渡辺啓助の情報(わたなべけいすけ) 推理小説作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
渡辺 啓助さんについて調べます
■名前・氏名 |
渡辺啓助と関係のある人
城山堅: 空き家(渡辺啓助原作 / 1959年) 中薗英助: 在学中、西洋史を教わった渡辺啓助の影響で『新青年』を愛読するようになる。 矢野徹: 1956年ごろ:渡辺啓助、今日泊亜蘭らとSF同人「おめがクラブ」を設立。 今日泊亜蘭: 同時期に、渡辺啓助、矢野徹らとSF同人「おめがクラブ」(この命名は今日泊による)を設立、同人誌『科学小説』を発行。 ジョルジュ=シムノン: 大下宇陀児、木々高太郎、角田喜久雄、渡辺啓助らがシムノンの作品を上位に挙げており、特に角田は多大な影響を受けたらしく、『高木家の惨劇』など角田が戦後に執筆した9つの小説に登場する加賀美敬介警部の人物像はメグレをモデルとしている。 岡田時彦: 昭和4年、雑誌『新青年』6月号に「岡田時彦」名義の探偵小説『偽眼のマドンナ』が掲載されているが、これは「映画俳優が書いた小説」という特集に名前を貸したものであり、実作者は渡辺啓助である。 海野十三: 「海野十三篇」『短篇集(渡辺啓助・海野十三)』春陽堂書店〈日本探偵小説全集〉、1954年8月。 |
渡辺啓助の情報まとめ
渡辺 啓助(わたなべ けいすけ)さんの誕生日は1901年1月10日です。秋田出身の推理小説作家のようです。
現在、卒業、映画、家族、事件、結婚に関する情報もありますね。2002年に亡くなられているようです。
渡辺啓助のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)渡辺 啓助(わたなべ けいすけ、1901年1月10日(1900年末?) - 2002年1月19日)は、日本の推理作家。本名は渡辺 圭介。渡辺伊太郎・渡辺ツネの次男で、画家の渡辺東は娘、推理作家の渡辺温は実弟である。秋田県秋田市生まれ。 セメント技師の父の赴任のため、生後まもなく北海道谷好村(現在の北斗市)に、次いで1905年東京・深川に、1912年茨城県高鈴村(現在の日立市)に転居。茨城県水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を経て、1920年青山学院高等部英語師範科入学。1925年同校を卒業し、群馬県立渋川中学校(現在の群馬県立渋川高等学校)で英語教員となるが、翌1926年辞職し九州帝国大学(現在の九州大学)法文学部史学科に入学。西洋史を専攻した。 大学在学中の1928年、渡辺温とともに江戸川乱歩名義でエドガー・アラン・ポーの短編を翻訳、「ポー、ホフマン集 世界大衆文学全集30」(改造社)に掲載。1929年、「新青年」の企画「映画俳優による探偵小説競作」に、当時の人気俳優岡田時彦のゴーストライターとして、処女作「偽眼(いれめ)のマドンナ」を発表。 1930年大学を卒業し、福岡県八女中学校の歴史教師になる。この頃の教え子に、小島直記、中薗英助がいる。 筆名を渡辺圭介→渡辺啓介→渡辺啓助と変えながら、「新青年」誌に短編を発表。1935年には第一作品集「地獄横丁」を刊行。1937年、茨城県立龍ヶ崎高等女学校に転任するが、校風を嫌い翌年辞職し上京、以後創作に専念。 1942年、大日本帝国陸軍報道部の嘱託により美川きよとともに「新青年」から大陸に派遣され、内モンゴルのオルドス地方などを視察。この見聞を元にして書かれた作品は3期連続で直木賞候補に推される。 終戦後は家族の疎開先である群馬県渋川町に落ち着き、昭和20年代をほぼこの地で過ごすことになる。「新青年」や「宝石」「講談雑誌」などに多数の短編を書いたほか、連載長編「東京ゴリラ伝」「悪魔の唇」を手掛けた。 1954年東京に戻る。1957年には、今日泊亜蘭、矢野徹らとSF同人「おめがクラブ」を設立。1960年から1963年には、木々高太郎に代わって日本探偵作家クラブ(現在の日本推理作家協会)4代目会長を務める。この頃から小説の発表は減り、絵・書や詩作などの表現活動を盛んに行うようになる。晩年は鴉に材をとり絵筆をふるった。また、文芸サークル「鴉の会」を主宰した。 戦前の「新青年」をはじめとする探偵小説界を知る最後の生き証人であった。2001年に100歳を記念したアンソロジー「ネメクモア」(東京創元社)が刊行された。墓所は港区大増寺。 偽眼のマドンナ (新青年、1929年6月号) 地獄横丁 (新青年、1933年4月号) 聖悪魔 (新青年、1937年1月号) 密林の医師 (新青年、1942年6月号) オルドスの鷹 (新青年、1942年11月号) 西北撮影隊 (新青年、1943年5月号) 魔女物語 (新読物、1946年10月号) 浴室殺人事件 (クラブ、1949年2月号) 鮮血洋燈 (講談社・書き下ろし、1956年) 吸血鬼考 (宝石、1957年7月号) 海・陸・空のなぞ (新潮社・書き下ろし、1958年) クムラン洞窟 (宝石、1959年2月号) 海底結婚式 (桃源社・書き下ろし、1960年) 探偵横丁下宿人 (小説推理1976年1月号~1977年12月号) 鴉 誰でも一度は鴉だった (山手書房、1985年) 直木三十五賞候補 — 「密林の医師」「オルドスの鷹」(1942)、「西北撮影隊(後に「洞窟の女学生」と改題)」(1943) 日本探偵作家クラブ賞候補 — 「血笑島にて」(1957)、「吸血鬼考」(1958)、「寝衣(ネグリジェ)」(1959)ほか ^ 日本人名大辞典+Plus デジタル版. “渡辺啓助とは”. コトバンク. 2021年12月9日閲覧。 ^ 読売人物データベース 日本の小説家一覧 推理作家一覧 渡辺啓助の世界 - ウェイバックマシン(2001年4月21日アーカイブ分) ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research IdRef 20世紀日本の小説家 日本の推理作家 日本の中等教育の教員 九州大学出身の人物 青山学院大学出身の人物 茨城県立水戸第一高等学校出身の人物 秋田県出身の人物 日本のセンテナリアン 1901年生 2002年没 日本の小説家 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事
2024/11/21 20:08更新
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watanabe keisuke
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