浅田宗伯の情報(あさだそうはく) 漢方医師 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
浅田 宗伯さんについて調べます
■名前・氏名 |
浅田宗伯と関係のある人
今泉嘉一郎: 母、常子は伊勢崎藩主酒井氏の藩医だった祖父原常益の遺志を継ぎ、12歳で江戸の浅田宗伯の門で学び、17歳で開業医となった。 熊谷岱蔵: 曾祖父には浅田宗伯に医学の薫陶を施した熊谷珪碩がいる。 浅田和男: 漢方医の浅田宗伯の子孫。 徳川家茂: 江戸城からは、天璋院や和宮の侍医として留守を守っていた大膳亮弘玄院、多紀養春院(多紀安琢)、遠田澄庵、高島祐庵、浅田宗伯らが大坂へ急派された。 大正天皇: 明治天皇の外祖父の中山忠能が皇子御世話に任命され、漢方医の浅田宗伯、今村了庵、岡桐蔭が治療にあたった。 黒岩涙香: 信子の兄慶介は江戸に出て浅田飴で有名な浅田宗伯に師事し、静山と号する医者になった。 大正天皇: 主治医となった浅田宗伯と慶子が相談し、強い漢方薬を頭に貼る荒療治を行った結果、体調が改善し、3歳になりようやく歩けるようになった。 |
浅田宗伯の情報まとめ
浅田 宗伯(あさだ そうはく)さんの誕生日は1815年6月29日です。長野出身の漢方医師のようです。
現在に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1894年に亡くなられているようです。
浅田宗伯のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)浅田 宗伯(あさだ そうはく、文化12年5月22日(1815年6月29日) - 明治27年(1894年)3月16日)は日本の漢方医、儒学者。天璋院による徳川慶喜助命嘆願の書状を西郷隆盛に届けた人物である。諱は惟常といい、栗園の号で歌をたしなんだ。 浅田は信濃国筑摩郡北栗林村(現在の長野県松本市島立)出身で祖父の東斎、父の儕斎ともに医家の生まれである。浅田家は代々、医業と手習いの師匠を続け、子供の頃に四書五経を教わった師には、代々の医者の家系なのに宗伯はなぜこれほど物覚えが悪いのだろう、と思われていた。 15歳の頃に志を立て、熊谷珪碩や、高遠藩の儒臣中村元起(中村弥六の父)に医学の薫陶を受けた後、18歳で京都に上り元起の兄の中西深斎に師事した。他家の門人とも交流を持ち議論を重ね、その後は京や江戸を行き来し漢方医学と共に頼山陽や猪飼敬所らから経書や儒学、歴史学等を修めると、大坂で大塩平八郎の門をたたいて陽明学を学んだ。 はじめ江戸の諸名医の門を叩いたが相手にされず、幕医・本康宗円の理解を得るに及んで、多紀元堅・小島尚質・喜多村直寛ら医学館考証派の諸名家に紹介されたという。宗伯の名乗りは宗円より一字を承けられたものである。医学だけではなく、芳野金陵や安井息軒らと交流し、儒学の見地も広げていった。 22歳で江戸で開業したが、数年間は私事のトラブルもあり、なかなかうまく軌道に乗せることはできなかった。元起の推薦を受けて高遠藩の藩医の身分を得ると、やがて土佐藩医などを経て安政2年(1855年)に幕府の御目見え医師となる(41歳)。征夷大将軍徳川家茂に御目見えしたのは47歳で、57歳の慶応2年(1866年)に御典医(奥医師)に遇される。家茂が没し将軍家の典医を続けて維新を迎えた後も、宮内省侍医として医官にとどまった。医師としてはフランス公使・ロッシュや嘉仁親王(後の大正天皇)の生命の危機を救った事で知られている。医療や著述のかたわら、明治政府の漢方廃止政策に対抗し、岡田昌春と清川玄道、桐淵道斎と河内全節、高島祐啓に宗伯を加えた漢方六賢人の筆頭として、漢方保存に尽力した。 漢方が衰退していくなか病床に倒れ、見舞いにもらった紅梅を題材に以下の狂歌二首を辞世として長逝。 此の花の大和ごころを失はず 咲き返りても貫かんとぞ思ふ 春と云へばいづこの花も時めくに しほれて返る人のあはれさ 堀内伊三郎は信濃国伊那郡の出身であり、宗伯の書生を務めた時期に薬飴を製造した。その子の伊太郎が浅田飴と命名すると、販路を開いて今日まで続くブランドが始まる。 従四位 明治33年(1900年)に遺贈された。 発行年順。 『皇国名医伝』 『傷寒弁要』 『雑病弁要』 『脈法私言』 『原医警医記事』 『杏林風月』 『先哲医話』 本文の典拠として脚注に使用。主な執筆者、編者の順。 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰『コンサイス日本人名辞典』(第5版)三省堂、2009年。 大場秀章 編『日本医家列伝 : 鑑真から多田富雄まで』日外アソシエーツ、2007年4月。 国立国会図書館全国の図書館 清水藤太郎「浅田宗伯氏逝く」『漢方と漢薬』2巻12号、1935年、2284頁。 鈴木 昶「人物名(日本人名情報索引)浅田宗伯[直民,栗園]」大修館書店2013.4、2013年。 国立国会図書館全国の図書館 三好 学「淺田宗伯翁の筆蹟とその思出」『漢方と漢薬』第3巻第1号、日本漢方医学会、1936年1月、79-81頁、doi:10.11501/1471518、国立国会図書館書誌ID:0000000004511-d1471518。 国立国会図書館内限定公開、デジタル化資料送信:図書館・個人送信対象、遠隔複写可(NDL) 『江戸時代人物控1000』山本博文監修、小学館、2007年。ISBN 978-4-09-626607-6。 ^ 熊谷珪碩(1794年 - 1860年)は江馬蘭斎(1747年 - 1838年)の門弟で子孫に熊谷岱蔵がある。珪碩は地元で初めて民衆に種痘を施した。 ^ 山本 2007, p. 14 ^ 上田 et al. 2009, p. 24 ^ 清水 1935, p. 2284 ^ 原出典『薬業雑誌』40号(1894年)より転載。 ^ 田尻 1975, p. 14 『浅田宗伯』医療タイムス社、2010年。 『大日本人名辞書』講談社、1987年。 田尻佐 編「特旨贈位年表」『贈位諸賢伝』(増補版 上)近藤出版社、1975年。 馬場辰二「淺田宗伯翁の苦荊丸の運用に関する小経験」『日本東洋醫學會誌』第6巻第2号、日本東洋医学会、1955年、18-19頁、doi:10.14868/kampomed1950.6.2_18。 大場秀章 - 小栗忠順 - 旧知の知人 三好学 - 植物学者 FAST ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 韓国 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。 19世紀日本の医師 19世紀日本の医学者 19世紀日本の儒学者 19世紀日本のノンフィクション作家 江戸時代の医学者 江戸時代の儒学者 江戸時代の医師 伝統医学 奥医師 江戸幕府幕臣 幕末幕府の人物 日本の宮内省関係者 従四位受位者 信濃国の人物 1815年生 1894年没 2024/11/19 21:52更新
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