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横井小楠の情報 (よこいしょうなん)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

横井小楠の情報(よこいしょうなん) 儒学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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横井 小楠さんについて調べます

■名前・氏名
横井 小楠
(読み:よこい しょうなん)
■職業
儒学者
■横井小楠の誕生日・生年月日
1809年9月22日
巳年(へび年)、乙女座(おとめ座)
■出身地・都道府県
熊本出身

横井小楠と同じ1809年生まれの有名人・芸能人

横井小楠と同じ9月22日生まれの有名人・芸能人

横井小楠と同じ出身地熊本県生まれの有名人・芸能人


横井小楠と関係のある人

由利公正: 藩の殖産興業策を実施するため、横井小楠と共に西国各地へ出張している。


井上毅: 同年2月に学習課程を修了した後も時習館の寮で勉強を続け、元治元年(1864年)10月に蟄居していた横井小楠を尋ね討論を交わしたり(その時の様子を『沼山対話』として記録)、慶応3年(1867年)9月に江戸幕府が開設した横浜のフランス語伝習所へ移ったが、同年10月の大政奉還で幕府が滅亡、翌慶応4年(明治元年、1868年)1月からの戊辰戦争による混乱で旅行は中止、4月に帰郷した。


由利公正: 福井を訪れた横井小楠の殖産興業策に触発され、横井から財政学を学ぶ。


童門冬二: 『小説・横井小楠 維新への道を拓いた巨人』祥伝社 1994


高杉晋作: 8月には東北遊学を行い、加藤桜老や佐久間象山、横井小楠とも交友する。


福澤諭吉: 同時代の思想家で最も共通しているといわれているのは横井小楠で、小楠が唱えた天意自然の理に従うという理神論「天の思想」と諭吉の人生観が合致するとされている。


明治天皇: 1月5日(2月15日)には参与横井小楠が暗殺され、天皇はその事件の報に驚き、ただちに侍従少納言長谷信成を横井宅に遣わして事の真偽を確かめさせた。


横井玉子: 明治5年(1872年)に横井小楠の甥で養子となった横井左平太(時治)と結婚。


坂本龍馬: 熊本で龍馬は横井小楠を訪ねて会合し、小楠はその返書として海舟に『海軍問答』を贈り、海軍建設に関する諸提案をした。


荻昌弘: 横井小楠一派の実学党同志として藩政改革を志したが、藩内で忌憚され、のちに党は二分した。


横井時敬: 父時教は横井小楠の高弟であった。


高橋長英: 徳川慶喜(1998年) - 横井小楠


山崎一: 龍馬伝(2010年) - 横井小楠


大橋壮多: テレビ熊本開局30周年記念番組 / 未来を見つめた幕末の英雄「横井小楠」(1998年、TKU) - 矢島源助


海野けい子: 横井小楠(1998年11月、テレビ熊本)


矢嶋楫子: 林は武家出身で、横井小楠の弟子であった。


佐々友房: 同郷に横井小楠、宮部鼎蔵がいる。


徳川慶喜: 同年9月30日、破約攘夷のやむを得ないことを意見した横井小楠に対し、万国が好を通じる今日において、日本のみが旧態依然とした鎖国に固執すべきでないことを説き、開国のやむを得ないことを天皇に奏上すべきであると述べた。


勝海舟: これに先立ち一翁も7月4日に御側御用取次として復帰、海舟は一翁および春嶽とその顧問横井小楠を提携相手として手を組み、彼らが主張する公議政体論(諸侯の政治参加を呼びかけ、幕府と共同で政治を行う主張)の支持者となりその実現に向け動き出すことになる。


矢嶋楫子: 順子(竹崎順子)は、横井小楠の高弟である竹崎茶堂と結婚し、熊本女学校校長となった教育者である。また、順子のすぐ下の姉・久子(徳富久子)も同じく横井小楠の高弟である徳富一敬と結婚し、湯浅初子・徳富蘇峰・徳冨蘆花の兄弟を生んでいる。また、かつのすぐ上の姉つせ子(横井つせ子)は横井小楠の後妻となった。


伊吹吾郎: 未来を見つめた幕末の英雄「横井小楠」(1998年11月3日、テレビ熊本)


徳冨蘆花: 横井小楠門下の俊英であった父徳富一敬と母久子の四女三男の末子として、肥後国葦北郡水俣村に生まれる。


勝野洋: つばき、時跳び(2010年8月11日〜29日、明治座) - 横井小楠


徳冨蘆花: 1886年に同志社に再入学、1887年に東京で民友社社長となっていた兄のところで二葉亭四迷の小説「浮雲」を読み、小説家になる志を立て、1888年に『同志社文学』に横井小楠の墓を訪ねた短文「孤墳の夕」が掲載され、初めて文章が活字になった。


横井玉子: 横井小楠


大川周明: 一方、日本精神復興を唱えて佐藤信淵、源頼朝、上杉謙信、横井小楠らの評伝をまとめ『日本精神研究』(1924年)を執筆。


童門冬二: 『横井小楠と由利公正の新民富論 明治国家のグランドデザインを描いた二人の英傑』経済界 2000


木戸孝允: 同じく9月、横井小楠と会談。


上田庄三郎: 『横井小楠』啓文社、1942年9月。


徳富蘇峰: 父の一敬は「淇水」と号し、「維新の十傑」 のひとり横井小楠に師事した人物で、一敬・小楠の妻同士は姉妹関係にあった。


横井小楠の情報まとめ

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横井 小楠(よこい しょうなん)さんの誕生日は1809年9月22日です。熊本出身の儒学者のようです。

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人物、嗜好などについてまとめました。現在、父親、事件、病気に関する情報もありますね。

横井小楠のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

横井 小楠(よこい しょうなん)は、日本の武士(熊本藩士)、儒学者。横井 時存(よこい ときひろ/ときあり)とも呼ばれる。本姓は平氏で、北条時行の子孫を称していた。諱は時存ときひろ/ときありであり、朝臣としての正式な名のりは平 時存たいら の ときひろ/ときあり。通称は平四郎で、北条平四郎時存、北条四郎平時存ともいう。「小楠」は彼が使った号の一つで、楠木正行(小楠公)にあやかって付けたものとされる。他の号に畏斎いさい沼山しょうざんがある。字は子操。

熊本藩において藩政改革を試みるが、反対派による攻撃により失敗。その後、福井藩の松平春嶽に招かれ政治顧問となり、幕政改革や公武合体の推進などにおいて活躍する。明治維新後に新政府に参与として出仕するが暗殺された。

文化6年(1809年)8月13日、肥後国(現在の熊本県)熊本城下の内坪井町に、家禄150石の熊本藩士・横井時直の次男として生まれる。

文化13年(1816年)、8歳で藩校・時習館に入校。天保4年(1833年)に居寮生となったのち、天保7年(1836年)の講堂世話役を経て、天保8年(1837年)に時習館居寮長(塾長)となる。下津久馬(休也)とともに居寮新制度を建議、採用されるものの実施過程において頓挫する。このとき、家老の長岡是容の後ろ盾を得る。天保10年(1839年)、藩命により江戸に遊学、林檉宇の門下生となり、佐藤一誠、松崎慊堂らに会う。また、江戸滞在中に幕臣の川路聖謨や水戸藩士の藤田東湖など、全国の有為の士と親交を結ぶ。

しかし、同年12月25日に藤田東湖が開いた忘年会に参加した帰り、さらに酒を飲み重ねた後、藩外の者と喧嘩になったことが咎められ、翌天保11年(1840年)2月9日、藩の江戸留守居役から帰国の命令を下され、帰国後には70日間の逼塞に処された。この間、小楠は朱子学の研究に没頭する。翌天保12年(1841年)頃より、長岡是容、下津久馬、元田永孚、萩昌国らと研究会を開く。これが「実学党」となり、筆頭家老の松井章之を頭目とする「学校党」と対立することとなるが、藩政の混乱を避けるため長岡が家老職を辞職し、研究会を取り止める。また『時務策』を起草する。

天保14年(1843年)、自宅の一室で私塾(のち弘化4年(1847年)に「小楠堂」と命名)を開く。小楠の第一の門弟は徳富一敬であり、一敬は徳富蘇峰と蘆花の父親である。第二の門弟は矢嶋源助であり、のちに嘉悦氏房、長野濬平(長野忠次の父)、河瀬典次、安場保和、竹崎律次郎(竹崎茶堂、竹崎順子の夫)など多くの門弟を輩出する。

嘉永2年(1849年)、福井藩士・三寺三作が小楠堂に学び、これにより小楠の名が福井藩に伝わり、のちに福井藩に出仕するきっかけとなる。さらに嘉永5年(1852年)には、福井藩の求めに応じて『学校問答書』を、翌嘉永6年(1853年)には『文武一途の説』を書いて送り、これにより後に福井藩より招聘を受けることとなる。同年10月、ロシア軍艦に乗ろうとして長崎に向かっていた吉田松陰が小楠堂に立ち寄り、小楠と3日間話し合った。同年11月、ロシア使節応接係川路聖謨に「夷虜応接大意」を送り、有道・無道をわかたずいっさい外国の要求を拒絶することは天地公共の実理に反すると説く。

安政元年(1854年)7月、兄・時明が48歳で病死した。兄の長男・左平太はまだ10歳と幼少だったため、小楠が兄の末期養子として家督を継いだ。この頃、考え方の対立により長岡と絶交することとなった。

安政2年(1855年)5月、農村の沼山津(現・熊本市東区沼山津)に転居し、自宅を「四時軒」(しじけん)と名づけ、自身の号も地名にちなんで「沼山」(しょうざん)とする。坂本龍馬、井上毅、由利公正、元田永孚など、明治維新の立役者や後の明治新政府の中枢の多くが後にここを訪問している。

安政4年(1857年)3月、福井藩主・松平春嶽の使者として村田氏寿が小楠の元を訪れ、福井に招聘される。小楠がそれを内諾したため、春嶽は8月に熊本藩主・細川斉護に書状を送り、小楠の福井行きを願い出た。斉護は実学党による藩校の学風批判などから一旦それを断るが、春嶽らが幾度にもわたり要請した後にようやく承諾された。小楠は翌安政5年(1858年)3月に福井に赴き、賓師として50人扶持の待遇を与えられ、藩校明道館で講義を行うなどした。同年12月、弟の死去により熊本に帰郷。翌安政6年(1859年)に再度福井藩から招きを受けて福井に滞在。同年12月、実母が危篤との知らせが来たため熊本に帰郷。

万延元年(1860年)2月、福井藩による3回目の招きにより福井に再び赴く。この頃、福井藩内では、保守・進歩の両派が対立していたため、これを見た小楠は『国是三論』を著し、挙藩一致を呼びかけた。文久元年(1861年)4月、江戸に赴き、春嶽と初対面する。この江戸滞在中、勝海舟や大久保忠寛と交流を持った。同年10月、7人の福井の書生を連れ、熊本・沼山津へ帰る。しかし11月26日に狩猟に出掛けた際、藩主専用の鷹狩の場所となっていた沼山津の沼沢地において、残った弾を射ち放したことを咎められ、謹慎処分となった(榜示犯禁事件)。

文久2年(1862年)6月、福井藩から4回目の招きを受けて熊本を発つ。7月に江戸の越前松平家別邸を訪れ、江戸幕府の政事総裁職となった春嶽の助言者として幕政改革に関わり、幕府への建白書として『国是七条』を起草した。8月、大目付・岡部長常に招かれ、『国是七条』の内容について説明を行い、一橋徳川家邸では徳川慶喜に対面して幕政について意見を述べた。この頃、坂本龍馬・岡本健三郎と福井藩邸で会った。

同年12月19日、熊本藩江戸留守居役の吉田平之助の別邸を訪れ、熊本藩士の都築四郎・谷内蔵允と酒宴をした。谷が帰った後、3人の刺客(熊本藩足軽黒瀬一郎助、安田喜助、堤松左衛門)の襲撃を受けた。不意のことであったため小楠は床の間に置いた大小を手に取れなかった。そのため、身をかわして宿舎の常盤橋の福井藩邸まで戻り、予備の大小を持って吉田の別邸まで戻ったが、既に刺客の姿はなく、吉田・都築ともに負傷していた(吉田は後に死亡した)。この事件後、文久3年(1863年)8月まで福井に滞在する。熊本藩では、事件の際の「敵に立ち向かわずに友を残し、一人脱出した」という小楠の行動が武士にあるまじき振る舞い(士道忘却)であるとして非難され、小楠の処分が沙汰された。福井藩は、国家のために尽くしている小楠が襲われたのは、単に武士道を欠いた者と同一視するべきではなく、刀を取りに戻ったのは当然であると小楠を擁護した。同年12月16日、寛大な処置として切腹は免れたものの、小楠に対し知行(150石)召上・士席差放の処分が下され、小楠は浪人となった。

元治元年(1864年)2月に龍馬は勝海舟の遣いで熊本の小楠を訪ねている。小楠は『国是七条』を説いた。この会談には徳富一敬も同席している。この際、小楠は兄の遺子で自身の甥にあたる左平太と太平を神戸海軍操練所に入所できるよう、龍馬を通じて海舟に依頼した。その後、慶応元年(1865年)5月にも龍馬が小楠を訪ねてきているが、第二次長州征討の話題となった時、小楠が長州藩に非があるため征討は正当だと主張し、龍馬と口論になったという(これ以後、小楠と龍馬は会うことがなかった)。

慶応2年(1866年)、甥の左平太・太平がアメリカ留学する際に『送別の語』を贈った。

慶応3年(1867年)12月18日、長岡護美と小楠に、朝廷から新政府に登用したいので上京するように通知する書状が京都の熊本藩邸に送られる。藩内では小楠の登用に異論が多く、家禄召し上げ・士席剥奪の状態であることもあって、「小楠は病気なので辞退したい」と朝廷に申し出ており、小楠の門人の登用についても断った。慶応4年(1868年)3月5日、参与となった長岡護美がその辞退を申し出る書を副総裁の岩倉具視に提出したが、岩倉は小楠の事を高く評価していたため「心配には及ばない」と内示し、3月8日に改めて小楠に上京の命令が出された。熊本藩としてもこれでは小楠の上京を認めるしかないと決定し、3月20日に小楠および都築黙兵衛(都築四郎)の士席を回復し、3月22日に上京を命じた。

4月11日、大坂に到着。4月22日に徴士参与に任じられ、閏4月4日に京都に入り、閏4月21日に参与に任じられる。翌22日には従四位下の位階を与えられた。しかし激務から体調を崩し、5月下旬には高熱により重篤な状態となった。7月に危険な状態を脱し、9月に再び出勤できるまでに回復した。

明治2年(1869年)1月5日午後、参内の帰途、京都寺町通丸太町下ル東側(現在の京都市中京区)で十津川郷士ら6人組(上田立夫、中井刀禰尾、津下四郎左衛門、前岡力雄、柳田直蔵、鹿島又之允)の襲撃を受けた。上田が小楠の乗った駕籠に向かって発砲し、6人が斬り込んできた。護衛役などが応戦し、小楠も短刀1本で攻撃を防ごうとするが、暗殺された。享年61。小楠の首は鹿島によって切断され持ち去られたが、現場に駆け付けた若党が追跡し、奪い取った。

殺害の理由は「横井が開国を進めて日本をキリスト教化しようとしている」といった事実無根なものであったといわれている(小楠は実際には、キリスト教が国内に入れば仏教との間で争いが起こり、乱が生じることを懸念していた)。しかも弾正台の古賀十郎ら新政府の開国政策に不満を持つ保守派が裁判において横井が書いたとする『天道覚明書』という偽書を作成して横井が秘かに皇室転覆を企てたとする容疑で告発するなど、大混乱に陥った。紆余曲折の末、実行犯であった4名(上田・津下・前岡・鹿島)が明治3年(1870年)10月10日に処刑されることとなった。なお、実行犯の残り2人のうち柳田は襲撃時の負傷により明治2年(1869年)1月12日に死去し、中井は逃走し消息不明となっている。その他、実行犯の協力者として上平主税ら3人が流刑、4人が禁固刑に処されている。

人物

鎖国体制・幕藩体制を批判し、それに代わり得る新しい国家と社会の構想を公共と交易の立場から模索した。

小楠は、公共性・公共圏を実現するために、「講習討論」「朋友講学」といった身分階層を超えた討議を政治運営のもっとも重要な営為として重視した。また、交易を重視する立場から、外国との通商貿易をすすめ、産業の振興をも交易として捉えて国内における自律的な経済発展の方策を建議し、そのために幕府・藩を越えた統一国家の必要性を説いた。

体系的に小楠の国家論が提示された文書として、万延元年(1860年)に福井藩の藩政改革のために執筆された『国是三論』がある。そのほか、学問と政治のむすびつきを論じた嘉永5年(1852年)執筆の『学校問答書』、マシュー・ペリーやエフィム・プチャーチンへの対応についての意見書である嘉永6年(1853年)執筆の『夷虜応接大意』、元治元年(1864年)の井上毅との対話の記録『沼山対話』、慶応元年(1865年)の元田永孚との対話の記録『沼山閑話』などがある。

共和制(大統領制)を「尭舜の世(禅譲)」と評したことでも知られる。

徳富一敬

    「文久二年の頃、江戸で刺客に切り込まれた時も、同輩は二人ながら斬り倒されたが、翁はソレ来たと云うより早く、突と立って刺客とやりちがいに梯子を下りて、無事に逃げられた。また或時宴会の半ば、大力の男某、翁と議論を始め、おのれ横井の小男め、一と掴みと嵩にかかって組み付くと、翁は身を沈まして相手の股下にもぐり込み、相手の睾丸を鷲づかみにして、難なく強敵を挫かれた。また或時某と云う士の不行跡を詰責するに、その士二刀使いの名人で皆々恐れて居ると、翁は平気にその男を呼び寄せ、戸口を入ると飛び掛かってその両刀を引ったくれば、何も無事に済んだが、後この士は同様の詰責を受けて腹を立て、二刀を以て数人に重手を負わせたと云うことである。翁撃剣は新陰流で、随分激しい使い手であった。居合は名人で、竹箸を畳の上にたてて、抜き打ちに竪てに真二つにせられた。で、遭難の時も、病気あがりと云い、七十近い老体でありながら、銃声を聞いて駕籠から飛び出て、短刀に敵の刀痕幾箇をとどむる迄に働かれたのである」

    「(坂本龍馬が訪ねてきた時)酒が出て人物論が始まった。大久保は云々、西郷は云々、誰は云々。その時先生は盃右手にとって、『乃公(おれ)は如何だ』。坂本は莞爾と笑ってゆるゆると『先生ァまあ二階に御座って。奇麗な女共に酌でもさして、酒をあがって西郷や大久保共がする芝居を見物なさるがようござる。大久保共が行きつまったりしますと、その時ァちょいと指図をしてやって下さるようございましょう』。先生は呵々と笑って頷かれた」

    嗜好

    「翁の閑事業は漁猟、殊に漁であった。鉄砲猟に出かける時は、大抵粟の飯の弁当に味噌漬けで、鉄砲肩げてのこのこ歩かれた。漁は釣網みな得意であったが、中にも蚊頭ひきは名人で、これは大抵雪降りの日である」

    「酒量は弱いが、酒は好きな方であった。江戸で酒の上に大気焔を吐き、その為帰国を命ぜられた後は、暫く禁酒せられたが、併しおりおり神棚の神酒が不思議になくなることもあった。先生の姉君が先生が禁酒さるるを気の毒に思って、毎朝そしらぬ風して神棚の神酒徳利に酒をなみなみとついで棚にあげて置かるると、明日は必ず空になって居たと云う」

2024/06/15 00:15更新

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