輪島大士の情報(わじまひろし) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
輪島 大士さんについて調べます
■名前・氏名 |
輪島大士と関係のある人
五木ひろし: 輪島大士 - 同じ北陸の出身で五木との親交も深く、自身が『望郷賦』というシングル盤レコードを出した時に五木が曲を提供した。 東富士欽壹: 横綱のプロレス転向は後に輪島大士、双羽黒光司、曙太郎の3人が続いている。 輪島功一: 大相撲の横綱・輪島として活躍した輪島大士と従兄弟と言っていたことがあるが、後に本人が語った所によれば、2人が同じ苗字でプロスポーツで頂点に立ち、タレント活動をしていたことと共通点が多いため従兄弟という設定で売り出したとのこと(元々2人は友人同士だったため、本人は横綱のことを「ひろし」と呼び、横綱には「こうチャン」と呼ばれていた)。 保坂尚希: 釣りの経験はかなりあるようで、『生ダラ』で船釣りに行った際に時化の海で、石橋貴明や輪島大士が船酔いで苦しんでいるにもかかわらず、呑気に食事をしながら「だらしないなぁ、これ位で船酔いしちゃぁ」と悠然と構えていた。 マービンJr.: 1995年春には日本テレビ系「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」で、番組準レギュラーの第54代横綱・輪島大士の指導を受けたことがある。 北の富士勝昭: 同年9月場所は3回目の全勝優勝を果たして完全復活をアピールするが、一人横綱の8場所中で輪島大士(同5月場所)と高見山大五郎(同7月場所)が初優勝を果たし、貴ノ花と輪島が同時に大関昇進(同9月場所後)するなど、角界の世代交代が進む結果となった。 ディック=マードック: また、輪島大士のプロレスデビューを受けて、その対戦相手に立候補するために1986年、全日復帰を宣言したことがあるが、1985年末に両団体が結んだ「引き抜き防止協定」に基づいて実現しなかった。 保阪尚希: 釣りの経験はかなりあるようで、『生ダラ』で船釣りに行った際に時化の海で、石橋貴明や輪島大士が船酔いで苦しんでいるにもかかわらず、呑気に食事をしながら「だらしないなぁ、これ位で船酔いしちゃぁ」と悠然と構えていた。 リック=フレアー: 以降もNWA世界王者として全日本プロレスに何度となく来日し、1982年から1987年にかけて鶴田、天龍、リッキー・スティムボート、ブルーザー・ブロディ、テッド・デビアス、ザ・グレート・カブキ、ハーリー・レイス、長州力、谷津嘉章、タイガーマスク、輪島大士らを挑戦者に迎えて3分容量防衛戦を行った。 石川孝志: 全日本プロレスでの活動後期は、同じ日大相撲部出身で力士時代も同部屋であった輪島大士とタッグを組むことも多かった。 羽黒山政司: さらにやくは、輪島大士以降の横綱土俵入りが、せり上がりの本質が顕著に失われていったと批判し、白鵬翔・日馬富士公平といった不知火型の継承者をその典型例として提示し、「掌を真下に向けている」と指摘した。 若獅子茂憲: この場所では若獅子の他、旭國斗雄(東関脇、13勝2敗で西横綱・輪島大士との優勝決定戦に敗れたものの技能賞を受賞、場所後大関に昇進した。 杉森久英: 天才横綱 輪島大士物語(河出書房新社 1998.1) タイガー=ジェット=シン: 1980年代後半は輪島大士の国内デビュー戦の相手を務めたり、全日本プロレスにUターンしたブッチャーと凶悪タッグを結成したりするものの、一時的な話題を提供するだけに留まった。 棟方志功: 7月には新横綱、輪島大士の化粧まわしを描き、8月には八甲田山系の連作倭画『八甲田連山図』を制作。 佐藤道郎: 大相撲の元横綱・輪島大士は大学時代の同期であり、当時から親交があった。 遠藤賢司: 本作収録の「輪島の瞳」は、当時プロレスに転向して世間の嘲笑的注目を浴びていた元横綱輪島大士に捧げたものであり、演奏時間は25分以上にもおよぶ。 貴ノ浪貞博: 大関の同時昇進は1977年(昭和52年)1月場所後の若三杉壽人(新大関)・魁傑將晃(再昇進)以来17年ぶり、新大関2名の同時昇進は1972年(昭和47年)9月場所後の貴ノ花利彰・輪島大士以来22年ぶりだった。 |
輪島大士の情報まとめ
輪島 大士(わじま ひろし)さんの誕生日は1948年1月11日です。石川出身の相撲のようです。
引退、卒業、現在、結婚、兄弟、離婚、テレビ、再婚、病気、事件、父親に関する情報もありますね。今年の情報もありました。2018年に亡くなられているようです。
輪島大士のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)輪島 大士(わじま ひろし、1948年(昭和23年)1月11日 - 2018年(平成30年)10月8日)は、石川県七尾市出身で花籠部屋に所属した大相撲力士、第54代横綱、全日本プロレス所属の元プロレスラー、元タレント。 本名は輪島 博(わじま ひろし)。血液型はA型。大相撲時代は身長184cm、体重129kg。ニックネームは蔵前の星、黄金の左、現役引退後はワジー。 金沢高等学校・日本大学の相撲部で活躍。高校2年時には大鵬が二所ノ関部屋へ勧誘するべく実家まで訪れたこともある。大学では2年連続で学生横綱に輝くなど14個のタイトルを獲得した。学生横綱を決めた一番の相手は、同志社大学の逸見憲治(逸見政孝の実弟)であった。日大卒業前の1970年、花籠部屋(師匠は元幕内・大ノ海)に入門し、同年1月場所に幕下付出(60枚目格)で初土俵を踏んだ。東京農業大学出身の長浜(元小結・豊山、後の年寄・湊→立田川)は大学時代からのライバルである。 ちゃんこ番等の雑務を免除され寝食を日大の宿舎で過ごさせ、食事は師匠の自宅に呼んで食べさせるという異例の特別待遇で入門。角界入りに際して高額な契約金が出されたのみならず、引退後の部屋継承も入門時点で決まっていた。幕下を2場所連続で全勝優勝して当時の最短記録で十両入り、十両も4場所で通過して初土俵からわずか1年で新入幕を果たした。三役昇進前から私生活は派手であり、場所入りの際にはリンカーン・コンチネンタルを乗り回していた。また髷を結う前の髪を伸ばしている時期にパーマを当てたり、トレーニングにランニングを取り入れたりして物議をかもした。 1972年9月場所では千秋楽に貴ノ花との水入りの大相撲を制して、場所後に貴ノ花とともに大関に昇進した(大関昇進を機に、番付の四股名を「輪島博」から「輪島大士」に改名)。この取り組みは当時の皇太子一家が観覧していた(皇太子、皇太子妃、徳仁親王の3名)。7月場所が8勝7敗止まりであったことから本人もこの9月場所で昇進を決めることは諦めていたようであり、インタビュー記事での「清國、琴櫻、大麒麟の先輩3大関と比べ、自分はどこが違うか」という質問に対しても「先輩の皆さんは、すぐにも大関だ、大関だと言われながら苦労してなったでしょう。その点自分なんか運のいい男ですよ。まだ苦労が身についていないと思うんです」と話していた。大関昇進当初は横綱昇進を掴み取れるかどうかについて「『やっぱりやってみなくちゃ分からない』という答えしか出せない」と話していたが、大関になって4場所目の1973年5月場所を全勝優勝で飾り、場所後の横綱審議委員会ではわずか25分間の討議で満場一致で横綱推薦を決めた。初土俵からわずか3年半という超スピード出世で横綱へ上りつめ、史上初の学士・本名横綱が誕生した。それまで学生出身力士は大成しないジンクスがあったが、それを破った。さらに戦後生まれでは初めての横綱昇進となる。また輪島以降横綱に昇進した力士は全員が戦後生まれとなる。横綱推薦を伝えられた輪島は「オレ、いい星の下に生れたんだな」と語り、昇進伝達式では使者に対し「謹んでお受けします。今後は一生懸命努力をします」と答えた。 同時に大関に昇進した貴ノ花とは、土俵を離れれば親友同士でもあった。「角界のプリンス」と言われた貴ノ花が、大横綱の大鵬や27歳の若さで急逝した玉の海と激闘を重ねたが、これとは対照的に「蔵前の星」と呼ばれた輪島は、ほんのわずかなタイミングのズレで大鵬とは対戦がなく、玉の海とも平幕時代に一度顔を合わせただけだった。それがかえって新しい時代を象徴する力士といった感を強くした。また一時期「貴輪時代」(きりんじだい)を期待されたが、貴ノ花はその後幕内優勝を2回達成したのみで、輪島と共に横綱昇進は果たせず、大関在位50場所(当時歴代1位・現在3位)目の1981年1月場所を最後に現役引退した。 この頃貴ノ花ともう一人、同部屋の魁傑(後の年寄・放駒)の3人で“阿佐ヶ谷トリオ”と呼ばれた。 大相撲の歴史上でも、輪島のみが幕下付出初土俵で横綱に昇進し(現在の番付制度が確立した明治以降、江戸時代を除く)、学生相撲出身唯一の横綱であり、横綱昇進後も本名を四股名にしていた横綱となっている(外国出身力士が帰化し四股名を本名とした例を除く)。右手の引きが強いこともあって左の下手投げを得意とし、左前ミツを引き右からおっつけて寄る相撲も武器であった。トレードマークの金色の廻しとかけて「黄金の左」と言われ一世を風靡した。下手投げを得意とする力士は大成しないというジンクスを破っている数少ない例であった。当時の大相撲では「力士は走ると腰が軽くなる」と言われていたが、輪島は通常のスポーツ選手と同じように積極的にランニングを行い(元祖は玉の海らしい)、「稽古」を「練習」と呼ぶなど、あらゆる面で型破りだった。こういった点から「相撲を取るために生まれてきた男」「天才」という声もあった。 横綱土俵入りについては、脇が空いて前屈みの姿勢でせり上がるなどの批判もあったが、徐々に落ち着いた土俵入りとなり、テンポの早い北の湖とは好対照であった。後年になって輪島以降、下段の構えで掌が真下を向く傾向が顕著になったとやくみつるが考察している。 ユルフンの力士として知られており、上手投げを打たれても廻しが伸びて効かなかった。 輪島自身はそれほど大柄な部類ではなかったものの、千代の富士や鷲羽山などの小兵力士には絶対的な強さを見せたが、高見山などの巨漢力士に対しては脆さを見せることも多かった。高見山には、当時最多記録だった金星12個のうち7個を与えており、当時の同一力士への金星配給の最多記録を樹立してしまったほどだった。 横綱昇進後は輪島時代を築くかに見えたが、北の湖が急速に台頭し、1974年には輪島の牙城を脅かすようになる。3月場所に大関に昇進した北の湖は破竹の勢いで5月に優勝、7月場所も輪島に1差をつけて千秋楽を迎えた。北の湖圧倒的有利の下馬評の中、輪島は結びの一番、優勝決定戦と立て続けに北の湖を得意の左下手投げで降し、横綱昇進は許したものの先輩横綱の意地を見せた。翌年には本格的な輪湖時代到来かと思われたが、輪島が腰痛から3場所連続休場に追い込まれるなど大不振となる。この時期輪島の相撲は全く精彩を欠き、土俵上をバタバタと動き回っては自滅し「勝ち方を忘れた」と評され、新聞に「輪島27歳にして引退の危機」と書かれ、その相撲内容から、引退はあながち誤った見方とも思えない程危機的状態に追い込まれた。角界は貴ノ花の二度の優勝、北の湖の伸び悩みなどもあり、戦国時代の様相を呈するようになった。当時柏戸が持っていた金星最多供給記録を更新し、「いったいあの黄金の左はどこに行ってしまったのでしょうか?」と問われると自らの左腕を見せて「まだまだここに健在です、昔は下手投げでしたが今は金星を与えるという意味で黄金の左と呼ばれています」と答える始末であった。1975年5月場所直後には場所を途中休場した身にも拘らずカメラマンの前にゴルフウェア姿で出てくるという不謹慎な様子を見せ、翌7月場所を休場するという挙動を見せるなど報道を騒がせる事態も引き起こしていた。 1978年に入ると、輪島は3月場所の右膝靭帯の怪我や、年齢から来る体力、とりわけ持久力の衰えなどから、北の湖の後塵を拝することが多くなる。この年の7月場所14日目の北の湖との対決では、左四つ、輪島は左下手、北の湖は右上手と、ともに十分な廻しを取り合ういつもの体勢になった。輪島は北の湖の右上手投げを残すと、右からおっつけて、左下手で脅かす、両力士の攻防が決定打に欠ける中、北の湖は過去、慌てた攻めで輪島の左下手投げの餌食になった反省を踏まえ、持久戦に持ち込み、水入りとなった。控えに下りた両者だが、北の湖が普段と変わらぬ表情だったのに対し、輪島は肩で息をするなど、明らかに疲労感がにじみ出ていた。再開後は、北の湖が積極的に攻め、右上手から強引に振り回したあと、左下手を取り、がっぷり左四つの体勢から持久力の切れた輪島を寄り切った。この年ライバル北の湖は5連覇を達成した。しかし輪島は、この頃から右四つ左上手の取り口に進境を示し、千代の富士・栃光・栃赤城・双津竜など右四つ得意の力士には、むしろ自ら右四つに行き制する取り口が増えた。そもそも大相撲入門当初、軽量のハンデと右上手の力強さを考慮した形で左四つに転向したのであって、学生時代以前は右四つであった。そのことから本来の型に戻ったとも取れる。1979 - 1980年の晩年は、体力の衰えをこのいぶし銀の上手さと気力とで補い、前半戦は上位陣の中でも最も安定した相撲ぶりを見せることが多かった。若手が次々と台頭する中、1979年7月、1980年11月と二度の優勝を重ねたことは立派であると言えよう。輪島の部屋と大学の後輩である荒勢が北の湖にほとんど勝てず、輪島の援護射撃ができなかったことや、輪島が苦手にしていた豊山も北の湖には全く勝てないこと、若乃花や三重ノ海の横綱昇進などでライバルが増えたことなど、輪島に不運な一面が多々あった点も否めなかった。 1981年1月29日には当時の後援会長であった安倍晋太郎通商産業大臣・洋子夫妻の媒酌により花籠親方の長女・中島五月と結婚披露宴を行った。スポーツ紙などによると、結婚式にかけた費用は1億5000万円、招待客は約3000人と報じられた。 「昭和の大横綱」と言われた北の湖とは通算成績は23勝21敗、優勝は1976年、翌77年の2年間で輪島5回、北の湖5回と「輪湖時代」(りんこじだい)を築く。また、1973年11月場所では一場所15日制になった以降で唯一の、休場しながらの優勝(12勝2敗1休)という記録を持つ。1976年・1977年は12場所のうち、輪湖両横綱による千秋楽相星決戦が4度(1976年1月、1976年11月、1977年1月、1977年11月)、両者優勝圏内による対決が3度(1976年5月、1976年7月、1977年7月、その結果優勝決定戦が1度(1976年5月))。 1976年から1977年の2年間の輪島、北の湖の成績は下記の通り。 1976年=輪島:77勝13敗(優勝2回)、北の湖72勝18敗(優勝3回) 1977年=輪島:75勝15敗(優勝3回)、北の湖80勝10敗(優勝2回) このように、1976年〜1977年の2年12場所間で、輪湖両横綱が千秋楽結びの対戦で、両者とも優勝圏内での対戦が7度実現した(そのうち、相星決戦は4度である)。また、1974年(昭和49年)7月場所も、千秋楽輪島2敗、北の湖1敗(当時大関)で対戦が実現(この時は、輪島勝利。優勝決定戦も輪島が制し逆転優勝、北の湖は場所後に横綱昇進する)。 このころの両者の取り組みは、右で絞って北の湖に強引な上手投げを打たせ、下手投げを打ち返すかまたは右前廻しを引きつけて北の湖の腰を伸ばすのが輪島の勝ちパターン。北の湖が左下手廻しを引き、ガップリ四つになって胸を合わせるのが北の湖の勝ちパターンであった。1977年7月場所には1差で追う北の湖を退けて3度目の全勝優勝、同年11月には相星の北の湖を電光石火の切り返しで降し、大鵬に次ぎ双葉山と並ぶ当時史上第2位の12回優勝を記録する。 1975年9月〜1978年1月までの15場所間は、千秋楽結びの一番は、全て輪島-北の湖という対戦であり、千秋楽結び対戦連続回数15回は史上1位である。 輪湖両雄の対戦は、1972年7月場所〜1981年1月場所の52場所間に44回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は史上3位の22回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が8回(うち、相星決戦が4回)、水入りの大相撲が3回と、数多くの名勝負が展開された。 千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番を表す。 北の湖横綱昇進以前の対戦成績(1974年7月場所まで)は、輪島の9勝3敗。両者横綱同士の対戦成績(1974年9月場所以降)は、北の湖の18勝14敗。1974年9月場所から1977年11月場所までは、輪島の10勝7敗、優勝回数は、1977年11月場所まで、輪島12回、北の湖9回。1978年1月場所以降は、北の湖の11勝4敗で、優勝回数は、1981年1月場所まで、輪島2回、北の湖11回。 1981年3月場所中に引退し、停年(定年)退職間近であった師匠とバトンタッチする形で花籠部屋(※平成時代の花籠部屋とは別)を継承した。年寄名も先代の名をそのまま継承し、「花籠 昶光」(はなかご ひさみつ)を名乗った(のちに花籠 大嗣〈- ひろし〉と改名)。しかし同年、9月20日にその先代が輪島の引退相撲を目前にして亡くなったため、断髪式では花籠部屋の兄弟子にあたり、二所ノ関(花籠)一門の総帥格であった二子山が止め鋏を入れた。 報知新聞の評論家として、毎場所15日間のコラムコーナー「花籠診断」を担当した。 1982年4月、妻・五月が自殺未遂(その後離婚)、1985年11月に角界では前代未聞の、年寄名跡「花籠」を実妹の経営する料亭の借金の担保にしていたことが表面化し、日本相撲協会は臨時の理事会を開き、委員から平年寄への2段階降格処分と無期限謹慎処分を決議した。年寄名跡は他の親方に売れば高値がつくため、担保として認めた債権者がいて、それ以前にも同じことをした親方はいたといわれるが、これほどまでの重大な処分が下された影には、輪島が当時抱えていた他の金銭問題や、現役時代からの私生活での豪遊ぶり等も不興を買ったという説もある。 結局これが原因で、同年12月に廃業となった。花籠部屋は部屋の継承者を決めることができず消滅、所属の力士たちは花籠部屋出身の魁傑が開いた放駒部屋へ移籍した。さらに初代若乃花や輪島らの横綱を陰で支えた先代師匠の妻・中島トミが1986年5月23日の夕刻に首を吊り自殺するという悲劇を生んだ。 大相撲を離れた輪島は、1986年4月に全日本プロレスに入門。輪島はそれ以前までは力道山の試合をテレビで見たぐらいで、プロレスについての知識はそれ以上は無かった。だが、輪島の後援者となっていた会社経営者からプロレス入りを勧められ、大相撲からプロレス入りした日大の後輩の石川敬士の存在を思い出して彼に相談したことで入門が決まった。1986年4月7日、ジャイアント馬場と会談した輪島は後援者と相談するために一旦入門の話を保留したが、翌日の日刊スポーツの1面にこの話がすっぱ抜かれて後に引けなくなって入門に至ったという話がある。 多額の借金問題を抱えて廃業した輪島がプロレス界入りに至ったことは恰好のワイドショーネタであり、世間の野次馬的な注目を多く集めたが、相撲の現役を離れて5年、38歳でのプロレス転向は「無謀」という声も多く聞かれた。輪島が入門したことで、日本相撲協会は全日本に対して1986年11月以降における両国国技館の使用禁止を通告し、全日本は2004年まで18年間両国国技館における興行ができない状態に陥った。これにより、プロレスのビッグマッチには日本武道館が馴染みの舞台となった。 入門後、全日本の総帥ジャイアント馬場のツテでアメリカの名レスラーであるパット・オコーナーやネルソン・ロイヤルから指導を受ける。瞬発力や馬力や柔軟性等の身体能力が高く、練習も真面目にやっていたためスタミナもそれなりにあった。但し大相撲のクセが抜けずに「倒した相手を寝技に持ち込むことをせずに待ってしまう」という欠点があり、流れが途切れてしまうことがよくあった。またプロレスにおいて最も重要な受身技術については「相撲では足より上が土俵(地面)に付くと負けになってしまうから、どうしても背中をマットに付けることに抵抗があった」と述べていたように決してうまいほうではなく、頭を打ってしまうこともあった。38歳と高齢での入門に加え、元横綱という立場で迅速なデビューを前提とされたため、プロレスの基礎を十分学ぶだけの下積み期間がほとんど無かったのも一因だったようである。阿修羅・原のバックドロップを受けた際に、体を横にひねってしまい後ろ受身を取り損ねて首を負傷した事もあった。また、プロレスとしての見せ場を作る技術は低かった。 8月に馬場とタッグを組んで、アメリカにてデビュー戦を行い、相撲タックルで勝利。日本デビュー戦までにアメリカで予行演習的な試合を7戦行った。その後、オリジナル技のゴールデン・アームボンバーをフィニッシュとするようになった。11月には地元七尾市で日本国内でのデビュー戦をタイガー・ジェット・シンとのシングルマッチで行い注目を集め、いきなりの乱闘戦を行い、23.7%もの高視聴率を得る。これは'80年代後半から現在に至るまで、プロレス中継における最高視聴率。なお、アームボンバーは輪島引退後の全日マットで田上明が復活させ、後に田上が肘の内側をあてがう代わりに掌を喉に添える喉輪の形にし、さらにそのまま倒すのではなく相手を持ち上げてから落とす形に変えた喉輪落としへと発展させ、これはチョークスラムとも呼ばれ世界的に流行した。他にジャイアント馬場直伝の抱え式バックドロップも得意技としていた。また、相撲タックルや突っ張り攻撃等の相撲殺法の他、ザ・ファンクスの指導により、スピニング・トーホールド等も用いていた。 「お守り」として馬場が付いたタッグでのアメリカデビュー戦や、移動の際に一般レスラーのように専用バスでなく新幹線を使うなどの特別待遇があった。このためマスコミは「他の選手が反発し、レスラー仲間がほとんどいない」などと悪意的に報じ、巡業中の輪島の様子を心配する記事が週刊プロレスにも掲載されている。しかし、仲田龍によれば、輪島が馬場や会社から特別待遇を受けていることにあまり快く思わない他の選手のことを気にし、若手レスラーに食事を奢ったり、随分年下のレスラーや社員にも敬語を使い、年下である渕正信らのアドバイスを熱心に聞くなど、周囲に大変気を遣っており、練習もきちんと行っていたとのことであり、「全く仲間がいなかった」、「練習をしなかった」というのは当たらなかった。 輪島のデビュー前に全日本プロレスから取材拒否を受けていた週刊プロレスの巻頭記事で、全日本と業務提携を結んでいたジャパンプロレスの大型新人であった馳浩が「輪島さんと同じリングに上がるんですか」と否定的な言動をしたという記述がされたが、これは後に馳により、否定される。ジャパンプロの代表であった長州力は1987年3月に新人の輪島が主役扱いされることに不満を抱き全日本を離脱したが、後に現場監督として新日本プロレスから(問題行動や暴言を繰り返していた)元横綱の北尾光司の専属フリー契約を解除する際に北尾と比較して「輪島さんは一生懸命やっていたからな」と語るなど、リング上では入れ違いに終わったジャパン勢からも輪島の真摯な姿勢は認められていた。 リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦、スタン・ハンセンとのPWFヘビー級新王者決定戦に出場するなどマッチメイク面では優遇された(輪島が初登場した全日本プロレス中継で20%を超える視聴率を稼ぐなど、視聴率やチケット販売の影響と推測される)。 レスラーとしての評価は決して高くなかったが、同じ大相撲出身の天龍源一郎との絡みは非常に激しいものだった。自らのバックボーンへのリスペクトを忘れない天龍は、その世界で最高峰を極めた輪島に対し「強くあってほしい」と願い、それが輪島への厳しい攻めにつながり、天龍のシューズの紐の跡が輪島の顔に残るほどの激しさであった。煮え切らない試合を続けていた輪島もそれに触発され、天龍が放つ容赦のない顔面への蹴りを真っ向から受けるなど迫力ある対戦となった。相撲では格下だった天龍(天龍の生涯最高番付は前頭筆頭)が、格上の元横綱を激しく蹴りまくるという展開は、プロレスを八百長視していた層にも少なからぬ衝撃を与えたと言える。新日本にUターンしていた前田日明は、この2人の試合を見て「これはヤバイ。あんな事をやられたら(蹴りと関節技を主体に戦う)自分らの存在意義がなくなってしまう」と危機感を抱いていたという。 必殺技のゴールデン・アームボンバーが、後年田上明により使われ(田上のものは輪島のように何度か揺らさずに一度の溜めから浴びせていく)、さらに喉輪を取り入れて形を変えた「喉輪落とし」が後に日米で多くのレスラーに使われたり、同じ角界出身で既にトップレスラーであった天龍と激闘を展開したりと、プロレスでのデビュー時の年齢やキャリアの浅さを考慮すればかなりの活躍を見せていた。 1988年12月27日に引退した。事前の宣伝や引退試合等も一切無く、ひっそりと身を引いた。膝や首の怪我等による体力の限界や、大相撲時代から仲の良かったプロレスラー石川敬士の退団が一因だともされている。その後、SWSへと参戦した石川とともにマットに上がることは無かった。プロレス引退後、プロレス界から距離を置いていた一方で、プロレス界のことを悪く言うことは皆無であった。 プロレス引退後は、大相撲解説などの他タレントとしても活躍。日本テレビ系「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」に準レギュラーで出演し、いわゆる天然ボケタレントとして活躍する(登場時には「第54代横綱・輪島こと輪島大士」と紹介された)。 福澤朗(当時・日本テレビアナウンサー)の「好きな食べ物は?」「好みの女性のタイプは?」の問いに、真顔で「マグロ!」「ブリ!」「金髪!」と叫ぶ姿が視聴者の笑いを誘った。この番組で、輪島お見合い企画を開催し、現在の夫人と再婚。また、とんねるずの石橋貴明からワジーと言うあだ名で呼ばれ出し、ワジーと言う愛称が、現役時代を知らない世代にも広く定着する。 また、この番組ではテロップが初めて出たことでも知られ、輪島の「マグロ!」「金髪!」の回答に江戸文字体や相撲字体・歌舞伎文字体のテロップが現れ、バラエティ番組に革命を起こす結果となった。また、輪島の発言のテロップにはたとえ断定口調で話していても必ず「?」マークが加えられ「マグロ?」という具合になっていた。 この番組には輪島功一も準レギュラーで出演していたが、石橋貴明は輪島功一の方は「功一」と呼び、輪島大士の方を「ワジー」と呼んでいた。本来功一とは又従兄弟であり、これは輪島直幸を含む3人が従兄弟であると横綱現役の頃から言われていたという事実と矛盾するが、芸能活動を始めた時期が近かったために口裏を合わせて従兄弟にしたとのことである。功一とは従来より友人であったため「コウちゃん」「ヒロシ」と互いに呼びあっている。なお、木梨憲武と輪島の共演はほとんどなかった。後に輪島が回想録等で話したところによると、当初は元横綱のプライドがあり出演を固辞していたが、貴明らが輪島の現役時代のファンであると口説かれ出演を応諾したという。 その後、アメフト・Xリーグのクラブチーム「ROCBULL」の総監督に就任し、キューバの相撲ナショナルチーム監督のほか、能登観光協会大使、石川県観光親善大使を務め、地元の水産物販売会社スギヨのCMにもスギヨふるさとの味大使として登場するなどした。また一時期TBS系「サンデーモーニング」等で相撲解説を担当していた。1996年2月に23歳年下の元モデルの一般女性と結婚した。2008年に還暦を迎えたが、還暦土俵入りは行われなかった。 2009年1月18日、大相撲初場所8日目のNHK大相撲中継にデーモン小暮閣下(現・デーモン閣下)と共に出演し、解説を務めた。輪島が本場所の土俵を観戦することは年寄花籠を名乗っていた当時の1985年11月場所以来、23年2ヶ月ぶりのことであった。不祥事によって廃業した大相撲関係者がNHKの大相撲中継に出演することはほとんどないため、異例の出演となった。 2013年秋に下咽頭癌への罹患が判明し、12月に癌の切除手術を受けて成功したがその影響で声を失ってしまったことが明らかにされた。2014年9月、かつての盟友・貴ノ花の系譜を継ぐ高田川部屋へ、二所ノ関一門の連合稽古を見学に訪れた。この際に高田川部屋の当時幕下の達綾哉が自身の遠縁であると明かされた。その達が関取に昇進し、現在の輝大士という四股名に改めた際には、下の名前の「大士」という字を譲った(読みは「ひろし」ではなく「たいし」)。 大相撲九州場所13日目の2015年11月20日、輪湖時代を築き上げたライバル・北の湖理事長が、直腸癌による多臓器不全により62歳で死去。翌日の11月21日、発声不可能のため、文書でコメントを寄せる。「最近理事長は元気だと聞いたばかりなので、とても驚いた。お互いに病気と闘っていたが先に逝かれて寂しい」「昔のライバルが、相撲界で頑張り続けている事が嬉しかった。俺はもう少し頑張る。(理事長には)よく頑張ったね、お疲れ様と言いたい」と弔いの言葉を贈っていた。 2018年10月8日、咽頭がん及び肺がんによる衰弱のため、東京都内の自宅で死去。70歳没。関係者の話によると自宅のソファーの上で死亡したとのことである。同年10月15日、葬儀・告別式が、東京都・青山葬儀所で執り行われた。この日の喪主挨拶で、夫人が「最後は自宅のソファーでテレビを見ながら、静かに眠るように座ったまま、亡くなっていました。ご迷惑をおかけすることも多かった人生ですが、最後は一人で誰にも迷惑をかけず、静かにとてもいい顔で眠っておりました」とその安らかな様子を語った。 死後の2020年10月24日、ラジオななおで追悼特別番組「黄金の左永遠に」が放映された。相撲甚句歌手でシンガーソングライターの北脇貴士が司会を務め、輪島の幼馴染が幼少期の逸話など紹介した。東京スポーツ新聞社の番記者であった柴田惣一も電話で出演し、輪島がプロレス修業で渡米した際の逸話を語った。輪島が2011年に七尾市内で行われたイベントに出演した際の音源なども披露された。 2022年になり輪島の墓所が七尾市の常福寺に建立されていたことが明らかにされている。 大相撲入り以降は右四つでも左四つでも取れるようになったが、日大時代は右四つの取り手であった。輪島はがっぷり四つにならないので右差しでも左差しでも体の動きの自由度は変わらず、それは輪島の幅広のやや前すぼみの肩という体型に由来しており、体型的に胸を合わせる四つ身の型にはなりにくかった。輪島は左下手一本でも引き付けて肩を密着させてくるので、体を開いて投げを打って対抗することもやりづらかった。怒り肩をしていたため、有効身長は実際の身長と比べて高かった。 輪島の下手投げは投げの打ち返しか動いてくるところを小手投げのようにしたり引きずるようにしたりして投げるものではなく、腰の力を利用して土俵の真ん中からいきなり投げて相手を裏返す凄まじい威力のものであり、輪島は現役時代に「下手投げは上位では効かない。だから悪い手だ」という常識に対して「下手投げでも、根こそぎ投げるから構わない」と言い放ち、その通りにしてきた。左からの投げは下手投げに限らず上手投げも掬い投げも小手投げも強かった。寄り足はお世辞にも速いと言えなかったがすり足が徹底されていたためうっちゃりによる逆転を許さなかった。差せば腕を返し、押せば押し上げ、おっつけも絞り上げるなど、出る時に力を下から上へと加えたため、吊り身でなくても相手を浮かせることができた。逆にうっちゃりがないため、立合いで失敗して一気に土俵に押し込まれた時が最大の弱みになった。 立合いを称賛されることは少なかったが、横綱昇進直後の記事では概して「ゆとりある幅の広い立ち合いをしており、立ち合いがずれても抜群の足腰のおかげで甘さにつながらず、相手を見ながら前さばきで押さえ込もうとする」と評され、この立合いに加えて「攻める踏み込みが自在に加われば、これは完璧である」と言われていた。その頃は「双葉山の立合いに最も近付き得るのは輪島」とまで期待された。一方で小兵であったため変化をすることも多かった。ほとんどの場合は左に飛んでいたが、良く見て当たる瞬間に変わるので失敗率が低かった。押し相撲の力士であったが突進型でなかった大受も輪島の変化はよく喰らった。ただ、輪島の変化は決まり手に直結しない場合が多く、逃げただけの印象を与えることがままあった。 輪島の死去の際、その当時現役大関であった豪栄道は「相撲をやっている人間からしたら、あの取り方はまねできない。普通は上手から攻めろと教わるが、輪島さんは平然と下手で攻める。理にかなっていない」と舌を巻いた。 子供の頃から自分の名前をサインで練習していた。このことから、輪島が本名に愛着を持っていて四股名を付けたくなかったとする資料もある。横綱昇進時には「横綱の責任の重さはわかっているが、これまでのペースで気楽にいきます。親方と話合ったが改名は考えていません」と話した。横綱昇進後も四股名を変えなかったのは、本名と同じ市名の輪島市のPRの案件があったためとされる。 日大相撲部に入学する時に上京してきて、ある食堂の会計をツケですませようとしたが断られたため、「石川県では有名人やお役人は、初めてでもツケが利くんですよ」と言いながら渋々金を払った。 十両になった時に羽織のたたみ方が分からないので、同じ一門である佐渡ヶ嶽部屋の琴乃富士(輪島より4学年下で当時は幕下以下。のち前頭5枚目まで昇進)に「先輩。どうやってたたむのか、教えてくださいよ」と頼んだ。 十両を4場所で通過したが、この時期には負け越したり、番付運の悪さに泣かされたりした。後者については1970年9月場所、西十両6枚目で13勝2敗・十両優勝を決めたにもかかわらず、翌場所東十両筆頭に据え置かれるという不運も経験した。十両の定員が28人となった1967年5月場所以降、十両で13勝を挙げた力士が翌場所も十両に据え置かれたケースは12回発生したが、同場所の輪島のケースは最も高い地位で「13勝据え置き」となった記録である。 大関昇進伝達式では「謹んでお受け致します」と言ったところで口上を度忘れしてそれ以上言えなくなるというハプニングを引き起こしている。 現役時代の私生活の派手さ、豪快さについては自ら「銀座は高速のサービスエリアみたいなもの」と表現している。 1973年5月場所、大関時代の輪島は途中から縁起をかついで14日目までひげを剃らずに土俵へ上がった。この無精ひげについては場所後の横綱審議委員会で委員の一人、高橋義孝(ドイツ文学者、のち委員長)から「見苦しい、相手も不愉快だろう」と苦言を呈した。後の2019年2月26日、日本相撲協会は力士規定によって力士のひげを禁止することを正式に通達している。この横審では同じく委員の前田和三郎からも「人格上の問題はないか」との質問も出た。 1973年11月場所、12日目の貴ノ花戦では手のひらを負傷(右手人差指中指間裂傷)したものの勝利した。しかし、この傷のため満足な相撲が取れず、13日目は北の富士に外掛けで敗れ、連勝が27でストップ。連勝途切れたこともあり休場し、14日目は不戦敗、15日目は休場。優勝して登場した輪島は、インタビューで「私は今幸運に酔っている。幸運の女神様、来年もまた私のそばに来てください」ととんでもないコメントを残す。なお、大相撲の歴史上、休場したものの優勝した力士は他に1989年3月場所の千代の富士(14勝1不戦敗)だけであり、星取表に「休」を含む優勝者は、この時の輪島だけである。
現役時代を通してスタミナ面が課題であり、そのため1974年7月場所前には精を付けようと泥鰌を3匹一気飲みしたことがある。 1974年7月場所前、稽古を終えた輪島は記者から質問をされた。同年5月場所前の靖国神社奉納相撲の時に北の湖が「輪島の力は落ちた。大受は大関からも落ちるぜ」と怪童らしくこだわりも遠慮もない言葉を口にしたが、これがある週刊誌に掲載され、それを見た輪島が怒っているのでは?という内容の質問であった。ところが輪島は「オレ、知らないよ。新聞も雑誌も読まないからな」と答えた。その一方で「だけど、北の湖だってもうじき糖尿病でガクッだぜ」と肩を落とす真似をして見せ、北の湖が放ったとされる言葉に対して反撃を加えた。 現役時代に、横綱ながらも週刊ポストに「輪島の美女対談。」と称する対談コーナーを持ち、当時の人気アイドル達を招いて、かなりくだけたトークを繰り広げ話題になったが、一方で「品が無さ過ぎる」というクレームもかなり来たと言われ、同コーナーは打ち切られている。 地方巡業の時、ホテルに泊まる時は、ベッドを使わず、畳を持ち込んで寝ていた。「腰のことを考えたら」という理由だった。 同門の隆三杉(最高位小結、後に17代常盤山)がまだ序二段だった頃、隆三杉が五木ひろしのファンであることを知った輪島は、「お前が十両になったら五木ひろしに会わせてやる」と隆三杉に言った。それから3年後、隆三杉が十両に昇進して勝ち越しを決めた時、輪島は約束通り、五木ひろしのディナーショーのチケットを隆三杉に与えた。隆三杉は憧れの五木ひろしに会えたことよりも、横綱でありながら下っ端の序二段だった自分との約束を忘れずに守ってくれた輪島の誠実さに感激したという。 横綱時代の付け人だった三杉磯(7代峰崎)は、3代木村銀治郎の著書「大相撲と鉄道」中の対談で輪島について「いや、いい人なんだけどね、人に無関心だから」と話している。巡業のとき、通常は着流しと染め抜き、替えを二枚ほどと肌襦袢などで荷物をまとめるところを、分からないため持っているものを全部持っていきほとんど使わなかったという。 安芸乃島(9代高田川)は「輪島さんは変わった人。他の部屋の親方は、新弟子なんか相手にしないけど、かわいがってくれた。反物をくれたりもした」「横綱なのに、いばりちらしたりしない。人間的にすごい。亡くなった親方(元貴ノ花)と相通じるものがあったのかもしれない」と輪島の人柄について語った。 長男の輪島大地は2017年の第99回全国高等学校野球選手権大会で天理高等学校の投手として、準々決勝の明豊高校戦でリリーフでの登板を果たした。 後年、元大鳴戸親方の高鐵山孝之進が、大相撲の八百長問題を告発した際に、輪島の行った八百長行為についても告発したが、その際人間性について「とにかくデタラメな男」「金と女にだらしない」と酷評した。八百長についても「輪島は(普段の豪遊の影響もあって)金がないため、横綱、大関では一般的な、金銭による星の「買取」が出来ず、その場所で負けてもらった分を翌場所で自分が負ける事で返す「貸し借り」で八百長を行っていた。」と暴露している。しかし、輪島の実力自体は否定しておらず、星の貸し借りが出来たのも「前場所で借りた星をいくつか返しても、ガチンコで横綱を維持する最低ラインである10勝を挙げる自信があったからだ。」としており、自身の対戦経験からも「本当に強かった。」「14回しか優勝できなかったのが不思議」と評している。 2019年7月に出版された「真・輪島伝 番外の人」(武田頼政著)では、元妻・五月の一人称で元妻側から見た輪島の姿が書かれている。五月は輪島との結婚を不安に思っていたが、父の花籠から「あいつだって髷を切れば変わるさ、決して悪いやつじゃないんだから」と説得されて結婚に至ったという。
元妻は「輪島の金銭感覚や職業倫理は相撲社会の来し方とはまったく関係ありません。もちろん山田会長からの薫陶などでもありません」「生まれながら大きくズレていたようにしか思えない」とまで述べている。しかし11代花籠に可愛がられて育ち、両親が大変な苦労をして大きくしてきた部屋を中島家以外の者に継がせるのは嫌だろうと察していたという。部屋を継ぐつもりで結婚したが、結婚指輪はレンタルで挙式・新婚旅行は後援会やテレビ局の経費で行われ、結婚費用で輪島が身銭を切ることは無かったという。 事実上の破門と呼べる年寄株を巡る事件に関して、本人はパット・オコーナーが自身にプロレスの指導を施していた頃、記者に対して料亭の経営に困った妹を助けるためにやったので後悔していないと答えていた。プロレスのアメリカ遠征に行った際は、相手を心配させまいと現地での生活を楽しんでいることをアピールするために部屋の中でラジオを最大音量で流しながら国際電話で日本に向けて通話した。また、プロレス引退から数年後のある時、親友の貴ノ花に関するネガティブな情報を記者が聞き出そうとすると「よくわからないけど、貴ノ花はそんなことするやつじゃないよ」と、親友を守るために頭から頑なに否定した。 同郷で大相撲・プロレス界で同僚だった天龍源一郎は後年、「ミーハーだけど憎めない人で、みんなに好かれていた」「とにかく頑強で、プロレスラーのえげつない攻撃にも根を上げることがなかった」と回想している。 自身の死去の際に若者頭の花ノ国は引退後の話として「ビートたけしさんと島田洋七さんと一緒に飲んで朝5時に部屋に戻って、そのまま、芸人さんにまわしを着けさせて大笑いしていた」と親方時代も豪快だったと明かした。 12代花籠時代、先代次女との関係が短期間で破綻して以降、現役時代と同様に部屋と隣接する日大相撲部の合宿所で生活していたという。 死去に際して、プライベートでも交流のあったデーモン閣下は「ここ1年くらいは『人に会いたがっていない』ということだった。闘病のためやつれた姿を見せたくないとのことだったので、吾輩も何かの誘いをしたりなどは遠慮していた。気にはしながら見舞状を出したりはした」と明かした。 角界からは、第52代横綱・北の富士(12代九重、NHK専属解説者)、第57代横綱・三重ノ海(14代武蔵川・相撲協会元理事長、相撲博物館館長)、第61代横綱・北勝海(8代八角・理事長)、第62代横綱・大乃国(12代芝田山・広報部長)、現役力士では遠縁にあたる輝、師匠が輪島の日大相撲部の後輩である豊響そして親交のあった白鵬の夫人が弔問に訪れている。 葬儀委員長は、子どもの頃から50年以上の付き合いがあり輪島の現役時代の後援会長であった加賀屋グループの小田禎彦会長が務めた。この人物は角界から離れて以降も輪島を支え続けており、輪島の故郷七尾市に記念館の創設を計画しているとコメントしている。 不祥事での退職に関わる師匠夫人の悲劇もあり、死去に際し相撲協会から正式のコメントは出なかった。しかし、共に現役時代を過ごしたり親交のあった元親方たちが取材に応じている。同時期に横綱を張り引退後も食事をする仲であった第57代横綱三重ノ海の石山五郎は相撲協会時代や不祥事があった当時のエピソードを交えたコメントをしており、その破天荒さを「番外の人」と評した。輪島から7個の金星を獲得した元関脇高見山(12代東関)の渡辺大五郎は「輪島さんは体の大きい私が相手でも逃げない。まともに来るからやりやすかったのかもしれないね。北の湖、千代の富士、輪島……、戦った横綱がどんどん亡くなる。寂しいですよ」と亡き横綱を偲んだ。第52代横綱北の富士は「下手から投げを打つ力士は大成しないと言われていたが、それを破った最初だろう」と評し、「気のいい男」「元気なうちにもういっぺん飲みたかった」と輪島の死を悼んでいる。 1970年1月 - 幕下付出で初土俵 1970年5月 - 新十両 1971年1月 - 新入幕 1972年11月 - 大関昇進(輪島 博 改め 輪島 大士) 1973年7月 - 横綱昇進 1981年3月 - 現役引退、年寄・花籠襲名 1985年12月 - 不祥事により、相撲界を退く(廃業)。 1986年 - 全日本プロレス入団 1988年 - プロレス引退 通算成績:673勝234敗85休 勝率.742 幕内成績:620勝213敗85休 勝率.744 横綱成績:466勝142敗85休 勝率.766 大関成績:50勝10敗 勝率.833 現役在位:68場所 幕内在位:62場所 横綱在位:47場所(当時大鵬に次ぎ、柏戸と並び歴代2位タイ・現在歴代7位タイ) 大関在位:4場所 三役在位:5場所(関脇4場所、小結1場所) 年間最多勝:3回
連続6場所勝利:78勝(1976年3月場所〜1977年1月場所) 通算(幕内)連続勝ち越し記録:21場所(1971年9月場所〜1975年1月場所) 幕内連続2桁勝利記録:15場所(当時4位タイ・現在歴代8位、1975年9月場所〜1978年1月場所)、13場所(現在歴代10位タイ、1972年9月場所〜1974年9月場所) 幕内連続12勝以上勝利:8場所(当時大鵬に次いで2位・現在歴代5位、1976年1月場所〜1977年3月場所) 輪島の最多連勝記録は、27連勝である(1973年9月場所初日〜1973年11月場所12日目)。 下記に輪島のその他の連勝記録を記す(20連勝以上対象)。 上記の通り、20連勝以上を3回記録している。 幕内最高優勝:14回(歴代7位)
1973年 - 5月場所、9月場所、11月場所 1974年 - 3月場所、7月場所、9月場所 1976年 - 3月場所、7月場所 1977年 - 1月場所、7月場所、11月場所 1979年 - 7月場所 1980年 - 11月場所 十両優勝:1回(1970年9月場所) 幕下優勝:2回(1970年1月場所、1970年3月場所) 三賞:5回
敢闘賞:2回(1971年5月場所、1971年11月場所) 金星:なし
他に優勝決定戦で旭國に1勝、北の湖に1勝1敗、三重ノ海に1勝がある。 輪島 博(わじま ひろし)1970年1月場所 - 1972年9月場所 輪島 大士(わじま - )1972年11月場所 - 1981年1月場所 花籠 大嗣(はなかご ひろし)1981年1月 - 1985年12月(廃業) 日本熱学工業「コインクーラー」(1974年) - 新珠三千代と共演。同社社長の牛田正郎は輪島の後援会会長も務めていた。 資生堂「アウスレーゼ」(1981年)「ウェービーボーイ」(1982年) - 引退後の貴ノ花と共演。「アウスレーゼ」撮影当時の輪島は断髪前だったので、カツラを着用していた。 学生援護会「Q-tai」 - プロレスラー転身後。キャッチコピーは「また基本から出直した男です」。 オクダ運輸(1987年) - プロレスラー転向後。 ピップフジモト「ピップエレキバン」(1995年)- 樹木希林と共演。 オールスター感謝祭(1995年秋・1996年秋・1997年春・1999年春・1999年秋・2000年春、TBS)
『コナ・ニシテ・フウ』(2008年、吉本興業) - デーモン小暮閣下監督。YOSHIMOTO DIRECTOR'S 100企画の一篇。父親役。 竜馬におまかせ!(1996年4月 - 6月 第7話 日本テレビ系列)- フランケンシュタイン 役 横綱輪島の道(1978年、KC-9023)※ミノルフォンレコードより発売。 望郷賦(1978年、KA-1136) ※ミノルフォンレコードより発売。 わたし、元横綱輪島の"脱線"女房 : 寄った!ノコッタ!おもしろマジメ夫婦相撲 輪島五月 主婦と生活社, 1983.12. 甦る輪島 黄金の炎で男の肉体を燃え上がらせる 細谷正勝,川副宏芳共著 日刊スポーツ出版社, 1987.10 輪島沈む 『貴ノ花散る』もりたなるお、文春文庫、1990 遠藤賢司 『輪島の瞳』 杉森久英『天才横綱 輪島大士物語』(河出書房新社、1998) 武田頼政『真・輪島伝 番外の人』(廣済堂出版、2019) 横綱一覧 石川県の高校相撲部出身の一覧 ワジマ - アメリカ合衆国の競走馬。馬名は輪島に由来。 ^ そのため、付き人はいるものの、普段の世話を行うことはなく、輪島自身も誰が付き人かを知らなかったという話がある。また、稽古場では、まわしを締めるのを隣接する大学の土俵で行ったほか、地方場所では宿舎ではなくホテルに宿泊していたという。 ^ 後年『大相撲ジャーナル』2014年4月号118頁に寄せられた遠藤の四股名命名を巡る投書には「石川県出身力士は本名のままが好きならしく、輪島、出島は横綱、大関に昇進しても改名しなかった」と輪島の例も出されていた。 ^ 関取昇進前に貴ノ花に食事を奢らせるといった通常極めて無礼と言える態度を取った輪島を貴ノ花は許した。学生時代の輪島と稽古場で対戦して敗れた経験から実力や将来性を評価したためであった。 ^ なお北の湖は、「輪島は左だけでなく右からの攻めも非常に強く、それで左下手投げが決まっていた」と語っている(平成初期のビデオシリーズ「大相撲大全集 昭和の名力士 輪島・北の湖」より)。 ^ 相撲はすり足が基本で「足の裏を地面から離す「走る」行為は基本に反する」という考えからか、ランニングはあまり好まれなかった。他方で琴風は左膝の大怪我に見舞われてから暫くランニングを取り入れたことがあり、記者にその意図を問われた際に自ら「ランニングはリハビリ」と答えたことがある。 ^ 鍋に熱燗2本注いだ北の湖さん ぼそりと「下積みが…」 朝日新聞DIGITAL 2020年9月26日 11時00分 (文・抜井規泰、2021年4月2日閲覧) ^ 『相撲』2013年11月号、90頁。せり上がりの際の、「重たい岩をも支える腕の形」という羽黒山の頃まで保たれてきた本質が失われているとして、白鵬や日馬富士の土俵入りが批判されている。 ^ 後に曙が貴闘力戦でタイ記録を樹立。 ^ なお、輪島の足の裏は土踏まずが大きく切れ上がった形状をしているため、元来寄られると弱かった。稽古不足の時期にはスタミナが続かないことによりそれが顕著になった。 ^ そのためか千代の富士には一番勝ちたい力士は輪島と名前を挙げられていた。 ^ 1989年3月場所で優勝した千代の富士は14日目の大乃国戦で左肩を脱臼して翌日の千秋楽を休場しているが、不戦敗の扱い。 ^ 2位は、白鵬-日馬富士の10回(平成24年5月場所〜平成25年11月場所)。この間の両者は白鵬4勝-6勝日馬富士。また相星決戦は2回(全勝同士=H24.7、1敗同士=H25.11)。優勝圏内での対戦1回(H24.9)。また、両者横綱同士に限ればこの両者の対戦は7回連続となり、朝青龍-白鵬と並ぶ。なお、輪島-北の湖による千秋楽結び対戦回数は22回あり、曙-貴乃花の27回に次いで、史上2位。 ^ この止め鋏の際、二子山に付き添い、先代花籠の子息が先代の遺影を持って土俵に上がっている。 ^ 現在(2019年5月時点)の相撲協会の規定でいうところの“退職”に相当 ^ 「輪島は練習しない」というイメージが広がったきっかけは、1987年11月7日に行われた輪島対天龍源一郎の試合においてテレビ解説を務めていた馬場が、「輪島は最初はよかったが、だんだん稽古しなくなりましたね」とコメントしたことも大きい。しかし、件の試合では天龍に徹底的に攻められて戦闘不能に陥るほど、当時輪島の膝の怪我が悪化していた。 ^ 池田雅雄は「相撲」の『質疑応答』で、輪島が事実上、破門されるような形で相撲協会を去った経緯からして、還暦土俵入りが行われることはないであろうという私見を述べていた。ただし、親方となった後に協会を退職した横綱経験者でも、太刀山(1937年2月6日)・北の富士(2002年2月23日)のように、還暦土俵入りを行った例は存在する。また土俵入りしなくても還暦記念に赤い綱を作製し受取る場合も有るが、輪島は公表されず不明である。 ^ ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 2014年11月号(九州場所展望号)37頁によると、高田川が下の名前の読みについて勘違いしていた上に確認を取っても輪島本人がその勘違いに気付かなかったという。 ^ 北の湖も輪島に誘われる形で参加したことがある。 ^ 北の湖は松本ちえこから女性体験を再三聞かれてしどろもどろだったと伝わっている。 ^ 右手人差指中指間裂傷により14日目から途中休場 ^ 北の湖と優勝決定戦 ^ 腰椎及び左膝関節及び左足首関節捻挫・左坐骨神経痛により4日目から途中休場 ^ 腰椎及び左膝関節及び左足首関節捻挫・左坐骨神経痛により3日目から途中休場 ^ 旭國と優勝決定戦 ^ 北の湖と優勝決定戦 ^ 膝関節捻挫・右膝内側側副靱帯損傷により2日目から途中休場 ^ 急性大腸炎により4日目から途中休場 ^ 三重ノ海と優勝決定戦 ^ 腰痛・左手首関節捻挫後遺症により3日目から途中休場 ^ 頸椎捻挫により5日目から途中休場 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p22 ^ 角界「異名」列伝 ウルフの時代 時事ドットコム ^ “大相撲・元横綱の輪島大士さん死去、70歳” (jp). TBS NEWS. 2018年10月9日閲覧。 ^ “相撲の決まり手の「基本技」と「投げ手」珍技を解説”. 【SPAIA】スパイア (2020年1月12日). 2020年11月16日閲覧。 ^ 大鵬さんしのぶ 曙「オーラが違った」北の富士「あの人以上はいないから」 Sponichi Annex 2013年1月20日 07:12 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p69-70 ^ 【連載 名力士たちの『開眼』】小結・豊山広光 編 土俵で得た教訓を人生に生かすも勝負のうち[その2] ベースボール・マガジン社WEB 2018-09-17 ^ Sports Graphiv Number PLUS April 2017(文藝春秋、2017年4月10日)p78 ^ 『相撲』(別冊師走号)20ページ ^ 『相撲』(別冊師走号)21ページ ^ 『相撲』(別冊師走号)22ページ ^ 朝日新聞1973年5月29日付朝刊総合面 ^ 『大相撲ジャーナル』(2018年11月号)、アプリスタイル pp. 8 ^ 朝日新聞1973年5月30日付夕刊社会面 ^ 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)p33 ^ 『大相撲ジャーナル』2017年8月号 p47 ^ 暴力団、八百長、突然の引退……元妻が明かす“天才横綱”輪島大士の壮絶な真実(3/6ページ) 文春オンライン 2019/08/09(2020年1月22日閲覧) ^ 『スポーツ報知 大相撲ジャーナル』(2018年11月号)、アプリスタイル pp. 11 ^ 北の湖の大関昇進直後は「輪北時代」の表記も見られた(朝日新聞1974年1月24日付朝刊スポーツ面) ^ 『スポーツ報知 大相撲ジャーナル』(2018年11月号)、アプリスタイル pp. 10 ^ 風化させるな 大相撲事件史(11/15ページ) JIJI.COM 2022年07月12日18時00分(2022年8月10日閲覧) ^ 日刊スポーツ 2017年11月22日 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p40 ^ プロレス転向会見の時点では103kgと答えた。 ^ スポーツ報知・相撲レスラー輪島がいたから、新生UWFが生まれた!?(2018年10月12日) ^ わずか2年8か月で歴史を変えた男。輪島大士はプロレス界の触媒だった。 Number Web 2018/10/16 16:30(文・堀江ガンツ、株式会社文藝春秋、2019年3月20日閲覧) ^ タイガー・ジェット・シンを真似る輪島大士 引退後もプロレスの悪口は決して言わなかった 東スポWEB 2024年4月28日 10:00 (文・木明勝義、2024年4月29日閲覧) ^ 2010年8月9日のスポーツニッポン「我が道」のコーナーより ^ 元横綱輪島さん がん手術で声失った デイリースポーツ 2014年7月16日閲覧 ^ 現在は貴ノ花(藤島→二子山)の愛弟子である元関脇・安芸乃島(藤島部屋→二子山部屋)が師匠。 ^ 輪島氏が筆談で「元気になりました」nikkansports.com 2014年9月10日9時1分 紙面から ^ 輝 輪島と同じ黄金まわしに意欲 日刊スポーツ 2014年10月2日(2014年10月27日閲覧) ^ 輪島氏、北の湖さんへ「頑張ったね、俺はもう少し」日刊スポーツ 2015年11月22日 ^ 以下すべて2018年10月9日の報道元横綱・輪島大士さん死去…「輪湖時代」築く - 読売新聞元横綱輪島が死去 優勝14度、「輪湖時代」築く - 産経ニュース元横綱輪島大士さんが死去 70歳、「黄金の左」 - 日刊スポーツ大相撲の元横綱・輪島こと輪島大士氏が死去 70歳 輪湖時代を築く - スポニチアネックス ^ 元横綱・輪島さん死去「黄金の左」で活躍 北の湖と「輪湖時代」 - スポーツニッポン新聞社、2018年10月10日配信、同日閲覧 ^ “デーモン閣下、輪島さん葬儀で歌捧げる 「破天荒な横綱だから」いつも通りの姿で別れ”. スポニチアネックス (スポーツニッポン新聞社). 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西ノ海嘉治郎 (3代) 大蛇山酉之助 宮城山福松 常陸岩英太郎 能代潟錦作 玉錦三右エ門 豊國福馬 山錦善治郎 武藏山武 綾櫻由太郎 清水川元吉 沖ツ海福雄 男女ノ川登三 双葉山定次 出羽湊利吉 安藝ノ海節男 羽黒山政司 佐賀ノ花勝巳 前田山英五郎 備州山大八郎 東富士欽壹 増位山大志郎 千代の山雅信 照國萬藏 栃錦清隆 鏡里喜代治 時津山仁一 吉葉山潤之輔 三根山隆司 朝潮太郎 (3代) 若乃花幹士 (初代) 安念山治 玉乃海太三郎 若羽黒朋明 若三杉彰晃 大鵬幸喜 柏戸剛 佐田の山晋松 栃ノ海晃嘉 北葉山英俊 富士錦猛光 北の富士勝昭 若浪順 玉の海正洋 琴櫻傑將 清國勝雄 栃東知頼 長谷川勝敏 輪島大士 高見山大五郎 北の湖敏満 魁傑將晃 貴ノ花健士 金剛正裕 三重ノ海剛司 若乃花幹士 (2代) 千代の富士貢 琴風豪規 隆の里俊英 北天佑勝彦 若嶋津六夫 多賀竜昇司 朝潮太郎 (4代) 北勝海信芳 大乃国康 旭富士正也 小錦八十吉 霧島一博 琴富士孝也 琴錦功宗 貴乃花光司 曙太郎 水戸泉政人 若乃花勝 武蔵丸光洋 貴ノ浪貞博 千代大海龍二 出島武春 武双山正士 貴闘力忠茂 魁皇博之 琴光喜啓司 栃東大裕 朝青龍明徳 白鵬翔 琴欧洲勝紀 日馬富士公平 把瑠都凱斗 旭天鵬勝 鶴竜力三郎 照ノ富士春雄 琴奨菊和弘 豪栄道豪太郎 稀勢の里寛 栃ノ心剛史 御嶽海久司 貴景勝貴信 玉鷲一朗 朝乃山英樹 德勝龍誠 正代直也 大栄翔勇人 若隆景渥 逸ノ城駿 阿炎政虎 霧島鐵力 豊昇龍智勝 尊富士弥輝也 大の里泰輝 一覧 年代は初優勝、しこ名は最後の優勝時。 表 話 編 歴 1958 若乃花幹士 1959 栃錦清隆 1960 若乃花幹士(※) 1961 大鵬幸喜 1962 大鵬幸喜 1963 大鵬幸喜 1964 大鵬幸喜 1965 佐田の山晋松 1966 大鵬幸喜(※) 1967 大鵬幸喜 1968 玉乃島正夫 1969 大鵬幸喜(※) 1970 北の富士勝昭 1971 玉の海正洋(※) 1972 貴ノ花満(※) 1973 輪島大士 1974 北の湖敏満 1975 三重ノ海五郎(※) 1976 輪島大士 1977 輪島大士(※) 1978 北の湖敏満 1979 北の湖敏満 1980 北の湖敏満 1981 千代の富士貢(※) 1982 千代の富士貢 1983 隆の里俊英 1984 若嶋津六夫 1985 千代の富士貢 1986 千代の富士貢 1987 千代の富士貢(※) 1988 千代の富士貢(※) 1989 千代の富士貢(※) 1990 旭富士正也 1991 小錦八十吉(※) 1992 貴花田光司 1993 曙太郎 1994 貴乃花光司 1995 貴乃花光司 1996 貴乃花光司 1997 貴乃花光司 1998 若乃花勝 1999 武蔵丸光洋 2000 曙太郎 2001 武蔵丸光洋 2002 朝青龍明徳 2003 朝青龍明徳 2004 朝青龍明徳 2005 朝青龍明徳 2006 朝青龍明徳 2007 白鵬翔 2008 白鵬翔 2009 白鵬翔 2010 白鵬翔 2011 白鵬翔 2012 白鵬翔 2013 白鵬翔 2014 白鵬翔 2015 白鵬翔 2016 日馬富士公平(※) 2017 受賞者なし 2018 栃ノ心剛史 2019 白鵬翔(※) 2020 貴景勝光信 2021 照ノ富士春雄 2022 若隆景渥 2023 霧島鉄力 表 話 編 歴 1957 栃錦清隆 1958 若乃花幹士 1959 栃錦清隆 1960 大鵬幸喜 1961 大鵬幸喜 1962 大鵬幸喜 1963 大鵬幸喜 1964 大鵬幸喜 1965 佐田の山晋松 1966 柏戸剛 1967 大鵬幸喜 / 柏戸剛 1968 玉乃島正夫 1969 北の富士勝昭 1970 北の富士勝昭 / 玉の海正洋 1971 北の富士勝昭 1972 輪島大士 1973 輪島大士 1974 北の湖敏満 1975 北の湖敏満 1976 輪島大士 1977 北の湖敏満 1978 北の湖敏満 1979 北の湖敏満 1980 北の湖敏満 1981 北の湖敏満 1982 千代の富士貢 1983 隆の里俊英 1984 若嶋津六夫 1985 千代の富士貢 1986 千代の富士貢 1987 北勝海信芳 1988 旭富士正也 1989 北勝海信芳 1990 旭富士正也 1991 霧島一博 1992 貴花田光司 1993 曙太郎 1994 貴乃花光司 1995 貴乃花光司 1996 貴乃花光司 1997 貴乃花光司 1998 若乃花勝 1999 武蔵丸光洋 2000 曙太郎 2001 武蔵丸光洋 2002 朝青龍明徳 2003 朝青龍明徳 2004 朝青龍明徳 2005 朝青龍明徳 2006 朝青龍明徳 2007 白鵬翔 2008 白鵬翔 2009 白鵬翔 2010 白鵬翔 2011 白鵬翔 2012 白鵬翔 2013 白鵬翔 2014 白鵬翔 2015 白鵬翔 2016 稀勢の里寛 2017 白鵬翔 2018 栃ノ心剛史 2019 朝乃山英樹 2020 貴景勝光信 2021 照ノ富士春雄 2022 若隆景渥 2023 霧島鐵力 表 話 編 歴 初代明石志賀之助 2代綾川五郎次 3代丸山権太左衛門 4代谷風梶之助 5代小野川喜三郎 6代阿武松緑之助 7代稲妻雷五郎 8代不知火諾右衛門 9代秀ノ山雷五郎 10代雲龍久吉 11代不知火光右衛門 12代陣幕久五郎 13代鬼面山谷五郎 14代境川浪右衛門 15代梅ヶ谷藤太郎(初代) 16代西ノ海嘉治郎(初代) 17代小錦八十吉 18代大砲万右エ門 19代常陸山谷右エ門 20代梅ヶ谷藤太郎(2代) 21代若嶌權四郎 22代太刀山峯右エ門 23代大木戸森右エ門 24代鳳谷五郎 25代西ノ海嘉治郎(2代) 26代大錦卯一郎 27代栃木山守也 28代大錦大五郎 29代宮城山福松 30代西ノ海嘉治郎(3代) 31代常ノ花寛市 32代玉錦三右エ門 33代武藏山武 34代男女ノ川登三 35代双葉山定次 36代羽黒山政司 37代安藝ノ海節男 38代照國萬藏 39代前田山英五郎 40代東富士欽壹 41代千代の山雅信 42代鏡里喜代治 43代吉葉山潤之輔 44代栃錦清隆 45代若乃花幹士(初代) 46代朝潮太郎 47代柏戸剛 48代大鵬幸喜 49代栃ノ海晃嘉 50代佐田の山晋松 51代玉の海正洋 52代北の富士勝昭 53代琴櫻傑將 54代輪島大士 55代北の湖敏満 56代若乃花幹士(2代) 57代三重ノ海剛司 58代千代の富士貢 59代隆の里俊英 60代双羽黒光司 61代北勝海信芳 62代大乃国康 63代旭富士正也 64代曙太郎 65代貴乃花光司 66代若乃花勝 67代武蔵丸光洋 68代朝青龍明徳 69代白鵬翔 70代日馬富士公平 71代鶴竜力三郎 72代稀勢の里寛 73代照ノ富士春雄 雷電爲右エ門 表 話 編 歴 161代 能代潟錦作 162代 常陸岩英太郎 163代 豊國福馬 164代 玉錦三右エ門 165代 武藏山武 166代 清水川元吉 167代 男女ノ川登三 168代 双葉山定次 169代 鏡岩善四郎 170代 前田山英五郎 171代 羽黒山政司 172代 安藝ノ海節男 173代 五ツ嶋奈良男 174代 照國万蔵 175代 名寄岩静男 176代 佐賀ノ花勝巳 177代 東冨士謹一 178代 汐ノ海運右衛門 179代 増位山大志郎 180代 千代ノ山雅信 181代 吉葉山潤之輔 182代 鏡里喜代治 183代栃錦清隆 184代 三根山隆司 185代 大内山平吉 186代 松登晟郎 187代 若乃花勝治 188代 朝汐太郎 189代 琴ヶ濱貞雄 190代 若羽黒朋明 191代 柏戸剛 192代 大鵬幸喜 193代 北葉山英俊 194代 佐田の山晋松 195代 栃ノ海晃嘉 196代 栃光正之 197代 豊山勝男 198代 北の富士勝昭 199代 玉乃島正夫 200代 琴櫻傑將 201代 清國勝雄 202代 前の山太郎 203代 大麒麟將能 204代 輪島大士 205代 貴ノ花利彰 206代 大受久晃 207代 北の湖敏満 208代 魁傑將晃 209代 三重ノ海剛司 210代 旭國斗雄 211代 若三杉壽人 212代 増位山太志郎 213代 千代の富士貢 214代 琴風豪規 215代 隆の里俊英 216代 若嶋津六夫 217代 朝潮太郎 218代 北天佑勝彦 219代 大乃国康 220代 北尾光司 221代 北勝海信芳 222代 小錦八十吉 223代 旭富士正也 224代 霧島一博 225代 曙太郎 226代 貴ノ花光司 227代 若ノ花勝 228代 貴ノ浪貞博 229代 武蔵丸光洋 230代 千代大海龍二 231代 出島武春 232代 武双山正士 233代 雅山哲士 234代 魁皇博之 235代 栃東大裕 236代 朝青龍明徳 237代 琴欧洲勝紀 238代 白鵬翔 239代 琴光喜啓司 240代 日馬富士公平 241代 把瑠都凱斗 242代 琴奨菊和弘 243代 稀勢の里寛 244代 鶴竜力三郎 245代 豪栄道豪太郎 246代 照ノ富士春雄 247代 髙安晃 248代 栃ノ心剛史 249代 貴景勝貴信 250代 朝乃山英樹 251代 正代直也 252代 御嶽海久司 253代 霧島鐵力 254代 豊昇龍智勝 255代 琴櫻将傑 256代 大の里泰輝 表 話 編 歴 19 田中四郎 20 糸谷孫一 21 福井清吉 22 縄田喜美雄 23 竹田繁七 24 稲垣登 25 平田義太郎 26 猿丸吉雄 27 浅見浅一 28 大畠政次郎 29 豊平悠三 30 菅谷定 31 藤岡俊夫 32 狩野俊英 33 皆藤勝美 34 佐藤三郎 35 白山辰夫 36 佐藤三郎 37 城崎将雄 38 田内貢三郎 39 古塚良夫 40 井口義明 41 田内貢三郎,井口義明,小田敬治 42-45 中止 46 中村富次 47 影山信雄 48 有光一 49 吉村道明 50 有光一 51 有光一 52 高須晃 53 福田芳郎 54 照井久見 55 中尾三郎 56 石黒馨 57 田畑外登雄 58 田畑外登雄 59 小谷修一 60 内田勝男(豊山) 61 新保茂 62 平野孝行 63 近藤正勝 64 堀口圭一 65 笹谷洋三 66 三木功 67 田中英壽 68 輪島博(大士) 69 輪島博(大士) 70 中山国久 71 舘岡儀秋 72 谷川和正 73 野村双一(出羽の花) 74 尾形静雄(天ノ山) 75 中熊誠一 76 長岡末弘(朝潮) 77 長岡末弘(朝潮) 78 藤沢和穂(琴藤沢) 79 小谷一美(花嵐) 80 服部祐兒(藤ノ川) 81 山崎幸一 82 服部祐兒(藤ノ川) 83 吉橋宏之 84 久嶋啓太(久島海) 85 久嶋啓太(久島海) 86 久嶋啓太(久島海) 87 本田浩二 88 山崎直樹(大翔山) 89 林正人(大輝煌) 90 池森ルイス剛(隆濤) 91 坂本直人(肥後ノ海) 92 伊藤辰博 93 鶴賀文仁(北勝森) 94 後藤泰一(栃乃洋) 95 柳川信行(増健) 96 齊藤直飛人(追風海) 97 田宮啓司(琴光喜) 98 田宮啓司(琴光喜) 99 西村公憲 00 垣添徹 01 成田旭(豪風) 02 横山英希(高見藤) 03 上林義之(大岩戸) 04 吐合明文 05 下田圭将 06 森友樹(大翔湖) 07 榎本翔太 08 佐久間貴之(常幸龍) 09 森本太良 10 明月院秀政(千代大龍) 11 正代直也 12 中村大輝(北勝富士) 13 一ノ瀬康平 14 大道久司(御嶽海) 15 黒川宏次朗 16 バーサンスレン・トゥルボルド(水戸龍) 17 中島望 18 菅野陽太(栃武蔵) 19 中村泰輝(大の里) 20 プレブスレン・デルゲルバヤル(欧勝馬) 21 川副圭太 22 バトジャルガル・チョイジルスレン(阿武剋) 23 草野直哉 実業団 国スポ アマチュア 学生 高校 中学生 ()内は四股名 表 話 編 歴 76 輪島大士 77 北の湖敏満 78 北の湖敏満 79 北の湖敏満 80 若乃花幹士 81 千代の富士貢 82 若嶋津六夫 83 隆の里俊英 84 若嶋津六夫 85 北尾光司 86 千代の富士貢 87 北勝海信芳 88 千代の富士貢 89 千代の富士貢 90 旭富士正也 91 貴花田光司 92 貴花田光司 93 若ノ花勝 94 貴乃花光司 95 貴乃花光司 96 貴乃花光司 97 貴乃花光司 98 若乃花勝 99 武蔵丸光洋 00 魁皇博之 01 栃東大裕 02 朝青龍明徳 03 朝青龍明徳 04 朝青龍明徳 05 朝青龍明徳 06 朝青龍明徳 07 白鵬翔 08 白鵬翔 09 なし 10 白鵬翔 11 琴奨菊和弘 12 日馬富士公平 13 白鵬翔 14 なし 15 嘉風雅継 16 なし 17 なし 18 御嶽海久司 19 朝乃山英樹 20-21 中止 表 話 編 歴 春日由三 吉本明光 中山晋平 春日由三 吉川義雄 春日由三 吉川義雄 川村専一 狩野近雄 河上英一 笹本恭彦 明瀬裕 池田太郎 牧定忠 春日由三 吉川義雄 渋沢秀雄 横山隆一 西崎緑 貝谷八百子 田付辰子 メイ牛山 春日由三 吉川義雄 岩田専太郎 勅使河原蒼風 千代の山雅信 小山いと子 吉村公三郎 市川翠穂 マヤ片岡 春日由三 吉川義雄 三國連太郎 小西得郎 栃錦清隆 青木茂高 河上牧子 水木洋子 坂西志保 田村佐紀子 吾妻徳穂 吉川義雄 田中角栄 菊田一夫 若乃花勝治 金田正一 奥むめお 森田たま 細川ちか子 近藤百合子 吉川義雄 横山泰三 水原茂 稲垣浩 朝汐太郎 沢田美喜 杉村春子 戸川エマ 赤堀全子 吉川義雄 木下惠介 大宅壮一 杉浦幸雄 若羽黒朋明 長谷川春子 大濱英子 榊淑子 谷桃子 吉川義雄 秋山登 唐島基智三 柏戸剛 松本幸四郎 中村汀女 田中絹代 秋山ちえ子 江上トミ 長沢泰治 土門拳 高田元三郎 仲代達矢 大鵬幸喜 和田夏十 勅使河原霞 村山リウ 森光子 長沢泰治 工藤昭四郎 東郷青児 森英恵 大山康晴 山内一弘 佐田の山晋松 藤間紫 岡田茉莉子 十返千鶴子 浪花千栄子 長沢泰治 細川隆元 丹羽文雄 實川延若 中西太 栃ノ海晃嘉 飯田蝶子 貞閑晴 新珠三千代 花柳壽輔 佐久間良子 長沢泰治 大林清 北葉山英俊 林与一 古賀忠道 春風亭柳橋 岩下志麻 司葉子 長谷川町子 林美智子 吉屋信子 坂本朝一 円地文子 安達曈子 入江美樹 藤村志保 小絲源太郎 松下幸之助 ファイティング原田 緒形拳 坂本朝一 樫山文枝 五代利矢子 浜美枝 山崎豊子 大佛次郎 尾上菊之助 加藤芳郎 鶴ヶ嶺昭男 中山卯郎 福島慎太郎 木村秀政 西本幸雄 石坂浩二 福原美和 栗原小巻 塩月弥栄子 平岩弓枝 中山卯郎 江夏豊 王馬熙純 榊原仟 鈴木俊一 曽野綾子 高田敏子 藤田弓子 三船敏郎 中山卯郎 浅丘ルリ子 市川海老蔵 今井通子 大谷直子 菅野義丸 佐藤愛子 鶴岡一人 平幹二朗 中道定雄 坂東玉三郎 樋口久子 小林弘 三田佳子 志村喬 武原はん 玉の海正洋 中山律子 仲代達矢 小野田勇 浪花家辰造 大場政夫 宇田川竜男 堀内寿子 大山英子 村山加代子 中山きよ子 樫山文枝 山口果林 高橋信雄 山下迪子 館弘子 石田芳夫 中山紀子 井沢つま 森戸辰男 溝尾正志 花本方美 為久優子 成田知子 桑田たつ子 村上巳里 山下誠 小川善三郎 河野久枝 桑原永子 田川由紀子 佐藤太圭子 山田三智穂 大谷豊二 高橋優子 貴ノ花利彰 赤塚洋文 平内義幸 富岡雅寛 平賀輝子 中川時子 加藤稔 池内淳子 中原誠 森英恵 小林桂樹 中村汀女 井上ひさし 中野貴代 神田好武 真木洋子 輪島大士 高橋洋子 生沼スミエ 棟方志功 村上元三 京マチ子 サトウサンペイ 高田ユリ 尾上菊五郎 寺島純子 北の湖敏満 根本良夫 橋本明治 杉村春子 尾上松緑 栗原小巻 堀江謙一 檀ふみ 魁傑將晃 新垣留美子 根本良夫 尾上梅幸 高橋展子 吉永小百合 加藤剛 三林京子 大竹しのぶ 古葉竹識 三重ノ海五郎 池田彌三郎 浅丘ルリ子 中村梅之助 小野清子 村上隆 堤加蓉子 カロリーナ・ピレス・ド・リオ 若三杉壽人 川上哲治 川口幹夫 市川染五郎 上田利治 旭國斗雄 水島新司 川橋幸子 橋田壽賀子 新井春美 竹下景子 川口幹夫 北の湖敏満 岩下志麻 植村直己 八千草薫 安奈淳 森和人 森下洋子 山本浩二 加藤好雄 若山富三郎 ミヤコ蝶々 菅原文太 大原麗子 松本零士 重兼芳子 古葉竹識 多岐川裕美 加藤好雄 松本幸四郎 陳舜臣 佐久間良子 木田勇 向田邦子 島田陽子 鈴木喜久子 角田好雄 渡辺一雄 石毛宏典 古手川祐子 緒形拳 花井幸子 倉本昌弘 森光子 坂田栄男 高橋洋子 秋竜山 澤地久枝 香川宏 生沼スミエ 玉の海梅吉 森英恵 山藤章二 池上季実子 広岡達朗 村松友視 真野響子 滝田栄 橋田壽賀子 前橋汀子 市川猿之助 香川宏 三船敏郎 松本幸四郎 大原麗子 田淵幸一 樋口久子 松坂慶子 田中裕子 隆の里俊英 谷川浩司 林真理子 胡桃沢耕史 宮尾登美子 山口小夜子 役所広司 菊池綜一 江上由美 釜本邦茂 名取裕子 風間杜夫 石井幹子 連城三紀彦 里中満智子 衣笠祥雄 松坂慶子 市川海老蔵 遠藤利男 三田佳子 中村吉右衛門 高野悦子 小池一夫 武原はん ジェームス三木 山口洋子 吉田義男 大地真央 北尾光司 中野正之 森光子 清原和博 森下洋子 雁屋哲 黒柳朝 加藤芳郎 山崎洋子 渡辺謙 加納みゆき 千代の富士貢 吉岡利夫 若尾文子 中井貴一 森瑤子 江藤俊哉 俵万智 逢坂剛 森口祐子 近藤真一 若村麻由美 北勝海信芳 今西陽一郎 三田佳子 片岡孝夫 伊藤京子 森祇晶 浅野温子 安野光雅 伊勢桃代 新井満 山口智子 千代の富士貢 沖清司 千代の富士貢 いしだあゆみ ねじめ正一 小林浩美 中村勘九郎 村崎芙蓉子 西田敏行 石岡瑛子 斎藤雅樹 渡辺梓 沖清司 山本陽子 中村鴈治郎 諏訪内晶子 野田秀樹 コシノジュンコ 渡辺久信 森口祐子 松岡修造 沢口靖子 真田広之 小林由紀子 増井光子 山崎豊子 秋山幸二 芦原すなお 荻野アンナ 若花田勝 貴花田光司 緒形直人 鷲尾いさ子 田中好子 内林達夫 有森裕子 曙太郎 古賀稔彦 富司純子 中田久美 野茂英雄 村上弘明 伊藤みどり 森光子 高橋克彦 松尾武 三田佳子 米長邦雄 市川團十郎 細川直美 筒井道隆 つみきみほ 松原敏春 平瀬真由美 宮尾登美子 川淵三郎 内館牧子 田村亮子 植木等 野村克也 中丸三千繪 古田敦也 ミヤコ蝶々 曙太郎 古橋廣之進 大林素子 松尾武 イチロー 赤井英和 奥野史子 岩下志麻 羽生善治 南井克巳 賀来千香子 川本ゆかり 市川崑 森光子 上田洋一 古田敦也 田村亮子 天海祐希 竹中直人 原辰徳 水谷八重子 中村紘子 ジョージ川口 柳家小さん 大石芳野 上田洋一 有森裕子 川口能活 江角マキコ 仰木彬 清水市代 中村橋之助 森英恵 桂米朝 大石静 周防正行 大橋晴夫 井原正巳 吉永小百合 片岡仁左衛門 伊藤みどり 佐々木主浩 佐藤夕美子 本木雅弘 篠田節子 谷川浩司 吉行あぐり 大橋晴夫 清水宏保 藤原紀香 琴錦功宗 中村玉緒 松平健 俵万智 ジェームス三木 服部道子 熊川哲也 浅利純子 伊東律子 出島武春 松嶋菜々子 内館牧子 野村萬斎 田村亮子 津川雅彦 草笛光子 阿久悠 福嶋晃子 乙武洋匡 伊東律子 田村亮子 長嶋茂雄 高橋尚子 渡辺謙 池内淳子 佐々木主浩 岡本綾 井上康生 木村佳乃 内藤國雄 出田幸彦 栃東大裕 川原亜矢子 室伏広治 竹田恆和 松岡佑子 唐沢寿明 平良とみ 天海祐希 藤田宜永 森下洋子 出田幸彦 朝青龍明徳 米倉涼子 市川新之助 阿川佐和子 宮本恒靖 仲間由紀恵 高橋由伸 恩田美栄 岩合光昭 岸惠子 中村季恵 浅野ゆう子 五木寛之 優香 三谷幸喜 村山由佳 末續慎吾 村主章枝 武田真治 有馬稲子 星野仙一 中村季恵 野口みずき 野村忠宏 橋田壽賀子 中村勘九郎 荒川静香 滝沢秀明 高島礼子 和田一浩 森光子 日野原重明 琴欧州勝紀 薬師丸ひろ子 野口聡一 長澤まさみ 山田洋次 森光子 上川隆也 眞鍋かをり 林家正蔵 栗原はるみ 渡辺謙 阿木燿子 リリー・フランキー 藤山直美 内野聖陽 横峯さくら 田口壮 吉田都 鎌田實 瀬戸内寂聴 宮﨑あおい 上田桃子 岡島秀樹 青木功 中村勘三郎 新垣結衣 茂木健一郎 坂東眞理子 陣内智則 藤原紀香 本木雅弘 吉田沙保里 太田雄貴 高橋尚子 松本幸四郎 松坂慶子 姜尚中 堀北真希 妻夫木聡 上野由岐子 白鵬翔 草刈民代 阿部寛 深田恭子 原辰徳 勝間和代 城田優 杉山愛 西田敏行 森光子 野口聡一 湊かなえ 岩崎夏海 寺島しのぶ 髙橋大輔 上野樹里 伊勢谷友介 仲間由紀恵 北大路欣也 武良布枝 大竹しのぶ 田中将大 コシノジュンコ 三谷幸喜 鈴木京香 佐々木則夫 鈴木明子 松山ケンイチ 松井冬子 琴奨菊和弘 綾瀬はるか 尾木直樹 澤穂希 中村勘九郎 樹木希林 桂文枝 吉田沙保里 入江陵介 菅野よう子 日馬富士公平 田中将大 滝川クリステル 宮藤官九郎 宮本信子 杉良太郎 風吹ジュン 岡田准一 杏 片岡愛之助 阿川佐和子 中園ミホ 尾上松也 蜷川実花 山中伸弥 井上真央 阿部寛 仲間由紀恵 タモリ 黒柳徹子 羽生結弦 堺雅人 長澤まさみ 大泉洋 土屋太鳳 三宅宏実 上橋菜穂子 所ジョージ 有村架純 又吉直樹 高畑充希 辻沙絵 草刈正雄 新垣結衣 大谷翔平 萩野公介 伊調馨 秋本治 春風亭昇太 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2024/11/20 22:15更新
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wajima hiroshi
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