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矢嶋楫子の情報 (やじまかじこ)
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【11月22日】今日誕生日の芸能人・有名人

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矢嶋 楫子さんについて調べます

■名前・氏名
矢嶋 楫子
(読み:やじま かじこ)
■職業
社会事業家
■矢嶋楫子の誕生日・生年月日
1833年6月11日 (年齢1925年没)
巳年(へび年)、双子座(ふたご座)
■出身地・都道府県
熊本出身

矢嶋楫子と同じ1833年生まれの有名人・芸能人

矢嶋楫子と同じ6月11日生まれの有名人・芸能人

矢嶋楫子と同じ出身地熊本県生まれの有名人・芸能人


矢嶋楫子と関係のある人

菅原あき: われ弱ければ 矢嶋楫子伝(2022年) - 矢嶋久子 役


後藤佑里奈: われ弱ければ 矢嶋楫子伝(2022年) - 宮本うめ 役


赤塚真人: われ弱ければ 矢嶋楫子伝(2022年2月11日、現代ぷろだくしょん) - 横井小楠 役


梅宮万紗子: われ弱ければ 矢嶋楫子伝(2022年2月11日、山田火砂子監督、現代ぷろだくしょん) - 矢嶋順子 役


三浦綾子: 『われ弱ければ 矢嶋楫子伝』小学館 1989 のちライブラリー、文庫


竹下景子: われ弱ければ 矢嶋楫子伝(2022年) - 守屋東 役


渡辺大: われ弱ければ 矢嶋楫子伝(2022年2月11日、現代ぷろだくしょん) - 鈴木要介 役


堀内正美: われ弱ければ 矢嶋楫子伝(2022年2月11日) - 安川亨


横井玉子: 明治18年(1885年)海岸女学校の教員となり、同年矢嶋楫子の依頼で新栄女学校事務監督となって礼式と裁縫を教授。


渡辺いっけい: われ弱ければ 矢嶋楫子伝(2022年、現代ぷろだくしょん) - 林七郎 役


湯浅八郎: 岳父・鵜飼猛 - 猛の妻の妙子(清子の母)は、八郎の祖母の妹・矢嶋楫子の婚外子。


キコ・ウィルソン: “劇映画『われ弱ければ 矢嶋楫子伝』”.


尾崎右宗: 四賢婦人 矢嶋楫子とその姉たち(2009年、TKU制作・FNS九州7局ネット) - 書生・田中


藤吉久美子: われ弱ければ 矢嶋楫子伝(2022年) - 矢嶋もと子 役


湯浅八郎: 母方祖母・徳富久子 - 姉妹に竹崎順子、矢嶋楫子


駒井蓮: われ弱ければ 矢嶋楫子伝(2022年2月11日、現代ぷろだくしょん) - 矢嶋楫子の娘・妙子 役


キコ・ウィルソン: われ弱ければ~矢嶋楫子伝~(2022年2月12日上映開始)


石黒賢: われ弱ければ 矢嶋楫子伝(2022年2月11日、現代ぷろだくしょん) - 矢嶋直方 役


佐藤志津: 佐藤志津は女子教育の功労者として津田梅子・矢嶋楫子・嘉悦孝・山脇房子と共に叙勲された。


矢嶋楫子の情報まとめ

もしもしロボ

矢嶋 楫子(やじま かじこ)さんの誕生日は1833年6月11日です。熊本出身の社会事業家のようです。

もしもしロボ

結婚、兄弟、姉妹、家族、父親、事件、現在、テレビ、ドラマに関する情報もありますね。今年の情報もありました。1925年に亡くなられているようです。

矢嶋楫子のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

矢島 楫子(やじま かじこ、1833年6月11日〈天保4年4月24日〉 - 1925年〈大正14年〉6月16日)は、日本の女子教育者、社会事業家。

肥後国上益城郡津森村杉堂(現・熊本県上益城郡益城町杉堂)の惣庄屋矢島忠左衛門直明・母鶴の1男7女の6女(末子)に生まれ、かつと命名された。極端な男性社会にあって度重なる女児の誕生は歓迎されず、名付け親は10歳違いの姉である三女・順子であった。順子(竹崎順子)は、横井小楠の高弟である竹崎茶堂と結婚し、熊本女学校校長となった教育者である。また、順子のすぐ下の姉・久子(徳富久子)も同じく横井小楠の高弟である徳富一敬と結婚し、湯浅初子・徳富蘇峰・徳冨蘆花の兄弟を生んでいる。蘇峰は明治、大正、昭和にかけての大論客、蘆花は明治、大正の文豪である。また、かつのすぐ上の姉つせ子(横井つせ子)は横井小楠の後妻となった。この姉妹4人は「肥後の猛婦」、「四賢婦人」と呼ばれている。

かつは学校などない当時、一通りの教育を母から厳しく身につけさせられるが、もとより勝気で秘めたる情熱の持ち主だったかつは、やがて母亡きあとは母に替わって兄・直方のために尽くす。その兄も妹のために良縁を求め、かつ25歳の時、初婚にはもはや遅いとして既に2男1女を儲けていた富豪林七郎(1828年生) を家柄・人物ともに相応と認め、後妻として嫁がせる。林は武家出身で、横井小楠の弟子であった。後年楫子自身の口からも「この人は気品の高い、竹を割ったような人でした」と語らせるが、家族への乱暴など夫の酒乱の悪癖にかつは極度の疲労と衰弱で半盲状態に陥り、かつ自身も三人の子まで儲けながら、このうえは身の破滅と思い、末子達子を連れ家出する。迎えに来た使いの者に見事に結い上げていた黒髪を根元からプッツリ切って紙に包み、無言の離縁を言い渡したのである。明治元年(1868年)、これを転機に新しい一歩を踏み出す「新生元年」ともなった。

妹たちの間を転々とする間、兄・直方が病に倒れ、達子を置いて上京を決意する。長崎発東京行き蒸気船に乗り込み、船上にて自ら「楫子」と改名する。兄は大参事(副知事)兼務の左院議員で、神田の800坪の屋敷に書生、手伝いらはもとより千円という借金を抱えていた。楫子はその放漫財政を正し、3年で借金を片付けると、生来の向学心から教員伝習所に通うこととなる。明治6年学制が施行され全国に小学校が設置、訓導試験に合格した楫子は芝の桜川小学校(現・港区立御成門小学校)に採用される。当時教員初任給3円のところ、楫子は5円という破格の待遇であった。

このころ長姉・藤島もと子が息子二人と、直方の妻・糸子も子供をつれて上京、兄宅は一気に賑やかになった。しかしそうした喧騒の中、楫子は妻子持ちの書生との間に女児を宿す。堕胎や父親に渡すべきだと諭す姉の言を受け入れず、楫子は妙子(鵜飼猛の妻、湯浅清子の母)と名付け、練馬の農家に預けて独り下宿生活に戻る。そんな折届いた兄からの手紙で、熊本に残してきた長子・治定がキリスト教徒になったのを知り愕然とする。熊本洋学校生徒35名による花岡山キリスト教奉教同盟事件である。治定だけでなく甥の横井時雄、徳富蘇峰、徳冨蘆花も参加している。やがて熊本洋学校は廃校になり、彼らの一部は、新島襄の同志社に入学し、熊本バンドと呼ばれることとなるが、この熊本バンドは札幌バンド、横浜バンドと並び日本におけるキリスト教の三大源流と言われている。教え子の居宅で父親の酒害を目撃し、寂しさでタバコを覚えた楫子だったが、悩める楫子にとってもキリスト教はわが子の信じる宗教であり、遠い異国の宗教ではなくなった。

明治11年(1878年)、楫子は後半生に多大な影響を受ける米国の宣教師で教育者のマリア・ツルー夫人と運命的に出会う。明治7年(1874年)にB六番女学校として設立された築地居留地にある新栄女学校の教師に請われ、住み慣れた下宿を引き払い、同女学校寄宿舎舎監室に移る。

自ら吸いかけのタバコによるぼや騒ぎを起こして禁煙を決意、翌12年(1879年)築地新栄教会でディビッド・タムソンから洗礼を受ける。ほぼ同時期に、三人の姉である徳富久子、横井つせ子、竹崎順子も洗礼を受けている。当時17歳のキリスト教徒であった甥の徳富蘇峰は、純粋がゆえに楫子の洗礼に際して、「過去の過ち(1.幼いわが子を置いて家を出たこと 2.妻子ある人の子を産んだこと)」を告白すべきでないかとの手紙を送っている。しかし、楫子は幼い妙子のことを考え、死ぬまで「過去の過ち」を公表することはなかった。

明治14年(1881年)夏、櫻井女学校の校主(現在の校長と理事長を兼ねた職)代理に就任。楫子は校則を作らず、「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」と生徒たちを諭したという。

明治23年(1890年)、櫻井女学校と新栄女学校は合併して女子学院となり、初代院長に推される。

明治29年(1896年)、恩師のツルー夫人が55歳で客死。楫子64歳であった。

一方、恵まれなかった結婚生活や小学校教師時代に抱いた心の疑問から、楫子は婦人矯風運動(禁酒運動)に率先して参加するようになる。明治19年(1886年)米国の禁酒運動家メアリー・レビット夫人来日を期に、東京キリスト教婦人矯風会を組織、初代会長に就く。翌年には「一夫一婦制の建白」、「海外醜業婦取締に関する建白」を政府に提出、国会開設と共に二大請願運動として継続する。明治26年(1893年)楫子60歳のとき矯風会の全国組織を結成、日本キリスト教婦人矯風会会頭となった。姉の徳富久子は妹楫子の始めた矯風会の活動に積極的に参加し、これを支えている。また久子の孫であり、蘇峰・蘆花の姪の久布白落実は楫子の遺志を継ぎ矯風会活動に生涯を尽くすこととなる。

矯風事業に尽くす楫子の情熱は日本に止まらず日本国外にも向かい、明治39年(1906年)、74歳にして渡米、万国矯風会第7回大会に出席、ルーズベルト大統領と会見。激務のため白内障を患う。大正9年(1920年)には欧米の旅に出掛け、翌10年(1921年)には満州に、同年から11年(1922年)にかけては三度渡米、このとき楫子89歳であった。教職は大正3年(1914年)、女子学院院長を後裔に譲り、齢81で名誉院長として退いた。その後は禁酒運動、公娼制度廃止運動等に尽力するも、大正もその幕切れを迎えんとする大正14年(1925年)6月半ば、楫子は眠るように大往生を遂げた。明治、大正といういまだ婦人が一個の人間として尊重されることのなかった時代に、楫子は婦人福祉のためにその一生を捧げたのであった。

1915年(大正4年)11月10日 - 勲五等宝冠章

一本気で不器用な熊本男児の気質を表す「肥後もっこす」。熱く頑固なこの気質は女性にも共通し、「肥後の猛婦」という言葉もある。大宅壮一は戦後、熊本県を「天皇引き取り県」といい、また「肥後猛婦」という言葉も作りだした。幕末、維新に活躍した熊本藩儒学者横井小楠の親族や弟子に縁のある女性たちが多く、楫子をはじめ男女同権や社会運動を目指した。

竹崎順子(1825-1905)矢島家3女で、熊本女学校(現・熊本フェイス学院高等学校)を創立した女子教育の先覚者。

徳富久子(1829-1919)同家4女で、徳富家に嫁し蘇峰、蘆花の母。楫子の矯風事業を援助した。

横井つせ子(1831-1894)同家5女で小楠の妻となるが実際は「妾」同然。夫を「殿」、わが子を「さん」付けし、子供からは「お乳」と呼ばれた。

湯浅初子(1860-1935)蘇峰、蘆花の姉。日本で最初の男女共学を受けた。禁酒・廃娼運動家。

海老名みや子(1862-1935)小楠の長女。同志社設立に奔走。

徳富愛子(1874-1947)蘆花夫人。夫と作家活動、「蘆花全集」を出版。

久布白落実(1882-1972)蘇峰らの姪。廃娼、婦人参政権運動に尽力。

郷里熊本には彼女らの足跡を巡る「肥後の猛婦」市電コースがある。

「四賢婦人 矢嶋楫子とその姉たち ~女性の扉を開けた信念の人~」(2009年11月1日、テレビ熊本郷土の偉人シリーズ、演:有森也実)

^ “四賢婦人記念館(旧矢嶋家)<津森地区・上陳>”. 熊本県益城町. 2012年3月18日閲覧。

^ 『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。

^ お蝶夫人三浦環、右文社、1947(昭和22)年5月10日

^ “四賢婦人 - ドラマ詳細データ”. テレビドラマデータベース. 2024年10月14日閲覧。

三浦綾子著「われ弱ければ 矢島楫子伝」(小学館文庫)

五味百合子編著「社会事業に生きた女性たち・正」(ドメス出版)

円地文子監修「自由と権利を求めて・人物日本の女性史11」(集英社)

伊藤春奈著「「姐御」の文化史 幕末から近代まで教科書が教えない女性史」(DU BOOKS)2019年9月刊行

熊本市観光情報サイト「満遊くまもと」

或る女 - 楫子をモデルとした人物(五十川)が登場する。

女子学院 - 初代院長を務めた。

櫻井ちか - 女子学院の元となった女学校の一つ、櫻井女学校の創設者。

海老名リン - 矢嶋の下で矯風会副会頭を務める。

相馬黒光 - 姉が楫子の長男・治定と婚約していたが結婚目前で破棄され、帰郷後発狂した。

学校法人 女子学院ホームページ

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2024/11/20 00:42更新

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