長谷川穂積の情報(はせがわほづみ) ボクシング 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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長谷川 穂積さんについて調べます
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長谷川穂積と関係のある人
小関桃: 試合は3人のジャッジ全員がフルマーク(100-90)をつける圧勝で、長谷川穂積と並ぶ2位タイ、そしてアジア女子では最多となる10度目の防衛に成功した。 粟生隆寛: また、元世界3階級王者長谷川穂積は兄貴分のような存在であり、よく一緒に合同合宿を行ったり長谷川の自宅に遊びに行くなどしている。 黒木優子: 憧れの選手に同じサウスポースタイルの長谷川穂積を挙げている。 粟生隆寛: なお、この日は同じ会場でジムの先輩西岡利晃(WBC世界スーパーバンタム級王者)と「兄貴分」長谷川穂積(WBC世界バンタム級王者)がそれぞれ防衛戦を行い、西岡は5回TKO勝ちで4度目の防衛に成功。 範田紗々: 悲しき天使(2019年12月、浅草九劇)共演:山崎真実、長谷川穂積他 西岡利晃: 1階級下のWBC世界バンタム級王者(当時)長谷川穂積に挑戦経験を持つ同級7位ヘナロ・ガルシア(メキシコ)と対戦し、2度のダウンを奪った末の最終12回TKO勝ちを収めた。 清木場俊介: ボクシング元世界チャンピオンの長谷川穂積とは、お互いをリスペクトし合う親友であり、2012年8月にリリースされた「Fighting Man」は清木場が長谷川自身に捧げた歌である。 多田悦子: 2015年12月11日、神戸市立中央体育館の興行で、長谷川穂積のアンダーとして前王者ナンシー・フランコの王座返上によりセットされたIBF女子世界ミニフライ級王座決定戦に同1位として元同王者ビクトリア・アルゲッタと対戦する予定だったが、アルゲッタが来日できなくなったため、同胞のカレリー・ロペスに変更された。 西岡利晃: この試合は長谷川穂積のWBC世界フェザー級王座初防衛戦ならびに粟生隆寛のWBC世界スーパーフェザー級王座初防衛戦と併せた「トリプル世界戦」興行の5試合目(セミファイナル)として行われ、西岡が序盤から試合を優位に進め、迎えた9Rの残り10秒のところでムニョスに左ストレートを当ててダウンを奪い、挑戦者はカウント8で立ち上がったもののファイティングポーズを取れず、KO勝利により6度目の防衛を果たした。 赤井英和: 1ヶ月に及ぶ禁酒・禁煙と、現在の妻が帯同したトレーニングの末に、現役のWBC世界バンタム級王者・長谷川穂積と3ラウンド(1ラウンド3分)の公開スパーリングに臨んだ[2]。 粟生隆寛: なお、この日は同じ会場で粟生が兄貴分と慕い、よく一緒に合同練習を行うWBC世界バンタム級王者長谷川穂積が10度目の防衛戦を行い、4回TKO勝ちで防衛に成功。 徳山昌守: 連続防衛8回は、日本ジム所属の選手としては、具志堅用高(13回)・山中慎介(12回)・内山高志(11回)・長谷川穂積(10回)・勇利アルバチャコフ(9回)などに続く歴代6位の記録である。 三村仁司: 君原健二、瀬古利彦、谷口浩美、森下広一、高橋尚子、有森裕子、野口みずき、イチロー、長谷川穂積、尾崎好美、小崎まり、青木宣親、内川聖一、香川真司、木﨑良子などのシューズ製作を担当した。 ファイティング原田: 2006年3月25日には、WBCバンタム級タイトルマッチ長谷川穂積VSウィラポン・ナコンルアンプロモーション戦のテレビ中継の解説者として、久々に元気な姿を見せた。 粟生隆寛: なお、この日は同じ会場で「兄貴分」長谷川穂積もWBC世界フェザー級王座決定戦を行い、12回判定勝ちで2階級制覇に成功。 徳山昌守: 世界王座通算9回防衛(連続8回+1回)は、日本のジム所属の選手としては、具志堅用高の13回、山中慎介の12回、内山高志の11回、渡辺二郎の10回、長谷川穂積の10回、勇利アルバチャコフの9回、井岡一翔の9回に続く記録である。 粟生隆寛: なお、この日は同じ会場でジムの先輩西岡利晃と兄貴分・長谷川穂積もそれぞれ防衛戦を行い、西岡は9回KO勝ちでWBC世界スーパーバンタム級王座6度目の防衛に成功。 越本隆志: 女子も含めた記録は2011年に藤岡奈穂子、返り咲きを含めた記録としては2016年に長谷川穂積にそれぞれ更新されている。 田中聖二: 同月18日に大阪・平野区で行われた告別式には、世界王座を獲得して間もない元スパーリングパートナーの長谷川穂積、同じ金沢ジムの徳山昌守、石田順裕、小島英次ら約200人が参列した。 徳山昌守: 日本のジムに所属するボクサーで現役の世界王者のまま引退したのは、徳山と大場政夫(元WBAフライ級王者、現役時に交通事故死)、世界三階級制覇王者の長谷川穂積の3人のみである。 多田悦子: 2013年9月9日、多田自身「プロボクシングで初めて見た人」という長谷川穂積が所属する神戸市にある真正ボクシングジムへの移籍が発表された。 徳山昌守: 対戦相手をWBC世界バンタム級王者長谷川穂積とフライ級世界ランカーの亀田興毅に限定した上での異例の表明となった。 黒木優子: この試合はテレビ西日本にて当日深夜枠で録画中継された(解説:長谷川穂積、実況:坂梨公俊)。 長谷川憲司: ボクシングでは、日本武道館においてWBC世界バンタム級王者・長谷川穂積が、タイのウィラポン・ナコンルアンプロモーションからベルトを奪取する勝負を実況している。 桑原征平: 大阪市内で開催されるプロボクシングのタイトルマッチ(井岡一翔や長谷川穂積などが出場する試合)を在京の民放テレビ局が全国に向けて中継する場合には、朝日放送関係者からの計らいによって、リング付近の招待席で観戦する桑原の様子が中継映像で見られることもあった。 亀田興毅: さらに、長谷川穂積以来となる飛び級による複数階級制覇も同時に達成している。 大場政夫: 日本のジムに所属する日本人男子ボクサーで現役の世界王者のまま引退したのは、大場以外には長谷川穂積(世界三階級制覇王者)がいるのみである(日本のジム所属のくくりでは他に在日コリアンの徳山昌守も該当)。 高山勝成: なお、この日は同じ会場で同門の長谷川穂積が自身の保持するWBC世界バンタム級王座の9度目の防衛に成功した。 井上尚弥: 攻守とも各方面から評価が非常に高く、元3階級制覇王者で井上の試合解説を務めることが多い長谷川穂積は、プロフェッショナル 仕事の流儀の中で、井上のボクサーとしての各スキルを5段階評価で表現し「スピード5、テクニック5、ディフェンス及びパンチを避ける能力5、アマチュアを含めた経験5、パワーがマイク・タイソン。 竹中美彩: 天皇賞 (春)・2009年(京都競馬場) ゲスト:長谷川穂積 |
長谷川穂積の情報まとめ
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長谷川 穂積(はせがわ ほづみ)さんの誕生日は1980年12月16日です。兵庫出身のボクシングのようです。
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来歴、戦績などについてまとめました。兄弟、テレビ、結婚、現在、父親、母親、引退、卒業、事件、事故、趣味に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
長谷川穂積のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)長谷川 穂積(はせがわ ほづみ、1980年12月16日 - )は、日本の元プロボクサー。兵庫県西脇市出身。現役時代は千里馬神戸ボクシングジム→真正ボクシングジム所属。元WBC世界バンタム級王者。元WBC世界フェザー級王者。元WBC世界スーパーバンタム級王者。世界3階級制覇王者。 バンタム級では5年間世界王座に君臨し、その間10度の防衛に成功。また、4度の年間MVPを受賞しており、超高速の連打と絶妙なカウンターパンチ、卓越したディフェンステクニックとスピードを誇る。 5人兄弟の長男(2番目)として誕生。 指名試合以外でもランキング上位者を中心に対戦している。また、日本テレビは長谷川の世界王座獲得以来、長谷川の防衛戦の放送を「ワールドプレミアムボクシング・The Real」と銘打って大々的に中継するようになった。 世界王者になる前の長谷川は、スピードとバランスを生かしてポイントを稼ぐための“倒さないボクシング”を徹底しており、世界王座獲得直後のインタビューでは「地味なチャンピオンでいい」と謙虚に語っていたが、王者になって以降は徐々に“KOするボクシング”を目指してファイトスタイルを改良してゆき、WBCバンタム級王座10度の防衛のうち7度のKOを果たしている。 バンタム級では減量苦であることと当時のWBCのバンタム級世界ランカーには世界的な知名度と人気を誇る選手がいなかったため、一時期の目標は「ラスベガス進出、他団体との統一王者、日本人史上初の3階級制覇」であったが、具志堅用高の持つ日本人史上最多の世界王座13連続防衛記録が近づくにつれて、防衛戦に勝つたびに次戦で階級を上げるかバンタム級に残留するか苦悩する発言が多くなっていた。 所属する真正ジムの会長で長谷川の専属トレーナーも務めているのは、元兵庫県警警察官でボクサー経験皆無という異色の経歴の持ち主である山下正人。元々は千里馬神戸ジムで長谷川を指導していたが、同ジムから独立し真正ジムを設立した際、長谷川も同ジムに移籍した。 17歳の頃に知り合った夫人と2002年に結婚。現在は2人の子を持つ父親でもある(試合時に着用しているトランクスには第1子=長男の名前を入れている)。長谷川がバラエティ番組に出演した際には妻の恐妻ぶりがしばしば笑いのネタとなっている。しかし、自他共に認める大食いである長谷川が減量に苦しんでいる時にはカロリーが少なく栄養がある食品を選んで、少しでも豪華な料理と感じられるように盛り付けを工夫したり、一緒に減量するなど長谷川を献身的に支えており、長谷川は常々妻への感謝を口にしている。 プロデビュー時の体重は56ほどだったが、WBCバンタム級王座在位時には66になり、防衛戦のたびに13キロを超える減量を強いられた。自身は常々「早く階級を上げたい。スーパーバンタム級(55.338kgリミット)でもキツイくらい。フェザー級(57.153kgリミット)なら楽に戦える」と語っていた。その後、11度目の防衛戦で王座陥落後、スーパーバンタム級を飛び越し、フェザー級に転向。 試合を控えた時期の会見において、世界王座3度目の防衛戦以来、対戦相手の母国語で書かれたメッセージをプリントした「挑発Tシャツ」を作って披露することが恒例となっている。挑発とはいっても過度な暴言などではなく、ダジャレを効かせたものや軽いノリで作ったものが多い。 2005年の初防衛戦では極度の緊張から前日は眠ることができなかった。 長谷川の母親は2006年11月に大腸癌が発見されて以来、闘病生活を送っていた。特に最先端の陽子線治療を受ける際には陽子線治療機関への一度の入院で約300万円の医療費がかかるため、「母親のためにも絶対に勝ち続けて医療費を稼ぎたい」という気持ちが大きなモチベーションの一つになっていた。一方の母親も息子の試合当日は病をおして必ず会場まで応援に駆け付けていたが、息子のWBCフェザー級王座挑戦を1か月後に控えた2010年10月24日に死去。その後、長谷川は11月26日の試合で王座獲得を果たした際、リング上で母親の遺影を掲げ喜びを表した。 2014年10月26日、初のフルマラソンとなる大阪マラソンに出場し、20km付近まで給水しなかったため脱水症状になりながらも、5時間35分20秒で完走した。 その後、2015年10月、大阪マラソンに出場し、4時間10分26秒で完走。2017年11月、神戸マラソンに出場し、4時間38分12秒で完走した。 来歴小学2年時から元プロボクサーの父親(バンタム級で3戦したが心臓の欠陥が発見されて引退)にボクシングを教わるようになるが、その厳しさに反発し中学時代は卓球部に所属。市大会で優勝したこともある。兵庫県立多可高等学校全日制時代は後の夫人となる女性と遠距離恋愛に至り学業が疎かになったことで留年が決定し、これが原因で2年で中退。本人曰くその女性と一緒に暮らしたくて中退する口実を作ろうと意図的に赤点を複数取ったという(後に兵庫県立西脇北高等学校定時制に編入して19歳で卒業)。その後、千里馬神戸ジムに入門。これは実家を離れて上記の女性と同居する際父親に課された条件であり、ここから本格的にボクシングを始める。プロテストの一度目はスタミナ不足もあり不合格となったが、2度目の受験で合格し、1999年11月22日にプロデビュー。4回戦時代は2度の判定負けを経験。(2回目の敗戦は麻疹で練習が殆ど出来ず、試合当日も体温39度以上の状態だった。後に6回戦で再戦し勝利している。)一時期スーパーバンタム級で試合した経験も有する。 2002年10月27日、まだノーランカーだったが、日本バンタム級4位の熟山竜一にフルマークの10回判定勝ちを収めて注目を集めるようになる。 東洋太平洋王座獲得2003年5月18日、ジェス・マーカ(フィリピン/42勝(17KO)17敗5分)を12回判定に降し、OPBF東洋太平洋バンタム級王座を獲得。その後、3度の防衛に成功し、2004年12月20日に王座を返上。 2004年10月30日、両国国技館にてWBAミニマム級王者新井田豊の初防衛戦の前座として、当時WBA4位の鳥海純と世界挑戦権をかけて対戦。10R判定で勝利し、当時WBC王者のウィラポンへの挑戦権を獲得した。 世界バンタム級王座獲得2005年4月16日、20戦目で世界初挑戦。日本武道館で行われたダブル世界戦の1試合(もう1試合は新井田豊のWBA世界ミニマム級王座2度目の防衛戦)でWBC世界バンタム級王者ウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ/47勝(33KO)1敗2分)に挑む。ウィラポンは1998年12月に辰吉丈一郎を破って王座獲得。その後、辰吉との再戦にも勝利し、さらに西岡利晃の挑戦も4度退け、この試合が15度目の防衛戦。試合は長谷川は序盤から有効打を的確に当て、4回までリードを奪っていく。しかし、ウィラポンも王者の意地を見せ、試合の中盤を支配した。終盤、長谷川はスタミナ切れを起こし始めたウィラポンを攻め立て、10回にはウィラポンをグラつかせた。最終12回まで壮絶な打ち合いを展開し、3-0の判定勝ち。世界王座奪取に成功した。この試合は2005年度年間最高試合に選ばれた。 この世界王座奪取が高く評価され、5月には西脇市民栄誉賞を受賞した。 2005年9月25日、初防衛戦が横浜アリーナにて行われた。当初、ランキング1位のディエゴ・モラレス(メキシコ)との指名試合となる予定だったが、モラレスが練習中に負傷。試合1週間前になって急遽、ランキング8位のヘラルド・マルチネス(メキシコ/27勝(20KO)5敗2分)に変更となった。モラレスはサウスポーなのでこれまでサウスポー対策の練習をしてきたが、マルチネスはオーソドックススタイルだった。 試合では序盤から長谷川がペースをつかみ、2回にはマルチネスを2度倒した(しかし、いずれも「スリップ」と判断された)。その後、3回には正真正銘のダウンを奪う。そして、迎えた7回、開始早々強烈な左ストレートでダウンを奪う。その後1分も経たないうちに、早い連打で2度目のダウンを奪う。そして、両者捨て身の打ち合いとなり、最後は長谷川の左がマルチネスを捕らえ、3度目のダウン。ここでレフェリーが試合をストップ。7回2分18秒TKO、通算4度のダウンを奪う快勝で防衛成功。 2006年3月25日、神戸・ワールド記念ホールで2度目の防衛戦。世界王者として地元での初の凱旋試合となったこの試合は11か月前にベルトを奪った前王者ウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ/52勝(37KO)2敗2分)との再戦となった。 ウィラポンは前回の長谷川戦後、5試合を戦い全勝(4KO)。ランキング1位の指名挑戦者として日本のリングに戻ってきた。 試合はラウンドが進むにつれて長谷川のパンチがウィラポンを捕らえ始め、6回には強烈な左アッパーが炸裂、ウィラポンをダウン寸前まで追い込む。7・8回はウィラポンが徹底的なボディーブロー攻めで流れをつかもうとする。そして、9回開始10秒、長谷川の右フックがカウンターでクリーンヒットし、ウィラポンが前のめりにダウン。ウィラポンは立ち上がろうと試みるも、ダメージが大きく立ち上がることができず。結局、レフェリーがカウントを途中で止め、試合をストップ。長谷川が前王者を返り討ちした。 この試合も1年前と同じく、年間最高試合に選ばれた。 2006年11月13日、長谷川が王座奪取に成功した時と同じ日本武道館で3度目の防衛戦。1位の指名挑戦者ヘナロ・ガルシア(メキシコ/35勝(20KO)4敗)を迎える。なお、この試合は当初7月に後楽園ホールで行われる予定であったが、王者が試合に向けての練習中に負傷してしまったため、延期となっていた。第1Rは、挑戦者が前に出てきて、王者がかわしながらパンチを出す展開となった。2Rから長谷川は徐々にパンチを浴びせるようになり、4Rには左アッパーでダウンを奪う。しかし、ここから挑戦者のしぶとさが目立つようになり、長谷川もパンチを浴びるようになる。長谷川は第7Rには挑戦者のヒッティングにより軽くカットし、8Rにはバッティングによるカットで血まみれになりながら戦い、8R終盤にはこの日2つ目のダウンを奪う。最終的に12R判定(3-0)で勝利したものの、KO防衛出来なかったことを観客に謝罪した。 試合後の控え室で、当時WBCスーパーフライ級王者徳山昌守から挑戦状を渡された。しかし、長谷川は海外進出を強く希望していたため実現しなかった。結果、徳山は引退を迎えることになった。 2007年5月3日、有明コロシアムにて、WBC世界4位のシンピウェ・ベチェカ(南アフリカ/16勝(9KO))と対戦。史上初となる日本vs.南アフリカの世界戦対決だったが、長谷川が判定勝ちして、4度目の防衛を飾った。 2007年9月20日、長谷川を直接指導する山下正人トレーナーが千里馬神戸ジムから独立し、真正ジムを旗揚げしたのに伴い、長谷川自身も同ジムへ移籍することが発表された。日本のプロボクシング史上、現役世界王者が所属ジムを国内間で移籍することは初めてのケースとなった。 2008年1月10日、大阪府立体育会館第一競技場に於いて、欧州バンタム王者でありWBC世界同級1位のシモーネ・マルドロット(イタリア/26勝(9KO)1敗)を挑戦者に迎え5度目の防衛戦に臨んだ。前述のジム移籍問題があったため、8か月ぶりの試合となった。試合は序盤、長谷川が右目上を大きくカットし流血するというアクシデントに見舞われた。中盤以降は王者、挑戦者の両者共に譲らず激しい打撃戦を繰り広げた。右目上をカットした長谷川は、要所で的確に有効打を決め、確実にポイントを集めた。最終12ラウンドでは両者が真っ向から打ち合い、世界戦に相応しい好試合となった。試合は長谷川が大差の判定勝ちを収め、日本人ボクサーで初めて世界バンタム級王座を5度防衛することに成功した。 この試合は米国進出へのテストマッチとなっていたが、長谷川の流血を伴う判定防衛によって保留となった。 WBCバンタム級タイトルマッチ、王者長谷川が6度目の王座防衛 2008年6月12日、日本武道館に於いて、WBC世界同級9位のクリスチャン・ファッシオ(ウルグアイ/14勝(9KO)2敗)を挑戦者に迎え6度目の防衛戦に臨んだ。第1Rのゴングから長谷川が積極的にパンチを当て、ファッシオを圧倒すると、続く第2R、カウンターの左ストレートがヒットし、ファッシオからダウンを奪う。ファッシオは何とか立ち上がったものの、長谷川の猛攻は止まらず、2度目のダウンを奪ったところでレフェリーが試合を止めた。長谷川の世界戦ノックアウト勝ちは、2006年3月の2度目の防衛戦以来。連続防衛記録を6と伸ばすと共に、試合終了後、「次はラスベガスで防衛戦をやりたい」と長谷川はかねてから希望している海外進出への意欲を滲ませた。 その後、7月4日に東京都内で右目上の違和感を伴っていたしこりを除去する手術を受けた。この部位が原因となって過去にも起きたことがある出血のリスクを下げることなどを期待してのものであった。 前述のように念願のアメリカのラスベガスへの進出を実現するべく、7度目の防衛戦の相手としてアメリカでも知名度の高いホルヘ・アルセ、アレクサンデル・ムニョスといった強豪選手にラスベガスでのタイトル戦のオファーを出していたが、アルセは母国メキシコでの対戦に固執し、ムニョスは「長谷川には勝てない」と対戦を拒否したため、念願のラスベガス進出は持ち越しとなった。 2008年10月16日、国立代々木第一体育館に於いて、WBC世界同級2位のアレハンドロ・バルデス(メキシコ/21勝(15KO)2敗1分)を挑戦者に迎え7度目の防衛戦に臨んだ。長谷川は常々「サウスポーは苦手」と公言しており、プロボクサー生活において公式戦でのサウスポーとの対戦経験がわずか1度ということもあって、リーチに勝るサウスポーの挑戦者に苦戦も予想されたが、2回2分41秒、レフェリーストップによるTKO勝ち。前回のファッシオ戦に続き2試合連続のKO勝利となった。また、世界王座7度連続防衛は日本人選手としては具志堅用高(元WBA世界ジュニアフライ級チャンピオン/協栄ボクシングジム)の13度、新井田豊(元WBA世界ミニマム級チャンピオン/横浜光ボクシングジム)の7度に続く2位タイの快挙である。 タイトルを7度連続防衛したことにより、これまで長く日本国内を戦場としていた長谷川が、ラスベガスに進出する計画が持ち上がった。 2009年3月12日、神戸・ワールド記念ホールで1位の指名挑戦者ブシ・マリンガ(南アフリカ/18勝(11KO)2敗1分)を相手に8度目の防衛戦を行った。長谷川が苦手とするサウスポー、リーチで長谷川を19cmも上回り、なおかつ17連勝中で世界ランク1位の指名挑戦者が相手とあって、苦戦を危惧する声も挙がっていた。しかし、いざ試合が始まってみると、初回1分30秒過ぎに左ストレートで最初のダウンを奪う。程なくして2度目のダウンを奪った後、2分37秒に左クロスカウンターで3度目のダウン。ここでレフェリーストップが掛かり、初回TKO勝ち。王座防衛に成功した。日本のジムに所属する世界王者の3戦連続KO防衛は、具志堅用高の6戦連続に次ぎ、渡辺二郎の3戦連続に並ぶ2位タイ記録で、26年ぶりの快挙を達成した。 2009年7月14日、前回防衛戦と同じ神戸・ワールド記念ホールで4位ネストール・ロチャ(アメリカ/21勝(7KO)1敗)を相手に9度目の防衛戦。初回2分過ぎ、左右のコンビネーションから右フックで最初のダウンを奪うと、何とか立ち上がった相手に更に連打を浴びせ、程なくして2度目のダウン。ここでも立ち上がったものの、レフェリーストップが掛かり、2分28秒TKO勝ち。これにより長谷川は勇利アルバチャコフ(ロシア/協栄ジム)と並び、世界王座連続防衛・国内記録2位タイを記録すると同時に、具志堅用高(協栄ジム)以来となる世界王座4連続ノックアウト防衛(ちなみに具志堅は6連続ノックアウト防衛を記録している)という日本人世界王者として2人目の快挙を達成。さらに、2戦連続初回KO防衛はバンタム級世界戦史上初の快挙。ちなみにこの試合当日の長谷川の体重は、約60kgだった。 この試合の1か月前にはWBA・WBC・IBF世界スーパーフライ級統一王者ビック・ダルチニアンがWBCを通じて長谷川に正式な対戦オファーを出していた。これはダルチニアンが7月11日にIBF世界バンタム級王者ジョゼフ・アグベコに挑戦することが決定しており、長谷川が防衛に成功し、ダルチニアンがアグベコに勝ったら、WBC・IBF世界バンタム級王座統一戦としてラスベガスで対戦するというオファーだった。IBFを世界王座団体と認定していない日本ボクシングコミッションも「世界王座統一戦に限り、未公認団体王者との対戦を認める」という意向を表明した。しかし、ダルチニアンがアグベコに敗れてしまったため、この対戦は消滅した。 2009年12月18日、神戸・ワールド記念ホールで10位にランクされるアルバロ・ペレス(ニカラグア)を相手に10度目の防衛戦。なお、この試合は当初、元WBA世界フライ級王者エリック・モレル(プエルトリコ)を挑戦者に迎えて行われることになっていたが、モレルが過去に刑事事件で逮捕歴があることが判明。入管難民法により入国が認められない可能性が生じたため、対戦相手がペレスに変更となった。試合は序盤から両者共に積極的にパンチを出し合う戦いとなった。そして、迎えた第4ラウンド、長谷川が体勢をやや崩しながらのショートレンジでの左ストレートをペレスの顔面に2発続けて放つと、ペレスが前のめりにダウン。2分38秒にレフェリーがカウントを途中で中止し、試合をストップ。これで5試合連続KO防衛となり、具志堅用高以来、日本人2人目となる同一世界王座連続10度防衛を果たした。 2009年から2010年にかけて長谷川の知名度は急上昇し、この試合後もほとんど休みを取らずにテレビ出演や雑誌の取材に応じた。これは長谷川が「皆さんの前に出させてもらうから知名度が上がる。知名度が上がるから、会場に人が来てくれるし、テレビで試合も見てくれる。そしてきちんと勝っていけば、自分の望む試合もできる」と考えてのことであった。 減量苦から2階級上のフェザー級への転向も示唆していたが、2009年に一度合意に至っていたフェルナンド・モンティエル陣営と再交渉してバンタム級残留での事実上の統一戦を実現させた。長谷川は「自分のファイトマネーを削ってもいいから」とその対戦実現を訴え、モンティエル招聘のために5,000万円を支払ったとも言われる。 2010年4月30日、日本武道館で11度目の防衛戦。WBO世界同級王者フェルナンド・モンティエル(メキシコ)との事実上の統一戦に挑む。モンティエルはWBOで3階級(フライ級、スーパーフライ級、バンタム級)制覇を果たしている強豪。なお、WBOがJBC非公認の統括団体である事情から、この試合は長谷川が勝った場合はWBC王座防衛のみ、一方、モンティエルが勝った場合はWBC・WBO王座統一という変則ルールで行われることになった。試合は序盤から長谷川が優位に進めていたが、4回終了間際、モンティエルの左フックをまともに浴び大きくグラつくと、その後の連打でダウン寸前に陥る。そして、ラウンド終了のゴングとほぼ同時(2分59秒)にレフェリーストップが掛かりTKO負け。この瞬間、5年間保持してきた世界王座から陥落した。この試合は12月28日発表の2010年度ボクシング年間表彰で年間最高試合賞を受賞(国内ジム所属選手が敗れた世界戦としては2003年のWBC世界スーパーバンタム級「オスカー・ラリオス対仲里繁」戦以来7年ぶり)。さらに、年明け後の2011年1月3日にはWBCから2010年の「最も劇的な試合」にも選ばれた。 フェザー級転向と日本人初、飛び級での2階級制覇達成モンティエル戦後、都内の病院で検査を受けた結果、右アゴの骨折が判明。5月6日に神戸市内の病院で改めて検査を受けた結果、「右角部下顎(かがく)骨骨折」と診断され、10日に入院。翌11日に手術を受け、14日に退院。20日に所属ジムで現役続行を表明。モンティエルとの再戦を希望し、一時はバンタム級に留まることを宣言したが、その後のモンティエル側との交渉が難航。再戦は困難と判断し、フェザー級への転向を決意。2010年9月発表のWBC世界ランキングでフェザー級2位にランクされた。 バンタム級王座陥落から7か月後の2010年11月26日、名古屋・名古屋市総合体育館(日本ガイシホール)でのWBC世界フェザー級王座決定戦に出場。1位ファン・カルロス・ブルゴス(メキシコ)と王座を争った。 長谷川は初回から積極的に前へ出てパンチを打ち、中盤から終盤ではブルゴスのパンチにぐらついた場面もあったが、最終的には12ラウンドをフルに戦い抜き、結果3-0の判定勝ち。王座奪取に成功し、日本人選手としては初となる飛び級での2階級制覇を果たした。また、この日は同じリングでWBC世界スーパーフェザー級王座に挑戦した粟生隆寛も王座奪取に成功。兄弟分2人揃っての2階級制覇を果たした。 2011年4月8日、神戸ワールド記念ホールでフェザー級王座初防衛戦。指名挑戦者で元WBO世界バンタム級王者でもあるWBC世界同級1位ジョニー・ゴンサレス(メキシコ)と対戦。初回から激しい打ち合いに終始し、ゴンサレスの強打を度々被弾する。そして4回、挑戦者の右フックを浴びダウン。立ち上がったものの、ダメージが大きくレフェリーストップとなり58秒TKO負け。王座から陥落した。 2011年8月1日、所属する真正ボクシングジムでの会見にて現役続行を表明。同年12月17日に神戸市立中央体育館でWBCスペイン語圏フェザー級王者フェリペ・カルロス・フェリックス(メキシコ)を相手に再起戦が組まれたが、練習中に全治1か月の怪我を負ったため中止となった。 2012年4月6日、仕切り直しの再起戦。東京国際フォーラムにおいて前年12月に対戦予定だったフェリックスと改めて対戦し、7回2分28秒TKO勝ちを収めた。試合直後は進退を保留としたが、同月21日に現役を続ける意思を表明し、10月には、スーパーバンタム級とフェザー級の両睨みで世界王座復帰を目指すため、次戦をスーパーバンタム級で行うことを発表した。 2012年12月22日、神戸市立中央体育館にて世界前哨戦、55.8kg契約ノンタイトル10回戦で、WBC世界スーパーバンタム級13位のアルツロ・サントス(メキシコ)と対戦し、判定3-0で勝利した。 スーパーバンタム級転向2013年2月20日付けで、フェザー級からスーパーバンタム級に転級した。 2013年4月26日、神戸市立中央体育館にて56.2kg契約ノンタイトル10回戦で、タイ国フェザー級5位のウィラポン・ソーチャンドラシット(タイ)と対戦し、3回2分51秒KO勝ちを収めた。 2013年8月12日、大田区総合体育館にて56.7kg契約ノンタイトル10回戦で、メキシコスーパーバンタム級王者ヘナロ・カマルゴ(メキシコ)と対戦し、1回2分32秒TKO勝ちを収めた。 2013年12月3日、後楽園ホールでの東洋太平洋女子ミニフライ級王座決定戦・花形冴美 vs 黒木優子をメインとする興行にて元日本スーパーバンタム級王者木村章司の引退記念スパーリングの相手を務めることになった。なお、関西のジムに所属する長谷川は後楽園での試合経験はなく、それまで同所のリングではイベントでミット打ちを披露したのみである。 2014年4月23日、大阪府大阪市中央区の大阪城ホールにてIBF世界スーパーバンタム級王者キコ・マルチネス(スペイン)と対戦するが、7回1分20秒TKO負けを喫し3階級制覇達成とはならなかった。 2015年1月14日、所属する真正ボクシングジムで現役続行を表明。 2015年5月9日、神戸市立中央体育館にてWBC世界スーパーバンタム級9位、IBF世界スーパーバンタム級12位でWBCアメリカ大陸スーパーバンタム級王者オラシオ・ガルシア(メキシコ)とフェザー級10回戦を行い、3-0の判定勝ちを収め再起に成功した。 2015年6月9日、WBCは長谷川をWBC世界フェザー級9位にランクインした。 2015年12月11日、神戸市立体育館にてWBO世界スーパーフェザー級5位のカルロス・ルイス(メキシコ)とスーパーフェザー級10回戦を行い、3回と5回にダウンを奪われるも左カウンターなどで強気に試合を立て直し、3-0の判定勝ちを収めた。 2016年9月16日、大阪府立体育会館にてWBC世界スーパーバンタム級王者ウーゴ・ルイス(メキシコ)と対戦し、ルイスが9回終了時に棄権した為3階級制覇を達成した。同時にこれまで越本隆志が持っていた日本人男子の最年長世界王座奪取記録を35歳9ヶ月に更新した。 2016年12月9日、神戸市内で記者会見を行い、「9月16日の試合を最後としたい」「闘う理由がなくなった」として現役を引退することを表明した。世界王者として現役を引退したのは、大場政夫(WBA世界フライ級王者、現役中に交通事故死)と徳山昌守(WBC世界スーパーフライ級王者)に次いで3人目となった。 引退後引退後は各局で放送されるボクシング中継に解説者として出演している。 また、2019年からは、舞台俳優としての活動も開始している。 2017年10月より、東京医療学院大学特任講師に就任 2018年4月、神戸市灘区にスポーツジム「HOZUMI HASEGAWAフィットネス&ボクシング」をオープンした。 2019年12月には、舞台『悲しき天使』で俳優デビュー。2020年5月に舞台『路地裏の優しい猫』に出演した。 2020年3月、YouTube公式チャンネルを開設。遊びや趣味、ボクシングについて本気で取り組んでいる。2021年5月、初生配信を行ない視聴者の質問などに答えた。チャンネル登録者数10万人を目指している。(2021年7月時) 戦績プロボクシング:41戦 36勝 (16KO) 5敗
2024/06/26 15:40更新
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hasegawa hodumi
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