狩野直喜の情報(かのなおき) 漢学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
狩野 直喜さんについて調べます
■名前・氏名 |
狩野直喜と関係のある人
宮崎市定: 1922年(大正11年)に京都帝国大学文学部史学科に入学、東洋史を専攻し、内藤湖南・桑原隲蔵・羽田亨・狩野直喜らに師事する。 吉川幸次郎: 京都帝国大学文学部文学科に進み、狩野直喜・鈴木虎雄に考証学・中国語学・古典中国文学を学んだ。 内藤虎次郎: 講師となって以後、東洋史担当講座に足掛け20年務め、同僚の狩野直喜・桑原隲蔵とともに「京都支那学」を形成、京大の学宝とまで呼ばれた。 織田萬: 織田は、狩野直喜を委員に推挙し、浅井虎夫・東川徳治・加藤繁を補助委員として迎えて、『清国行政法』を編纂している。 武内義雄: 狩野直喜による「清朝学術沿革史」講義に深い感銘を受け、在学中はその指導を受けた。 後藤新平: また同じく京都帝大教授で行政法学者の織田萬をリーダーとして、当時まだ研究生であった中国哲学研究者の狩野直喜、中国史家の加藤繁などを加えて、清朝の法制度の研究をさせた。 |
狩野直喜の情報まとめ
狩野 直喜(かの なおき)さんの誕生日は1868年2月11日です。熊本出身の漢学者のようです。
卒業、事件に関する情報もありますね。1947年に亡くなられているようです。
狩野直喜のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)狩野 直喜(かの なおき、1868年2月11日(慶応4年1月18日) - 1947年(昭和22年)12月13日)は、日本の中国学者。中国文学、中国哲学、敦煌学に業績を残す。京都帝国大学名誉教授。字は子温、号に君山、半農人がある。内藤湖南・桑原隲蔵と並ぶ京都学派東洋史学の創始者の一人。肥後国(現:熊本県)生まれ。 1879年(明治12年)、創設まもない同心学舎に入学し、明治17年に後身の済々黌を卒業。その後上京し、共立学校で英語・数学を学んだのち、大学予備門に入り1892年(明治25年)に卒業。東京帝国大学文科大学漢学科に入学。同期に藤田豊八、後輩に桑原隲蔵・高瀬武次郎がいた。在学中は島田篁村から考証学を承けた。 1900年(明治33年)には京都帝国大学への赴任を前提に中国本土(清)の北京に留学するが、義和団事件に巻き込まれ服部宇之吉とともに北京日本公使館に籠城した。翌1901年(明治34年)には上海へ留学、羅振玉や内藤湖南と知り合い、欧米の東洋学者とも交流を深めた。1903年(明治36年)の帰国後、台湾総督府による『清国法制史』の編纂、京都法政専門学校(のちの立命館大学)附設の東方語学校での講義を行う。 1906年(明治39年)にようやく新設された京都帝国大学文科大学の教授に就任。中国哲学・中国文学・中国語学を教え、青木正児・吉川幸次郎らの中国文学者・中国学者を指導育成したほか、後に旧熊本藩細川家当主の細川護貞にも教えている。1910年(明治43年)には発見まもない敦煌文書の調査のため京都帝大より内藤湖南・小川琢治・富岡謙蔵・濱田耕作らと北京へ赴く。 1912年(明治45年)から欧州留学し、フランスではシノロジーの大家シャヴァンヌやペリオらと交遊し当時最先端の文献学的方法を吸収、またフランスに持ち帰られた敦煌文書(敦煌学)の閲覧研究も行った。1928年(昭和6年)定年退官。 また先述の服部宇之吉と共に、義和団事件賠償金で運営された日中共同の東方文化事業に関与し、1926年(昭和4年)、東方文化学院京都研究所(現:京都大学人文科学研究所)初代所長に就任、京都研究所が東方文化研究所として独立する1935年(昭和13年)まで務めた。1925年(大正14年)、帝国学士院会員に選任。墓所は金戒光明寺。 1908年(明治41年)12月11日 - 従六位 1912年(大正元年)12月28日 - 従五位 1944年(昭和19年) - 文化勲章 研究手法は考証学的で、後の京都大学の中国学(京都学派)に大きな影響を与えている。 敦煌学の先駆的研究を行った一人であるほか、中国の民間文学研究にも力を注いだ。 司馬遼太郎『この国のかたち』や『春灯雑話』によれば、学生時の細川護貞を教えるときでも漢文の解釈に一々出典を挙げさせた。また朱子学を嫌い、考証学や徂徠学を尊んだ。後年臨終の床で、細川より「なぜ日本がこのような馬鹿な負け方をしたのでしょう」と問われ、「(朱子学が基にある)水戸学のせいだ」と答えるほどであったという。 一方で小島祐馬によれば、宋学(朱子学)の学者の気風を好んでいたという。 嫡孫狩野直禎は東洋史学者(先秦~六朝期の中国史)。『中国哲学史』以外の著作編纂を行った。
『中國哲學史』岩波書店、1953年、度々復刊。オンデマンド版2012年 『両漢學術考』筑摩書房、1964年、復刊1978年、1988年 『魏晋學術考』筑摩書房、1968年、復刊1978年、1988年 『支那文學史 上古より六朝まで』1970年、復刊1980年、1993年、解説吉川幸次郎 『支那學文藪』 1973年、解説吉川幸次郎 - 元版(弘文堂、1927年)を大幅に増訂 『論語孟子研究』 1977年、解説吉川幸次郎 『漢文研究法』1979年、復刊1989年/平凡社〈東洋文庫〉2018年 - 古勝隆一補訂・解説 『讀書籑餘(せんよ)』1980年、解説狩野直禎 - 遺著(弘文堂、1947年)を改訂 『御進講録』1984年、新装復刊2005年、解説宮崎市定 - 経学を軸とする昭和天皇への進講 『清朝の制度と文學』1984年、解説宮崎市定 『支那小説戯曲史』1992年 『春秋研究』1994年、解説島田虔次 『支那学論叢 狩野教授還暦記念論集』(弘文堂書房、1928年、再版1930年) 『東洋学の創始者たち』(吉川幸次郎編、講談社、1976年) 『東方学回想 Ⅰ 先学を語る〈1〉』(刀水書房、2000年)、いずれも座談での回想(上記の新版) 吉川幸次郎『音容日に遠し』(筑摩書房、1980年)、遺著で先師らの回想記 『書論 第38号 特集 狩野君山』杉村邦彦 編、書論編集室、2012年(遺墨図版、狩野直禎・吉川忠夫、編者の論考) 高田時雄 著「狩野直喜」、砺波護 編『京大東洋学の百年』京都大学学術出版会、2002年。ISBN 978-4876984398。 ^ 高田時雄 著「狩野直喜」、砺波護 編『京大東洋学の百年』京都大学学術出版会、2002年5月。ISBN 978-4876984398。 ^ 『官報』第7640号「叙任及辞令」1908年12月12日。 ^ 『官報』第126号「叙任及辞令」1912年12月29日。 ^ 後半に追悼論集『東光 第五号 狩野直喜先生永逝記念』(元版「狩野君山博士追悼録」弘文堂書房、昭和23年・1948年)復刻を収録 ^ 次号の『第39号 特集 京都学派とその周辺』にも、狩野・吉川の論考がある。 狩野直喜:作家別作品リスト - 青空文庫 狩野直喜先生小傳 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ アメリカ 日本 韓国 オランダ IdRef 日本の中国学者 中国文学者 文化勲章受章者 帝国学士院会員 東方文化事業 北清事変の人物 京都大学の教員 京都大学人文科学研究所の人物 戦前日本の学者 肥後国の人物 熊本県立済々黌高等学校出身の人物 開成中学校・高等学校出身の人物 旧制第一高等学校出身の人物 東京大学出身の人物 熊本県出身の人物 従五位受位者 1868年生 1947年没 プロジェクト人物伝項目 すべてのスタブ記事 学者関連のスタブ項目 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NLK識別子が指定されている記事 NTA識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事
2024/11/21 17:43更新
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kano naoki
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