郎 表 話 編 歴 遠藤致 山口千代作 河野広中 佐藤泰次 安部井磐根 岡田健長 矢部重高 目黒重真 高松嘉績 佐藤甚右衛門 八島成正 朝倉鉄蔵 斎藤喜三 鐸木三郎兵衛 吉田定之助 国分虎吉 菅村太事 前田兵郎 鈴木重郎治 湊芳蔵 太田三郎 釘本衛雄 小松茂藤治 太田秋之助 川田正智 物江浩 大竹作摩 蓮沼龍輔 渡辺鉄太郎 河原田盛雄 伊藤幟 鈴木寅之助 山ロー男 馬目武之助 佐川幸一 鈴木省吾 早川竣通 横井政吉 鈴木正一 池田善治 遠藤正二 中田武雄 笠原太吉 添田増太郎 渡辺正市 早川理久 大野雅人 太田豊秋 菅野喬之 山口勇 斎藤卓夫 三保恵一 植田英一 加藤貞夫 渡辺敬夫 遠藤忠一 佐藤憲保 斎藤健治 平出孝朗 斎藤勝利 杉山純一 吉田栄光 太田光秋 渡辺義信 西山尚利 FAST ISNI VIAF WorldCat イスラエル アメリカ 日本 IdRef 河野広中 日本の農商務大臣 福島県の市町村長 福島県議会議員 衆議院議長 (帝国議会) 福島県選出の衆議院議員 (帝国議会) 明治時代の衆議院議員 大正時代の衆議院議員 在職中に死去した衆議院議員 (帝国議会) 大正時代の閣僚 従三位受位者 正四位受位者 戊辰戦争の人物 自由民権運動の人物 東邦協会の人物 勲一等旭日大綬章受章者 幕末三春藩の人物 福島県出身の人物 1849年生 1923年没 2024/11/20 19:04更新
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kouno hironaka
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