由利公正の情報(ゆりきみまさ) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
由利 公正さんについて調べます
■名前・氏名 |
由利公正と関係のある人
三島通庸: その後、三島は府知事・由利公正を説得、ところが由利は7月に岩倉使節団に加わるため免官。 福岡孝弟: 越前藩の由利公正とともに五箇条の御誓文を起草した。 明治天皇: 草案は由利公正と福岡孝弟が作り、木戸孝允がその修正に加わって作成された。 横井小楠: 坂本龍馬、井上毅、由利公正、元田永孚など、明治維新の立役者や後の明治新政府の中枢の多くが後にここを訪問している。 童門冬二: 『横井小楠と由利公正の新民富論 明治国家のグランドデザインを描いた二人の英傑』経済界 2000 坂本龍馬: 後藤象二郎の依頼で、慶応3年10月24日に山内容堂の書状を持って越前福井藩へ出向き、松平春嶽の上京を促して三岡八郎(由利公正)と会談したあと、11月5日に帰京した。 |
由利公正の情報まとめ
由利 公正(ゆり きみまさ)さんの誕生日は1829年12月6日です。福井出身の政治家のようです。
現在、母親に関する情報もありますね。1909年に亡くなられているようです。
由利公正のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)由利 公正(ゆり きみまさ / ゆり こうせい、文政12年11月11日〈1829年12月6日〉- 明治42年〈1909年〉4月28日)は、日本の武士(福井藩士)、政治家、財政家、実業家。子爵、麝香間祗候。旧姓は三岡。通称を石五郎、八郎。字を義由、雅号に雲軒など。 文政12年(1829年)、福井藩士・三岡義知(100石)の嫡男として越前国足羽郡福井城下(現・福井県福井市)に生まれる。嘉永6年(1853年)に家督相続。福井を訪れた横井小楠の殖産興業策に触発され、横井から財政学を学ぶ。橋本左内らと国事に奔走し、藩主・松平慶永から財政手腕を評されて抜擢され、藩札発行と専売制を結合した殖産興業政策で窮乏した藩財政を再建する。 慶永が幕府政事総裁職に就任すると、慶永の側用人に就任する。長州征伐では、藩論を巡って対立した征伐不支持と薩摩藩や長州藩など雄藩支持の両派の提携を画策したものの、支持が得られず福井にて蟄居・謹慎処分となった。謹慎中に坂本龍馬の来訪を受けて交流を深める。坂本とは新政府が取るべき経済政策について談義し、このことが新政府への参画を求められたことへ結びついたのだと後に語っている。 明治維新後、土佐藩の福岡孝弟らと共に五箇条の御誓文の起草に参画した(公正が作成した「議事之体大意」が原文となっている)。新政府では徴士参与として、金融財政政策を担当する。慶応4年2月16日、参与会計事務掛由利は、紙幣製造対策を建白し、慶応4年1月24日、政府は300万両製造を決定、由利に事務管掌を命令した。会計事務掛・御用金穀取締として、会計基立金募集や太政官札発行、商法司設置など積極的な政策を推進したものの、太政官札の流通難など政策に対する批判が高まった結果、明治2年(1869年)に辞職するに至った。この頃、外国人技師を引き連れて宇都宮藩が放棄した篠井金山の採掘に乗り出したものの、事業は軌道に乗らなかった。 明治4年(1871年)に東京府知事に就任。明治5年(1872年)5月、岩倉使節団の随行に加わることになりアメリカ、ヨーロッパへ渡航し、各国の自治制度・議会制度などを研究。明治7年(1874年)、板垣退助や江藤新平らと共に、政府に対して民撰議院設立建白書を提出する。 明治8年(1875年)に元老院議官に任ぜられ、明治20年(1887年)5月24日に子爵に叙せられる。明治23年(1890年)には貴族院議員。同年10月20日、麝香間祗候となる。 明治27年(1894年)3月、京都にて有隣生命保険会社の初代社長に就任した。 明治42年(1909年)4月28日、脳溢血のため東京市芝区高輪の自宅で死去。79歳没。墓所は品川区海晏寺。 藩の殖産興業策を実施するため、横井小楠と共に西国各地へ出張している。下関では物産取引の実情を調査し、長崎では藩の蔵屋敷を建ててオランダ商館と生糸販売の特約を結ぶなど、積極的な経済政策を推進した。「民富めば国の富む理である」という「民富論」的な富国策は大きな成果を挙げた結果、藩財政は黒字に転じた。 東京府知事時代、1872年4月3日(旧暦の明治5年2月26日)に銀座大火が発生し、現在の東京都丸の内、銀座、築地の一帯が全焼した。当時の東京は木造家屋が多かったため、由利は銀座大火を受けて東京を防火防災都市とすべく銀座に煉瓦造りの建築物を数多く建てたり、現在の銀座大通りの幅員を「ニューヨークやロンドンの目抜き通り並に45.5mに拡張すべし」と主張(結局は27.3mの拡幅となった)するなどといった都市改造計画を立案・実行に移した。 生誕後、福井藩士時代までは「三岡 八郎(みつおか はちろう)」の名を用い、明治維新後に「由利 公正」に名を改めた。由利公正の読みについて「こうせい」か「きみまさ」かで長く議論があったが、「Yuri Kimimasa」とローマ字で自ら署名した東京府知事時代の公文書が平成26年(2014年)3月に発見された為、由利公正の読みについて福井県は「『ゆり・きみまさ』として今後は読みを行う」とする意向を示している。 由利姓を名乗ったのは、平安時代末期の出羽国沿岸中部の由利地方(現秋田県由利本荘市)の豪族由利維平、及びその子孫である滝沢氏(由利十二頭)の血を引く家伝からだった。 公正の母親は家政の切り回しが上手な賢婦人として知られ、公正は幼少の頃より母を助けて家屋の修繕や菜園での農作業、父の乗馬の飼育などを手伝った一方で武道にも励んだとされる。 自身が越前藩より蟄居を命ぜられている際に、土の中に埋めることで保温力を高める竈(へっつい)を考案。このへっついはそれまでの製品よりも火力が高く燃料が節約出来たことから重宝され、「三岡へっつい」と呼ばれて1935年(昭和10年)くらいまで福井県下で使用されていたという。 坂本龍馬とは大変気が合ったようで、龍馬2度目の福井来訪時、足羽川近くの山町のたばこ屋旅館にて、早朝から深夜まで延々日本の将来を語り合ったという。当時、謹慎中の公正(三岡八郎)には立会人として藩士が付き添ったにもかかわらず、龍馬は遠慮せずに「三岡、話すことが山ほどあるぜよ」と叫んだと伝えられる。五箇条の御誓文の原文となった「議事之体大意」は龍馬の船中八策(「船中八策」については史料上の疑義が多く、史料として現存している「新政府綱領八策」ではないかとの説もある)と思想的な基本が共通している。龍馬は公正と会見して帰京した時期に「新政府綱領八策」を自筆しているが、2014年にこれに関連する下書きが発見された。 龍馬2度目の福井訪問から約1週間後、公正は福井城下にて足羽川沿いの土手を歩いていたその時、一陣の突風が土手を歩く公正を襲い、懐中に忍ばせておいた龍馬の手紙を落としてしまった。公正が手紙を紛失した時と同じくして京都にて龍馬が暗殺されたという巷談が残る。 坂本龍馬 「天下の人物といえば西郷隆盛と三岡八郎」 1887年(明治20年)12月26日 - 正四位 1893年(明治26年)6月16日 - 従三位 1909年(明治42年)4月28日 - 従二位 1885年(明治18年)7月13日 - 勲二等旭日重光章 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章 1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等瑞宝章 1909年(明治42年)4月28日 - 旭日大綬章 三男 由利公通 孫 由利公真(子爵、公通長男)・由利正通(貴族院子爵議員、公通二男) 伝記
漫画
本宮ひろ志『猛き黄金の国 由利公正』(2022年、集英社「グランドジャンプ」連載) 小説
^ 『官報』第7753号、明治42年5月3日。 ^ 国立国会図書館ホームページ 近代日本人の肖像 ^ 柏村 2020, p. 61. ^ 『官報』第1169号、明治20年5月25日。 ^ 『官報』第2195号、明治23年10月22日。 ^ 『新聞集成明治編年史. 第十四卷』p.88 ^ 『由利公正(三岡八郎)をめぐるエピソード集』(PDF)(プレスリリース)福井市、2017年9月6日。https://www.city.fukui.lg.jp/sisei/plan/renkei/taiga_drama_d/fil/yuri-episode.pdf。2017年9月7日閲覧。 ^ 由利公正、「きみまさ」読みで公務 署名の公文書を福井県が発見 福井新聞 2014年3月26日閲覧(Web魚拓による保存措置) ^ 坂本龍馬の“幻の手紙”を番組取材中に発見! 驚きの鑑定額にスタジオが騒然!! Newswalker 2014年4月7日 ^ 『官報』第1351号「叙任及辞令」1887年12月28日。 ^ 『官報』第2989号「叙任及辞令」1893年6月17日。 ^ 『官報』第7751号「叙任及辞令」1909年4月30日。 ^ 『官報』第610号「賞勲叙任」1885年7月14日。 ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。 ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。 ^ 『官報』第7750号「叙任及辞令」1909年4月29日。 ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻、820頁。 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。 柏村祐司『なるほど宇都宮 歴史・民俗・人物百科』随想舎、2020年4月25日、188頁。ISBN 978-4-88748-382-8。 五箇条の御誓文 民撰議院設立建白書 太政官札 交詢社 岩倉使節団 銀座大火 由利維平 片山良庵#師弟 - 三岡幸庵 表 話 編 歴 烏丸光徳 烏丸光徳 大木喬任 壬生基脩 由利公正 大久保一翁 楠本正隆 松田道之 芳川顕正 渡辺洪基 高崎五六 蜂須賀茂韶 富田鉄之助 三浦安 久我通久 岡部長職 肥塚龍 千家尊福 阿部浩 宗像政 久保田政周 井上友一 阿部浩 宇佐美勝夫 平塚廣義 中川健藏 牛塚虎太郎 長谷川久一 藤沼庄平 香坂昌康 横山助成 館哲二 岡田周造 川西實三 松村光磨 大木喬任 楠本正隆 1889(明治22)年-1898(明治31)年は府知事が職務を執行 松田秀雄 尾崎行雄 阪谷芳郎 奥田義人 田尻稲次郎 後藤新平 永田秀次郎 中村是公 伊沢多喜男 西久保弘道 市来乙彦 堀切善次郎 永田秀次郎 牛塚虎太郎 小橋一太 頼母木桂吉 大久保留次郎 岸本綾夫 大達茂雄 西尾寿造(兼関東信越総監) 広瀬久忠(兼関東信越総監) 藤沼庄平 松井春生 安井誠一郎 飯沼一省 安井誠一郎 安井誠一郎 東龍太郎 美濃部亮吉 鈴木俊一 青島幸男 石原慎太郎 猪瀬直樹 舛添要一 小池百合子 表 話 編 歴 醍醐忠順 後藤象二郎 由利公正御用取扱 西四辻公業 渡邊昇権知事→知事 建野郷三 西村捨三 山田信道 内海忠勝 時任為基 沖守固 吉原三郎代理 菊池侃二 高崎親章 犬塚勝太郎 大久保利武 林市蔵 池松時和 井上孝哉 土岐嘉平 中川望 田辺治通 力石雄一郎 柴田善三郎 斎藤宗宜 縣忍 安井英二 池田清 半井清 三辺長治 河原田稼吉 池田清 安井英二 新居善太郎 松井春生 田中廣太郎 大塚兼紀代理 高辻武邦 赤間文三 左藤義詮 黒田了一 岸昌 中川和雄 山田勇(横山ノック) 齊藤房江(太田房江) 橋下徹 松井一郎 吉村洋文 表 話 編 歴 細川潤次郎 近衛篤麿 西園寺公望 谷干城 由利公正 徳川家達 谷干城 二条基弘 徳川頼倫 蜂須賀正韶 二条厚基 近衛文麿 松平頼寿 徳川圀順 島津忠重 中御門経恭 廃止 FAST ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 由利公正 東京府知事 麝香間祗候 19世紀日本の実業家 日本の発明家 日本の元老院議官 貴族院子爵議員 明治時代の貴族院議員 在職中に死去した日本の貴族院議員 日本の貿易立国論者 従二位受位者 勲一等旭日大綬章受章者 勲一等瑞宝章受章者 勲二等旭日重光章受章者 興亜会の人物 幕末越前福井藩の人物 福井県出身の人物 1829年生 1909年没 プロジェクト人物伝項目 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/11/20 18:41更新
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